月夜にまたたく魔法の意思 第9話9




 東條との居残り訓練を終えた頃には、広間の鷲時計が夜中の12時を指していた。
「明日もよろしくね」
 優が言うと、額の汗をぬぐいながら優を横目に見て、東條がちょっとイヤな顔をした。
「高円寺が復帰するのはいつだ」
「早くて3日後だって」
 東條は声も出さずに溜め息だけつき、頷いた。
「今日と同じ時間だ。遅れるな」
 それなりに体力はあると見えて、東條は永久と優の二人を休みなく相手にしていても、「疲れた」とは一言も言わなかったし、そんな素振りも見せなかった。もしかしたら、ベラドンナの女子相手にそんな姿は見せられないという、東條のプライドなのかもしれないけど。

 東條にお礼を述べてから、優は医務室に向けて歩き出した。朱雀はもう、眠ってしまったかな。
 体はクタクタだったけど、なんだかすごく朱雀に会いたかった。寝顔を見れるだけでもいいな、と優は思った。
 
 暗い半地下の廊下を手探りで進んで行くと、医務室からほんのわずかに灯りが漏れているのが見えてきた。マリー先生の気配は感じられない。
 そっと静かに扉を押しあけると、朱雀がベッドの上で本を読んでいるのが見えた。
 優が入って行くと、朱雀が顔を上げて、膝の上の本を閉じた。
 朱雀がまだ起きていたので、優の心はフワっと温かくなった。

「随分遅くまでやってたんだな」

 手前のベッドでは、すでに吏紀と空が自分の蝋燭の灯りを消して眠りについている。部屋の中で蝋燭をともしているのは朱雀だけだ。

「まだ起きてたの?」
 優は小声で、朱雀のベッドの脇まで足音をたてないように近づいて行った。

「来るって言ってたから、待ってたんだ。東條との特訓はどうだった?」
 優は朱雀のベッドの端に腰かけて、瞬身魔法ができるようになったことを報告した。
 すると、喜んでくれるかと思った優の予想に反して、朱雀はちょっと困った顔をした。

「どうしてそんな顔をするの? 永久もできるようになってたのに、私だけできなくて、恥ずかしい思いをしたんだよ。この責任は朱雀にあるんじゃないかな。瞬身魔法は戦闘術の基本だって、東條は言ってたよ。どうして朱雀は私に教えてくれなかったの?」
 優が怒って問い詰めるのを、朱雀は静かに聞いていて、やがて口を開いた。
「何度か俺がやったのを間近で見てたから、きっと自分で覚えるだろうと思ったんだ」
「うそ、やっぱりそうだったんだ」
 確かに、朱雀に教えてもらうにはあまりに基本的な魔法なのかもしれない、と優は思った。思い返せば、水気を祓う炎のウチワだって、朱雀は優に自分で学べと言って教えてくれなかったのだ。
「いや……、っていうのは嘘」
「え? なによ嘘って。じゃあ」
「なんでも俺から教えてもらえると思うな。そんな基本的なことは自分で学べ」
「そっか……」
「っていうのも、違うな」
「へ? 朱雀、何を言ってるの」
 優はますます気になって、朱雀の顔をマジマジと覗きこんだ。
「正直なところ、お前に瞬身魔法を教えたくなかったんだ。いずれにしろ、自分で覚えるだろうとは思ったし。……別に深い意味は、ないよ」

 深い意味はない……?
 優は眉をしかめた。
「でも、必要なことでしょう? 教えたくなかったって、どうしてよ」
「だってそれができるようになったら、つかまえられなくなりそうだろ」
「捕まえるって、私を?」
「うん」
 優は口を半開きにしたまま、朱雀の言っている意味を図りかねて首を傾げた。
「なんで? 朱雀のほうが上手いんだから、私なんて『空』の中で捕まっちゃうよ。一応できるようにはなったけど、私の瞬身魔法ったらひどいんだもの……。勢いがつきすぎちゃって、すぐに転んじゃうの」
「最初はそうでも、上手くなるさ。お前の得意な魔力探知防御魔法を使って『空』に隠れたら、誰にも見つけられない。……イヤだなあ。……目にも見えない、魔力でも感じられないなんて。一つ魔法を覚えるたび、優はどんどん、俺の手に負えない女になっていくんだぜ」

 優は少し考え込んで、ニヤリとした。もしも朱雀から上手く隠れられるようになったら、優は朱雀の背後にそっと姿をあらわして、振り返った瞬間にキスを奪うこともできる。ちょうど、優のパパがそうやっていつもママを驚かせていたように。

「それはいいね」

 朱雀は何も言わず、優を見つめていた。
 言いたいことがあるのに、言いだせないことでもあるのか、それとも、ちょっぴり元気がないだけなのか。
 優は少し心配になって、気になっていた話を持ち出した。
「食堂が閉まってて、ラムチョップを持ってこられなかったの。ごめんね。お腹、空いてない?」
「食欲は普通にあるけど、今は空いてない」
「何か食べたいものがあれば、明日持ってきてあげるよ。何がいい?」
「いい。そういう雑用はマリー先生に頼んでる」
「そう……」
 優はちょっぴりがっかりした。食べ物以外の差し入れなんて、他に思いつかなかったのだ。何か差し入れをするとしたらそれは自分の役目であるはずなのに、マリー先生に頼んでしまうなんて、がっかりだ。
 優は気を取り直して話題を変えようとした。朱雀の膝の上にある古い魔法史のことが、図書委員なりに気になったこともある。

「その本、面白い?」
「面白くはない。西の森が闇に閉ざされる前の記述を拾い読みしてたんだ。戦いの前に少しでも土地勘をつけておいたほうがいいだろうと思って。どうやら、魔女が棲みつく前から不思議な力のある森らしいことがわかったけど、この本は、希望よりも絶望をもたらすことのほうが多い」
「ふーん」
 優が興味を示したのを見てとって、朱雀はいきなり、魔法史をぞんざいにベッド脇のテーブルの上に放り投げた。
「どうしたの? もっと聞かせて欲しいのに」
「こんな夜中に、好きな女と、気味の悪い森の話なんかしたくない」
「え……。いいじゃないの、べつに」
 だが、朱雀は気分を害したのか、ベッドに身を沈めて目を閉じてしまった。

「わかったよ。他に読みたい本があったら、明日とってきてあげるけど?」
「いい。そういう雑用は他の奴にやってもらうから」
 優はムッとした。
「じゃあ、他に何か欲しい物は?」
「……、ない」
「そう。それじゃあ、……おやすみ」
 優が残念そうに呟いてみても、朱雀は無反応だった。
 今夜、朱雀は優が会いに来るのを起きて待っていてくれたくらいだから、優がこんな夜中に来たことを迷惑がっているわけではないと思う。だとしたら、ここに来てからの会話の中に、朱雀を不機嫌にする内容があったということだろうか。

「なんでそんなに不機嫌なの? 理由を言いなよ」
「温度差がありすぎるのが嫌なんだ」
「温度差って、同じ火の魔法使いなのに?」
「そういうことじゃなくて、恋愛の温度差。食べ物とか本とか、そういうのは他の誰でもできることだろ。俺がして欲しいのは、……。優とキスがしたい。恋人みたいに」

 その時、優は流和に言われたことを思い出した。もし、優が朱雀とキスしてもいいと思っているのだったら、そう思っていることを朱雀に伝えるべきだと流和は言ったっけ。
 相変わらず今夜も、朱雀は優にキスするような素振りなんてしなかったではないか。このとき朱雀が口に出して言うまでは、そんな気配があるとは全然気づかなかった。
 だから優は、病人に対して、こちらから今そんな話題を持ち出すのは不謹慎じゃないかな、と思っていたのだった。
 それに、優と朱雀は恋人宣言をしてからまだ1日しかたっていない。付き合って1日目でキスをするのって、早すぎるような気もする。

「付き合って1日目でキスするのって、ちょっと早くない?」
「でも、好きになったのはもっと前からだ」
「そっか」

 朱雀は頭の下で手を組んで、硬く目を閉じている。それから何も言おうとはせず、微動だにしないので、二人の間に気まずい沈黙が流れた。

「寝ちゃったの?」

 優が聞いても、朱雀は無反応だ。

 朱雀が、なんとなく怒っている、というのは優にも分かった。けれど、朱雀の心の中にある繊細な感情の一つ一つを、優はどうしても理解することができなかった。言ってしまえば、「何をそんなに拗ねてるの?」、だ。キスしたいなら、したいと言えばいいのだ。優からすれば、恋人である自分に食べ物や本の差し入れをさせないことのほうが腹がたつ。
 けれど、今夜は朱雀は病人で、優のほうが優位な立場にあるのだ、ということを心にとめた。
 そうして冷静になって見ると、優の目の前でベッドに横たわっているのは体つきのガッシリした、屈強な男の子だ。いや、男の子と呼ぶにはもう足りないくらい、大人びた色気をもつ青年だろう。抜け目がなさそうで、優の知らないいろいろな事を知っているのに、逆に優が当然のように知っていることを知らない、無邪気な儚さを秘めた人。大変な試練を自らその身に引き受けることがあるくせに、その一方で子どもみたいに、小さなことを我慢できずに癇癪を起こす一面もある。
 その全てを思い知って、優は朱雀のことを愛おしく感じたのだった。
 そっと屈みこんで、優は朱雀の唇にキスを落とした。
 昔、優のお母さんがよくしてくれた、おやすみのキスだ。これは優の、ささやかな愛情表現のつもりだった。今夜はもう遅いから、お互いゆっくり休息をとる必要があるだろう。また明日、話し合えばいい。
 それからすぐに立ちあがって部屋を出ようとしたら、優は手を掴まれ、引き寄せられた。

 朱雀は半身を起して、驚いた顔で優を見上げている。
「待て」
 優はフンッと鼻を鳴らしてから目を細め、朱雀を見下ろした。
「起きてるのは知ってたよ。寝たふりするなんて」
「いや、……。今、キスしただろ」
「うん」
「キスするならするって、言えよ。俺たちがちゃんとキスするの、初めてなんだからな」
 まるで万引きをした子どもを叱りでもするかのように、朱雀は優を責め立てた。
「でも人工呼吸もした仲だし、恋人同士なんだから、おやすみのキスくらいしたっていいでしょう。それにキスしたいって言いだしたのはそっちでしょう、何がいけないの?」
「俺は心の準備ができてなかった。まさか、そっちからキスしてくるとは思ってなかったんだ」

「そう」
 優は少しきょとんとしてから、すぐに口元をゆるめた。
「もう一回して欲しい?」
 優がわざと甘い声を出すと、朱雀が冷たく笑う。
「何でもやり直しがきくと思うなよ」
「じゃあ明日は、朱雀からして」

「なっ、よくもそう、恥ずかしげもなく言えるな。俺が言いたいのは、さっきみたいな不意打ちは卑怯だっ、……ん!?」

 まだ話している途中で、優が朱雀の唇をカプっと噛んだ。今度は触れ合った唇が軽くかみあい、互いの舌先がかすかに触れた。
 やがて離れて、優が朱雀に囁いた。

「明日までにちゃんと心の準備をしておいてね、炎の魔法使いさん」
「バカ……、こんなの全然、ロマンチックじゃない」
 優は小さく欠伸をしながら医務室の扉まで歩いて行くと、最後に振りかえって言った。
「そういえば、格上の相手と闘うときに背後に回り込むのは卑怯じゃないって、東條が言ってた」

「はあ?……」

「それと、朱雀って、思ってたよりもウブなんだね」
「……。」

 朱雀は無意識にぽかんと口を開けたまま、何も言い返すことができずに、優が出て行き閉ざした医務室の扉を見つめた。
 これまで、女子に対して受け身になったことは一度だってない朱雀が、優には手出しできないばかりか、2度も先にキスをされてしまった。人工呼吸を入れると3度だ。そう易々と手に負える相手ではないことを覚悟していたが、優の考えや行動は、朱雀には推し量ることができないから、酷く混乱させられる。
 朱雀は生まれて初めて、殴られてもいないのに、顔面が熱くなり、頭がクラクラする感じを覚えた。

 しばらく身じろぎもできずにいると、隣のベッドからクスクスと笑い声が漏れ始め、やがて堰を切ったように空と吏紀のゲラゲラという笑い声が医務室に木魂した。

「傑作! 初めて流和とキスしたときの俺より酷いぜっ……苦しい、息が、息ができないっ!」
「永久とキスしたとしても、流石に今の朱雀よりはましな反応を返せると思う、クックックっ 笑い死にしそうだ……」

 朱雀は苦しそうに笑い転げる二人に、枕を投げつけ、顔を真っ赤にして睨みつけた。
「起きてるならそう言え」
「俺たちの眠りが浅いことくらい知ってるだろ」
「そうさ。傍であんなにバタバタされたんじゃ、目を覚ますに決まってる」

「あなたたちまだ起きてるの!? いい加減に寝ないと、二度と目覚められないくらい苦い薬を飲ませるわよ!」
 見回りに来たマリー先生の怒鳴り声で騒ぎは収まったが、朱雀はその夜、空が白みだす頃まで眠りにつけなかった。

 優にキスされて心から嬉しかった。けど、それはとても奇妙な感じだった。
 嬉しかったのはキスそのものというよりも、優がすぐ傍にいると実感できたことだった。優が自分を見ている、声を聞いている、傍に居て感じられる。そして俺たちには明日もある。明日もまた会える。当たり前なことが、こんなに嬉しい。
 キスそのものでいえば、あんなのは子どもの御遊びみたいな軽いやつで、実際、朱雀が想像していたのはもっと官能的なキスだったのだ。
 無邪気で、愛情と優しさに溢れたキスは朱雀の心を溶かしてくれる。それも素敵だ。
 けど明日は、胸が張り裂けそうなくらい情熱的なキスがしたい、と朱雀は思った。




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