月夜にまたたく魔法の意思 第9話10



 翌日の月曜日は、魔法界の戦争に駆り出された先生方の不在により、授業は午前中の魔法植物学しかなかった。魔法使いが有効に利用できる植物と、そうではない危険な木々や草花について、温厚な草凪先生が標本を示しながら一つ一つ教えてくれた。

 授業が終わってすぐ、優は流和たちと一緒に医務室に行きかけたのだが、ノステールがドラゴン小屋から逃げ出したという三次の知らせを受けて、大慌てで中庭に飛び出したのだった。
「でも、どうやって小屋から逃げたの?」
「僕が毎日外に運び出す石炭屑の中に潜って、隠れていたみたいなんだ。賢い子だよ」
 庭妖精たちがヒイヒイと鼻を鳴らしてツツジの茂みの間を駆けてきたかと思うと、その向こうからムートンチョッキを羽織った熊骸先生がむっくりと姿を現した。
 顔一面を覆う鉄の仮面に、手には分厚い皮手袋をつけた熊骸先生が、今まさにノステールを茂みの中に追い詰めているところだった。

 ギャーッ、ギャーッ、とヒステリックに鳴きながら、ノステールが青い炎を吹いて熊骸先生を威嚇している。その青い炎を見て、優は朱雀の碧炎を思い出した。きめ細やかで強くて、完璧に制御された繊細な炎のことを。
 だが、それも束の間、青い炎が熊骸先生の皮手袋を焼き払い、周囲の茂みにも燃え移ったので優はハッとした。

――「ノステール!!」
 優の怒鳴り声が中庭に響き渡ると、ノステールの鳴き声はピタリと止み、黒のチビドラゴンの顔が優の方を向いて、『やばい!』という表情になった。
 眉間に皺をよせ、睨みつけながら近づいてくる優からは逃げ切れないとみたのか、ノステールは首をすぼめてその場に縮こまり、丸くて大きな青い目を上づかいに、グゥンと甘えた声を出した。
 辺りに燃え広がる炎に手を伸ばすと、炎は優の手の動きに合わせて小さくなり、大地にひれ伏すようにして鎮まった。

「なんて悪い子なの! さあ、いらっしゃい」
 太った猫ほどの大きさのノステールを、優は一気に持ち上げた。

「なんてこったい。わしがどんなに脅そうが、なだめすかそうが、言うことをきかんかったのになあ」

「本気で怒ったからです。この子はまだグルエリオーサみたいに言葉が分からないけど、それでも頭がいいので、私たちの心は感じ取れるんですよ。だから、言葉は通じなくても気持ちが通じます」

 ノステールを肩にかつぐようにして抱え込むと、ジットリと湿った、まだ柔らかい鱗の肌が優の頬に触れた。
「いつもより冷たいみたい」
「弱わっとる証拠だ。早く母ドラゴンのもとに戻してやらにゃいかん」
「小屋に戻ろう、ノステール」
―― ギャアッ! ギャアッ! ギャアアアアアッッ!!
 優が小屋に連れて行こうとすると、ノステールは気狂いのようにまた暴れ出して、全身で戻りたくないと訴えかけてきた。
 左右にもがきながら、同時に頭をもたげて全身を反るので、優は危うく暴れん坊のノステールを落としそうになった。
 あまりに耳に悪い声で鳴くので、側に居た熊骸先生と三次がたまらず耳を塞いだ。

―― アっソびたい! アっソびたい! アっソびたい! アっソびたイイ!

「遊びたい? ……って言ってる」
「え?!」
 ノステールの声が煩いので、三次が顔をしかめて優に聞き返す。
「遊びたい! って言ってるみたい!」
「ええ!? なんだって!?」
 と、今度は熊骸先生が大声で聞き返した。
「ノステール!!」
 たまりかねて優が一喝すると、ノステールはまたションボリと静かになった。けど、今度はその瞳にズルそうな輝きを潜めたことを、優は見逃さなかった。きっと、今はおとなしくして、また後で何かやらかすつもりだろうと思った。ずる賢い子だ。

「遊びたい、って言ってるみたいです」
「じゃが、この黒ん坊には炎の力が必要だがな。あまり親から離しておくと、チビのドラゴンは冷えておっ死んじまうんだ」
「炎の力って、魔法使いのものでも大丈夫ですか? 私とか、朱雀の」
「そりゃ、大丈夫だ。炎の魔法使いがドラゴンの赤ん坊を育てた記録もあるくらいだ」
「なら、この子をしばらく私が預かります。少し遊ばせてやって、夕方のお乳の時間には間に合う様に、小屋に返します。どうでしょうか?」
「それは構わんが……、大変だぞ? 所構わず火を吹いたり、噛むかもしれん」
「十分に気をつけます」

 かくして優はノステールを肩に担いだまま、急ぎ足で医務室に向かったのだった。
「いい? いい子にしているのよ。悪いことをしたら、すぐに小屋に戻すからね」
 ノステールは目をクリクリさせて、優に応答した。今は素直に言うことを聞いているけど、どこまで信用できるかは分からない。きっと何か興味のあるものを見つけたら、すぐにイタズラを始めるだろうな、と優は思った。

 医務室の扉の前まで来ると、中からマリー先生の金切り声が廊下まで聞こえて来た。
「いいかげんにしなさい! この薬を飲まないと、氷の傷は治らないって、何回説明すればわかるの! 痛くて苦しい思いをし続けるのはあなたなのよ、高円寺朱雀!」
「そんな苦い薬、飲めません」
「薬は苦いほど巧妙があるのよ。ほら、口を開けなさい……」
 それからしばしの沈黙。

「高円寺 朱雀!」
 やがてまた、マリー先生のヒステリーな叫び声が発せられた。

「そういうことなら、いいでしょう。何でもいいから先に何か食べなさい」
「もう何も欲しくないんですよ……。何回同じことを言わせるんですか」
「ああ、そうですか。それなら死ぬまで何も食べなくてよろしい!」

 顔を真っ赤にして医務室から出て来たマリー先生と、優がすれ違った。
 闇の襲撃で怪我をしたというマリー先生が、すっかり回復して元気そうだった。けど、怒ったマリー先生の顔があまり恐かったので、優はギョッとした。美人が台無しだ。

「あら、明王児 優さん! 高円寺くんのお見舞いに来たの?」
 優を見たマリー先生が、わざとらしく医務室の中に聞こえるように大きな声で言った。
「せっかくだけど、高円寺くんがちゃんとお薬を飲んで、まともな食事をとるまで、お見舞いは禁止にしたのよ、たった今からね!」
「薬と食事の面倒はそいつに見てもらいます。マリー先生にじゃなくてね!」
 と、部屋の奥から朱雀が叫び返して来た。

「あら、お薬を飲む気になったのかしら、高円寺くん?」
「飲むよね」
 と、マリー先生の肩越しに部屋の中を覗いて、優が言った。

「ちゃんとご飯を食べられるのかしら、高円寺くん?」
「食べるよね!」
 と、また優が言った。

「というか、あなた。その肩に抱えているものは、……ははーん。医務室にペットの持ち込みは禁止よ。でも、今回だけは特別に許してあげましょう。しっかりと食べさせてね」
 マリー先生はそう言ってウィンクすると、優の背中をポンと叩いて部屋の中に押し込めてきた。そして、少年が虫籠をしめるような手早さで医務室の扉をピシャリと閉めてしまった。

「一体、どうしたの?」
 朱雀のベッドのテーブルには、ミルトスの葉の浮いた銀色の薬皿と、お盆に載った食事が、どれも手をつけられずに置かれたままになっていた。

 その場にいた吏紀、永久、空、流和の4人は、一様に不可解な表情を浮かべている。
「朱雀は、昨日の夜からマリー先生のミルトスの薬を飲んでいないんだ」
「つまり、救出された日の夜と、その翌朝に飲んだきりで、それ以降からは飲んでいないことになる。朱雀は薬が変だと言ってるんだが……」
 空と吏紀が教えてくれたが、二人とも一体何が起こっているのか、状況がつかめないといった様子だ。

「頼みがある」
 と、唐突に朱雀が言った。それは優だけにではなく、流和と永久にも向けられていた。

「ミルトスの薬と、俺の食事の世話を、マリー先生の代わりにやってくれ。俺は今後一切、マリー先生が触った物は口に入れない」

 朱雀の言葉を真面目に受け止めながらも、流和が解せないという顔をした。
「そんなのお安いご用だけど、でも一体、マリー先生の何が問題なの?」
「はっきりとは説明できないけど、何か変な感じがするんだ。とても、嫌な感じが」

 すると、今度は吏紀が言った。
「播磨と違って、マリー先生に怪しい影は見えないし、オパールの輝きにも、少しも曇りがないように感じる」

「それでも何かが変なんだ」

 と、あくまで頑なに朱雀が言い張るので、その場にいたみんなが黙りこんでしまう。特に空や吏紀は、これまでの経験から、朱雀が何かを警戒してそれが外れたことがないことを知っているので、尚更、反論できないのだった。けど、どうしてマリー先生が? 何か良くないことをしているとすれば、一体、何のために?
 どう考えても、マリー先生を疑う理由はないように思われるのだ。

 優はノステールを床に置いてから、おもむろに朱雀の食事に手を伸ばして一口食べてみようとした。すると、朱雀がすごい剣幕で怒った。
「よせ! そんなものを食べるな!」
「ちょっと毒見してみるだけ!」
「馬鹿が! 頼むからやめてくれ! 俺がこんななのに、お前まで体調を崩したら誰が闇払いをするんだ」
「わかった!」

 あんまり朱雀が真剣に訴えるので、優は掴んでいたスプーンを盆に戻した。と、見せかけて、盆ごと掴み上げて、朱雀に捕まらないように素早くベッドから離れた。
「俺は本気で言ってるんだぞ! 口に入れるな、本当に危険だ、おい、どうするつもりだ……っ!?」

 暖炉の中で、優の紅炎が燃え上がったかと思うと、優はその中に盆の中の食事をすべて投げ入れた。
 たちどころに紅色の炎が真っ黒に燃え上がり、無数の黒い手となって暖炉から飛び出してきたので、優は後ろに跳びのいたが、反動で尻餅をついた。床にいたノステールが『ギャア!』と鳴いて優に飛び付き、ブルブル震えだした。
 不気味な黒い手は優を捕まえ損ねて空中を切り、また暖炉の中に吸い込まれて行った。黒炎はすぐに消えて、優の紅炎が戻ってきたが、最後に悲しい女の叫びが暖炉から立ち上った。

 空も流和も、吏紀も永久も、朱雀も、みんな唖然として一部始終を見ていた。食事に闇の魔法がかけられているのは、一目瞭然だった。しかもそれは、誰の目にも分からぬほど巧妙に隠されていたのだ。おそらく、優の紅炎に入れなければ、見抜くことはできなかっただろう。
 危機一髪、難を逃れた優は、ノステールを抱いたままみんなを振り返った。
「危ないところだったよ。あと少しで捕まりそうだった」
「自業自得だ」
 と朱雀が言った。

「これ、マリー先生の魔法かしら」
「いや、マリー先生自身の魔力というよりも、何かもっと別なからくりがありそうだ」
「強い負の思念の力……」
 吏紀が意味深に呟いた。
「なにそれ」
「他人の心の内にある強い負の思いを利用して、呪いをかける【パペット】という魔術がある」
「吏紀、まさか!」
 空の顔が蒼白になり、吏紀が険しい顔で頷いた。朱雀は何も言わなかったが、その苦虫を噛み潰したような表情から、何かまずい魔法なのだろうと優にも察しがついた。
「その場合、術者によって利用されるパペット本人は、自分の思念を利用されていることにすら気づかない」
「マリー先生の心の中にある強い悲しみや後悔、あるいは憎しみや恐怖、そんな負の感情を、誰かが利用してる、ってこと?」
「【パペット】は、他人の負の感情に着け入り、操られている本人の無意識下で、当人を操る、操作魔法の一種だ。永久がかけられた憑依魔法よりももっと巧妙に、術者の存在を隠す」
「そう。人の心を支配し、利用する、闇の魔術。こんなことができるのは、かなり力のある闇の魔法使いか、魔女以外には、……あり得ない」

 しばらく考え込んで、吏紀が静かにみんなに言った。
「このことは、ここだけの秘密にしよう」
「どうして? マリー先生に言うべきじゃない? 闇の魔術に利用されてる、って」
 優が言うと、吏紀の顔がさらに強張った。
「ダメだ! 糸を切られれば、操り人形は死んでしまう!」
「へ?」
「操られている本人にパペットであることを伝えれば、術者との繋がり、つまり『操り人形の糸』を切ってしまうことになる。それは、パペットの死を意味するんだ」

「じゃあ、どうすればマリー先生を助けられるの?」

「それよりもまず、業校長に相談するべきなんじゃない?」
 今度は永久の言葉に、吏紀が苦悶の表情を浮かべて唸った。
「業校長でも助けられないんだ!」
 吏紀はベッドから這い上がると、朱雀のミルトスの薬を、優がやったみたいに暖炉の紅炎の中に投げ入れた。
 するとたちどころに、また黒い炎と無数の手が飛びだして来た。女の悲鳴にこめられているのは、悲しみと恨みだ。こうして二度も見せつけられた魔力の正体に、吏紀は拳を震わせた。聖なるミルトスの葉から作った薬にさえ呪いをこめられる力は、想像以上に強大だった。

「助けられないって、どういうこと」
「一度パペットになった者は、命の糸を術者に握られている。俺たちにできるのは糸を切ることだが、それじゃあマリー先生の命を保つことはできない。けど、きっと業校長は、糸を切ることを選ぶと思う」
「例えば、だけど、術者が死んだら、マリー先生はどうなるの」
「術者を殺せばマリー先生も死ぬ」
「じゃあ、術者に魔法を解いてもらえたとしたら? マリー先生が助かる方法は、本当になにもないの?」
「おそらく、俺の親父だ」
 と、朱雀が言った。
「マリー先生をパペットにして操っているのは、俺の親父だ。奇襲のあった舞踏会の夜に仕掛けたに違いない。パペットにする相手には、直接触る必要があるからな」
「そっか、頼んでも、解いてくれそうにないね……」

「マリー先生が……。こんなことになるなんて、信じられない」
「マリー先生には自覚がない。そこには悪意もないから、この学校の中で何か良くないことをしたとしても、俺たちに気づく術はない。闇の魔術を隠すにはパペットは絶好の隠れ蓑なんだ。大人たちがこのことに気づいたら、きっとすぐにでもマリー先生の糸を切ろうとする」
「助けられない」
「このまま、諦めるしかないの?」
「ねえ、もし」
 と、優が言った。
「もしも、マリー先生の心の中から、悲しみがなくなったとしたら、どう? 恨みとか後悔とか、負の感情がすべて無くなったとしたら?」
 落ち込むみんなをよそに、優の目がキラキラと輝きだした。
 一人だけ、諦めてないんだ。優は一人だけ、誰も考えもしなかったような、最善の解決のために最善のことを考えている。
 そんな優を、愛おしそうに朱雀が見つめた。
「もしマリー先生の心に負の感情がなくなれば、パペットとして操る魔法そのものが、成立しない。つまり、マリー先生は解放される」

「そんな発想、よく思いつくな。人の心を変えるなんて、そう簡単にはいかないぞ。魔法以前の問題だ」
 そう言いながらも、吏紀の顔に少し明るさが戻った。
「時間はかかるかもしれないけど、今すぐ諦めることないよ。人との関係で傷ついたなら、人との関係の中で癒されるように、何かを失敗して後悔しているなら、次の成功でまた勇気をもてるように」
 優が言うと、流和も頷いた。
「そのためにはまず、マリー先生の心の問題を知る必要があるわね」
「怪しまれないように探りを入れてみよう。絶対に気づかれちゃダメだ」
「ダメでもともと。何もしないよりは、千倍いい」
「きっと上手くいくわ」
 永久が元気づけるように、吏紀の手を握った。

 流和はいち早く平静を取り戻し、対策を考案した。
「朝、昼、晩と食事を朱雀に運ぶのは、私たち3人で協力してなんとかしましょう。でも薬は問題ね。私たちだけでミルトスを手に入れるのは難しいわ」

「それなら当てがあるよ」
 と、優が言った。

「ドラゴンに食べさせているミルトスを、三次から分けてもらおう。三次ならきっと、助けになってくれるから」
「あのオパールの子なら、信用できそうね。ミルトスさえ手に入れば、薬は私でも作れるわ」

「なるべく、怪しまれないように気をつけろよ、流和」
「くれぐれも、食事や薬の異常には、気づいてないってふりをするんだ。俺たちが自分でミルトスの薬を作ってるってことも、内密にしたほうがいいと思う。マリー先生のために」

 マリー先生のために。
 模範生徒の吏紀のみならず、いつもヤンチャをしてマリー先生の手を煩わせる朱雀や空でさえ、マリー先生には恩を感じているのだった。
 怒らせると鬼みたいな顔をするので、影で「メデューサ」と呼んだりしているけれど、6年間もダイナモンで過ごした生徒の中に、マリー先生の世話にならなかった者は一人もいないはずだ。飲ませてもらった苦い薬や、愚痴られ、叱られながらも巻いてもらった丁寧で清潔な包帯によって癒された傷がある。短気でおっかないけれど、みんなのことを平等に心配してくれて、時には寝る間も惜しんで看病してくれる医務室の天使。それがマリー先生だ。

―― マリー先生のために。

 こうして、6人のマリー先生救出計画が密かに始動した。



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