月夜にまたたく魔法の意思 第9話11




 優は目を閉じて、魔力探知魔法を集中させた。
 ――見つけた。
 すぐに、三次のキラキラ芽吹くようなオパールの輝きが階上の食堂の辺りに感じられた。きっと遅めの昼食をとっているのだろう。

「どこに行くんだ」
 唐突に動き出した優の手を、朱雀が掴んで引き止めた。
「三次を見つけた。食堂にいるから、今から行って、ミルトスの件をお願いしてくるよ。その帰りに朱雀に昼食を持ってきてあげるね。まだ何も食べてないんでしょ? 何か食べたいものある?」
「ラムチョップを1ダースは食いたい。それからティラミスたっぷりのサラダ。ホットミルクと、熱くて濃い紅茶。あと、今日は峰子夫人のミートパイが出てるはずだ」
「注文の多い人だね。昨日はマリー先生に頼むからいいって言ってたのに」
「食事に異常を感じたのは今朝が初めてだったんだ。それが確信に変わったのが今日の昼。昨日の夜は想像もしてなかったんだ。あ、あと、ミルクは牛じゃなくて山羊のな。間違えないでくれよ。今日は山羊って気分なんだ」

「わかりました。注文を忘れないうちに行って来る」
 
 優は朱雀のベッドの上にノステールを置いて医務室の出口に向かった。

「ちょっと待った、これを置いて行くつもりかい」
 と、呼びとめたのは空だ。
 朱雀のベッドの上にちょこんと座ったノステールも、どことなく不安そうな表情を浮かべている。

「あ、うん。ちょっと、見ててくれる? さすがに食堂に連れて行くわけにはいかないでしょ」
「食堂はダメで、医務室はいいって?」
 空は明らかに納得のいかない顔をしている。
「何で連れまわしてるんだ?」
 今更になって、朱雀も口を出してきた。
「ドラゴン小屋から脱走したの。捕まえたのはいいんだけど、遊びたいってきかないんだよ」
「この年頃のドラゴンは好奇心が旺盛だからな。ちゃんとしつけないと、手がつけられなくなるぞ。こら、噛むな」
 隣のベッドに跳び移って、空の足のギブスをかじり始めたノステールを、朱雀が抱き上げて自分の膝の上に乗せた。

「その子、朱雀みたいな青い炎を吹くよ」
「へえ、珍しいな。お前、俺と同じだな」
「それって、かなり危険だってことだろう……」
 と、不満そうに空が呟いている。
――ノステール
 優がドラゴンに話しかけた。
 朱雀に話しかけているときとは違って、ドラゴンに話しかける優の声は妖精の声みたいに、その場に居る者の体の芯に響いた。魔法だ!
――この人は朱雀。あなたの面倒をみてくれるから、いい子にしているのよ
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」

 優はノステールの頭を一撫でしてから、朱雀の頬にキスをした。

 その素振りや声の全てが、その場にいた全員を魅了したとは露ほども知らず、優はミルトスの薬のためにスタスタと医務室を出て行った。
 最近の優からは、炎の魔法使いに特有の“優しさ”が、何気ない瞬間に溢れ出て来る。
 

「なあ朱雀。今の、お前もできるのか。ドラゴンとの会話」
「まさか。あんなことができるのは、優だけだ」

「そういえば優って、ベラドンナの図書室の本とも会話ができたわよね」
 永久の言葉を受けて、吏紀も言った。
「これは俺の推測だが、優は聖アトス族と、炎の魔法使いナジアス、その両方の血をひいていると思う」
「聖アトスの家系であることは間違いないと思う」
「え、なんで知ってるんだ、朱雀」
「優の実家に、あいつの杖とブックを取りに行ったことがあったろ。そのとき家に、フェニキアバラに包まれた剣と王冠の紋章があるのを見たのさ。よく魔法史の本で見るあれだ」
「アシュトン王の紋章か」
「間違いない。多分、優の母親が王の末裔なんだろう」

「それって、すごいことなんじゃない? 優は知ってるのかしら」
「きっと優は、そんなことには興味がないと思うぜ」
 と朱雀が鼻で笑った。
「どうしてそんなことがわかるんだ?」
「優は、俺が亜魏戸の息子であることを気にしなかった。あいつの両親を殺した、邪悪な魔法使いの息子なのに、俺のことを受け入れて、好きだと言ってくれたんだ」
 朱雀は考え込みながら、少しだけ声を詰まらせて先を続けた。
「……考えてみれば、俺たちみんな誰かの末裔で、先祖の中には名もない偉人も、隠れた犯罪者も数多くいたはずだ。本当に意味があるのは、俺たちが誰の血をひいているかではなく、自分が何者として生きるかだと思う。優がそれを教えてくれたから、俺は、闇の魔法使いにならずにとどまることができた」

「そっか」
 空が素直に納得した。
「うん、そうだね」
 と永久が微笑むと、
「そうね」
 と、流和も笑った。
「優に出会えてよかったな、朱雀」
 最後にそう言ったのは吏紀だ。

「日に日に手に負えなくなってるけどな」
 と、朱雀が笑った。



 その頃、食堂に上がって行った優は、三次にミルトスの葉の調達を依頼することに成功していた。
 共に試しの門をくぐったピンク・パールの魔法使い、桜も一緒だった。桜は温室で魔法植物を育てる係なので、三次と一緒にミルトスの葉の収拾に協力してくれることになった。
 三次と桜の二人には、内密にミルトスの葉を提供してもらうために、マリー先生の秘密を打ち明けなければならなかったが、二人とも同じ魔法戦士として秘密は硬く守ると約束してくれた。

「でも、マリー先生っていつも明るくて、すっごい美人だからさ、闇の魔法使いに付け込まれるような負の感情があるなんて、ちょっと信じられないなあ僕」
「すっごい美人なことは、べつに関係ないと思う」
 食後のグリーンゼリーを食べていた桜が、大きなスプーンで三次の肩をコツンと叩いた。
「だって、美人な人って悩みとかなさそうじゃない」
「それってすっごい偏見! 私が悩み多いの知ってるでしょう? こんなに可愛いのに」
「桜のはさあ、ラベンダーが枯れたとか、今年はミモザの育ちが悪いとか、そういうのだろ。悩みというには、『ささやか』すぎるのさ」
 優よりも一学年下の三次と桜には、最高学年の朱雀たちにはない無邪気な明るさがある。二人と話していると、優まで元気をもらえる気がした。

「まあ、それはそうかもね。私はラベンダーが枯れたからって、真夜中に月光の庭で泣いたりしないし」
 桜の言葉に、優はひっかかった。
「真夜中に泣いてるって、誰が?」
「え? あ、そっか。これ、植物係の私たちしか知らないんだった……。マリー先生、よく月光の庭で泣いてることがあるの」
「それって、一人で?」
「何度か姿を見たことがあるけど、一人だったわ」
「月光の庭って、どこにあるの?」
「中庭の東に、一面アルテミスの吊る草が高く茂っている所があって、満月の夜にだけ、その吊る草の間に道が開くの。その先には月下美人が咲いている広場があるのよ。私たち植物係は、薬の材料を集めるために、満月の真夜中にそこに行くことがあるんだけど、そこを特別に『月光の庭』って呼んでいるの」
「ふうん。ねえそのゼリーもう食べないの? 残すんなら、僕にちょうだい」
「ダーメ! 残さない!」
 食べかけの濃いグリーン色のゼリーを前にスプーンの取り合いを始める桜と三次の横で、優は思いを巡らした。優だったら、悲しいことがあったなら、きっと夜ベッドの中で泣く。でもマリー先生はわざわざ、満月の夜に月光の庭に行って泣いているんだ。そこに行く必要があるから。そこに何かがあるから?
 きっと、マリー先生の心の中に秘められた負の感情に関係しているはずだと優は思った。
 満月の夜に、月光の庭でマリー先生が泣いている、という事実を、優はしっかりと胸にとめた。

「ありがとう。もしマリー先生のことで他に何か気付いたことがあったら、何でもいいから私たちに教えて。あと、ミルトスの葉のこと、本当にありがとう。しばらくは流和が薬を作るから、直接渡してくれると助かる」
「うん、わかったよ」
 三次が頷くと、その隣で桜が控えめに咳払いしてから言った。
「出しゃばる気はないけど、うちは代々、薬屋の家系なの。だから薬作りなら私も得意よ。ついでにいうと、治癒魔法も得意だから、何か助けになれることがあったら、何なりと頼って欲しいわ」
「吏紀に応急処置をしたあなたの腕は知ってる。頼りにしてるよ」
 優は桜に向けてウィンクを返してから、三次の耳もとで囁いた。
「心強いね、三次は。桜みたいなガール・フレンドがいて。ドラゴンの炎で火傷しても、医務室じゃなく桜のところに行くんでしょう」
 三次は少しだけ頬を赤らめて優を見返したが、特段否定はせずに、ニヤリと笑っただけだった。


 三次と桜の二人と別れ、優は厨房まで行って、朱雀のオーダーした食事を盆に載せ始めた。
 ラムチョップを1ダースと、ティラミスたっぷりのサラダを皿に山盛りにした。それから、峰子夫人お手製のミートパイを一切れ。ティーポットに沸かしたばかりのお湯を入れ、茶葉にはカモミールを選んだ。ミルクの瓶が二つあって、どっちが牛か山羊なのかが分からずに匂いをかいで確かめようとしたら、背後から声をかけられた。

「何をやってるの?」
「あ、美空。これ、どっちが山羊のミルク?」
「ああ、三角のマークがついている瓶が山羊よ」
 言われた通り見てみると、なるほど、銀製の瓶の持ち手に三角の刻みが入っているのがわかる。優はそっちの瓶から、コップになみなみとミルクを注いだ。
 優が抱える盆の上の食事を見て、美空が少しだけ怪訝な顔をした。

「それ、全部あなたが食べるの? 見かけに寄らず、食べるのね」
「ああ、これは私じゃなくて、朱雀が食べるんだよ。もう、注文が多くて大変」
 そう言って優は、注文にはない大きなハチミツケーキを二つも盆に載せた。
 そうして盆からこぼれそうなくらいの食事を抱えて歩き始めた優に、美空がついてきた。

「実は、相談があるんだけど」
「どうしたの?」
「昨日、東條たちと広間で訓練をしているのを見かけたわ。できればその訓練に、私も混ぜてもらえないかと思って……。私、あなたたちとは組んだことがないから、実戦の前に互いの立ち回りを頭に入れておいた方がいいと思うの。一応私たち、ともに闘う仲間だから」
「うん、いいよ!」
 優が即答したので、美空は拍子抜けしたように目を丸くした。
「え、いいの?」
「うん、もちろんだよ! 美空が訓練に加わってくれたら助かる。実は私も、美空が一人で弓矢の訓練をしてるの見たんだよ。すごいよね! あれなんて言う魔法なの? 美空ってすごい魔法使いなんだね。私たちにも教えて欲しいな」
「見てたの……? 全然気づかなかった」
「練習は毎晩8時から、中央広間で。今から一緒に医務室に行こうよ。流和と永久には、私から話す」

 それから優は、美空と一緒に医務室に降りて行った。途中、優が山羊のミルクをこぼしそうになったので、美空が紅茶のポットとミルクの入ったコップを持ってくれた。

 優と美空が医務室に入って行くと、ちょうど朱雀が、碧炎でつくった火の玉でノステールをあやして遊んでいるところだった。
 空中に浮いた火の玉を追いかけて、ノステールが跳んだり回ったりしてギャッギャと笑っている。ドラゴン小屋では見せることのない、楽しそうな表情だ。
 見ると、ノステールのお尻に白い布がぐるぐるに巻き付けられている。
「それ、もしかしてオムツ?」
 朱雀のベッドサイドのテーブルに盆を置いて優が訊ねると、
「ドラゴンの赤ん坊は所構わず粗相をするのさ」
 と、すでに被害にあった空が、恨めしそうに濡れたベッドのシーツを指し示して見せた。
「あー、おもらししちゃったんだね。ごめんね、空」
「オムツは朱雀がシーツを裂いて即席で使ったのよ。あまりに手際が良くて、驚いたわ」
 と流和が知らせると、朱雀がノステールをベッドに横たえながら言った。
「トイレトレーニングをするまでは、オムツが必要なのさ。人間の赤ん坊と同じだ」
 すっかり朱雀になついたノステールは、撫でられて気持ちよさそうにお腹を出している。

 朱雀はノステールを静かに寝かせておいて、優が持ってきた食事に早速手をつけ始めた。
「山羊のミルク?」
「うん、美空に教えてもらったから間違いない」
 優がそう言った横で、美空が朱雀に熱々のカモミールティーを注いでくれた。
「それはそうと、今夜から、美空も私たちと一緒に特訓に加わることになったよ。美空はすごい魔法が使えるんだよ!」
「それはいい考えね」
「うん、経験豊富な人がついてくれると心強いわ」
 と、流和と永久もすぐさま賛成したから、美空はまた拍子抜けの顔をした。

 優が弓を構えて、上空に矢を射る真似をして見せた。
「ねえ美空、あの魔法、何て言うの? すごいやつ」
「グランディング・アロー。上空に射上げた光の矢を、光の分散を利用して大地に打ちおろす範囲魔法よ」
「そうそう、それだよ! 東條からは、接近戦の攻撃と守備を教えてもらえるでしょ。今夜から美空との特訓で、範囲魔法への対処法も訓練できるね! あと、私と永久はフォーメーションも考えたの!」
「フォーメーション?」
 そんなの聞いてない、という顔で流和が聞くと、永久が恥ずかしそうに漏らした。
「互いの長所を活かして、弱点を補い合えるようにするのよ。ね、優」
「うん! 東條がフォーメーションAとBを考えたの。私たちは内緒でCを開発中。今夜試して、東條をびっくりさせるつもり。本当は流和のことも驚かせるつもりだったんだよ」
 優と永久がニヤリとしてハイタッチした。

「やけに楽しそうだな」
 空も吏紀も、早くベッドから抜け出して、訓練に参加したいという気持ちになった。時間が惜しい。それはもちろん、朱雀も同じだった。
 戦いで個人の力が問われるのはもちろんだが、試しの門を通った魔法戦士はチームとして戦場に遣わされるだろう。そうなれば、個人の力だけでなく、チームとしての力が問われることになる。自分がチームの中でどんな役割を担うのかは、実際に組んでみなければわからない。だから美空や東條は、その感覚をいち早く掴もうとしている。自分に何ができるのか、何が求められているのかを知るために。

 美空に淹れてもらった紅茶を飲みながら、朱雀が聞いた。
「グループ行動、嫌いじゃなかったのか」
「敵を前にして、そんなことは言っていられないでしょう。それに」
「それに?」
 美空は控えめに朱雀のベッド脇にある椅子に腰かけると、今夜の魔法訓練のことを話して盛り上がっている優たちベラドンナの生徒に視線を投げた。
「仲間がいるのは心強いわ」
「仲間、か。お前がそんなこと言うのって、ちょっと気味が悪いな」
 ラムチョップを手づかみで食べながら、会話の途中に朱雀が指を舐めた。
 美空が反射的にナプキンを差し出す。
「事実を認識し、受け入れたまでよ。あの時、ダイナモンの生徒は735人。上級魔法使いは125人。その中に、私も東條もいたわ。けど、朱雀を助けるために暗い夜空に飛び出して行ったのは、たった3人だけ……。それも、ベラドンナの生徒だった」
 美空の瞳から、こらえようもなく涙がこぼれ落ちた。けれど、美空はそれ以上は泣くまいとするかのように、歯を食いしばって真っすぐ朱雀を見つめた。

「あの状況で、あの暗闇の中で、朱雀を助けられると信じていたのは彼女一人だけ」
 美空はちらと優に視線を投げた。優は今、空と吏紀のベッドの間で、流和と永久に、三次と桜の話をしている。
 優が頼んだ何かを三次が快く引き受けてくれて、グリーンのゼリーを二人が取り合ったとか、そんな話だ。美空と朱雀にはよく聞こえない。
 
「なのに私はただ震えて、無理だと言って止めたの。もう手遅れだと思った。とても恥ずかしいけれど、それが私の本音だった」
「誰もお前を責めたりしないさ。俺自身でさえ、助かるとは思ってなかったんだ」
「でもあなたは光にとどまった。本当に、助かるとは思わなかった?」
 美空に改めて問われて、朱雀はティラミスのサラダをフォークで突きながら、含んだ笑みを呑み込んだ。
「信じていたというより、願っていた」
「優が助けてくれるって?」
「約束したからな」
「約束したって、いつ?」
「沈黙の山で」
「それって、まだ出会ったばかりの頃じゃない? よくそんな約束、したものね。本気だったのかしら」
「本気だったんだろうな。実際、かなり際どかったけど、願った通りになったんだぜ」
 朱雀はあっという間にサラダを食べきってしまって、今度はミートパイに手をつけ始めた。いつもならフォークで上品に食べるのに、このときは手づかみだ。

「行儀が悪いわ」
「腹ペコなんだ」
 朱雀がこぼしたパイ屑を拾ってやったり、ティーポットから紅茶を注ぎ足してやったりと、美空はついつい反射的に手を出してしまう。

「今は、彼女たちが私たちの仲間で良かったと思うわ。私にはない強さを持ってる。きっとそれが、邪悪な力に打ち勝つ秘訣なんだと思うの。だから、私は、自分にある知識や経験や、持てる魔力はすべて出し切るつもりなの。このチームのためにね」

 美空の覚悟を受け止めて、朱雀も静かに頷いた。

「きっとみんな同じ気持ちだ。俺も思ってるよ、誰も死なせないって」
 朱雀は仲間たち全員のことをさしてそう言ったのだが、その視線は無意識に優に向けられていた。
 天文数理魔法学の証明で、優が最後に優自身の名を「解」にしたことが、朱雀には気がかりだった。その後、永久、流和、空、吏紀、そして朱雀も「解」に自分の名前を加えたことでまた新たな解を導き出したが、五芒星の中心の優にかかる比重は変わらず大きいはずで、未だ脳裏に焼きつく苦い印象を、朱雀は拭えずにいる。
 その印象とは、優が朱雀の傍にいなくなってしまうということ。
 必ず来ると信じている明日が、やってこなくなること。
 魔法戦士としてダイナモンで厳しく教育されてきた朱雀は、最悪の結末を想定する訓練をされている。だから考えたくもない最悪のシナリオを簡単に想像できてしまう。
 そんな予感に呼応するように、朱雀の手に刻まれた黒い炎の呪印は、優が朱雀を救出した夜以来、日毎に薄くなっている。朱雀に分からないカラクリで、自分の呪いが優に移ってしまったんじゃないかと、また嫌な予感が朱雀の頭をよぎる。何か優の体に呪いの兆候が出ていないかと注意深く観察しても、怪しい影は少しもない。
 呪いが消えた?
 あのとき朱雀を覆った紅色の炎が、阿魏戸の呪いさえ退けたというのだろうか……。

 美空と話していたことも忘れ、朱雀は物思いにふけりながら、モグモグと最後のハチミツケーキを口に運び続けた。
 二つ目のハチミツケーキを食べ終える頃、医務室の中に悲痛な叫びが響き渡った。

「どうした?」
 フォークを片手に朱雀が振り向くと、優が目を丸くしながら空になったハチミツケーキの皿を指差した。

「食べちゃったの?」
 朱雀が首をかしげる。
「だって、俺のだろ」
「二つあったでしょ?」
 怒った顔で優が見つめて来るので、朱雀はフンと鼻で笑った。
「数くらい数えられる。何を言ってるんだ?」

「二つあったら、一つは私のだって、気付かなかった?」
「ごめん、気づかなかった」
 朱雀が真顔で謝った。

「一人で二つも食べる人がいる? 甘い物嫌いなくせにさ」
「ハチミツは体にいいんだ」

 優は首をフリフリ、躾のなってない幼い子どもを説き伏せるように朱雀に言った。
「いい? これからは二つあったら、一つは『私の』だから。これは絶対不可侵の大切な約束事よ」

 朱雀がきょとんとした顔をしているので、隣で見ていた空と吏紀が笑いを噛み殺して咳払いした。

「なんで?」
 と、また朱雀が真顔で聞いた。
 今度は、問われた優の方がきょとんとした顔をした。それは、優にとってはあまりに当たり前のことで、説明する必要さえ感じないことだったからだ。

「なんで、って……。私たちは『分け合う者』だからよ。例えばキスは、命の息を【分かち合う】恋人たちの儀式。食事をともにするのは、生命の育みを【分かち合う】友情の喜び。苦難のときに手を取り合うのは、苦しみを【分け合う】兄弟の絆。互いに愛し合ってる人たちは、必ず何かを分け合ってる」
「ふうん。で、俺たちはハチミツケーキを分け合うのか」
「あらゆるケーキとチョコプディングも分け合うわ」

 朱雀が頷いた。
「わかった」


「わかったのかよ……」
 と、空だけが密かに呟いたが、誰も、この朱雀と優のやりとりに口を出さなかった。これは朱雀と優との約束だ。
 二人は『分け合う者』なのだ。



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