月夜にまたたく魔法の意思 第9話8




 夜8時きっかりに、東條晃は中央広間に一人でやって来た。
 俯き加減に何かを考えながら神経質に歩いて来た東條は、ベラドンナの白いブレザーの3人が広間に立っていることに、すぐには気づかなかったようだ。
 傍まで来たとき初めて顔を上げて、東條はにわかに眉をひそめた。

「どういうことだ? 一人の約束だぞ。付き添いがいるなんて、聞いてない」
「付き添いじゃなくて、一緒に訓練に参加するんだよ」

 永久がおずおずと前に進み出た。
「私も優と一緒に、戦闘訓練を受けさせてもらいたいの。なんとか、お願いします」
 
 丁寧に頭を下げる永久に対して、東條はつとめて分かりやすく、嫌な顔をした。

「一度にお前たち3人の相手をするのは嫌だ。一人だって手にあまりそうなのに」
 そう言って、東條は優のことを顎で指した。

 すると、今度は流和が言った。
「私が東條の補佐役にまわるわ。だから、私からもお願い。実際的なことを教えるには、私じゃ優や永久に厳しくしきれない。それに、ちゃんと実戦の厳しさを知っている人じゃないと。永久と優は戦闘には全く初心者なの。闇の魔法使いと闘う前に、一日も早くなんとかしなくちゃ……本当に死んでしまうわ」
 
「けど、炎の力が暴発したらどうする。断言してもいいが、俺にはお前たちを守ることはできない」
「傷つけたりしないよ!」
 と、優が息まいたが、東條は優を無視して話を続けた。
「それに補佐役にしたって、お前の水の力が、明王児の火力にかなうとは思えない。杖なしでフェニックスを召喚するような奴なんだぞ。こっちは命がけなんだ」
「だから、傷つけたりしないってば!」
 優は少し怒って地面を蹴ると、東條に詰め寄った。
「朱雀から、仲間を傷つけないための炎の操り方を教わったの。暴発なんてもう絶対にさせないって約束するから! ねえ、お願い!」
「お願いしますと言え」
「お願いします」
 優は両手を合わせて東條にすがった。
 東條の性格にはやっぱり難ありだが、朱雀や空や吏紀の次くらいに戦闘力がありそうな東條が、今は頼みの綱だった。
 それに性格の難しさなら、優はすでに朱雀で慣らされていたから、今さら大して気にもならない。

「ふん、俺としては、明王児の火力に、俺の力がどれだけ通用するか試してみたいと思ってたのにな。だから、いずれはお前の力を暴発させてやるつもりだったのに。こっちは闇の帝王との戦闘を視野に入れているから、腕試しにはそれくらいが調度いい。けど、外野の身の安全までは保障できないから、そのつもりでいろ」
「大丈夫だよ。本当に暴発なんてさせないもの。でも、……闇の帝王って誰のこと言ってるの?」
 それまで聞いたことのない呼び名に、優は首をかしげた。魔女アストラの他に、まだそんな恐ろしそうな敵がいるとは初耳だった。

 流和が沈んだ声で、優に教えてくれた。
「東條は、朱雀のお父様のことを言っているのよ」
「え、朱雀の? でも、どうして? 帝王って、王様っていう意味だよね」
 すると東條が、険しい顔で優を見下ろした。
「高円寺阿魏戸が、闇の魔法使いの頂点に立つ支配者だからさ。奴が帝王に君臨したことで、それまでバラバラだった闇の魔法使いたちの間に秩序と統率が生まれた。その結果、闇の軍勢は力を増し、業校長でさえ簡単には手出しできずにいる。昨晩の不意打ちがいい証拠さ」

「闇の軍勢って、どういう人たちなの?」
 と、今度は永久が聞くと、東條は瞬きもせずに淡々と説明を始めた。
「感情的でキレやすい吸血一族と、理性的で惨忍な烏森一族。それから獰猛な魔獣アラゴン。アラゴンとはドラゴンに似た魔獣だ。さらにそこに、魔法使いと因縁のあった狡猾な闇のエルフが加わって西の森に近づくことさえ難しくしている。やつらは賢く、生命力に富み、森を熟知して操るからな。そういえば、腹を満たすことしか考えていない黒狼もいるな」
「黒狼なら、沈黙の山で見たよ」
「単体であれば恐れることはないが、群れとなると厄介だ。奴らの嗅覚と聴覚は、策敵と追跡に優れ、魔法使いが浮力を使えない西の森の奥では、きっと脅威になるはずだ。これまでは、闇の魔法使いも、アラゴンも、エルフも狼もみんな敵対しあっていた。けど今は、高円寺阿魏戸の支配により奴ら全部が手を組んだのさ。俺たちが倒すべき魔女は、その向こうにいる。高円寺阿魏戸が統率する、闇の軍勢の向こうに」

 優は鳥肌のたつ腕をさすった。
「脅かさないでよ、恐くなってきちゃったじゃない」
「本当のことを言ってるまでさ」
「なら、私たちに今できることを早くしよう。まず、何から始めるの?」

「ベラドンナでは、本当に何も習わなかったのか? 基本的な戦闘術をさ」
「うん、ぜーんぜん」

「はっ、呆れて物も言えない! ……そうだな、実際に死ぬかもしれない戦闘を念頭におくなら、まずは『速さになれる』ことと、最低でも一撃で命を奪われないくらいの『防御力』をつけるべきじゃないか」

「わかった」
「よろしくお願いします」
 優と永久は並んで東條の前に立った。流和は少し離れた所から見守ってくれている。
 東條は腕組をして、二人を前に思案しながら訓練の内容を話し始めた。

「闇の魔法使いは、俺たちよりも強いし、経験も豊富だ。だから、これから行う訓練は、常に自分たちよりも格上の相手とやることを想定する。まず、自分よりも格上の相手と接近戦をするときの基本は、『背後をとること』だ。よほど実力が拮抗しているか、相手が自分より格下でもない限り、真正面からやりあうのは利口じゃない」
「背中から攻撃するなんて、なんだか卑怯じゃない?」
 優が口を挟むと、東條が唾を吐きながら怒鳴った。
「バカが! 実際的な方法だ。いいから言われた通り、俺の背後に回って思い切り蹴りを入れてみろ。ただし、できるものならな!」

 優は言われた通り、東條の背後に回り込もうとして走り出した。
 けど、優がちょっと動くと東條も体の向きを変えるので、いつまでたってもお見合いしたまま優は一向に背後に回れないのだった。

「ちょ、ちょっと待て! なんだそれは! もしかして、瞬身魔法も知らないのか?」
 東條が青ざめた顔で優をジロジロ見やったので、優は肩をすくめた。
「それって、朱雀がよくやってるやつだよね。あれって、どうやるの?」

 東條は優を無視して、流和を手招きして早口に言った。
「補佐役! 明王児に瞬身魔法を教えろ。今夜中にできるようにさせるんだ! このままじゃ本当に、犬死にだぞ」
「わかった」
 流和は簡潔に応えると、無駄のない動きで近寄って来て、まだポカンとしている優の腕を掴んで広間の反対側まで引っ張って行く。
「ちょ……、ちょっとお、なんなの。瞬身魔法ができないことが、そんなにいけないわけ?」

 見ると、広間の中央で、東條が今度は永久と向き合っていた。
 次の瞬間、永久の姿が消えて、東條の背後に現れたので、優は「あ!」と声を上げた。
 本当に蹴っていいのかな? という心の声が聞こえてきそうなほど遠慮がちに、永久が小さく足を蹴りあげるのを優は見た。
 けれど、その永久の足は空を切り、逆に東條がもう永久の背後に回り込んでいた。

 消えたり、現れたりが、物凄い速さで繰り返されている。

「永久ったら、いつの間にあんなすごいことができるようになったの? ビックリ仰天だね」
「ダイナモンに来てから、吏紀が実用的な魔法をいろいろ教えていたみたいなの。瞬身魔法くらい、優もすっかり朱雀に教えてもらってるんだと思ってたわ。瞬身魔法は戦闘の基本だし、朱雀も得意なのよ」

 教えてもらっていない……。優はにわかにショックを受けた。
 炎の魔法の訓練で手いっぱいだったけれど、瞬身魔法のことなんて、会話にすら一言も出て来たことがない。
 どうして朱雀は優に瞬身魔法を教えてくれなかったんだろう。後で問い詰めてやるんだから、と内心で硬く誓い、優はかすかな苛立ちに頬をふくらませた。

「なあにフテくされているのよ。大丈夫よ、優ならすぐにできるようになるから。それに、私から優に教えられることがあるなんて、光栄だわ。最近はずっと優を朱雀にとられたような気がして淋しかったんだもの」
 流和は冗談めかして胸に手を当てると、膝を屈めてお辞儀して見せた。

「うん、頑張るよ。よろしくお願いします」

「瞬身魔法は、飛翔術と空間魔法の応用なの。森で大地を翔けたときのことを覚えているでしょう?」
「うん。跳ねるときに足に浮力を集中させて、着地するときに衝撃を和らげるためにもう一度浮力を使うんだよね」
「そう、あれは瞬身魔法に比べると断続的な大雑把な浮力の使い方と言えるわ。これからやる瞬身魔法では、もっと細かく、一つ一つの体の動きに合わせて、手にも足にも、上半身にも下半身にも、あらゆる方向に浮力を使うのよ。そうすることで肉体の動きを助け、筋力と骨格の力だけで動くよりも、ずっと速く動くことができるようになる」
「うん、なんとなくわかる気がする。理屈はね。……でも、難しそう」
「まずは、体の動きに合わせて細かい浮力を働かせることが第一段階。でもこれだけじゃ、いくら上達しても『素早く動いているだけ』ね。そこで第二段階に、空間魔法を取り入れます。細かい飛翔術と空間魔法がそれぞれできるようになったら、その二つを合わせて瞬身魔法の完成よ」

「空間魔法って?」
「私たちは、ブックや杖を普段は『宙』にしまっているけど、何かの途中ですぐに取り出したいときには『空』に仮置きしているでしょう?」

 それはそうだ。優もブックや杖を宙にしまっている。魔法使いは、自分と繋がりの強いこの二つのアイテムだけを自分の宙にしまい、またそこから取り出すことができる。
 けれど、私たち魔法使いは、杖やブックを『空』に一時的に隠すこともできるんだ。そこは、宙よりももっと浅くて、近い場所だ。
 目には見えないけど、物理的には誰の手にも届く場所。
 『空』の使い方が上手くなれば、そこには杖やブックの他にも、いろいろな物を隠すことができるようになる。例えばトランプカードとか。あるいは、スローイングナイフとかを。

「うん。私の中のイメージでは、『宙』は深いポケットで、私にはすぐに届くけど、他の誰にも手の届かない遠くの安全な場所。でも『空』はもっと浅いところにあるポケットで、すごく近くにあるから、盗みの上手い魔法使いになら見つけられてしまうの。誰かに偶然に掴み取られてしまう危険もあるね」

「そうそう! そのイメージを大切にして。空間魔法は、自分の体を『宙』にではなく、『空』に仮置きするイメージなの。間違っても『宙』に入ってはダメよ、出られなくなるから」
「空の中に入って、走るの?」
「いいえ。実際に入ってみればわかるけど、空はあらゆる空に繋がっているの。私たちが今いるこの場所の『空』も、ここから10メートル先の『空』も、『空』の中では同じなのよ。入り口と出口が違うだけで、10メートル分を一瞬で移動できるのはそのためね。ただし、私たちは空の中ではとっても迷いやすくて、方向や距離感を掴むのが難しいの。だから、移動距離が長くなればなるほど、正確な位置から出るのが難しくなって危険よ。物にぶつかったり、出口の『空』が壁の中だったりしたら、肉体は破壊されてしまう」
「つまり、死んじゃうってこと?」
「そういうこと。だから能力に応じて、移動できる距離には限りがあるわ。せいぜい、杖を『空』にしまって、それをまた『空』から取り出すことのできる距離ね。息もできないし、光もない空間を、まばたきするみたいに、ほんの一瞬で通り抜けるの」

 息もできない、光もない空間に体ごと入るなんて、なんだか恐いなと優は思った。
「『空』の中に入ったまま、出られなくなっちゃったら?」
「それはないわ。実際に『空』の中に入ると、すごい圧力で体が外に押し出されるのを感じるわ。『空』の中にとどまっていることのほうが難しいのよ。それにね、万が一出られなくなったとしても、『空』は、目には見えないだけで本当はすぐ近くにある場所だから、理論的には誰にでも手が届くのよ。魔力探知魔法で優の居場所を探って、外に引っ張りだすことくらいワケないわ」

「そっか。それならよかった」
「それと付け加えておくけれど、『空』の中には、一瞬だけとどまるから効果があるのよ。もし『空』の中に長くとどまっていたら、さっきも言ったように、どの『空』も繋がっているから、敵が『空』に手を入れてきて、こちらが『空』の中で捕まってしまうこともあるからね」

 そう言われて、優はあることを思いついた。
 もし、魔力探知防御魔法を使って『空』の中に長く隠れることができたら、誰にも負けない「かくれんぼ」ができるんじゃないかなって。

「じゃあ、まずは飛翔術で、素早く動く練習から始めましょう」

 初めは歩くことから始まった。広間の端から端までをゆっくりと歩きながら、踏み出す足の動きに合わせて浮力を前方に働かせる。
 右足、左足と交互に踏み出す足の動きに合わせて途切れ途切れに、でも流れるように、体が許容できる調度いい浮力を働かせるのには慣れとコツがいる。
 最初は少しでも油断すると、体がバネ人形のように跳び上がってしまいそうになった。けれど、数十分も同じことを繰り返していると、やがて滑るように動き出せるようになった。
 優は、自分の体が空気みたいに軽くなる感覚をつかんだ。
 踏み出す足に重さを全く感じなくなり、肉体では速く動いているわけではないのに、目の前を流れていく景色が高速道路を走っている車みたいに速くなった。
「そうよ! そうそう! 上達が早いわ、優!」

 飛翔歩行ができるようになると、すぐに走ることもできるようになった。それから、手の動きや、上半身の動きにも同じように飛翔術を応用できる感覚をつかめた。
 ストレートパンチを繰り出す腕の動きに思い切り浮力を使って、一度、優は腕の勢いに体全体を引っ張られて前方に大きく宙返りをして床に仰向けに倒れた。
 一つの部分に力を込めたら、それを支えるために他の部分にも浮力を働かせてバランスをとらないといけないんだ。

「すごい、自分の身体じゃないみたい。こんなに素早く動けるなんて!」
 練習開始から1時間もする頃には、優はカンフーの動きを真似して腕を自由自在に振りまわすことが出来るようになった。
 傍から見ると、その動きは残像が目に焼きつくほど早く、きっと普通の人がみたら、優のことを武道の有段者だと思ったに違いない。

「いい頃合いね。じゃあ、次は空間魔法をやってみましょう。初めての練習では、杖を使うのが一般的なの」

 流和に言われて、優は燃えるルビーの杖を召喚した。周囲に炎の熱気が広がり、離れた所で格闘訓練をしていた東條と永久が振り返った。

「そいつに杖を振らせるなよ!」
 と、東條が怒鳴った。
「空間魔法の練習をするのよ!」
 と、流和が返す。

「杖と魔法使いの結びつきは強いから、まずは杖を起点にして空間を移動できるようになる練習をしましょう。見てて」
 流和はそう言うと、自分も『宙』からブルーサファイヤの杖を召喚して、それを『空』にしまってしまうと、直後、まるで透明のカーテンの影に隠れるみたいに姿を消した。
 またすぐに現れた流和の手には、先に『空』にしまったはずのサファイヤの杖が握られていた。

「優の魔力探知能力なら、私が一瞬もこの場所から消失していないのが感じられたでしょう?」
「うん。目には見えなくなったけど、流和の水の力はずっと側に感じられてたよ」
「これでわかったでしょう? 『空』の中に隠れることはそこに存在し続けていることと変わらないって。恐がることはないのよ。私にも優の強い炎の力が感じられてるから」
「どうすればいいの?」
「初めに、杖を『空』にしまって。それからすぐに、杖と同じ『空』に入り込むの。息を止めて、空気の中に溶け込むイメージで、杖のある場所に意識を集中させて。杖のある場所が『空』の場所だから」
「うん」
 優は言われた通り、杖を『空』にしまってみた。その瞬間、杖は目には見えなくなったが、どこにあるかはハッキリ感じられる。『空』の中に手を伸ばしてみると、強い力で押し返されるのを感じ、杖が勝手に優の手に引きつけられて外に出て来た。

「この中に入るの? 随分、狭そうなんだけど?」
「確かに窮屈な場所よ。体がギュっと締め付けられる感じがする。けど、押し返される力に負けないで入りこむの。そして体全体がすっぽり入って真っ暗になったら、あとは押し返されるままに外に出てくればいいわ」

 流和に言われて、優はもう一度杖を『空』にしまいこんだ。
 それから胸が気持ちわるくドクドクする感じを抑えて、ちょっとだけ朱雀の顔を思い浮かべた。――恐い。
 けれど、もしこれができるようになったら、朱雀にもう少し近づけるかもしれない、と思った。いろんな魔法ができるようになって、優が強くなれば、朱雀と一緒に戦えるし、朱雀が弱っているときには、優が朱雀の力になることができる。

 優は大きく息を吸い込んで目を閉じると、『空』の中の杖に手を伸ばした。
 押し返される手を逆に押し返し、満員電車に無理やり乗り込むときみたいに中に入ると、目の前が一気に真っ暗になった。ほんのかすかな光も届かない、完全な闇。そこにあるのは静寂と、優の体と、杖だけだ。息が詰まるくらい体がギューっと締め付けられる感じがした。
 優は恐くなって、『空』の中で杖を掴むと、力を抜いた。
 途端に大波に体が押し流されるみたいな強い力で、優は外に押し出された。

 『空』は、中に誰かが入って来るのを嫌っているんじゃないのかな、と優は思った。じゃなきゃ、こんなに物凄い勢いで優を吐きだしたりしないはずだ。
 優は転んで膝を擦りむいてしまった。

「どうだった?」
「うん、人が住めるような環境じゃないってことが分かったよ。私、これ嫌い」

 真っ暗だけど、闇のような冷たさや不気味さはない。それよりももっと何もない「無」の感じ。その「無」は、世界を秩序正しく保つために、誰か偉大な知恵のあるひとが意図的に残している空間で、魔法使いが勝手に使ってはいけないんじゃないかしら、と、優はふと想像した。
 けれど、一度『空』の中に入る感覚を掴んでしまうと、あとは簡単だった。

 間もなくして、東條が永久との練習をひと段落して、優の相手をしてくれることになった。

「ようやく瞬身魔法ができるようになったようだな。杖はしまえよ」
「杖なしじゃまだ不安があるよ」
「ダメだ」

 優は渋々とルビーの杖を『宙』にしまうと、覚えたばかりの瞬身魔法で東條の後ろに回り込もうとやってみた。飛翔歩行と空間魔法の合体技だ。物凄い速さで駆けながら、空の中に隠れ、また現れて……。『空』から外に出た時、優は思っていた場所に出られなかったことを瞬時に悟った。けれど、飛翔術で思いきりスピードにのっているので、体を止めることができない。
「うあああああ!」
 と、叫び声を上げたのは優だった。
 東條の後ろに回り込むはずが、東條のすぐ目の前に飛び出てしまった優は、優よりも頭一個分背の高い東條の胸に頭突きをする形で突っ込んだ。
「危ない!」
「優!」
 流和と永久の悲鳴が聞こえたような気がした。
 衝突の刹那、優の頭の中では、東條に怪我をさせてしまうかもしれない! という心配と、これでは自分も怪我をしてしまうに違いない! という二つの考えが駆け巡った。だが、実際にはそのどちらも起こらなかった。事実、衝突の刹那、優の体は優の意図によらず、光の浮力に包みこまれたのだ。
 柔らかく巨大なクッションにぶつかったみたいに、危険なスピードは一瞬で打ち消され、優は東條の腕に抱きとめられた。

 意外にガッシリとした、大きな腕だった。
 優は完全にポカンとした顔で、東條の顔を見上げた。

「この瞬間、お前の息の音を止める方法を俺は3つ考えた」
 東條は意地悪な顔でそう言うと、悲嘆にくれて呟いた。
「状況判断能力と、即時対応能力が低すぎる……」
 そして乱暴に優を押し返すと、わざとらしく両手をほろってみせた。
「もし怪我をしたら、慰謝料をたっぷり払ってもらうからな」




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