月夜にまたたく魔法の意思 第9話2



 心の中に、深い闇がある。
 朱雀はその闇と、これまでたった一人で闘ってきた。

 物思いのついた幼い頃の記憶が蘇る。
 両親は暗い地下室に何時間も閉じ込めたり、朱雀が大切にしている物を奪い去ったり、朱雀が愛していたペットのドラゴンを、あえて痛めつけた上で、殺した。
 そうすることで父は朱雀に恐怖と痛みを、母は飢えと無関心を覚えさせた。それはまるで朱雀を闇の魔法使いに育て上げようとしているかのようだった。
 それでも朱雀は光の中にとどまり続けて来た。

 けれど、もう一人で闘うのは限界だった。一人で生きていくには、朱雀を取り巻く世界は暗すぎる。
 実の父親に抱えられて夜空を渡る間、朱雀は意識が遠のいていくのを感じた。
 闇が、押し返しても押し返しても、朱雀の中に流れ込んでくるのを抑えられない。
 抗うことには、もう、疲れてしまった。

 高円寺夫妻が朱雀を沈めるためにやって来た『死の沼』は、闇の魔法使いたちが潜む西の森の手前にあった。
 悪魔が棲みつくと言われる底なしのその沼は、地獄に通じていると伝えられていた。
 そこは、古の魔女アストラが誕生した場所でもあった。

 その沼に向けて体を投げ出されても、もはや朱雀は何の抵抗もできなかった。
――空を、飛べなくなる夢を見た。
 あの夢が、現実になったのだ。
 どんなに願っても、朱雀は浮力をつかむことができなかった。今、朱雀の心は鉛のように重たいからだ……。
 どんな喜びも、希望も、楽しみも、愛も、……想像できない……。
 優の顔さえ、声さえ、そしてその温もりさえ、もう朱雀には思い出せなかった。


 冷たい泥の中に堕とされたとき、朱雀の心臓に切り裂く痛みが走った。朱雀の内なる炎は掻き消され、体の芯がギシギシと音をたてながら氷に閉ざされてゆく。
 空気を求めてもがくほどに沼は朱雀の体を呑みこみ、朱雀の口の中に汚水と泥の味が広がっていった。
 息ができない苦しさと、闇が肌を舐める恐怖と、そして穢れが体の中に入って来る強烈な不快感が朱雀を襲った。
 この冷たさを受け入れて、闇の力に抗うことをやめれば楽になれる、と、本能が叫ぶ。

「いっそのこと殺してくれ!」

 救いを求めて天に伸ばした手は、虚しく宙を切った。だが、朱雀は暗い空に手を伸ばし続けた。
 たとえ感覚がなくなっても、たとえ視界が塞がれて全てが闇に覆われても、朱雀は手を伸ばし続けた。

―― 『闇の世界に行かないで、ちゃんと私の手を掴む勇気がある?』
 俺には、それしかない。
―― 『約束通り、ちゃんと手を伸ばすから、そのときは私の手を掴んでね』
 俺には、お前しかいない。それなのに、……
 朱雀は子どもみたいに泣きだした。期待していたからだ。絶対に助けにきてくれると。
 なのに今夜、優は朱雀のもとには居ない。

――優。どこにいるんだよ。
 ついに朱雀は力尽き、完全に闇に呑み込まれて意識を失った。


 と、上空に光が瞬いた。
 優が朱雀を見つけて叫ぶ。
「見つけた!」
「急がなくちゃ、優は朱雀を! 私たちが敵を引き付ける!! 優は振り返らずに朱雀を助けることだけ考えて!」
「わかった!」
 流和に言われ、ルビーの杖の上に立って、沼地目がけて優が急降下した。

「我が内なる炎よ、闇を祓いたまえ。不死を司る炎の鳥よ、我に力を貸し、道を開け!」
 優が合掌して魔法の言葉を唱え、その手を左右に開くと同時に炎が瞬いた。その炎の中から2羽のフェニックスが甲高い嘶きと共に飛び出て来た。
 フェニックスは力強く羽ばたいて優の前方の闇を切り裂き、朱雀の沈む死の沼まで炎の道を架けてゆく。

 優は杖の上で低く身を屈めて地面に向けて手を伸ばした。朱雀の手が、今にも完全に沼に沈んでしまいそうだ。
「お願い、間に会って!」
 ドロドロの朱雀の手を、優がすんでのところで両手で掴み、引きあげることができた。
「朱雀!」
 繋いだ朱雀の手があまりにも冷たい。
 そしてその体が想像以上に重たかったので、優は杖ごとバランスを崩して乾いた地面の上に転倒した。
「朱雀?」
 意識がない。
 すぐに露払いの魔法で朱雀の体の泥と水を払い去り、迷うことなく優は朱雀に唇を重ねて息を吹きこんだ。
 朱雀が息をしていないように見えたので、咄嗟に、見よう見まねの人工呼吸をしようとしたのだ。
 ところが唇を重ねた瞬間、二人の周りに激しく火花が散った。
 直後、朱雀が飛び起きて、汚水を吐きだした。

「ゲホっ……、なんて、手荒な……、ゲホっ!!……、苦しいだろ!」
「良かった!」
 優は朱雀に抱きついた。だが次の瞬間には、優は朱雀を抱きしめたまま、浮力をつかんで上空高くに舞い上がっていた。

「流和! 永久! 朱雀を取り戻したよ!! ダイナモンに帰ろう!」
 暗い空に、優のひときわ大きな声が響き渡る。


「フェニックスだと!?」
 優の召喚したフェニックスが、闇を嫌って暴れ回っていた。これに驚いた高円寺夫妻がうろたえている。
 その一瞬の隙に、流和が魔力を集中させた。

「我が内なる水の流れよ、大気に満ち霧となれ。邪悪な眼から我らを隠せ!」
 たちまち深い霧がたちこめて、優たち4人の姿を包み隠した。魔法の霧は、敵の魔力探知能力を無効化して、こちらの姿を隠すことができる。
 この魔法に対抗できるのは、大気において支配権を持つ風属性の魔法使いだけだ。

 優の合図で、流和と永久はきびすを返して、最高スピードで引き返し始めた。
 だが、強い引力が3人の浮力を奪う。
「きゃあ!!」
「何なの!?」
「闇の呪いよ!」
 高円寺夫妻のどちらによるものなのかは分からなかったが、敵は広範囲に闇の呪いを撒き散らしたらしい。
 永久、優、流和の3人は、強い引力を受けて地面に引き寄せれられた。
 永久がたどたどしく、だがしっかりとした語気で唱えた。
「我が内なる光よ、希望の星となり、我らの帰途を守らんとせん! 我らは喜びと希望を選び取るもの。不穏の闇は、……立ち去れ!」
 途端に、光の星が優たちの周りに降り注ぎ、辺りを明るく照らし出すと、浮力が戻った。
 そして闇を退ける永久の光が、ダイナモンへの道筋を真っすぐに照らし出した。


 光の中を飛びながら、優は朱雀を落としてしまわないように慎重に抱きしめ直した。
「遅くなって、ごめんね」

 優の言葉に、朱雀は涙をこらえて、優を抱きしめ返した。
「遅すぎる……。俺は、待つのは、嫌いなんだ」

「ごめんね」
 と、優がもう一度言った。

「俺が大変だったときに、どこで何をしてたんだ? 薄情な奴め」
「庭妖精たちにお菓子を配ってたの。その後、星空を見てたら、いつの間にか眠っちゃった」
「あの騒ぎの中で、よく寝れたな。闇の魔法使いに、気づかなかったのか」
「目が覚めて気づいたんだけど、そんなに寒く感じなかったの。きっと、朱雀の指輪のおかげだね」
「……俺の指輪にそんな力はない。ようするにお前が、『鈍感』なんだろう。命に関わる鈍感さだ……」
「おかしいよね。図書室でコウモリに会った時は、すごく寒いって感じたのに。今日はたまたま、調子が悪かったのかな」

 そこまで言って、ふと思い出したように優が言った。
「ところで、さっきの二人の闇の魔法使いは、朱雀のご両親なんだって? 美空が言ってたのを聞いたの」
「……俺に似て、二人とも美男美女だろ。けど中身は、陰険で陰湿で性悪で……、俺を闇の魔法使いに……」
「ご挨拶したほうが、良かった、かな。一応、私、これから朱雀の恋人になるわけ、だからね」
「はっ、挨拶!? そんなの必要ない。言っておくけど、紹介するつもりもないからな」
「え、どうしてよ。普通、彼女のことは両親に紹介するんじゃないの」
「残念ながらウチは普通じゃないんでね」
「はあ……。でも挨拶くらいは。朱雀、一人で飛べそう? 重くなってきちゃった」

「なんて薄情な奴なんだ! 今の俺は、空を飛べない。それどころか、今はどんな魔法も使えそうにない。なんといっても、死にかけだからな!」
 朱雀が不機嫌に吐き捨てるのを聞いて、隣を飛んでいた流和が口を挟んできた。
「生きているのが奇跡よ。炎の魔法使いである貴方が氷の刃に打たれたのだから、無理もないわ」

 それにしては、随分と朱雀は口が悪いなと優は思った。
 死にかけの人って、もっと聖人のように優しい振る舞いをするのじゃないのかしら、と。
 けど、それ以上は何も言わずにいると、今度は朱雀が流和に問い掛けた。
「吏紀と、空は……?」
「二人とも重傷だけど、一命はとりとめたわ。私たち、朱雀を必ず連れ戻すって、二人に約束したのよ」
 と、流和が完結に説明する。
「あの二人がよく、許したな。お前たちが来ること」
 すると、今度は永久が朱雀に応えた。
「吏紀くんは意識がなかったの。でも、きっと私が来るのを止めなかったと思う」

「空は、私の好きにしていいって言ってくれた。私たちの帰りを信じて待ってるって」
「へえ……」

「空や吏紀みたいにイイ友だちをもって、幸せだね、朱雀は。それに、空みたいに、流和のことを信じて待つことは簡単なようで、本当はすごく難しいんだよ」
 最後にそう言った優は、空が泣いていたことも付け加えようかと思ったが止めた。
 きっと、男の子同士のプライドがあるだろう。

「だから、お前は、来るのが遅いんだよ」
 と、朱雀がもう一度呟き、優のことを一層強く抱きしめるのだった。
「信じて待つことは、本当に難しい。正直、もう来ないと思った……」
 
「ちょっとそれ、どういう意味? ちゃんと助けに来たでしょう。約束は忘れてないよ」
「信じて待つの、すごくキツかったぜ……」
 と、優の言葉を借りて朱雀が言い返す。
「だから何度も謝ってるでしょう。遅くなって、ごめんね」
 申し訳なさそうに涙ぐみながら、優もギュッと朱雀を抱きしめた。

「俺、冷たいだろう。傍にいて平気なのか?」
 今度は優のことを心配して、朱雀が力を緩めた。
 確かに、今の朱雀の体は氷のように冷たかったが、優は朱雀を抱きしめる腕に力を込めた。
「こんなの、全然平気だよ。 寒い?」

「ああ、寒くて死にそうだ。けど優、すごく、あったかいな」
 柄にもなく声を詰まらせて、朱雀は優の首元に顔をうずめた。それからはもう、何も喋らなかった。

 そうして朱雀を抱きしめたまま、優は飛び続けた。流和も永久も、何も言わなかった。
 闇の魔法使いとの戦いが始まったことを、3人とも考えていた。まだ誰も死んではいないが、深い傷を負った仲間がいる。それに戦争は体が傷つくだけじゃなく、心も傷つく。次の戦いの時が訪れるまでに、それぞれが受けた傷をゆっくり癒す時間があるかどうかは分からない。
 不安や、言い知れぬ恐怖を感じながら、それでも優、流和、永久の3人は城に向けて飛び続けた。

 城につくと、いくつもの光がテラスや庭で輝いていた。オパールや瑪瑙、トパーズ、ガーネット、サードニクス、ダイヤモンドやパールや水晶など、様々な石の光だ。
 永久の星の輝きが、その光たちの上に降り注いで行く。

 下級生も上級生も、ダイナモンの生徒たちが暗い空に向けて、仲間が無事に戻ることを信じて自らの光を放っているのだった。
 一つ一つが小さくて、この暗闇の中では決して明るくはない。
 けれど、光はどんなに小さくても、光だ。
「わあ、なんて綺麗なの」
 と、永久が言った。

「ダイナモンの光はまだ消えてない」

「うん。誰の光も消しちゃいけない」

 3人はゆっくりとテラスに降り立った。

「朱雀は無事なの?」
 真っ先に駆け寄って来たのは美空だった。だが、優に抱きかかえられている朱雀に触れようとして、美空はすぐに手をひっこめた。
「嘘……、闇の魔法使いより冷たい! 朱雀は、……死んでしまったの?」

「生きてるよ……『なりかけ』だけどな」
 と、朱雀が掠れる声で言った。
「なりかけ、って……そんな」

 三次が駆け寄ってきた。
「業校長たちが戻ってきてるよ。今、他の先生たちを連れて城に守りの魔法をかけ直してる。誰かが内側から守りの魔法を解いてしまったせいで、闇の魔法使いが入って来たらしいんだ。アトスの城壁にも穴があけられていたらしい」
 そう言って、三次が優に手を貸そうとして朱雀に手を伸ばした。

「ダメだ、俺に触るな!」
 朱雀がそう言ったのも適わず、朱雀に触った三次が電撃にでも打たれたかのように突然、倒れた。

「三次!」
 驚いた桜が三次を助け起こす。
「僕は大丈夫だ。でも、一体これは……」

 戸惑う他のダイナモンの生徒たちを前に、優に肩を貸してもらいながらなんとかその場に立っている朱雀は、とても顔色が悪い。
「闇の呪いだ。俺はまだかろうじて正気を保っているが、いつ闇の魔法使いになってもおかしくない。だから、誰も俺に近づくな」
 強い口調で冷静に言った朱雀の声に、ほんの少しだけ淋しさがこもっていた。

「優、多分、俺はもうお前にとっても危険な存在だ。少しでもおかしいと思ったら、迷わず俺を殺せ」
「何言ってるの。バカじゃないの?」
 優は朱雀にまともに取り合わず、重たそうに朱雀の肩を担ぎながら、ふらつきながら歩き始めた。
「これまでだって、朱雀は私にとって、十分危険な存在だったよ。初めて会ったときのこと覚えてる? いきなり私を呪縛魔法に閉じ込めて半殺しにしたでしょう。……だから、全然心配いらない。ちょっと寒くなってるからって、もう先のことの心配? 何があっても絶対大丈夫だから、しっかりしてよね! ほら、医務室に行くんだから、しゃんと歩いて!」

 その様子を見ていた東條晃が眉をしかめる。
「おい、明王児はなんで朱雀に触って平気なんだ?」
「それはこいつが、炎の……」
 と朱雀が言おうとしたのを遮って、優が広間にいる全員に聞こえるように大きな声で言った。
「それは私が朱雀の『カノジョ』だからよ! 愛の力ってわけね! だから、みんな道を開けて!」

 みんなは、キョトーンとした顔をしていたが、それでも優と朱雀が歩けるように、道をあけてくれた。
 広間の門をくぐろうとしたとき、優がよろけて朱雀を門の縁にぶつけたので、朱雀が小さく呻いた。
「『カノジョ』ならもっと丁寧に扱ってくれよな……」
「うう、朱雀がこんなに、重いなんて……」
 それもそうだろう。朱雀は優より頭一個分も背が高いし、体つきもガッシリしてる。
 優が顔を真っ赤にしてフーフー言っているのを見かねて、二人を追いかけて来た永久と流和が言った。
「手伝えたらいいんだけど」
「優、浮力を使ったらどうかしら。私も空を肩にかついで運んだことがあるけど、男子って重たいから、浮力を使うと楽よ」
「そっか!」
 簡単なことだった。浮力を使うと、朱雀の体を楽にかつぐことができた。
「こういう小さなところで、自分が魔法使いだってことを忘れちゃうんだよね」

「お前が魔法使いじゃなかったら、誰が俺を助けるんだ」
「魔法使いじゃなくても、私は朱雀のことを助けるよ」
「どうやって?」
 真っすぐと前を見据える優の瞳が優しく光った。
「朱雀はこの状況が、つまり、自分が闇の魔法使いになりかけているのが、魔法のせいだと思ってるの? それは違うよ」
「魔法じゃないとしたら、何なんだ」
「そんなの単純。苦しいことがいっぱいあって、心がちょっと、傷ついているだけ」
「心なんて、すでに何も感じてない。傷ついてなんかいないさ」
「私から見れば、貴方はどこが傷なのか分からないくらい傷だらけ」

 朱雀は答えない。
 だが優は確信をもって続ける。
「でも朱雀が朱雀であり続ける限り、炎の力は失われないんだよ。それにたとえ私が魔法使いじゃなくても、私はこの『思い』で、きっと朱雀を助けることができると思う」

「吹き消された蝋燭の火は、戻らないさ。もう、俺はただの蝋の固まりだ。今となっては殺してくれた方がずっと楽だ……」
「光は分けあうことができるもの。そしてそれは私たちの内側からいつでも生まれるもの。きっと大丈夫、みんなが朱雀に光を分けてくれるから」
「その中に、優もいるのか」
「もちろん、傍にいるよ」
「……カノジョだから?」
「違うよ!」

「はあ?……さっき、俺のカノジョだって言ったろうが」
「私が朱雀を助けるのは、朱雀のことが大好きだから!」

「さっきも今みたいに言ってくれたほうが嬉しかった」

 ああでもない、こうでもないと問答しながら、優はやっとの思いで朱雀を無事に医務室まで運びこんだ。
 けど、朱雀は氷みたいに冷たい。優が少しでも手を離したら、このまま本当に闇の魔法使いになってしまいそうだ……。


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