月夜にまたたく魔法の意思 第9話3




 医務室の木扉を引き開けると、眼帯をした播磨先生が優たちを出迎えてくれた。
 ベッドには吏紀と空が横たわっていて、二人ともグッタリした様子だが、もう意識は戻っていた。

「朱雀!」
「ああ、よかった……」
 空と吏紀が同時に声を漏らす。

「さあこっちへ、ベッドに横になるんだ」
 播磨先生が優の肩から朱雀を預かり、そのままベッドに寝かせた。
 朱雀に触って大丈夫なのだろうか、と優は思った。

 播磨先生は朱雀の右手首をいきなり掴み上げると、グルエリオーサの救出以来、その手にずっと巻かれたままになっている包帯を解き始めた。
「どうやらドラゴンの代わりに受けた呪いが、成就しようとしているようだな」

「呪いって、何ですか?」
 優が聞いた。

「明王児優、やはり君は知らなかったのだね。高円寺朱雀がやったことを」
「余計なことを言うな」
 と、朱雀が播磨先生を睨んだ。
 だが播磨先生は朱雀を無視して、話を続けた。
「ドラゴンが受けていた死の呪いを、彼が身代わりに受けたのだよ。というのもその呪いは、もとはと言えば高円寺阿魏戸、つまり、朱雀の父親がドラゴンにかけたものだったからだ。息子である朱雀の血が、グルエリオーサの命を贖ったのだ」
「黙れ!」
「これが、その証拠だ!」

 播磨先生が、優によく見えるように朱雀の右の手のひらを見せた。そこに、黒い炎の紋様が痛々しく焼き付いているのが見えた。

「この呪いは朱雀の命を蝕み、闇にいざなうのを助けるだろう。そして、これは闇の魔法使いとの戦いでも不利となる」


「そんなことして欲しくなかった……」
 優の顔が青ざめた。

「俺が自分でしたことだ。お前には何も関係ない。それに、お前だってグルエリオーサを助けたかっただろう。どうせ死ぬなら……」
「何言ってるの、朱雀。どうして簡単に命を捨てるようなことするのよ!」
「闇の魔法使いになるくらいなら、死んだ方がマシだって言ったろ! それに誰も、俺の命なんて今さら惜しまないさ」
「そんなこと言うなんて信じられない! 約束したのに!」
 朱雀は優から目をそらして、口をつぐんだ。

「私のこと、信じてないんだね」
 優の声が震える。
「信じたいさ。けど、もう遅いと思う」
「もう知らない! 自分のことも大切にしない、私のことも信じてくれない朱雀なんて、大嫌いだよ!」

 優が医務室からとび出して行った。

「ちょ、待って、優!」
 流和が優を追いかけて行くのを、空、吏紀、永久の3人は何も言わずに見送った。
 自暴自棄になっている朱雀に声をかけようにも、何て言葉をかけたらいいのか分からない。

 誰も、何も言わず、重たい沈黙が流れる部屋に、暖炉の炎が弾ける音だけがなっていた。
 そのとき、おもむろに播磨先生が、いつも右目にしている眼帯をはずした。瞳を失ったそこにあるのは、深い闇を秘めた眼孔。

 それまで元気に燃え上がっていた暖炉の炎が小さくなり、そして煙を上げて消えた。
「播磨先生?……」
 医務室の中に、再び冷気が漂い始めたことに気づいて、永久が播磨先生を振り返った。

「闇の軍勢は力を増している。……なんて、愚かなんだ。私は、光が闇に勝てると信じていたのに、これでは、もう……。ならばいっそのこと、…ダメだ、やめろ! やめてくれ!!」
「播磨先生、どうしたんですか!」
 錯乱し始めた播磨先生の中には、まるで二人の人間がいるようだった。

「何か様子が変だ。永久、近づかない方がいい」
 異変を感じた吏紀がベッドから起きあがろうとしたが、胸の傷が深かったので、それだけで酷くむせ込んで、また血を吐いた。
 皆が驚いて見つめる中、播磨先生が、ベッドの朱雀に覆いかぶさった。

「っ!?……」
「よせ! 朱雀に何をするつもりだ!」
 隣のベッドで空が半身を起して怒鳴る。

「高円寺 朱雀。君の中にある闇が、今宵、私の中にある闇を誘う。とてもよく見えるよ、君の中にある悲しみと怒り、そして絶望。なんて心地いい、死の香りだろう……」
 播磨先生の暗い眼孔に吸い込まれるように、朱雀の瞳から光が消えた。
 その朱雀の体から、少しずつ、確かに、冷たさが広がり始めたことに、空も吏紀も、永久も気づいた。

「やめて! 何してるの!」
 永久が杖を召喚して、播磨先生に向けて構えた。
「すぐに朱雀くんから離れて!」

『フハハハハハッ!! 希望の光か。それもいいだろう。だが、すでに盲目な者に、もはやその光は届かない。彼を救うことはできないよ』
 そのまま、播磨先生は狂ったように笑いながら、医務室から飛び出して行った。

 永久の吐きだす息が白くなっている。
 播磨先生はもう医務室にはいないのに、まるで闇の魔法使いがすぐ傍にいるときみたいに、部屋の中には冷気がたちこめていた。

 朱雀がベッドから起き上がり、空中から黄金とルビーの杖を召喚した。だが、杖を手にしたとたん、朱雀はそれを床に落としてしまった。
「朱雀……」
 床の上に転がった朱雀の杖を見て、空が声を震わせた。
 これまでずっと、真っ赤に燃えるような輝きを放っていた朱雀のルビーが、みるみるうちに色褪せて、そして黒く深い闇色に変わり始めたのを見たからだ。

「空、杖を抜けるか」
 落ちつき払った朱雀の声が、医務室に静かに響いた。
――「俺を、殺せ」

 空が悔しそうに歯を食いしばり、目に涙を浮かべた。
「そんなの、絶対いやだ」
 けれど青白い顔をした朱雀は、なだめるように親友に笑みを見せた。
「闇の魔法使いになるくらいなら、死んだ方がましだって言ったろ。こんなの、お前以外には頼まない。頼むから」

「空……」
 吏紀が肩で息をしながら、ベッドから這い出て空に触れた。
「なんだよ吏紀、お前まで朱雀を殺せっていうのか! そんなこと、できるわけないだろ!」
「違うよ……。空、優を呼んで来い。なるべく、早く……」

 すでに黒い闇が朱雀の体を覆い始めていた。時間はもう、それほど残されてはいない。
「急げ!……」
 吏紀に言われ、空は意を決してベッドから飛び降りた。
 体中に痛みが走ったが、そんなこと構ってはいられなかった。そうだ、優を連れて来るんだ!――炎の魔法使いを!
 優なら、本当に朱雀を助けることができるかもしれない。


 闇に堕ちた魔法使いを助けることができるのか? 今まで、実際に助けられたという事例は一つもない。
 けど、絶対に助けられないという証拠もない。
 空中からエメラルドの杖を召喚した空が、緑の光となって医務室から飛び出て行った。

「お前たちの、心遣いは、本当にうれしいよ。けど、もう、手遅れなところまで来ていると思う……」
 朱雀は苦しそうに息を吐くと、なるべく吏紀や永久から離れようともがいて、ベッドから転がり落ちた。

「随分、お前らしくないことを言うんだな……」
 吏紀はベッドをつたって床を這いながら、なんとか朱雀の傍まで近寄って行って、部屋の隅で丸く縮こまろうとしている黒い影に、そっと手を伸ばした。

「よせ、触るな!」
 振り払われても、吏紀はそのまま朱雀の肩に手をのせた。この学校で誰よりも強い、炎の輝きをもった仲間が今、闇に包まれて行くのを目の当たりにして、さすがの吏紀も震えずにはいられなかった。
「朱雀、諦めるのは、まだ早いだろ……」
 これまで、どんな時にも熱に満ちていた友の体が、今は氷よりも冷たくなっている。
 自分には何もできない悔しさとやるせなさで、吏紀は顔を歪めて涙を呑んだ。

 尚も闇は広まり続け、辺りを埋め尽くして行く。
 黒い霧が実体となって渦を巻き、朱雀の体を呑み込んで、すぐ傍に居るのに、朱雀の姿が見えなくなってゆく。
 吏紀は自分にも冷たさが入り込んでくるのを感じながら、それでも朱雀を離すまいと、友を抱きしめた。
 朱雀の体から漏れ出て来る闇は、意思を持つ獣のように、吏紀の体をも引き裂き、医務室の中を飛び回り始める。

「永久、君はここに居ないほうがいい」
 たまりかねて吏紀がそう言ったが、永久は壁際まで下がったきり、一向に部屋から出て行こうとはしなかった。
「ううん、私はここにいる。吏紀くんと、一緒にいる」
 震える声で永久が言った。
 目の前で朱雀が闇の魔法使いになりかけていることへ恐怖しながら、胸の前でダイヤモンドの杖を抱えて、凛としてそこから動こうとしない。



 その頃、怒り狂った優は、ダイナモンの地下図書室に引きこもっていた。
「朱雀の大馬鹿! 大嫌いよ!」
「優ったら、そう怒らないでよ。朱雀は、今はちょっと正気じゃないだけよ」
「ふんッ! 朱雀が正気なときなんて、ほとんどないよ! いつもどっかネジが飛んでるんだから! でも……」
 優は突然、本棚の間に座り込んで、めそめそと泣き始めた。
 今、優がいるのは、グルエリオーサの呪いを解くために徹夜して調べ物をしていた、あの場所だった。あの時、朱雀がやってきて、助けてくれたんだ。でもまさかそれが、自分の命を犠牲にしてやってくれたことだったなんて、優は全然知らなかったのだ。

「私、朱雀にひどいことをさせちゃった……。どうして朱雀は、あんなことしたのかな……。そんなの、私、望んでなんかいなかったのに……」

 本当に悲しそうに泣きじゃくる優を見て、流和も心を痛めて友人の隣にしゃがみこんだ。

「さっき、播磨先生が言ってたこと? ドラゴンの呪いを、朱雀が解いたっていう」
「そのせいで、朱雀は死にかけてる。戦いも不利になった、って」
「うん……」

 それからしばらく、流和も優も、何も言わなかった。ただ、優の泣き声だけが、いつまでも悲しく暗い図書室の中に響いていた。
 優には、自分がいつも蚊帳の外にいて、朱雀ばかりが勝手に大切な決断をしているように感じた。
 そうやって優は守られてばかりいて、朱雀に全然頼りにされていないことが、悔しかったし、悲しかったのだ。それが好きな相手だから、尚更ムカつくのだった。

「私ね、優」
 不意に、流和が静かに口を開いた。
「初めてダイナモンで朱雀に会った時、『悪魔みたいな奴だ』って、思ったの」

 朱雀が初対面の相手にイイ印象を与えないのは、優にもリアルに想像することができた。

「それからしばらくたっても、私の中での朱雀の印象は、やっぱり変わらなかったんだけどね。あるとき気づいたことがあるの。我がままで、自己中心的な朱雀にも、実はすごく優しい気持ちがあるんじゃないか、って。だってそうじゃなかったら、空が朱雀の親友なんて、やってるわけないもの。それに、ただのイヤな奴と、あの九門吏紀が付き合うわけもないの。朱雀って本当はすごく優しくて、すごく、不器用なんじゃないかな」

 朱雀が優しいってことは、優もよく知っていた。

「私が朱雀に抱いていたそんな印象はね、優。朱雀があなたに出会ってから、ますます強まるようになったわ。優は知らないかもしれないけど、朱雀が優を見ているときの目ってね、今まで、私たちが見たことがないくらい、優しい目をしているのよ。多分、いえ、絶対に」
 流和はそこで少し間をおいてから、はっきりと優に言った。
「朱雀は自分の命を犠牲にしても、優のことを守ると思う。彼は、正真正銘の炎の魔法使い、シュコロボヴィッツなんだわ」

 優は、泣き腫らした顔を上げた。
 なんとなく、朱雀がいつも優を守ってくれているのは知っていた。でも、その行動が深いシュコロボヴィッツの愛によるものだということを、このとき親友の流和に指摘されるまで、優は気付くことができなかったんだ。

「私だって、朱雀を守りたい」
「うん。優になら、それができると思うわ。だってあなたは、シュコロボヴィッツの愛したナジアスよりも、ナジアスっぽいもの」
 流和が微笑んで、優にウィンクをおとした。

 そのとき、突然、図書室の扉が吹き飛んで、無数のカラスがけたたましく泣き喚きながら図書室中を埋め尽くして飛びこんできた。
――見つけた! 見つけた! 炎の魔法使いを見つけた!
 カラスたちの鳴き声があまりに煩いので、流和も優も、両手で耳を塞いで、突かれないように地面に伏せた。
 そもそも、学校内でカラスを飛ばすことは校則違反のはずだ!

「空?」
 この山烏たちが空の使い魔であることに気づいた流和が顔を上げると、図書室の天井を埋め尽くすカラスの中から、エメラルドの杖に乗った空が姿を現した。
 急降下してきた空は、いきなり優を抱え上げると、そのまま猛スピードで図書室を出て行ってしまった。
―「朱雀が!」
―「闇に!」
―「来てくれ!」
 優が聞き取れたのは、その3つだけだった。

 そうして空の脇に抱えられたまま、優は息もできない速さで学校内の曲がりくねった廊下を、医務室まで運ばれて行ったのだった。





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