月夜にまたたく魔法の意思 第9話15




 翌朝は雨だった。
 ドラゴン小屋から立ち上る湯気が、いつにも増して白く勢いを増したように見える。
 季節は夏だというのに、日毎に大気が冷やされ、人間が住む文明界では連日のように冷夏を心配するニュースが流れていた。大気の異常は闇の勢力が増していることを意味したが、魔法使いでない【人々】はそんなことを知るよしもない。人間界に被害が露呈しないよう、光の魔法使いたちがギリギリのところで闇を食い止めている。
 
 湯気の中に黒く浮き出る亀型のドームから、朝のドラゴンの世話を終えた優が三次とともに出て来た。そのまま真っすぐ食堂に向かうところだったのだが、ドームを囲む泉にかかる石橋の上に、誰か人影が立っているのを見つけて、三次が足を止めた。

「誰だろう」
「朱雀」
 まだその人影の姿がはっきり見える前に優がそう呼ぶのを聞いて、三次が呆けた。
「どうしてわかるの?」
「感じるんだよ」
 そう言った通り、霞みの間から制服姿の朱雀が現れた。しばらく前からそこに居たらしく、髪がすっかり雨に濡れている。

「業校長が俺たちを呼んでる。地ヶ谷三次、お前もだ」
 朱雀はそう言うと、当然のように優の手をとって先に歩き始めた。

 業校長が呼んでる? こんな朝早くに、一体何事だろう。朱雀の様子に余計な仕草や憶測がないせいで、その朝の寒さが一層と肌に刺さるような感じがした。ダイナモンの生徒が初めてベラドンナにやって来たときみたいに、優の胸はざわついた。――戦いのときが近づいている。
 優も三次も、口を開かずに朱雀に従った。


 校長室に入って行くと、温かい空気が優たちを迎え入れ、暖炉で薪がはぜる香りが不安な心をホッと和ませてくれた。だが、今朝もカーテンを閉ざした暗い部屋の中には重たい雰囲気がたちこめている。
 そこには試しの門を通った全員が集められていた。朱雀は空や吏紀と、三次は桜と、優は流和と永久と、互いに視線を交わすことはあっても、皆一様に沈黙を守った。

「よく来たな。まあ、そう、緊張することはないぞよ」
 カーテンの隙間から灰色の空を見上げていた業校長が、部屋の中央にある大きな円卓のところまでやってきて、10人の生徒たちに座るように命じた。

 優たちが思い思いに円卓につくと、部屋の奥から賢者ゲイルと桜坂教頭、そして、播磨先生が姿を現した。播磨先生の首と両手首には、星の刻印のある銀の輪がはめられていて、優はその輪から、強い光の魔法を感じ取った。それは播磨先生の中にある何か悪い物を抑えつけているようだった。

 業校長は長いローブの袖の中で両手を合わせると、優たち10人の生徒たちをゆっくりと見回してから言った。
「今朝、お前たちを呼び集めたのは、来たるべき時に備え、見せておくべきものがあるからじゃ」

 そうして播磨先生が業校長の隣に招かれた。
「だがその前に、ここにおる播磨先生のことを話そう。播磨先生が高円寺朱雀に行った『闇への誘い』は、すでに皆が知るところじゃが、あれは播磨先生の意思によるものではない。播磨先生は我々の側に立つ、光の魔法使いである。まずはじめに、それはわしが保証しよう」

「憑依ですか。それとも、何か別の方法で操られていたのですか」
 こういうとき、すぐに堂々と質問をすることができるのは九門家の吏紀だ。家柄から、吏紀は大人たちに囲まれることに慣れていて、張り詰めた空気の中でも臆せず発言する。

「操られていた、というのが近いな。じゃが正確には、播磨先生と繋がっているもう一つの人格が動いた、というべきじゃろう」
 優は、千年桜の木の下で、播磨先生が自分の左目には呪いがかけられている、と言ったのを思い出した。
 その呪いを解く方法は、闇の世界に行ってしまった播磨先生の親友だけが知っているという。

「ここからは、僕から話させてください」
 播磨先生が柔らかな声で許しを請うと、業校長は静かに頷いて一歩下がった。

「僕がまだ公安に勤めていたとき、魔の森で闇の魔法使いとの大戦があった。魔の森というのは、君たちも知っている、復活した魔女が棲む西の森のことだ」
 ゆっくりと話し始めた播磨先生の様子には、優が舞踏会の夜に見たような異常さはない。
「当時、世界には不穏な邪気が漂っていて、多くの同胞が闇に堕ちて行った、それは悪夢の時代だった。高円寺夫妻や烏森一族が有名だが、そのとき闇に堕ちた魔法使いの中に、僕の親友もいたんだ。名を紫苑(シオン)という」
 紫苑、という名を口にするとき、播磨先生の目に優しい光が宿ったことに優は気がついた。

「彼は僕の幼馴染で、ダイナモンでは同期生だった。ともにダイナモンを卒業してからも、危機的な状況のときはいつも共に闘った仲間だった。大戦の前、僕と紫苑は友人の証として、互いに守護の誓いをたて、左目を交換することにした。交換した左目には互いを守る守護の力が込められ、同時に互いの見ているものを見合うことができるという効果もあった。戦場で離れることがあっても、互いの状況を知り、助けあうことができるように」
 播磨先生の眼帯を、皆が好奇の眼差しで見つめた。その眼帯の下には、紫苑という友人の目があるのだ。それなのにどうして、眼帯をする必要があるのだろう。
 そんな疑問に応じるかのように、播磨先生は話し続けた。

「あの日、西の森のはずれで僕は紫苑とはぐれ、浮力の働かない森の中で激しい戦闘に巻き込まれていた。なんとか生き延びて森から出て来た時、僕は紫苑が死の沼に落ちているのを見た。そして紫苑の左目を通して、この地上にあるあらゆる悲しみと悪意を見た。彼の美しいアメジストの輝きの中に一点の黒が混じり、それがポタポタと数を増し、大きくなっていくのが見えた。払っても払っても、闇が押し寄せて来る。吸い込む息の中にも、聞こえる音の中にも、目に移るすべてと、肌に感じられる全てに闇が入りこんでくる、あのおぞましい感覚……それは死よりも耐えがたい苦痛だ……」

 テーブルの下で、朱雀が白くなるほど拳を強く握りしめていた。それはつい数日前に、朱雀が実際に感じた恐ろしい闇の経験と同じだった。

「僕が紫苑を死の沼から引きあげた時、彼の体はすっかり冷たくなり、全身を闇に包まれていた。紫苑は僕に『「殺してくれ』と頼んだ。闇に堕ちるくらいなら死んだ方がましだと、彼は言ったんだ」

 この言葉に、今度は吏紀と空が唇を噛みしめた。それはつい数日前に、親友の朱雀が二人に頼んだことと同じだったからだ。
 そのとき播磨先生がどんな気持ちだったのかを、吏紀と空の二人は容易に想像することができた。親友を殺すことなど、できるはずがない。

 播磨先生の瞳にうっすらと膜がかかった。
「……紫苑を殺すことなどできなかった…・・。僕のかけがえのない親友なのだから。彼には結婚を目前に控えた婚約者もいたんだ。彼女は、紫苑が戻るのを今でもこの学園で待っている。今思い返しても、僕にはとても、殺すことなどできなかった。そうして僕が何もできずに見ている前で、紫苑は抗いながら、苦しみ悶えながら、やがて一人で完全なる闇に堕ちて行った。光の届かない深い魔の森へ下っていく彼の姿を、僕は忘れない」

 吏紀は、医務室で闇に囚われた朱雀を抱きしめ続けた。そのせいで自分までもが闇に浸食されそうになったことを思い出した。
 もしあのとき優が来なければ、吏紀も朱雀もろとも闇に堕ちていたかもしれない。一体、播磨先生に何ができたというだろう。

「殺してやるべきだった」
 と、朱雀が言った。
「何て事を言うの!」
 と、すかさず優が目を剥きだして怒る。

「闇の世界に堕ちるくらいなら死んだ方がましだ。自分を失って生きるなんて、地獄だと俺は思うからだ」
 ――苦しみに合うことよりも、悲しみに合うことよりも辛いことがこの世に二つ。愛する人を失うことと、自分を見失うこと。
「でも、殺してしまったら、愛する人を失うことになっちゃう。生きていれば、取り戻せるかもしれない」
「一度闇に堕ちた魔法使いは、二度と光の中に戻れないって授業で習っただろう」
 空の言葉に、優が首を振る。
「私、そんな授業受けてないよ」
「闇の間の事件があった後で、優は医務室にいたのよ」
 と、流和が言葉を添えた。

「それにあなたたち、聖羅を助けるって約束したんじゃなかったの?」
 優が大浴場での話を持ち出した。男子に裸を見られた後でメソメソ泣いていたくせに、あのときの朱雀たちの会話をしっかり聞いていたようだ。
「聖羅のことは……、話が別だろ。あいつはまだ完全には闇に堕ちていないんだから」
「そんな境界線、どうして引くのよ。戻ってきたいと願うなら、戻ってこられるんじゃないの? その、紫苑ていう人も。闇に堕ちて行くときに殺してくれって言ったのは、本当は闇に堕ちたくなかったからでしょう? 朱雀と一緒だったんじゃないかな。戻りたいと強く願えば、そして引き戻したいと強く願えば、戻って来られる。闇を祓って。だって私たちはみんな、最初は光の魔法使いとして生まれたんだから」

 そんなことは、誰も授業では言わなかった。
 けれど本当は、誰もが心の奥底で願っていることだった。嘘でも誰かに言ってもらいたかったんだ、戻って来られる、まだ、終わりではないと。
 魔法の源は強い心の思いだ。原点に立ち返れば、私たちが純粋に願うことのできるものの中に、実現できないことはない。人は、それができるから願うのだ。本当にできないことなら、願うことさえ不可能なのだから。

「君があのときの授業に居なかったのは、ダイナモンの生徒にとって大きな損失だったな。ダイナモン魔術魔法学校は、世界中から最も優秀な魔法使いが集まる魔法界最高の学校だ。もし、我々が『出来ない』と言うのなら、おそらく他の魔法使いも『出来ない』と言うだろう。だが、もし我々が『出来る』と言えば、あるいは不可能を可能にすることができるかもしれない」

 播磨先生が、頭の後ろの結び目をほどいて、ゆっくりと眼帯を顔から放した。

「紫苑は今でも、僕に語りかけて来る。この目を通してね」
 播磨先生の左目は真っ黒だった。普通に黒い人の目とは違って、光が見えていないような、くすんだ闇色だ。
 優が興味を示して覗きこもうとするのを、朱雀が掴んで止めた。
「よせ、危ないぞ」

「僕のこの左目は紫苑が見ている闇に通じている。そして僕が見ている光は、闇の魔法使いとなった紫苑にも見えている。そうして僕らは光と闇の世界に分かたれて、互いの存在を引っ張り合っているんだ。ある時は紫苑が光に近づくが、またある時は、僕が闇に引っ張られる。満ち欠けする、月に似ている。新月は紫苑の闇が増し、満月は僕の光が力を得る」
 そういえば、舞踏会の夜は月が完全に隠れた新月だった。
 業校長が、そっと播磨先生の肩に触れて後を継いだ。
「わしが播磨先生をダイナモンに招いたのは、この特性を利用できると考えたからじゃ。わしらは今、播磨先生の左目を通して、魔女の城で起こっていること、闇の世界で図られていることを伺い知ることができる。だが注意しなければならんのは、播磨先生が左目を開いている間、あちらにもこちらが見えているということじゃ。しかも、強い魔力を発動させれば、この瞳を通して互いの行動に干渉することもできる。ちょうど、舞踏会の夜に起こったようにじゃ」

「今は、猿飛校長の光の楔が闇の干渉を完全に防ぎ止めている。だがそれでも、あちらがこの目を通してこちらを見ていることに変わりはない」

「さて、そろそろ本題に入ろうかの。さっき、お前たちに見せておくべきものがあると言ったじゃろう。今から播磨先生の目を通して、これからお前たちに闇の世界を見せる。魔女と、それを取り巻く闇の魔法使いたちの姿をな。恐れるなとは言わん、だが、怯むな。己の目を開いて、備え、心するのじゃ。覚悟は、できているはずだ」

 そう言った猿飛業校長の手には、いつの間にか三日月形の大きなダイヤモンドの杖が握られていて、その杖を天井から床に向かって静かにゆっくり下ろすと、暖炉の火も天井の星の輝きも消えて、部屋の中が真っ暗になった。
 ほどなくして、円卓の上に大きな五芒聖が輝き出で、中心にゲイルのハープが現れた。誰も触れていないのに、ハープはポロポロと不思議なメロディーを奏で始めた。
 途端に、優がハッとして円卓の上に手を広げてみんなに言った。

「手をつなげ、って言ってる!」
「まさか、ハープが喋ってるのがわかるのか?」
 言いながら、優の右側に座っている朱雀が手をつないだ。
「うん! 予言書の方が拗ねた男の子だとすれば、ハープの方は知的な女性って感じだね。みんなで手をつないで絶対に放すなって言ってる。この円卓とハープが、闇を覗く間、私たちを守るから、一つに繋がっていなさいって」
 そう言って、優は左隣に座る永久の手を握った。そうして、永久が吏紀と、吏紀が美空と、美空が東條と、東條が空と、空が流和と、流和が桜と、桜が三次と、そして三次が朱雀と手を繋いで、円卓の周りに10人が輪になった。直後、円卓がくるくると高速で回り始めた。
 激しい遠心力で体が吹き飛ばされそうになるのに耐え、全員が互いの手を繋ぎ続けた。回転は渦潮のように、深くて暗い海の底に優たち10人を引きずり下ろしてゆくかのようだ。五芒聖の光が遠ざかり、ハープの音色が聞こえなくなり、周囲の気温が急激に低く、重くなり、やがて辺りが真っ暗になると、回転は止まった。


「ここは、どこだ?」
「シーッ!」

 初めに聞えて来たのは、ヒステリックな女の声だ。闇の魔法使いの冷たい気配がすぐ近くに感じられる。
 10人は息を潜めて周囲を見回した。妙にリアルな夢を見ているような、奇妙な感覚だ。
 次第に目が慣れて来ると、天井も壁も見えない広い建物の中にいるらしいことが見えて来た。やけに暗くて、壁や天井という境界が全然見えない。
 その場所で優たちは今、校長室にいたときと同じように円卓の周りで手を繋いで座っているのだが、そこには業校長や播磨先生の姿はなく、優たち10人だけだ。

阿魏戸!!

 そんなに声を枯らして怒鳴らなくてもいいのじゃないか、というくらいの女の叫びだ。
――ボッ ボッ ボッ ボッ

 女の声に呼応するように、蒼黒い炎が次々に松明台に灯されてゆく。その炎が暗い部屋の中をわずかに照らしだすが、炎の熱は感じない。

 朧な炎のゆらめきに、段上の玉座が浮かび上がった。血のように赤い大きな玉座が金で縁どられ、それだけがこの部屋の中で色を帯びて不釣り合いに見えた。
 その玉座に坐しているのは、漆黒の男。体を斜めに肘をついて、玉座に深く身を沈めてくつろいでいる。漆黒のマントが長く、玉座に続く階段の一番上まで伸びていた。

 頭に3本の黒い羽をさした痩せた女が、優たちの座る円卓の真ん中をすり抜けて玉座の前に進み出た。どうやら、向こうにはこちらが見えていないようだ。優たち10人は確かにこの場に存在するけど、実体はないとみえる。

 高慢な王の貫録を漂わせる漆黒の男は、高位の玉座から溜め息混じりに女を見下ろした。その些細な仕草が、朱雀にそっくりだと優は思った。
 高円寺阿魏戸。
 優の両親を殺した闇の魔法使いであり、優の最愛の人の父親であるその漆黒の男を、優はこのとき初めてまじまじと見つめた。




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