月夜にまたたく魔法の意思 第9話16
「乾(いぬい)家の者が喰い散らかしている」
黒い羽をクジャクのように頭上で揺らしながら、女が玉座の男に語りかけた。
「これでは、女王様に捧げる生贄ばかりか、器までもが干物にされてしまうぞ」
すると、男、阿魏戸はクスリと笑った。
「好きにさせておけ。長年の楔から解き放たれて、喉の渇きを癒しているのだろう。生贄など、どうせ女王は喜ばぬ……」
「では、『器』は? 女王様には新しい御身体が必要だろう」
「華留蛙(かるあ)」
玉座から漆黒の男が呼ぶと、玉座の下にある四つの椅子に座る影の一つがぼんやりと浮かび上がった。
体のラインにピッタリ締め付けた真っ白い絹のドレスを着た長身の女が、優雅に椅子から立ち上がった。
黒いダイヤモンドの輝き。華留蛙(かるあ)と呼ばれたその女は、朱雀の母親だ。
「話はしたのか」
「はい」
「して、なんと」
「女王様は、わたくしの体では満足なさらないとのこと。どうやら、憑依に用いたまだ若いダイヤモンドの乙女を気に入ったようです。確か、名を……」
「ベラドンナの山口 永久だな。面白い」
円卓の周りで手を繋いだまま、皆が一斉に永久を見つめた。
東條や朱雀、それに空は今の話だけでその意味するところをくみとったようだが、三次や桜、それに永久自身や優にはさっぱり訳が分からなかった。
そんな優たちの困惑を察して、吏紀が簡潔に説明を加えてくれた。
「魔女の体はおよそ300年の間、墓に納められていた。朽ちた肉体は生贄と魔法で復元することができても、おそらく魔女本来の力に耐えうるものではないんだろう。だから魔女は別の体を探している……」
「体をのっとられるってこと? そんなの、まっぴらごめんよ!」
「シーッ!」
漆黒の男の声が高く、玉座の間に響き渡った。
「ゲイルの予言書によると、望みの者はじきに自ら、我々のもとにやってくる」
だがしかし、黒い羽の女は不満そうに身じろぎした。
「ただ手をこまねいて待っているのか? 先にダイナモンから連れ帰った水晶の乙女の体は、もう、そうもたないだろう」
「聖羅……」
美空がハッとして口にしたのは、沈黙の山で美空自身に呪いをかけてきた親友で、闇の世界に行ってしまった月影聖羅のことだ。
「若くてよい器だと思ったが、女王様の力には耐えられなかったな」
黒い羽の女がそう言ったとき、玉座に座る漆黒の男が暗闇の先に首をもたげた。
衣擦れの音に混じって、辺りにかすかな死臭が漂う。
途端に、玉座の下の4つの椅子から影が立ち上がり、跪いた。黒い羽の女も、脇によけて同じく深く身を屈め、その場に新しく現れた存在に最上の敬意を示した。
少しも体勢を変えずにいるのは、玉座に座った高円寺阿魏戸だけだ。
「聖羅!」
今度は美空が確信に満ちた悲鳴を上げた。
優たちの座る円卓の前を通って行ったのは、見紛うことのない、沈黙の山で別れた聖羅だった。死人のように青い肌をして、目は白く霞んでいる。目の周りや手の血管が黒く浮き上がり、爪は黒く、それだけで、彼女の体が死に向かっていることがわかった。いや、もう死んでいるのかもしれない。
空は顔をそむけた。聖羅の姿をとても直視することができなかったのだ。あの時、聖羅を身捨ててはいけなかった。死んでも一緒にダイナモンに連れ帰るべきだったんだ。
美空の頬には、反射的に涙が伝い落ちた。
吏紀は感情を押し殺したように、少しも表情を見せない。
朱雀だけが、眼前の魔女をジッと見据えていた。聖羅の姿を借りた邪悪な魔女を、今にも射抜きそうなほど鋭い目をしている。
「阿魏戸、ナジアスの娘は殺したのか?」
聖羅の声は、だが、聖羅自身のものではなかった。
「まだ姿さえ、よく見ていないのです。実に神出鬼没な子だ」
「シュコロボヴィッツの息子は手に入れたのか? 私は、あの男が欲しい」
「あの出来そこないは、死の沼に捨てましたとも」
「では、なぜ闇の世界にいない?」
「恐れながら女王様。明王児優が、死の沼から息子を連れ帰りました。二羽のフェニックスを従えて……」
華留蛙が、玉座の下から深く頭を下げて女王の問いに応えると、途端に魔女の顔に醜い皺が刻み込まれた。
「忌々しいナジアスの娘……、殺せ。殺せ! 殺せ! 殺せ!」
魔女の周囲に邪悪な力が引き寄せられていく。と、たちどころに大地がキーンと音を上げて細かく震え出した。
聖羅の体の、目や口、鼻から黒い血が滴り落ち始める。
「女王、鎮まりください。力を使われては、肉体がもちますまい。心配せずとも、時は近づいている。娘は殺し、息子は必ずあなたさまの手に渡しましょう」
「気色悪い、さっさと墓に戻りやがれ」
優の隣で、朱雀が心底嫌そうにボソっと呟くのが聞こえた、と思ったら、何故か魔女が優たちのいる円卓の方に振り返った。
「どうか、なされたのですか? 女王」
「今、声が……」
「声……?」
「かすかだが、匂いもする。まさか、……紫苑!」
魔女はすぐに何かに気づいたように、辺りを見回して叫んだ。
直後、一人の男が柱の陰から姿を現した。頭に深々とフードをかぶっているせいで、顔がよく見えない。
「お呼びですか、女王様」
「お前の目か」
優が身を乗り出して、男の人をよく見ようとした。
「あの人が播磨先生の友達の、紫苑て人だ。顔がよく見えないね」
「バカ、喋るな! なんだか様子が変だ」
朱雀が嫌な予感を感じて優をひきとめるが、もう遅い。
男はフードを片手でゆっくり後ろに押しやると、真っすぐに優を見つめて微笑んできた。
「若い10人の魔法使いが、我らを見ています」
高い鼻と、知的だけどどこか冗談めかした目元。口元には清潔感があるが、紳士的というよりは、笑い方には危険な男性の魅力を漂わせている。
優はまじまじと観察してから、ふっと男に微笑み返した。
――「限界だな、戻っておいで」
どこからともなく播磨先生の声がした。
たちどころに、五芒聖の光が輝き出ると、最初と同じようにまた円卓がくるくると回り始めた。
玉座の男や、魔女、そして播磨先生の友人である紫苑という男の人の姿がみるみるうちに遠ざかっていくと、今度は海底から上空に引きあげられるようにして、優たちの座る円卓は朝の静かな校長室に舞い戻った。
「物理的には、君たちはずっとこの場所にいたんだよ」
と播磨先生は言った。
「送ったのはビジョンだけだ。けれど、魔女があんなに早くこちらに気がつくとは予想外だった」
「猿飛先生、聖羅は……」
美空が播磨先生を遮って校長に詰め寄った。
「残念じゃが、あの子を救い出すことは限りなく難しい。そなたらも見た通りじゃが、肉体はもちろん、おそらく内なる精神も、魔女によって酷く蝕まれておる。期待はせぬことじゃ」
「俺たちのせいだ。聖羅を、……見捨てたんだ」
空が思いつめたように言うと、すぐに吏紀が後を引き取った。
「ああ、俺たちのせいだ。報いは受けよう」
「報いって?」
永久が心配そうに吏紀に問う。
「聖羅の姿をした魔女と、命をかけて闘う。傷も痛みも苦しみもすべて、それが俺たちの受ける罰だ」
吏紀の言葉に、空も頷く。
「命をかけて闘う。けど、まだ聖羅の命を諦めたわけじゃないぜ」
「でも聖羅を傷つけずに、どうやって魔女と闘うの?」
今度は美空が問い掛けた。
――あの子は?
生徒たちが話しあっている傍で、播磨先生の中に内なる声が響いた。
「それはこれから考える、きっと何か方法があるはずだ」
「それもそうだが、魔女が次の器に永久を狙っていることが分かった。これは絶対に阻止しなくちゃならない」
「ていうか、ナジアスの娘を殺すってどういうこと?」
「多分、優のことだ」
――僕の教え子。明王児 優だ
――自慢するなよ、ベラドンナから来た留学生なんだろ
――なんだ、知ってるんじゃないか
「優、よほど魔女から嫌われてるのね……」
「逆に魔女から好かれてる奴もここにいるぜ」
と、空が親指で朱雀を差す。
「あんな年魔(としま)、死んでもごめんだね。……気色悪い」
――綺麗な光だったな。昔が懐かしく思えたよ……
――綺麗、といえば、マリーも日に日に美しく、
だがそこで紫苑の声は途絶え、播磨先生の瞳の中には再び、虚しく終わりのない闇が広がった。
――今でもお前を信じて待っているんだよ
と、届くことのない虚空の闇に、播磨先生は優しく語りかけた。
「ところで皆さん、もう手を放してもいいのですよ」
未だに全員が手を繋いだままで、それでいて一生懸命話している様子を見かねて桜坂教頭が指摘した。
あっ、と、互いに少し照れたようにはにかみながら皆が繋いでいた手を放す中で、朱雀だけは優の手を放さなかった。
優が朱雀の方に顔を向けると、いきなり
「さっきの、なに」
という問いがとんできた。優は首をかしげる。
「なにって?」
「知らない男と見つめ合っていただろう」
「え!」
優にはまったく心当たりがない。そんな暇などなかったはずだ。ずっと円卓に座っていたのだから。今だってこうして朱雀と手を繋いだままだし。
一体いつのことを言っているんだろう? こうなると面倒なので、優も言い返してみることにした。
「魔女と浮気しようとしてる人に言われたくないよ」
と。
「はあ!?」
「だってそうでしょ、どこで知り合ったの? 会ったこともない人が『あの男が欲しい!』とか言う? どういう関係なのよ」
魔女の危機迫る口調を真似した優が、意外にもよく似ているので全然笑えない。
朱雀が真面目な顔になる。
「あれはシュコロボヴィッツの影を俺に投影してるだけだ」
「どうだかね」
「今は俺の話じゃなくてお前の話をしてるんだぞ。播磨の親友とかいう紫苑て男。闇の魔法使いなんだから、あんな風に無防備にジロジロ見るなよ」
「こら、先生を呼び捨てにするんじゃない」
と、少し離れた所から播磨先生が注意するが、朱雀も優もそっちのけだ。
「ああ、そのこと? どんな人なのかしっかり記憶にとどめておこうとしただけだよ。要救助者Bだもん」
「はっ! どうだかね」
と、今度は朱雀が優の口真似をして言った。
「お前たち、不謹慎だぞ」
吏紀が小声で釘をさすと、朱雀がフンと鼻をならした。
「知るかよそんなこと。俺はあの魔女を墓に送り返し、聖羅を取り戻す。たとえ聖羅が死んでいたとしても、あいつの体は絶対にダイナモンに連れ帰る」
そう言った朱雀の周囲でルビーの光がキラリと瞬いた。
「生贄としてさらわれた他校の生徒いもいる。囚われている者は解放しよう」
と、柄にもなく東條が言った。そんな東條の背後でダイヤモンドの強い光が煌めいた。
「ついでに、あの忌々しい玉座もぶっ飛ばそうぜ」
と空が言うと、今度はエメラルドの光が空の周りを舞い飛んだ。
「そして、紫苑さんも取り戻そう。もしも彼が光を望むなら、私たちが紫苑さんの道しるべになろう」
優の言葉に、ルビーの光が優の周りをくるくる回って弾けた。その命の輝きが、その場にいたみんなの目にはとても眩しく映った。
「誰も、死なせない」
と、不意に永久が付け足して、優の手を握った。もしかしたら、天文数理学での死の計算式のことで、優が死ぬかもしれないと気にしたのかもしれない。
「そうね、誰も死なせないわ。約束しましょう」
流和が優と永久の肩をそっと抱いた。
「約束だ」
と、空。
「約束しよう」
と、吏紀も頷く。
「全力を尽くす」
同じ天文数理学の授業を受けていた東條も深刻な顔で同意を示した。その横で、美空も頷いている。
一学年下の桜と三次は、このとき上級生たちが何のことを言っているのか分からなかったけれど、上級生たちの真剣な様子からして、これは何か深意があるなと察しながらも、言葉通りに「誰も犠牲を出さない方針でいくんだ」という解釈で受け止めた。
「誰も死なせないさ」
朱雀はあえて優を見ずに、まるで自分に強く言い聞かせるようにそう言った。
「うん、誰も死なせないよ。約束だね」
最後に優がケロっとして言った。
生きるために戦うんだ。死ぬかもしれないことを考えている暇はない。
大人たちが傍で見ていて、彼らの無謀ともとれる発言を咎めなかったのは、彼らのその言葉に強い魔法の意思が込められているのを感じ取ったからだった。
試しの門をくぐりぬけた10人の若い魔法戦士たちが口にした言葉には力がある。
9話END (第10話へ続く)