月夜にまたたく魔法の意思 第8話6
朝、優は三次の声で目を覚ました。
「優! 優! 起きて」
「ん……」
寝ぼけてかすむ視界の先で、三次が目を丸くして優のことを見下ろしている。
「もしかして、一晩中ここにいたの? ドラゴンと添い寝している人、僕生まれて初めて見たけど。大丈夫?」
優は両手を広げて大きく欠伸をした。グルエリオーサの傍はとても温かいが、それに加えてついさっきまで、とても心地のいい温もりが自分を包んでくれていたような気がして、優はドラゴン小屋を見回した。
「あれ、朱雀は?」
見ると、石窯の台座に座っていたはずの朱雀がすっかり居なくなっている。優が眠っているうちに、寮に戻ってしまったのだろうか。
「高円寺くん? 僕が来たときには君しかいなかったけど、彼もここに来てたのかい?」
ドラゴンたちの見回りをして、昨晩あげた餌を食べ残していないかをチェックするのが、食糧係の三次の日課だ。
「うん、昨日の夜、グルエリオーサの呪いを……って、グルエリオーサはもう産んだ!?」
優が慌てて背中のドラゴンを振り返ると、黒く光沢のある温かい皮膚が静かに上下していた。
どうやらまだ赤ちゃんは生まれていないようだ。グルエリオーサの容態は安定していて、今は静かに眠っている。
そのとき、ミルトスの扉が勢いよく開き、ムートンチョッキ姿の大柄な熊骸先生が入って来た。
「おお、おお、二人とも。もう来とったか!」
熊骸先生の声は、朝でもすごく大きい。
「おはようございます」
「異常はないか、三次」
「異常なしです。優がファイヤー・ストームを焚くようになって、ドラゴンたちの食欲は出過ぎ、って感じですけど」
「先生、グルエリオーサが昨日の夜から産気づいているんです! 今は静かに眠っているけど、朝方に一度苦しそうに力むような素振りを見せて、それが一時間くらい続いたんです」
優が起きあがって説明すると、熊骸先生は皮の手袋をはめて、ドラゴンの骨盤の辺りを注意深く触って調べ始めた。
「胎道が大分開いてるな、骨盤の形が変わっとる。この調子だとおそらく今日中には確実に生むだろう。もしかするとあと2、3時間かもしれんわ。明王児、生まれて来る子どもは寒さに弱いから、炎を絶やすなよ」
「わかりました!」
それから熊骸先生は給餌係の三次に向き、指示を出した。
「三次、分かってると思うが、今朝はいつもの餌に加えて、山羊の乳も忘れるな。搾りたての温かいやつが一番いい」
「はい、わかってます」
三次はいつもの荷車に麻袋や鉄鍋、それから新たにミルク缶を積み込むと、背中にも大きな革袋を背負った。
最近のドラゴンたちはいっぱい食べるので、三次の食糧調達量も以前より増えている。
「今日はグルエリオーサが無事に出産するまで、お前たちドラゴン飼育員は授業はなしだ。業校長の許可を得て、他の先生らにも事情は話してある。今日は忙しい日になるから、お前たちしっかり頼むぞ」
「わかりました」
「はい!」
熊骸先生の迅速な指示を受けて、三次はいつものように無駄のない動きで荷車を引いて出かけて行った。
優は銀のスコップとバケツを掴み、石窯から魔法の石炭を取り出す作業にかかった。普通の石炭は優の紅炎ですぐに燃え尽きてしまうから、グルエリオーサの周囲で燃やすには魔法の石炭が適しているということを、熊骸先生が最初に突き止めたのだ。
優が危なっかしくよろめきながら石炭を運んでいるうちに、熊骸先生は三輪車に山盛りに積んだ藁を小屋の中に運び入れて来た。
「わあ、すごい」
優が思わず声を上げたのは、その藁がキラキラと金色に光っていたからだ。
熊骸先生が作業を止めることなく優に教えてくれる。
「これは黄金の藁だ。魔法植物係がこの日のために太陽の光をいっぱい浴びさせて育てた、魔法の敷き藁だぞ。これならお前さんの炎にあてられてもしばらくは燃え尽きんだろう」
「ふわふわで綺麗」
グルエリオーサの周りにどんどん積み上げられていく敷き藁は、本当に黄金のようにキラキラ光っている。
待ち望まれて生まれ来る子に、優の胸はワクワクした。
生まれて来る子どもには、ちゃんとお母さんもいるのだ。朱雀が呪いを解いてくれたからだ。
それまでの2日間、優が泣き暮らしたのが嘘みたいに、朱雀はいとも手早く優を助けてくれた。
一体、朱雀にどんな感謝が返せるだろう。言葉や物では伝えきれないほどの感謝が、優の胸に溢れてくる。
グルエリオーサのゴツゴツした頭を優しく撫でてから、優は祈るように両手を組み合わせた。
そしてその手が開かれるのと同時に、紅色の炎がふわりと優の周りに噴き上がり、たちまちグルエリオーサを包みこんで円を描きながら天高くまで立ち上って行く。
すでにダイナモン魔法学校では、早朝のドラゴン小屋に立つ火の柱は恒例の日常となっていた。
今ではその炎を目覚まし代わりに朝を迎える者もいるほどだ。
その日の朝も、ダイナモンにいるすべての者が優の炎を感じとったが、いつもとは一味違うその炎に気づいたのは、ごくわずかの魔法使いだけだ。
―― 朱雀への深い感謝と喜び。
優の心そのものが、炎の熱となり、香りとなり、そして輝きとなる。
紅色の炎の中で優は思っていた。
もし、優に朱雀を助けられるときがくるなら、その時は恩返しがしたいと。朱雀が優を助けてくれたように、今度は優が朱雀の助けになるのだ。
これまで怠けてばかりいたから全然まともに魔法を使えない優だけれど、もしこんな優のことを朱雀が本当に必要としてくれるなら、どうしてその朱雀の期待を裏切ることができるだろうか。
だからこの日のことを絶対に忘れないようにしよう、朱雀が優の涙を払い、助けてくれたことを。優は自分の心の中で固く誓った。
――「絶対に、あなたを助けるよ」
試しの門で見た未来の朱雀が、闇に引き込まれて行く姿を思い出し、優は一人囁いた。
その頃、東の塔では猿飛業校長と桜坂教頭が窓から外を見つめていた。
「今朝はいつにも増して、見事な炎じゃ。あの子をドラゴン飼育員に任命したのは、やはり正しい判断じゃったのう、桜坂先生」
「なぜでしょう。私はあの子の炎を見ていると、なんだか、涙が出てきますわ。あんなに優しい炎が、この世にあるのですね」
「まさしく。あれは命の輝き、そのものじゃ」
南西の塔では、流和と永久が紅茶を入れながら優の炎を見つめている。
二人は毎朝この時間、紅茶を飲みながら優の火柱を眺めることを日課にしているのだった。
「優、何かいいことがあったのかしらね。炎がすごく、喜んでるみたいに見える」
「本当に綺麗。朱雀くんが言ってた通りね」
同じ頃、北東の塔では空と吏紀が少し早めの朝食に出かける途中で足を止め、テラスから西のドラゴン小屋を眺めていた。
「なあ吏紀、ナジアスの炎って、あんな感じだったのかな」
空が問う。
「そうかもな」
「伝説のシュコロボヴィッツが愛した炎、か……」
空は優の炎を遠くに見つめながら何やら物思いにふけり、そしてかすかに頬をゆるめた。きっと、親友のことを考えているのだろう、と吏紀は察する。
「というより、あんな炎を燃やせるナジアス自身をきっとシュコロボヴィッツは愛していたんだろうな」
と、空が結論した。
「その見解には俺も賛成だ。そして、朱雀もおそらく」
吏紀は最後まで言わずに言葉を切り、空を見やった。すると空も訳知り顔で頷いた。
「幸いなことだ」
「まさしく。幸いなこと」
ドラゴン小屋から一人で戻ってきた朱雀は今、誰もいない庭園で白い朝日に目を細めながら、紅く染まる西の方の空を見上げていた。自分がドラゴン小屋に行ったことを三次や熊骸先生には知られたくなかったので、朱雀は早めに姿を消すことにしたのだった。
炎を見上げた朱雀が、何とも言えぬ困った表情で、小さく笑った。優の気持ちは、ちゃんと朱雀に伝わっている。
悲しいときの炎も、嬉しいときの炎も、全部。けれどあまりに自分が優のことを感じすぎてしまうので、朱雀は少し戸惑っていた。今まで朱雀の心にこんなに奥深くまで入り込んできた人はいなかったように思う。炎の魔法使いとして日々戦いの孤独に直面してきた朱雀は、人と深く関わりすぎることがないように心に城壁を築いてきたのだ。それなのに、優はおそらく当の本人でさえ意図せずして簡単にその城壁を越えて入りこんできた。
「 『愛しい』 今の君の心を一言で表現するとすれば、それがふさわしいかな」
突然背後から声をかけられ、朱雀は思い切り眉をしかめて嫌な顔をした。
「気配を消して背後に立つの、やめてもらえませんか」
「それは失礼」
左目に眼帯をつけた播磨先生は、にこにこしながら朱雀に並び、上空の炎を見上げた。
「火の魔法使いは不思議だな。最も強く、最も弱い」
「その目、本当に心を覗くことができるんですか」
「驚くほどにね」
「だとしたら、封印しているのはどうしてですか」
「人の心には闇が満ちてる。この目は、僕を闇に誘い込むための罠なんだよ。人の心の醜さや闇を見せつけて、ほら、光なんてないだろうって、誘いかけるんだ」
「闇に堕ちるのが恐いですか」
「ああ。死ぬことより恐いな」
播磨先生の灰色の目が優しく、だがどこか意地悪に朱雀を見下ろした。
「だから、あの子みたいな魔法使いを見るとホッとさせられる。多分、君もそうだろう。でも、それだけじゃない。じゃなきゃ、呪いを一つ増やすほどのことまでしないはずだ」
「首をつっこまないでもらえますか。っていうか、アイツに余計なことを言ったら承知しない」
「おやおや、教師に向かってその口のきき方はないだろうに。まあ、いいだろう。僕は口出しはしないさ。けど、あの子には興味がある」
まるで朱雀を挑発するように耳もとで怪しく囁いて、播磨先生はその場から姿を消した。
朱雀の炎の熱気が、播磨先生の含み笑いの残響音に呼応して燃え上がった。
その日の昼過ぎ、ちょうどダイナモンの生徒たちが昼食を終えて午後の授業に向かおうとしているときに、ドラゴン飼育員たちが城に駆けこんできた。
皮のエプロンを身につけ、炭に汚れた優と三次の二人は、手に手に鉄鍋を抱え、それをいきなりひしゃくで叩きながら大声を出した。
「生まれたぞおオオオオオオ!!」
「グルエリオーサが無事に出産したわ! 男の子よ!」
エントランスから中央広間、それから食堂の入口までやって来て、二人は鍋を狂ったみたいに叩きまくった。
「フィアンマ・インテンサ・ドラゴンの赤ちゃんが、ついに生まれたぞおオオオ!! 幸福の印だ!」
希少種である炎のドラゴン、フィアンマ・インテンサ・ドラゴンの出産はとても珍しくて、魔法界で未だかつてその出産に立ち会った者はない。炎の魔法使いが数百年に一度生まれるか、生まれないかの希少種であるのと同じくらい、炎のドラゴンの誕生は魔法史に影響する大事件だった。だから、闇の魔法使いたちは炎のドラゴンを忌み嫌い、虐殺しようとしているのだ。
まさに暗闇の時代に炎のドラゴンの赤ちゃんが無事に生まれたことは、『幸福の印』だった。
「元気な男の子よ! まだこんなに小さいの! 卵で生まれるかと思ったら、生で生まれたのよ! もうビックリよ!」
優は鍋とひしゃくを持った両手を胸の前で広げて、およそ50センチくらいのドラゴンの大きさを、聞かれてもいないのにみんなに報告してまわった。
ダイナモンの生徒たちは飼育員があまりにハイテンションで騒々しいのと、彼らが煙突掃除人みたいに汚れているのを見て、やや遠巻きに見過ごしている。
けれど、珍しいドラゴンの出産に誰も興味がないわけはなく、皆口々に小さな歓声を上げたり、口笛を吹いたりしてお祝いしてくれた。
昼食を終えた流和と永久が、優に駆け寄ってきた。
「優、お疲れ様!」
「ドラゴンのために昼夜を問わず図書室にこもってただけあるわね。やる〜」
「うん! 最後は朱雀が助けてくれたんだけどね」
「え、朱雀が? 一体なんのこと」
「グルエリオーサにかけられていた、のろ……」
「無事に生まれて何よりだったな、ドラゴン飼育員」
「朱雀!」
優の話を途中で遮って、朱雀が近付いて来た。
いつもと変わらない、近寄りがたくて不機嫌な様子の朱雀に、優が思い出したように言う。
「そうだ朱雀、グルエリオーサが、子どもの名前を朱雀につけてもらいたい、って言ってたよ」
「はあ? 何で俺が。嫌だ」
「どうして?」
「簡単に言うけど、名前をつけるのは大変なことなんだぞ。名前をつけられた者の生涯を決める問題だ。それだけで呪いをかけることもできるほど、重要なことだ」
「呪いではなくて、祝福をあげてほしいの、あの子に。できるでしょう? 昔飼ってたドラゴンに名前をつけたって言ってたじゃん」
「朱雀が昔ドラゴンを飼ってた!? 嘘でしょう」
優の言葉を聞きつけた流和が、口元をすぼめ、怪しげに朱雀を見つめる。
「本当だよ、この人はドラゴンに詳しいの」
優がミルトス材のひしゃくで朱雀を差す。
「へ〜」
「ねえ、どんな名前がいいと思う?」
「お前が決めろよ」
「ダメだよ! グルエリオーサの希望なんだから。夜までに考えておいてよね」
珍しく優が上から目線で朱雀に命じている姿が、流和や永久にはなんだか微笑ましく見えた。
「優、午後からの授業は?」
「変身術で私たち、ウサギと猫になるのよ」
「俺は虎になる」
朱雀が意味深に永久と流和に目配せし、ニヤリとした。
それを見咎めて優が口を挟む。
「永久も流和も、食べられないように気をつけてね」
「優は何になりたい? なりたいって最初に頭に浮かんだものが、その人にピッタリの変身動物なんだって」
「そうなんだ。私はドラゴンとかユニコーンになりたいよ!」
優が即答する。
「それはまた、随分と難易度の高いものを言ったわね。変身術は大きな動物になるほど難しくて、ドラゴンやユニコーンみたいな魔法生物や幻獣になるのは、それよりもっと難しいのよ」
「だから初心者は小さい動物から練習するらしいの」
「へえ〜、そうなんだ。じゃあ、ハリネズミ!」
「ハリネズミ!? なんでまた」
「針があるからだよ!」
冗談で言っているのかと思いきや、優はなかなかに本気らしい。その口調に迷いはない。
「針があれば、小さくても身を守れるでしょ!」
そこへ優と同じ皮のエプロンをした三次が近寄って来た。
「優、僕たちそろそろ戻らないと」
「あ、うん、そうだね。ねえ三次は変身するとしたら何になりたい?」
優の突然の質問にも動じず、三次がすぐに答える。
「僕? 僕は亀になりたいな」
「亀!?」
「へえ、どうして?」
「甲羅があるからさ」
「ああ〜」
優は納得顔で頷いている。が、他の三人は納得のいかない顔で優と三次の二人を見つめている。変身術で変身するのに人気なのはうさぎや猫などの可愛い動物だ。上級者になればもっと強い肉食系動物になりたがるのが普通で、あとは、偵察用として鳥類がある。
優や三次のようにハリネズミや亀になりたいと考える生徒は極めて珍しかった。
「午後からは小屋の片づけをして、もう少しグルエリオーサの側に居ることになってるんだ。明日からは授業に復帰できるし、今夜の特訓にも間に合うから」
「わかった」
最後の部分を朱雀に向かって言って、優は三次と一緒に小走りにドラゴン小屋に戻って行った。
その姿を見送りながら、永久が残念そうに呟く。
「あの二人って、仲がいいのね。私たちのことなんて、忘れちゃったりして、優」
「きっと気が合うのよ。良さそうな子じゃないの。ドラゴンのことが落ちついたら、また三人でぱーっとやりましょうよ」
「ぱーっとやるって、何をだ」
「朱雀はダメよ。女子には女子だけの集まりがあるんだから」
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