月夜にまたたく魔法の意思 第8話14
朱雀とともに階下に降りた優は、そこがすっかりいつもと違う景色になっていることに驚いた。
いつも煌々と光の灯っている中央広間が、今夜は天井に夜空を映し出してしっとりと静けさを保ち、代わりに青銅の鷲時計の背後にある巨大な門から、眩いばかりの光がこぼれ出ていた。
そのあまりの眩しさと、楽しそうに奏でられている音楽に自然と胸が高鳴る。
目を細めながら門をくぐれば、そこは宮殿の巨大な舞踏会広間で、中央広間とは比べ物にならないほど広大だった。
深紅の絨毯が敷かれた長い階段が階下のダンスフロアまで続いている。
アーチ型の天井があまりに高く、空にまで届きそうなので、優は茫然と見上げた。恋人たちが手を取り合って上空を飛び回っている。
朱雀が優の手を引いてリードしてくれなかったら、階段から足を踏み外して転んでしまっていただろう。
天高くに舞い上がるシャンデリアの燭台に、無数の蝋燭の光。白亜のダンスフロアと壁は、黄金の柱が支えている。
「きゃっ……」
ダンスフロアに降り立った優の鼻先を、何か光るものが跳び抜けて行った。よく見ると、同じような光が音楽に合わせて会場中を飛び回っているではないか。
「ウシュックペーデ。光の妖精だ」
光の妖精たちがキラキラと光の粒を撒き散らしながら優と朱雀の周りに集まって来て、二人の周りをクルクルと回り始めた。
妖精たちが優の髪やドレスのスカートに触れたりキスをしたりして、楽しそうに羽を震わせている。
まるで遊ぼう、遊ぼうと誘っているみたい。
少しの間、そんな様子を笑って見ていた朱雀だが、やがて優の手を引いて奥の方へ踏み出した。その瞬間、優の足もとに浮力が生じ、身体がフワリと浮き上がる。
「行くぞ」
朱雀に手を引かれるまま、優は一気に宙に浮き上がった。
弦楽の奏でる音に合わせて、ダンスフロアにいた他のカップルたちも一斉に宙に浮き上がる。朱雀の左手が優の背中をささえ、互いの腰が触れる距離まで身体を引き寄せられる。朱雀の身体の右側と、優の身体の左側がピッタリとくっつく体勢となり、朱雀の息使いが分かるほど顔が接近したことに驚いて優は身を引こうとした。けれどすでに朱雀の左手が優の腰よりも少し高い位置に置かれて優の身体をしっかりと引き寄せているので、そうもいかず、優は上半身をちょっと反ったような姿勢になる。
顔が近い。
目のやり場に困ってしまうと、朱雀が「右手を俺の肩に」と言った。
優が言われた通りにすると同時に、朱雀がもう片方の手で優の左手を取って、たゆんだ弓のように腕を広げた。
これで、ワルツが始まる前のプロムナードポジションの完成だ。
3拍子のミュージックに合わせて、朱雀が左足を大きく優のいる側へ踏み出して来た。
「うわっ、この体勢で動くの?」
耐えきれなくなって優が頬を赤らめる。だが朱雀はそんな優にも動じず、さらにもう一歩、二歩と優の方に足を踏み出し、しかも二歩目で大きく踏み込んでさらなる上空に舞い上がった。むしろ朱雀は、優が照れているのを見て楽しんでいるようだ。
「ダンスは初めてなのか?」
「そ、そうだよ! 一人で踊るのだったら得意だけど、こんなのは初めて……」
そうして会話している間にも、優は空中に浮遊しながら朱雀の身体に押されたり、逆に朱雀の側に引き寄せられたりして目が回りそうだ。二人の身体が朱雀の足を軸にして回転したときには優のドレスのスカートがふわふわ揺れる。
まさか空中でダンスをすると知っていたなら、膝丈のワンピースなんて着て来なかったのに、と、優は内心で後悔する。
けれどもそんなことを思っている間も、優は空中で投げ出されたら恐いぞ、とか、朱雀の身体が常に自分の身体と接していることへの緊張でドギマギしてばかり。
朱雀は「ふーん」と優の言葉に合槌を打つと、
「じゃあ俺のために後でゴリック踊れよ」
とか言っている。
「ゴリック? って、なんだっけ」
「シングルダンスだ。俺はロイティア、お前はゴリック」
「ああ。シングルダンスね、ちょ、ちょーっと、そんなに回らないで……」
突如、朱雀が何度もターンを繰り返したので、優は遊園地のコーヒーカップに乗っている気分になった。
踊っているのは何のことのないワルツなのだったが、ダンス初経験の優にはスピード感がありすぎるように感じてしまう。動くたびに朱雀の足と優の足が絡んで転んでしまいそうで、しかも二人がいるのは空中だというのもあり、優は咄嗟に朱雀にしがみついた。
ダンスを途中で中断してしまって悪かった、と思ったときには二人の動きは止まってしまい、周りで踊るカップルたちの流れから取り残されてしまった。
すぐに謝ろうとしたのだが、そのとき朱雀が不意にギュッと優のことを抱きしめてきたので、優は呼吸が止まる思いだった。
まさかこのまま、プロレスの首絞め業のように絞め殺されるのか……!? 優の細い身体は、朱雀の腕の中にすっぽりおさまってしまう。
男性らしく幅のある肩と、細身なようで意外にたくましい腕。胸はドキドキが伝わってしまうんじゃないかと思うくらいにピッタリ触れあって……。
それから朱雀は優の髪の中に何でもないことのようにキスを落とした。
「す、朱雀……?」
周囲ではまだカップルたちがワルツの続きを踊っているのに、空中で抱き合って止まっているのは優と朱雀だけだ。
いつもとなんだか様子の違う朱雀に、優はどう対応していいかわからなくなってしまう。男性にこんなふうに扱われるのは初めてなのだ。……どうしよう。
だが、次の瞬間朱雀が言ったのは、
「腹が減っただろ。何か食べよう」
だった。
そうして二人は曲の途中でフロアに降り立ち、朱雀の腕から解放された優は内心ホッとした気持ちで、朱雀に手を引かれて食事用テーブルの並ぶスペースに移動した。気がついてみるとお腹はペコペコだ。そのせいか、地面に降り立つと足がフラフラした。
峰子夫人が腕によりをかけてこしらえたパーティー用ビュッフェは、優がダイナモンにやってきてから例をみないほど豪勢なしあがりで、どの食事もキラキラと輝いている。
その中から互いに好きなものをたっぷり自分の皿にとって、優と朱雀は空いている二人掛けテーブルに席をとった。優を先に席に座らせてから、朱雀が二人分の飲み物を取りに行ってくれると言った。
「ありがとう。優しいね」
「俺がいない間、他の奴にダンスに誘われても断われよ」
言われなくても、ダンスはもう勘弁だった。
「心配ご無用」
だいいち、優をダンスに誘おうと思う男子なんて、ダイナモンには一人もいないだろう。
朱雀が戻って来るまで食事には手をつけないで待っていることにして、優は舞踏会会場を見渡した。
中央に広がるダンスフロアの周囲に食事用のテーブルが並べられてあり、ビュッフェの料理やデザート、飲み物などは壁際に取りそろえられている。北側の壁は一面ガラス張りで、どの窓からもテラスに出られるようになっている。時折温かな気持ちのいい風がそこから吹きこんできた。
優と朱雀が最初に踊ったワルツが終わり、今はすでに別の曲に合わせて、カップルたちが空中遊戯を楽しんでいる。
そんな彼らのために先ほどから音楽を奏でているのは、ダンスフロアの横で、二つの柱の間に並べられた楽器たちだ。その時、優は楽器を演奏しているものたちを見て我が目を疑う。
というのも、演奏者は人でも魔法使いでもなく、いや、この場合はもとは人か魔法使いであったと言うべきだろうか、彼らの顔形は確かに人がたなのだが、その体がもれなく透き通っているのは、一体なぜ、これはなんとも由々しき事態ではなかろうか。
優はゾワリと鳥肌がたった。
本物の幽霊を見るのは初めてだ。
っていうか、なんで幽霊が舞踏会のダンスミュージックを演奏しているわけ!? と、激しい疑問が浮かぶ。
気持ちを紛らわすために、優は知った顔を探して辺りを見回した。
流和や永久はどの辺りにいるだろうか、と、しばらく探してみても、魔法使いや妖精たちが多すぎて全然見つけられる気がしない。
かえって、まったく知らない人たちとよく目が合うことに優はそのとき気づく。それまで舞踏会の熱に浮かされて鈍感になっていただけだろうか、こんなにも自分がジロジロ見られていることに気づかなかったなんて。
果たして、炎の魔法使いである優を珍しがってのことか。
あるいは、優が悪妙名高い朱雀のパートナーだからなのだろうか。
優はたちまち、その場に居づらい気持ちになる。
少し離れたテーブルからずっと優のことを見ていた男の子が、立ちあがって優のところまでやって来た。
――アレキサンドライト
優はすぐにその男の子の石を見抜いた。こればかりは意識しなくてもすぐにわかってしまう。属性魔法を見抜くのは、優の十八番だ。
アレキサンドライトは二つの輝きを持つ光属性の石だ。もともとアレキサンドライトという宝石は、蝋燭の光のもとでは赤く、太陽の光のもとでは青く光る。
まさかこんなときに、デュエルを申し込まれるのか……? と、優は警戒して身を固くした。
「僕と踊ってくれませんか?」
見知らぬ男の子のいきなりの言葉に、優が心底拍子抜けの顔になる。
「悪いな、こいつは俺以外の相手と踊らないことになってるから」
直後、聞き慣れた声がして、飲み物を手にした朱雀の姿が優の視界を覆う。
「なるほど、君が相手じゃ勝ち目はないな。シュコロボヴィッツの高円寺くん」
男の子は残念そうに肩をすくめて、すぐに自分のいたテーブルに引き返して行った。けれども去り際、とても甘い笑顔を優に向け、ウィンクすることを忘れなかった。
きっとダイナモンには、こういうタイプの男性が多いのだろう。良く言えば王子様風、悪く言えばキザなプレイボーイ。
いつもなら誰かが優を誘うなんて考えられないことだったが、舞踏会の夜にはこんなこともあるのだろう、と、優は軽い気持ちで受け流した。
「まったく、俺が戻らなかったらどうなっていたことか」
朱雀は優のむかいの席に座ると、テーブルに二つのグラスを置いて、ジッと優のことを睨みつけた。
シャンパンだろうか。どちらのグラスにも細かな泡がたった金色の液体と、そして液体の中にはストロベリートマトが沈められている。先ほどのダンスで緊張したせいか、優の喉はカラカラに乾いていた。
もう一度礼を述べてから片方のグラスを引き寄せようとした優の手を、朱雀が掴んだ。
「断れって言っただろう」
「私が断る前に朱雀が割りこんできたんでしょう」
「俺が戻らなかったら、ダンスの誘いを受けるつもりだったのか?」
そんなことあるものか、と、優は心の中で呟く。そしていつも意地悪なことを言われる腹いせに、ここぞとばかりやり返したくなってしまう。
「もしかして、焼き餅やいている?」
チェスで言うところのチェックを宣告された朱雀が、明らかにムッとした。
「まったく! こんなにイイ男がすぐ目の前にいるのに、お前は本当に浮気な奴だ。先が思いやられるよ」
だが優は相手にしない。
「お腹がすいたよ。早く食べよう」
「なんだ、まだ食ってなかったのか。先に食べてればよかっのに」
朱雀がちょっと驚いた顔をして、やっと優の手を放した。
「いつも食堂でしてる食事とは違うんだから、一緒に『いただきます』をしようと思ったんだよ。普通は待ってるよ」
「……、それが、普通なのか」
「うん。いただきます」
「……、いただきます」
優はナプキンを膝の上に広げると、食堂ではいつも食欲のままにかぶりつくのに今日だけは、ドレスを汚さないように上品に食事を口に運び始めた。
二人きりで食事をするのは初めてだが、会話がなくてギコチナイ間ができるということはなかった。
「ねえ私、上手く踊れていた?」
「いいや。油の切れた操り人形のように硬くて、リードしにくかった。こんなの初めてだ」
「恐かったんだよ。空中で転びそうでさ。それ何食べてるの?」
朱雀がフォークで口に運んでいるものに、優が興味を示す。
「キャビアとポテトのニョッキ」
「キャビアってどこが美味しいのか分からないよ。味がしないでしょう。私はウニのほうがずっと好き」
「これは食感を楽しむものだろう。ウニの生臭さはマジで無理。悪いこと言わないから、ダンスのときはもっと力を抜けよ。俺のことを信じてないから恐いなんて思うんだぞ」
「信じてるけど恐いもん」
「信じてるなら俺に任せて、よけいな心配をするな」
朱雀の話をちゃんと聞いているのかいないのか、優は牡蠣貝のバター湯でをこぼさないように口に入れるのに夢中だ。
そうして上手く口に含むことができると、満足そうに頬をほころばせて酔いしれたような顔をする。
そんなに旨いものなら俺も一つ、と、朱雀が優の皿から手づかみで牡蠣貝をとって、優が止める間もないほどスムーズに自分の口に入れてしまった。
「もう! 行儀が悪いね」
「うん、旨い」
ねめつける優を笑いながら、朱雀がシャンパングラスを掲げた。乾杯をしようという合図だろう。
優も、先ほど朱雀が持ってきてくれたグラスを掲げる。
「油の切れた人形に」
「牡蠣泥棒に」
掲げたグラスごしに互いに嫌味を言い合うのも忘れない。
口にふくんだ飲み物は、ジンジャエールの味によく似ていたが、炭酸のシュワシュワする感じはそれよりずっとマイルドで、さらにストロベリートマトの風味が混ざっていた。一口飲んだだけでその飲み物が気に入ってしまった優は、一気にグラスの半分を飲み干したほどだ。
「これ初めて飲むけど、美味しいね。何が入ってるの」
優の問いかけに、皿の上のリブをつつきながら、朱雀が無表情に答える。
「睡眠薬と、惚れ薬と、男がたまらなく欲しくなる薬だ」
「……。」
それまで食事を楽しんでいた優の手が止まり、目の前で何食わぬ顔でフォークを弄んでいる朱雀一点に注がれる。
「嘘でしょう?」
「嘘に決まってるだろう」
「冗談でも言っていいこととダメなことがあるでしょう」
「そうやってすぐ怒る」
自分のことは棚に上げて、今度は朱雀が優のことをなじる。
「でも気をつけろよ。たまに本当に、そういうことをする奴がいるからな」
「それって朱雀のことなんじゃないの」
「失礼なこと言うな。俺にはそんなの必要ない」
「ふうーん、そうなんだ」
「利口でない女ほど、誰から差し出されたグラスにも口をつける。そういう意味では、俺はお前の身を案じる」
「どうして?」
「食いしん坊だからな、優は」
そう言うと朱雀はフンと小さく鼻で笑って、テーブル越しに優のことを見つめてきた。
片肘をついて、手の甲の上に顎を乗せ、ちょっと姿勢を崩して足を組んでいる朱雀は、荘厳な舞踏会という雰囲気の中でもとてもリラックスしているようだ。燕尾服姿でそんなだらしない格好をして……とたしなめたくなるが、そんな朱雀の姿がやけにカッコよく決まっていて、優でさえ見とれてしまう。
優はグラスの液体を飲みほして、フォークで底にあるストロベリートマトを口に運んだ。
千年桜の下で初めて食べたストロベリートマトを、優が大好きだと言ったのを、朱雀は覚えていてくれたのだろうか。
チラリと朱雀に目を向けると、真っすぐに見つめ返してくる瞳はまだそこにあり、優の膨らんだ頬を見て笑っている。
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