月夜にまたたく魔法の意思 第8話13




 翌朝、優がドラゴン小屋でファイヤー・ストームを焚き終えて食堂に出て来た時、朝食の席に朱雀はやって来なかった。
 1階の大広間のさらに奥の広間が解放され、午前中は小間内夫妻を中心として夜の舞踏会の準備で賑わっていた。

 流和と永久は昼のうちにアトスの泉まで降りて行き、全身をぴっかぴかにしてパーティーに備えるらしかった。
 優も一応、自室のお風呂につかったものの、昨日の夜に美空に言われたことが引っかかっていて、ダラダラしてばかり。

――最高に俺好みに着飾ること。
 風呂から上がって寝室の化粧台の鏡の前に立った優は、激しく溜め息をついた。
 優はパーティーに行くべきかどうかを迷っていた。

 隣の部屋では浴場から戻ってきた流和と永久が、ああでもないこうでもないと楽しそうに言葉を交わしながら、着々とおめかしを決め込んでいるようだ。
 タオル姿でいつまでもグズグズしていた優だが、夕方になって長い影が部屋にさしこむようになると、やっと重い腰を上げた。
 そして、美空によるとどうやら朱雀好みではないらしい薄桃色のワンピースを頭からかぶる。チューリップの花びらを何枚も重ねたような、ふわふわしたドレスだ。胸のところはキュっと締まっているが、そこから下のスカート部分はふっくらと膨らんでいて、歩くたびに妖精が笑っているみたいに揺れる。肩だしのドレスだが、その日はとても蒸し暑かったのでショールは必要ないだろう。
 頭にはティアラを模したピンク色のリボンを巻いた。リボンにはキラキラ光るガーネットの小石が散りばめられている。
 そのリボンの下から、優の豊かな巻き毛が今日も炎のように、艶やかに腰元まで垂れている。
 ティアラと揃いのピンクのサンダルは、リボンを足首に巻きつけるタイプのものだ。

 優がこれらの準備を終える頃には、すっかり日が暮れて、外が暗くなっていた。
「優、準備できた? そろそろ下に降りて行く時間よ」

 先に準備を終えていた流和と永久が、優の部屋に入って来て、そして感嘆の声を上げる。
「わーお! 見違えたわ、優!」
「本当、そのピンクのドレス、とっても似合ってるね。本物の妖精さんみたい!」

 そう言う流和は、タイトな真っ黒のドレスを上品に、だが絶妙に妖艶に着こなしていて、髪をアップにまとめている。
 身につけている宝石はサファイヤのイヤリングだけだが、かえって余計なものがないので流和の美しさが際立っていた。
 一方の永久は、ベージュ色のマーメイドドレスをゆったりと身にまとっている。決して派手ではないが、高価な布地は永久の身体の柔らかなラインを美しく浮き上がらせていて、まるでギリシャの神殿のお姫様みたいだ。長い髪をゆったりと後ろに編みこんで、髪全体に草花を模した小さな飾りを絡めているのがいかにもそれらしい。

「二人とも、すっごくキレイ!」
「今夜は特別な夜だからね。さあ、思いっきり楽しみましょう!」
「階段の下で待ってるって、吏紀くんたちが言ってたわ。急がなくちゃ」
「そうね」
「あ、私あと少しかかるから、先に行っててよ。すぐに追いかける」
「朱雀を待たせると怒るわよ、優」
「急いだ方がいいよ、優」
「うん、すぐに行くよ」

 流和と永久を送り出し、優は部屋に鍵をかけて、たったさっき苦労して履いたばかりのサンダルを脱ぎ始めた。
――やっぱり、行くのはやめにしよう。

 舞踏会にはすごく行きたいけれど、優は朱雀の全部を好きなわけじゃないから、もしも今夜朱雀と一緒に舞踏会に行けば、美空の気持ちを踏みにじってしまうことになる。


 優が自室にこもる決心をしたなどとは思いもしない流和と永久が降りて行くと、すでに南西の塔の階下には、自分のパートナーを待つダイナモンの男子生徒がひしめいていた。
 男子はみんな、この場所でパートナーを迎えて舞踏会会場に入ることになっているのだ。

 流和を見つけるなり、グレーのタキシードを身にまとった空が、いきなり流和を抱きしめて頬にキスをした。
「世界で一番綺麗だ」
 と囁いて。

 吏紀はそれよりも断然控えめに永久に手を差し出し、永久がそれに応じて手を出すと、その手をとってそっとキスを落とした。
 そして柄にもなく照れ笑いを零す吏紀に、永久もこらえきれずにクスっと笑ってしまう。
 吏紀は濃紺の燕尾服の上に、深い紫色のローブを肩からかけていた。それは、賢者ゲイルが纏っていたのと同じ色だ。
「偉大な魔法使いさんに見えるわ」
「まだ偉大ではないけど、いつかそうなりたいと思うよ。いつか、大切な人のために。……君は、素敵なレディーに見える」
「私もそうなりたい。いつか、大切な人のためにもっと」

 仲睦まじいこと限りない。
「優は?」
 階段に優の姿が見えないので、朱雀が聞いた。

「すぐに来ると言ってたわ。優ったらすごく可愛いのよ! きっと驚くと思う」
「じゃあ朱雀、俺たちは先に行ってるから、後で落ち合おう」
 そう言い残して、先についたカップルたちは大広間の方へ消えて行く。

 思えば、朱雀は優を待ってばかりいるような気がする。優を待つのもすでに慣れたものだったが、今晩はなんだか胸がドキドキした。
 それからどれくらい待ち続けただろうか。階段の下で待っているのが朱雀一人になっても、優はまだ降りて来なかった。
 広間からはすでに、ダンスの音楽が鳴り響いているというのに。

 でも今夜は、何があっても紳士的に振る舞おうと決めていた。
 1曲目が終わって、2曲目が終わり、そこで、朱雀は自分が決して気の長いタイプではないことを思い知る。
 どうして優しくしようと思うのに、できないのだろう。怒りたくないのに、優は決まって朱雀を絶対に怒らせる。

 そして朱雀は静かに、南西の女子寮に続く階段を上り始めた。
 朱雀はそんな自分を、すごく惨めだと思う。



 自室にこもることに決めた優は、ドレスのままベッドに横になり、早いところ眠ってしまおうと意識を集中していた。けれど、どんなに集中しても睡魔はやってこないし、階下からクラシックなダンスミュージックが聞こえて来るしで、ただただ、溜め息混じりにボーっと天井を見上げるばかり。
――カタカタカタ、カタ

 突然、ベッドの下で何か物音がしたような気がして、優は跳び起きた。
 身を乗り出すと、先ほど脱ぎ捨てたサンダルが何かに引っ張られてベッドの下に入って行くのが見えた。
「はっ……、まさか、鼠?」
――カタカタ!
 優は床に跳び下りて、屈みこんでベッドの下を覗いた。
――シィイイイイイイイ!!!
「きゃああああ!!!」

 驚いて後ろに飛びのいたのは、そこに見たこともない生き物がいたからだ。例えるなら、白雪姫の童話に出て来るようなずんぐりした小人。ただし身体はそれよりずっと小さくて、身長は優のひざ丈にも及ばない。おまけに二頭身で足は短く、顔は真っ黒。髪はクリクリのパーマ。
 ベッドの下で、小人の目は青く光っていた。

 どこから迷い込んだか知らないが、その小人は優のピンク色のサンダルを、まるで今しがた仕留めた獲物のように大切に胸に抱えている。その視線の動きからして、どうやら小人はまだ床の上に転がったままになっているもう片方のサンダルも狙っているようだ。
「ダメよこれは!」
 優が寸でのところで小人よりも先にサンダルを掴むことができた。
 だが小人は優が掴んだサンダルをも強奪しようと、リボンの端を掴んだ。
「ちょっと、ダメだって! きゃあああああ!!」
 身体はティーポットなみに小さいくせに、小人の力は異常なくらい強かった。優はサンダルごと引っ張られてベッドの下に引きずりこまれる。

「一体、何をやってるんだ」
 突如聞こえてきた朱雀の声に、優はまたビックリして飛び上がった。
「なんで朱雀がここにいるのよ! どうやって入って来たの!? 鍵をかけておいたのに」
「女子寮の鍵なら、どの部屋でも開けられるさ。一時期、通いつめてたことがあるからな」
 そう言いつつ、ベッドの下に上半身をうずめた体勢でめくれ上がったドレスの下からのぞく優の白い腿を、朱雀は怪訝な目で見下ろすのだった。
「あられもない姿で、はしたないぞ」
「ベッドの下に顔の黒い小人がいるのよ! 私のサンダルを奪おうとしてる!」
 反対側のベッドの脇から、朱雀が覗きこむ。
「庭妖精だな。なんでこんな所に居るんだ」
「庭妖精!? サンダルを取り返すの手伝って! すごい力なの」
「そいつは紐靴に目がないんだ。一度掴んだら放さない。始末するしかない」
「え! 始末って、殺すってこと!? ダメだよ!」
「なら何か甘い物をやるといい。砂糖に目がないから、代わりに差し出せばきっと放すさ」
「そうなの? 談話室のテーブルの上に角砂糖の入ったボウルがあるから取って来て」
 優に言われた通り、朱雀はすぐにボウルを取って来て、優に手渡してくれた。

「ほーらほら、角砂糖よ、好きでしょう? 角砂糖をあげるから、サンダルを返してよね。もし返してくれたら後でクッキーやキャンディーもあげるよ、ほーらほらほら」

 疑いの目を向けて来る黒顔の小人と粘ること数分後、優はついにサンダルを取り返した。
 歩伏後進をしてモゾモゾとベッドの下から這い出て来た優を、優雅にベッドに腰かけていた朱雀が見下ろした。
 何も言わずに朱雀が優の手をとって、ベッドに座らせてくれる。そして自分は跪き、サンダルを優の足にはかせてリボンを結んでくれた。

「私、舞踏会には行かない」
 と、優が言った。
 優の足のリボンを結び終えた朱雀が、静かに息を吐く。
「不幸な家庭環境。ルックスも頭脳も完璧だが、親の支援がないから貧しい。それに、魔法界からはいつも冷たい視線を向けられ、闇に堕ちるかもしれないという悲惨な境遇だ。極め付けにはいつまでも俺一人だけ階段の下でお前を待ち続けて、すごい惨めな気分だったぞ。命がけでお前の作ったスコーンを食ってまでパートナーになったのに、俺を裏切るつもりか」
「私ね、朱雀のこと好きじゃないの」
「……この前は嫌いじゃないと言っただろう。好きだ、って」
「好きだけどね。全部は好きじゃないってこと。想像してみて欲しいんだけど、朱雀のことをすごく大好きな人がいてね、その人は朱雀の全部をまるごと愛せるんだよ。でも私は朱雀のことが好きだけど、全部は好きじゃなくて、嫌いなところもあるの、だから」
「嫌いなところって、たとえば?」
「イジワルなところ」
「イジワルしたくもなるさ、怒らせると少しだけ可愛いからな」
「すぐ怒るところも」
「お前が俺を怒らせてるんだろ。待ってたのに、何も言わずに来ないつもりだったのか」
「うん、悩んだんだけど、そのほうがいいかなって思って」
 朱雀はまた、大きく息を吐いた。

「別に全部を好きになってくれなくてもいい。俺だってまだ、お前のこと全部知らないし」
「私知らなかったよ、朱雀、ピンク好きじゃないんでしょう?」
「だから? お前は好きなんだろ、ピンク。似合ってるよ。それとも、嫌いだって言えば、今ここで脱ぐのか?」
「……馬鹿なこと言わないで」
「嫌いだと言えば、舞踏会だって嫌いだぜ。面倒くさいし、退屈だし」
「じゃあ、朱雀は本当は行きたくなかったんだね。なのにどうして私と行こうとしてくれたの?」
「お前が行きたがってたから。一緒だったら、楽しめるかなと思って」

 朱雀は優の隣に座り直すと、真っ黒の燕尾服のポケットから小さな花束を二つ取りだした。
 白に薄いピンクの混じるアンジェリケのチューリップを、黄色いオンシジュームが包むように纏められている、手作りのコサージュだ。
 チューリップは恋人たちが愛の告白をするときによく贈られる花なので、優は少しドキリとした。果たして朱雀がその花ことばを知ってコサージュを作ってくれたかどうかは不明だけれど……。
「オンシジュームの花ことばって……」
 と優が聞くと、
「一緒に踊って」
 という即答が返ってきた。
 そうなのだ。魔法使いは物にこめられている意味を重んじる。だから花を贈る時にも、ちゃんと意味を込めているはずなのだ。
 朱雀はきっと、チューリップの花ことばも知っているに違いない……。

 だから、優の左手首に朱雀がコサージュをつけてくれている間、優の頬が少しだけ赤らんだ。
 それから朱雀はもう一つのコサージュを優に手渡すと、姿勢を正して自分の胸元を指差した。
 そこにつけろ、ということらしい。
 優が朱雀の胸のポケットにつける。お揃いの、チューリップとオンシジュームの手作りコサージュだ。

「どうする? かなり遅れたけど、今からでも下に降りて行くか。それともここで、互いを知り合おうか」
 互いを知り合うというフレーズを、朱雀がやけに意味深に囁いて優の顔をイタズラに覗きこんできたので、優はすごくギョッとした。
 誰もいない部屋で、ベッドの上で二人きりで座っているというのもマズイ。

「やっぱり舞踏会に行ってみたい!」
 必要以上に大きな声が、裏返りそうだった。

「じゃ、早く行こうぜ。俺のロイティアを見逃したら、お前きっと後悔するぜ」

 やけに自信満々の朱雀が優の手をとった。
 温かくてガッシリした手が優の手を強く握るが、不思議と嫌な感じはしなかった。そうして二人は手をつないで階下に降りて行った。
「朱雀」
「なんだ」
「ありがとう。すごく素敵なコサージュだね」
「……。礼の返し方は、後で教えてやるよ」



 
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