月夜にまたたく魔法の意思 第7話4




 数週間後にひかえた魔法舞踏会に向けてダイナモンの生徒たちが色めき立っている頃、朱雀と優は早朝の空を滑空していた。
 眼下に広がる青い海と、透き通る空に響き渡る優の雄たけび。
「ふぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
「……お前それ、いい加減にやめろ」
 直立不動の朱雀は、腕組しながら後ろの優を振りかえった。
 朱雀の杖の後ろに座らせてもらっている優は、先ほどから両手を広げてシャウトしているのだ。

「だって気持ちいいんだもん」
 優は悪びれることなく、また大きく息を吸い込む。
 明るい日差しの中をこんなに気持ち良く飛ぶのは、もう3年ぶりだ。両親が死んでからというもの、優は一度も自分の力で空を飛んでいなかったのだ。
 優は昼間に空を飛ぶ方が圧倒的に好きだった。光の中を飛ぶのは、夜の空を飛ぶのとは全然違う。例えて言うなら、昼間が翼を広げて軽々と羽ばたく感じで、夜はシルクのように滑らかに泳ぐ感じだ。
「フォーう!! オウオウオウオウオウオウオウ!ッ!!」
 叫び声にもおのずとバリエーションが増し加わってくる。
 風が体を通り抜けて行くような感覚に、優は気持ちよさそうに目を閉じる。
 そんな風にしている優があまりに楽しそうなので、さすがの朱雀も強く黙らせることができないでいるのだが、それでも煩い。

「闇の魔法使いがどこに潜んでいるか分からない。業校長に戦闘は禁止されているから、敵に見つかれば俺たちは逃げることしかできないんだ。だから隠密行動が大原則だって、何度も説明しただろうが」
「大丈夫だよ、敵は近くにいない」
 しらっと言う優に、朱雀は何も言い返せなかった。
 なぜなら、本当にその通りだからだ。魔力探知能力がある朱雀にはそれがよく分かっていた。朱雀は声にならない溜め息を吐いた。
 そうこうするうちに、「ねえ、アップダウンやって」、と優がせがんできた。
「なんだよそれ。抽象的すぎて分からない、まあ、なんとなく想像はつくけど」
「アップダウンも知らないの? 私の父さんはよくやってくれたよ」
「俺はやってもらってない」
「グーンて上に上がって、これ以上上に行けないってところまで行ったら、上空で浮力を断ち切るの。そのまま重力にまかせて落下していって、ぎりぎりのところでまた飛び出すの!」
「遊んでいる暇はない」
「なによケチ。時間貧乏」
「うるさい。浪費の激しい女は嫌われるぞ。時も金も節約しろ」
「む……」

 朱雀に相手にされないので、優は気を取り直して、気持ちのいい風を再び感じはじめた。
――黙っていたら、涙が出そうだった。
 こんなに飛ぶことが好きだった。飛ぶことが大好きだったから、魔法を封印しようとしていた自分を思うと、どうにも言いようのない涙が溢れて来るのだった。優の心の奥底の、もっとも純粋な部分が、飛ぶことが大好き! 魔法が大好き! 私は魔法使いよ! と叫んでいたのに、うわべの優はそれをずっと無視してきた。今まで、ありのままの自分を捨てるという選択しかできなかったことが、今はとても悲しく思われるのだが、同時に再び大空を羽ばたくことができた優は喜びでいっぱいなのだ。悲しみと喜びがぶつかりあって、涙が溢れて来る。
 本当は飛びたかったんだいつも。ずっと飛びたかったんだ。声を張り上げて叫んでいるのは、溢れて来る涙をごまかすためだった。
 生まれながらにして優はやっぱり、魔法使いなのだな、と思うのだった。

 空を飛んだことがない人に、飛ぶ感じがどんなものかを説明するのはきっと難しい。時速にするとどれくらいだろうか、多分、100キロは軽く超えているだろう。それでも魔法使いは空を飛ぶ時、向かい風の抵抗を感じないのだ。すごくスピードの出る自転車に乗って、急な下り坂を全速力で滑り降りて行きながら、さらに強い追い風を受けている感じだ。人間的な表現で空を飛ぶことを例えるとすれば多分こんな感じだろう。風の抵抗を感じるというよりも、風と一緒に走っている感じがする。風になるとはまさに、このことだ。

 前方で鷲が円を描いて飛んでいるのが見えて、優が指をさした。
「ねえ、あそこに上昇気流がある。もっと上に上がろう」
「へえ、少しは風が読めるんだな」
 ダイナモンから出発して三時間くらいが経とうとしていた。もう少しで山形県の海辺に到達するというところで、海上には船がちらほらと姿を見せていたので、人目を避けるために、もっと上空まで上がった方が良さそうだった。
「しっかり、つかまってろ」
 朱雀がスケボーを駆るように杖を操り上体を傾けると、杖は向きを変え、鷲たちが優雅に翼を広げて円を描いて飛んでいる、その領域に真っすぐに入って行った。

 気流というのは想像以上に強い力を持っているものだ。よく、飛行機がいきなり揺れたりするのは、気圧に伴う強い気流に煽られるからだ。当然、空を飛ぶ魔法使いも、飛行機と同じように気流に煽られて危ない目に合うことがあるから、もちろん油断はできなかった。優は言われた通り、朱雀の杖にしっかりつかまった。
――ゴウオオオ
 大気が唸り、瞬間、朱雀の杖がガクっと揺れた。上昇気流に入ったのだ。
 朱雀の浮力が、大気の流れに抵抗して増強した、と思うと、一瞬で世界は一変した。風にもみくちゃにされて吹き飛ばされないように、朱雀の浮力が瞬時に気流を掴む。
 直後、下から突き上げる圧倒的な大気の流れに、杖から引きはがされそうなほど優の身体が浮かび上がった。
 吸い込まれるように辺りが真っ白になり、そのまま朱雀と優は一気に雲の上まで舞い上がった。すぐ下に雲の海がもわもわと広がっている。太陽の光がまぶしい。
 揺れがおさまり、飛行が安定したので優は杖から手を放した。
 朱雀の浮力が優のことをよく守ってくれていたので、大気が薄くなっても息苦しさや寒さは感じなかった。
 それから朱雀は大きな雲を避けて滑らかに雲の上を進んで行った。
 風を読み、気流を掴み、臨機応変に浮力を操る。これが、本当の魔法飛行術だ。ベラドンナではここまでの飛行術を学ぶことはできない。
「空を飛ぶことを、どこで習ったの?」
「初めは親父に。ダイナモンでも少しやったけど、嵐の中や雷の中、夜空や灼熱の空ををみんな自分で飛んで、感をつかんでいくものさ」
「ふーん」

 朱雀と一緒に空を飛びながら、ああ、朱雀も空を飛ぶのが好きなんだな、と優は思った。
 お荷物の優を後ろに乗せていてさえ、朱雀は空を飛ぶのがこんなに上手い。

 やがて空気が変わり、潮の匂いに慣れていた鼻に大地の甘い香りが感じられるようになって、朱雀は徐々に高度を下げていった。
 雲を抜けると、眼下に水田や、すいか畑や、牧草地が広がっている。

「お前の家は、どのへんだ」
「もう少し山の方。川沿いにのぼって行ったほうが、人の目に触れにくいと思う」
 朱雀は低空飛行に切り替え、うっそうと茂る木々の間を優の言った通り川沿いに、山の方へ進んで行った。
 東京とは大違いで、優の実家は田舎にある。魔法使いの父と、作家である母が暮らしていた、優の生まれ故郷には豊かな自然が広がり、そこに住む人々も穏やかだ。
「このまま上って行くと、泉があるの。そこまで着いたら降ろして。あとは歩いて行けるから」
「そうか」
 すぐに前方に太陽の光を反射してキラキラ光る場所を見つけ、朱雀は速度を落とした。
「ここよ」
 優が急くので、ミズナラと松の生い茂るただ中にある小さな泉のほとりに、朱雀はゆるやかに降り立った。
「珍しい。綺麗だ」
「この泉は、水中でアズライトという鉱物が溶け込んでいて、それで色が透き通ったサファイヤブルーに見えるんだって」
 朱雀に説明しながら、優が森の中に向かって歩き始めた。
「家はここからすぐ近くなの」
「杖とブックはどこに封印したんだ」
「うちの裏庭」
「……裏庭、ねえ」
 杖をしまい、朱雀も優に着いて来る。ヨモギや野苺の生い茂る、道なき道を、慣れている優はどんどん進んで行く。子どもみたいに楽しそうに息を弾ませて、優が徐々に小走りになる。
「この辺は私の箱庭なの。いつもここで遊んでたんだ。運がいいときには鹿が見られるのよ。野兎や、リスも。ほら、着いた!」

 突然に茂みが開けて、平屋建ての古い一軒家が姿を現した。少し遅れて朱雀が優に追いついてきて、優が自慢げに指す一軒家を珍しそうに見つめた。
 正面に見えるテラスと書斎は白い木造だ。なのに、優について家の周りを歩いて行くと、家の横手にある勝手口には石づくりの土台があって、そこに木造の引き戸があり、長い縁側が庭に面して伸びていた。その様子は正面の白い三角屋根とは不揃いで、さらに裏手の屋根の一部分が瓦で張られているせで、一層あべこべな感じを醸し出していた。
どう見ても和と洋が織混ざった昭和時代の建物だ。朱雀はこういう家を本でしか見たことがなかった。
 魔法界育ちの朱雀には、そんな優の家がひどく不思議に見えた。

 冬になれば雪が降るこの地方にはめずらしく、優の家の庭にはミモザの黄色い花が咲き誇っていた。友情や秘密の愛を象徴する花だが、自生していたものとは思えない。何か不自然な気配を感じ、朱雀は屈みこんで大地に手を触れて見た。
――ガーネット
「なるほど」
 大地のマジックストーン、ガーネットの力が優の家の庭一面に根差している、ということを朱雀は感じ取った。
 確か、優の父親はガーネットを持つ大地の魔法使いだったはずだ。おそらく、この庭のミモザの黄色い花はそのガーネットの力に引き寄せられて生えているのだろう。

 朱雀が探偵のように優の家を見物している間に、優は首から下げて持って来た家の鍵を取り出すと、玄関の鍵を開けて中に入って行った。
「家に上がっている時間はないぞ」
 朱雀が釘をさすと、玄関でローファーを脱ぎ捨てた優が、バタバタと廊下を走りながら答える。
「封印を解くために秘密の鍵がいるの。部屋から取って来る」
「鍵?」
 優が靴を脱いで家に上がって行ったのをまた不思議そうに見つめながら、朱雀は優が戻るのを待って玄関の軒下で立ち止まった。ふと、気になるものが視界に入った気がして、視線を上げる。と、玄関の門構えの上に家紋のような彫刻が施されているのが目にとまった。
―― フェニキアバラに剣と王冠の紋章。
「これって……」
 朱雀の瞳が驚きに見開いた。
 それは魔法史を学んだ者なら誰でも知っている、聖アトス族、アシュトン王の紋章だったからだ。
 聖アトス族の中でもアシュトン王の血を引く直系だけが受け継ぐと言う、清いフェニキア薔薇と剣と王冠の模様……。
 古から伝わる歌に、こんな言葉がある。
―― 朝露の中で気高く清く咲き誇る、白き野薔薇は聖アトス族の花。その頭には王の冠、その手には勇者の剣。古から続くアトスの魂は、その名声が地に埋もれても尚生き続け、己が愛する者を守り抜く。

 どうしてその紋章が優の実家の軒下に刻まれているのか。朱雀はしばし考え込んだ。
 優がシュコロボヴィッツの魔力を受け継いだのは、おそらくガーネットを持つ父親の系譜だろう。
 なぜならアシュトン王の直系と交わった魔法使いは初代ゲイルの子孫、つまり、吏紀たち九門家の家系にしかないはずだからだ。だから、魔法使いである優の父親がアシュトン王の血を引いていたとは考えにくいのだ。
 だとすると、聖アトス族の系譜は人間の母親から継いだものとしか考えられない……。

 朱雀はかつて魔法史の授業で学んだ聖アトス族の歴史を思い出した。
 聖アトス族の王アシュトンは、古の魔女アストラを封印した後、初代ゲイルと結婚したのだった。魔法使いと聖アトス族との間に血の繋がりが生まれたのはその時が初めだ。二人の間には三人の子供が生まれた。長女は魔法使いとして賢者ゲイルの称号を引き継ぎ今の九門家の祖先となっている。長男は聖アトス族として王の位を引き継いだ。
 だが三人目の二男については、あまり多くは語られていない。というのも二男は王族という身分を捨てて王宮を抜けたからだ。長男よりもすぐれたアトスの力を持っていたにもかかわらず、一人の人間の乙女に恋をし、生涯を愛する人とともに森でつましく暮らしたというアシュトン王第二子の話は、今では草の葉の間に眠る伝承だ。
 朱雀は、長男よりも優れていたとされる二男のストーリーになぜか強く心を惹かれ、記憶に留めていたのだった。
 優の母親はもしかして、アシュトン王第二子の子孫なのだろうか。

「へへへ、あった、あった」
 考え込んでいた朱雀のもとへ、優がパタパタと戻って来た。片手に持った何やらを、見せつけるように振っている。
「何だそれ、石?」
 手のひらにすっぽり収まる大きさの、丸い茶色の物体を見て、朱雀が期待はずれの顔をする。
「秘密の鍵と言っていたから、もっとすごいのを持ってくると思ったぞ」
「見かけに騙されるなんて、魔法使いとして賢さが足りないんじゃない? 鍵が鍵らしかったら、誰かに盗まれてしまうかもしれないでしょう」
「で、それは何だ」
「これは三年前に食べたアボガドの種よ」
「……へえ」
 優はローファーをつっかけて、玄関を出ると再び戸締りをしっかりとした。

「なあ、あの紋章について、何か聞いているか」
 朱雀が玄関の上の紋章を指でさした。
「ああ、母さんの実家のものらしい。詳しくは聞いてないけど、変わってるでしょう。時が来たら私もこの家紋を引き継ぐんだ、って、母さんは言ってた。でも訳ありみたいでね、親戚の人に会ったことはないの。まあそうだよね、魔法使いと人間が結婚したってだけで世間から白い目で見られるんだもの、親戚付き合いが疎遠になって当然だよ。でも私、母さんと父さんの間に生まれたことを誇りに思うの。だから母さんの血も受け継ぐし、もちろん父さんの意思も引き継ぐって決めてる」
 優はそう言いながら、ミモザの咲き誇る裏庭に向かった。
「そうか」
 朱雀は無表情に優を見つめたが、その目には遠い過去の歴史を見透かす、感傷深い輝きがあった。


 優の家の裏庭は森に囲まれ、人の目を完全に退ける位置にあった。
 優はミモザの黄色い庭を探るように少し歩いてから、目的の場所を見つけて立ち止ると、口を開いた。
「我戻りし。閉ざされた扉よ、この息吹を受け、開け」
 手のひらに乗せたアボカドに優がフウッと息を吹きかけると、種からニョロニョロと芽が出はじめた。
 優が種を地面に落とすと、種は根を張り、瞬く間に枝を生じ、葉を茂らせ、太い大きな木に成長した。
 成長した木に枝をしならせるほど多くのアボカドの実がなり、やがて葉が枯れて、幹がバキッと音をたてて縦に割れた。
 こうしてアボカドの種から一瞬で育った大木は、一瞬にして枯れたのだ。
 その割れた幹の中から、紅い光がキラキラと輝き洩れた。




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