月夜にまたたく魔法の意思 第7話5



 ボタボタと地面に落ちて来たアボカドの実を一つ拾い上げて、朱雀がおもむろに言った。
「アボカドって確か、男の睾丸を意味するんじゃなかったか。その中に大切なイチブツを封印したってことは、さては下ネタ好きだな?」
「何言ってるの? アボカドはアボカ。フランス語で弁護士を意味する言葉なんだよ。大切なものを弁護士に預けるのは当然でしょ」

 アボカドの実を弄んで意地悪な笑みを浮かべている朱雀にムッと一瞥をくれてから、優は割れた大木の幹からキラキラ光る杖に手を伸ばした。
「あれ……、ちょ、っと、届かない、なッ、おッ、おおッ!」
 思わぬところで苦戦している優を見て、朱雀が嫌な顔をする。

「引っかかってる!」
「お前がな」
 アボカドの木の枝に引っかかり、あられもない姿になっている優を見ても、朱雀は表情を崩さない。かえって真剣な眼差しでこんなことを言った。
「杖は持ち主を選ぶって言うからな。エクスカリバーの剣を抜くつもりで、気合を入れろ。もしかすると、魔力封じのゴーグルをかけていたせいかもしれない」
「馬鹿言わないで、今も昔も、この杖は私のよ。……おっかしいなあ、もう! ふお!”」

 力を振り絞って身をよじり、伸ばした手がついに杖の柄に届いた。瞬間……

―― ドッガーーーーン!!
「うわっ!」
「きゃああああ!!!」

 爆発した。
 杖をつかんだ優の体から炎が爆発し、アボカドの木を粉々に吹き飛ばした。
 その瞬間、今までに朱雀が感じたことがないほど強い、炎の力―― 優の紅の炎が、辺りを強烈な熱気で覆った。
 火の魔法使い最高火力の紅炎。かつてシュコロボヴィッツが愛した乙女、ナジアスが操った炎。朱雀はその炎の輝きに見とれて、息をするのも忘れるくらいだった。ベラドンナの真理の鏡の中で見た優、そのままの姿に圧倒され、朱雀の内なる力がたぎる。まさか、本当にこの目で見られるとは思っていなかったのだ。

 優の体を包む紅の炎はやがて収縮し、杖を持った優が、ニヤリと笑みを浮かべて朱雀を振り返った。

「やっと、本当の自分を取り戻したよ」
 へへへ、と笑う優に、朱雀は何も言葉を返せなかった。ただ、キーンという耳鳴りがして、自分の頭に血が上っているのがわかった。脈打つ心臓の鼓動が朱雀の全身を震わせる。

 朱雀はこのときはっきりと自覚した。自分が優にとても強く惹きつけられているのだと。そしてもしかしたら朱雀は、出会う前から優に恋をしていたのかもしれないと。
 あまりに綺麗だから、そして、あまりに優しい光だから。
 朱雀は声もなく、ただ茫然と優を見つめ続けた。

 そんな朱雀の様子をよそに、優は杖を軽く振って感触を確かめた。優の成長に合わせて、杖の長さも確実に長くなっている。だから、手にもった感触は三年前と全然変わらない。
 朱雀もまじまじと優の杖を観察した。杖はその持ち主に似るから、優の杖の特徴は優自身を表しているとも言える。
 
 優の杖の柄はミルトスの若枝で造られていた。白っぽい木目の柄先からは新しい枝が生じ、艶のある黄緑色の葉と、白い小さな花が咲いている。そして優のルビーはミルトスの木に呼応するように花弁の形をしていて、緑の葉と白い花に包まれて控えめに光っている。ひとたび持ち主が魔力を込めると、ルビーは紅色に強く輝くのだった。
 ミルトスは火の植物と言われ、愛と不死と勝利を象徴する。
 かつてシュコロボヴィッツがナジアスを見てそう思ったように、朱雀も、目の前に居る優と優が持つ杖を見て、彼女にこそ相応しい杖だと思った。

「私、初めて空を飛んだのはこの裏庭なんだ」
 そう言うと優はスーッと息をして、自分の杖を横たえると浮力を集中させた。風が優の足もとに集まり、優の体は重力から解き放たれてフワリと小さく浮き上がった。優はそのまま杖に腰かけると、その場所で手を広げ、踊るようにくるくる回りだした。
「見て! 飛べたよ、朱雀」

 きゃっきゃと宙を舞う優を横目に、朱雀は爆発で吹き飛んだアボカドの木の根元に落ちていた分厚い本を拾い上げて、埃を払い落した。「明王児優」とラテン語で刻まれた、緋色の装飾が美しい優のブックの表紙は、杖と同じミルトスの木で造られていた。思ったよりも分厚い優のブックに、朱雀は満足そうに微笑む。なぜなら、この本に書かれている魔法はすべて、優がすでに習得しているか、あるいはこれから習得すべき魔法だからだ。

「楽しそうだな」
 そう言って優を見上げた直後、朱雀は言葉を詰まらせた。
 優が、泣いているのだ。さっきまであんなにハシャイデいたのに、一体今度はどうしたというのか。
 優の泣き顔はこれまでに何度も見ている朱雀だが、いつからだろうか、朱雀はそれに慣れるどころか、最近では優の涙を見るたびにどうしようもなく胸がキリキリし、無力感に襲われる。
 どうしてよいのやら分からず、朱雀はそっと優に歩み寄り、宙に浮いたままの優の手を握った。

 優がハッと我に帰って朱雀を見下ろした。
 それまで優は自分が泣いていることに気づかなかったのだ。しかも今、朱雀がいつになく怪訝な顔で優を見つめるので、優は涙を拭って笑った。
「何よ、また泣き虫だと思ってる? わかったって、もう泣かないもんね」
 優は朱雀の手を振り払って杖から飛び降りた。

 もう泣かない、って決めたのだ。それなのに魔法を使うと、死んだ両親のことをやけに思い出してしまい、涙もろくなる。
「私が初めて空を飛んだのは六歳の誕生日の時だったんだ。ここで、父さんがダンスをしようと言いだしたんだよ。私は父さんに手を引かれてね、夕陽の中でミモザの花がキラキラ舞っている中で、まるでお姫様みたいにステップを踏んだの。そうしたら身体がフワって浮き上がったんだ! その時生まれて初めて浮力を掴んだの。その後、初めて空を飛んだ夜のことは今でも忘れられない。家族三人で父さんの杖に乗ってね、夜空を散歩したんだよ。母さんはすごく恐がってて、少し怒りながら必死に父さんにしがみついてた……フフッ、でも父さんは母さんにしがみつかれて嬉しそうにして、もっと高くまで行こうって言うの。私は嬉しくなって、父さんと母さんにギュッとしがみついたの。そうして家族で抱き合って笑って、夜空を飛んだんだよ」
 優は、本当に幸せな家庭に生まれたんだ、と思う。心から愛されて育ったのだと。
 だけれども、その感謝を返すことはもうできなくて。
 だからこうして空を飛ぶと、今はもうやり場のない感謝が涙になって溢れてくる。

「ほら」
 朱雀に差し出されたブックを、優は両手で受け取った。ずっしりと重たい。
「なんだか前より分厚くなったみたい」
「あり得る。魔法書は持ち主が存在する限り、封印されてもなおその持ち主とともに成長し続ける」
「これから覚えなきゃいけない魔法が、いっぱいあるみたい」
「もう、手放すなよ」
 そう言って、ポン、と朱雀が優の頭に手をのせた。
 一瞬のことだったが、とても優しく触れられた気がして、優がきょとんとする。
 だが優が何かを悟るより先に、朱雀はすぐに歩き出して、空中から自分のルビーの杖を取り出した。マグマのように燃えるルビーを備えた、黄金の杖だ。普遍なる王者と勝利を象徴する、炎の魔法使いシュコロボヴィッツと同じ杖。

「ダイナモンに帰るぞ。帰りは自分で飛べるよな」
「お腹がすいたよ」
 
 時刻はすでに昼過ぎだ。朝食も昼食も食べていない優のお腹の虫が鳴る。
「すぐに帰れば、夕飯の時間には間に合うさ」
「はあ……、そう言うと思った。レストランに寄って行かない?」
「ダメだ。寄り道をするのは危険だ。業校長にも禁止されているだろうが」
「どうしてダメなの? こんなにお腹がすいているのに? 先生の言いなり?」
「言いなりじゃない、ちゃんと自分で判断してるさ。いいか、人間の世界で俺たちが不用意に動き回っているときに、もし闇の魔法使いが現れたらどうするつもりだ。おそらく奴らは、人間のことなどお構いなしに俺たちに攻撃を仕掛けて来るぞ。誰かれ構わず巻き添えにしてな。責任は取れないだろう。今、俺たちの行動には他の誰かの命もかかってるんだ。お前がベラドンナから勝手に抜け出したときみたいに、またトラックが暴走するかもしれないぞ」

「う……」
 妙に説得力のある朱雀の説明に、優は反論できずに、しぶしぶ頷く。
「でも、お腹が空いているから来たときみたいには早く飛べないと思うよ」
「ゆっくりでいい」
「うん」

 来たときと同じように森を抜け、サファイヤブルーの泉まで来たところで、朱雀と優は一緒に飛び立った。
 その時偶然、暖かな風が吹いてミモザの花弁が舞い上がった。太陽の光に黄色い花弁が煌めいて、金色の粒がキラキラと朱雀と優を包んだ。
 上空に舞い上がりながら振り向くと、眼下に優の生まれ育った平屋が見えた。
 優の瞳にまたうっすらと涙が浮かぶ。

「行ってきます」

 優の亡くなった両親が、優たちを力づけて送り出しているように感じて、優は小さく囁いた。





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