月夜にまたたく魔法の意思 第7話14




―― イタズラな妖精たちの気まぐれに隠された花の蕾
    千年桜が狂い咲きするとき
    希望を持ち続けた仲間に約束が成就される
    見えないからといって、無いわけじゃない
    見えるからといって、信じられるわけじゃない
    真実は心と心が通じ合うときに、本当に見えるようになるから

 朱雀たちが千年桜の木の下で王たちを引き付けている頃、優はオロオロ山の北側に流れる小川のほとりにたどり着いていた。
 吏紀の話によると、この川の上流に妖精の谷があり、そこに銀色狼がいるはずだった。

―― イタズラな妖精たちの気まぐれに隠された花の蕾

 清流のほとりのぬかるみに足を取られて何度か地面に膝をつきながら、乱れる息を呑みこんで、優は止まらずに歩き続けた。
 姿は見えないが、さっきから小さな囁き声が森のあちらこちらから聞こえている。
―― 千年桜が狂い咲きするとき……

 声は、優に聞こえるように思わせぶりに歌っている。その正体はきっと、妖精たちだろう、と優は思った。
 はじめは妖精たちに惑わされるのではないか、と警戒したものの、妖精たちはただ歌っているだけで優に危害を加えるつもりはなさそうだということに、優はそのうち気がついた。そうして何度も同じ歌を聞かせられながら、優は目的地が近いことを悟った。――妖精の谷

 吏紀のかけてくれた加護の魔法のおかげなのか、方向オンチの優が不思議と道に迷わずにここまで来れている。
 白樺の木が3本並んでいるところまで来ると、小川は小さな水たまりのようになり、そこから先は行き止まりになった。
 優の目の前には、とても登ることのできなさそうな土の壁がある。
「妖精の谷はどこかしら……」
 それまで優の周りで歌い続けていた妖精たちの声が、急に静かになった。
 耳を澄ますと、遠くの方で水が激しく打ち付ける音がする。
 優は目の前の断崖絶壁を見上げ少し考えると、何も言わずに木の根や、吊る草などの掴まれるものに手を伸ばした。
 シダやフキの葉を掻き分けながら、そうして急な斜面を四つん這いになって上って行くと、優の周りで妖精たちがまた歌い始めた。
―― 千年桜が狂い咲きするとき、希望を持ち続けた仲間に約束が成就される

 頭上の吊る草に伸ばした優の右手の親指で、ルビーの指輪がキラリと光った。
 菱形にカットされた大きなルビーは、ミルトスの葉を模した金の台座に象(かたど)られ、優の親指の第一関節をすっぽりと覆っている。
 信じている、と言った朱雀の言葉を、優は思い出した。朱雀があんなことを言うなんて、ちょっと信じられなかった。
 無事に帰ること。
 無茶な飛翔術をしないこと。
 あのときの朱雀の目は真剣で、いつもの優を馬鹿にしたような意地悪な感じは全然なかった。

 爪の間に泥が入るのもかまわず、優は土壁を覆う吊る草に必死にしがみつき、今にも爆発しそうな心臓の鼓動に喘ぎながら、止まらずに崖をよじ登り続けた。
 もし仮に優が銀色狼に協力してもらうことに失敗したとしても、朱雀は怒らないような気がした。きっと朱雀だけじゃなく、流和や永久も、優が失敗しても優のことを責めないだろう。
 そう思うとなんだか、優の胸がキュウと締め付けられた。

 唇をかみしめ、顔を真っ赤にしながら思うようにならない体を叱咤して這いつくばる。例え無様でも構わない。
 この崖を上り切り、妖精の谷に行くんだ。

―― 信じてくれているから。

 アイビスの葉が顔に引っ掻き傷を残し、髪にからみつく。それでも上を目指しながら、この任務は優の身に余ることだと、優は自分でもそう思った。
 けれど信じてくれる仲間がいるなら、例え身に余ることでも、優は成し遂げたい。
 背伸びして、無理をしたっていい。
―― みんなのために。

 小一時間あまりを休まずに格闘し、何度も滑り落ちそうになりながら、優はついになんとか壁を上り切ることに成功した。

「わあ……キレイ」
 突然開けた視界の先に広がっていたのは、銀色の世界そのもの。
 崖の向こうは、白い岩肌が向かい合う切り立った谷になっていた。――これが、妖精の谷。
 谷には一筋の銀色の滝が竜の髭のように降り注ぎ、その周囲に3本の虹がかかっている。飛び散る水滴が太陽の光に乱反射して、キラキラと銀色に煌めき、眩しいくらいだ。
 谷底は大部分が泉になっていて、竜の滝はその泉に注いでいる。おそらく優がたどってきた小川は、この谷の岩肌のどこかにある割れ目から、泉の水が少しずつ流れ出たものだろう。
 
 見晴らしのいい斜面の上から谷一面を見渡した優は、銀色狼の姿を探した。だが、狼の姿はどこにも見当たらなかった。
―― 見えないからといって、無いわけじゃない。
―― 見えるからといって、信じられるわけじゃない。
―― 真実は心と心が通じ合うとき、本当に見えるようになる。

 優は岩肌の吊る草をつたって慎重に谷底に向かって降りて行った。
 飛翔術を使えばすぐだが、上手くジャンプできる自身がなかったのだ。
―― ブチッ!!
「きゃ、ああああ!!」
 途中まで下りたところで吊る草が切れて、優の体が真っ逆さまに転落して宙を舞う。だが、苔むした地面の上に体がぶち当たる瞬間、アメジストの輝きがフワリと優の体を包み、かなり高いところから落ちたにもかかわらず、まるでクッションの上にでも落ちたかのように優の体は無事だった。

「ふう……助かった」
 優は上半身を起こし、周囲を見渡した。
 グルグルグルッ!!
 刹那、獣の低い唸り声が聞こえたような気がして、優は振り向いた。瞬間、突き刺すような圧力に優の体は地面に押し返された。

『我ラノ土地ニ足ヲ踏ミ入レル愚カナ人間メ! 我ラガ白銀ノ賢者ト知ッテノ無礼か!』
 それは確かに獣の唸り声。
 だが、優にはその言葉が理解できた。

「良かった、話ができそう!」
 巨大な狼の足で胸ぐらを押しつけられているのに、優が上げたのは悲鳴ではなく歓喜の叫びだった。

『畏レ知ラズノ愚カナ人間。コノ牙ニカケテ、殺シテヤロウゾ』
「痛い痛い痛い痛い、ちょ、待って! 話を聞いて!」
 銀色狼が鋭い爪を優の胸元に食い込ませてきたので、優は身悶えして逃げようとした。
 だが、狼は見せしめにとばかりに優の胸に鋭い爪をグリグリと喰いこませてきた。
 細い木の幹ほども太さがあるその前脚を、優は両手で掴んで必死に押し返した。

「お願い、いい子だから、ね、話を聞いて!」
『無礼者メ!』
 銀色狼が大きな口を開け、いきなり優の頭を丸ごとすっぽり咥えこんだ。
 そして首を左右に振った。
 普通なら首を折られて即死するところだが、狼が本気で噛みついているのではないことが、優にはすぐに分かった。
―― イリウス、話を聞こう
―― アイク、お前は出て来るな
 突如現れた別の銀色狼に、優は救われた。
 牙の間から顔を出しながら狼の鼻を押し返す優の姿は、傍から見れば狼と戯れているようにも見えたことだろう。

―― 母さんが話を聞けと言ってる。この娘から、ナジアスの匂いがすると

 ナジアス、という言葉に優を抑え込んでいた狼が反応し、優から離れた。
 優は起きあがり、まじまじと2匹の狼たちを見つめた。この世界にこんなに美しい動物がいたのかと感動するほど、その姿は神聖な輝きに満ちていた。体一面を星のようにキラキラ光る白銀の毛が覆い、目は太陽の金色、牙と爪は月明かりを思わせる銀色だ。四足で立っている狼たちの顔が、ちょうど優の胸の高さくらいにあることから、彼らがライオンのように大きな体躯をしていることがわかる。

―― わかった。殺すか生かすかは、コイツの話を聞いてから決める

『名ヲ名乗レ小娘。話ハソレカラダ』

 2匹の狼は瓜二つなので、どちらがイリウスで、どちらがアイクなのか、優には見わけがつかなかった。

「私の名前は明王児優。 ナジアスじゃないわ」
 ナジアスではない、と言えば狼たちに瞬時に噛み殺されそうな気もしたが優はサラリと本当のことを言った。
 狼たちは見定めるように優の周りを黙って歩きまわっている。
 優はゆっくりと話を続けた。

「ここに来たのは、あなたたちの助けが必要だから。助けてもらいたいの。邪悪な魂を滅ぼすのを手伝って欲しい。千年桜の下で仲間が待ってるの」
 すると狼の顔に深い皺が刻まれ、口元が歪んで銀色の牙が光った。
『かつてアトスが眠ラセタ魂ヲ、我らは1200年間一時も目を放さず見張り、コノ森ヲ邪悪な者から守ッテキタ。それを今ニナッテ呼び覚マシタノハお前たちダ! 我ラガお前たちに力を貸す理由などない』
『魔法使いは勝手ナコトヲスルから、嫌イダ』
 と、もう一匹の狼も言った。

 優は狼たちを見つめ、諦めずに食い下がった。ここで諦めたら仲間たちに顔向けができない。

「魔女が復活し、かつての手下を集め、力を取り戻そうとしてる。だからかつてアトスが眠らせた王たちの魂を、魔女が呼び戻しにくるのも時間の問題だって先生は言ってた。その前に私たちが王の魂を滅ぼさなくちゃいけないの。でも、私たちの魔法の力では魂を滅ぼすことはできないの……。どうかお願い、あなたたちの力を貸して」

 優の言葉に、二匹の狼たちが互いに首を合わせて相談し合った。

――魔法使いは高慢だ。だが、この娘は違う
――俺たちには判断できない。母さまと直接話をさせる
 二匹の銀色狼はふいに前脚を上げて後ろ立ちになると、突然、天高く響き渡る遠吠えを始めた。
 谷の岩肌に狼たちの鳴き声が反響し、大地が震えた。
 刹那に、優は目を丸くしてすくみあがった。先ほどまで二頭しかいなかった谷底に、今は無数の狼たちが陽炎のようにいきなり姿を露わしたのだ。
 泉のほとりから、谷の斜面まで埋め尽くす銀色の狼の群れが、小さいものも大きいものも、みな優を鋭く見つめているではないか。
 まるで最初からずっとそこにいたかのように。

「驚いた……こんなにたくさんいたなんて」
 すると、最初の狼たちよりも流暢に話す声が群れの中から聞こえて来た。
『見えないからといって、存在しないわけではない。我らは現われるべきときに、自ら現れる』
 ひと際大きな狼が一頭、ゆっくりと優に近づいて来た。
 優は固唾を呑んで、その大きな銀色狼を見上げた。

『もしお前が自分のことをナジアスだと偽ったなら、我らはお前を生かして返すことはなかった』
 狼は、その大きな頭を降ろし、優の額に自分の鼻を近づけ、深く息を吸い込んだ。
 その間、優は身じろぎもせず、咄嗟に目を閉じて息を止めた。神々しく気高い存在の前に、屑折れてしまいそうな無力感が優の体を襲う。
『やはり、ナジアスの匂いがする。それにかすかに、シュコロボヴィッツの匂いも……。でも魔法使いの寿命は我らに比べてとても短い。彼らが生きているはずはない。……不思議な事』
「ナジアスとシュコロボヴィッツを知っているの?」
 優の問いかけに、狼の黄金色の瞳が、深い優しさと懐かしさのこもる光をたたえて優を見下ろして来た。

『我が名はエラ・プロミシオネム・スペス。これはナジアスがつけてくれた名だ』
 それは『希望の約束』という意味だった。

『ナジアスがこの命を救い、母の命とともに我を生かした。シュコロボヴィッツはナジアスとともに我らの聖なる森を守り、我らの前では決して杖を抜かないことを約束してくれた。彼らがいなくなった今日もその約束は守られている。……明王児優――』

「はい」

『お前が真の誠実をもって魔法使いの知恵とへりくだりを保ち、彼らのように賢く振る舞うなら、我らはかつてナジアスとシュコロボヴィッツから受けた恩を今日、お前とお前の仲間たちに返そう』

 長い時を越えて、ナジアスとシュコロボヴィッツのした良い行いが、優たちに還される時が来たのだ。
 大昔の魔法使いと現代の魔法使いが確かに繋がっているのだという感覚に感動を覚えて、優の紅色の瞳に驚きと、涙が浮かんだ。
 これは優の力ではない。
 優を信じて送り出してくれた仲間たちと、そして大昔の魔法使いたちがした正しい行いが招いた救い。
 深い感謝を胸に、優は膝を屈めた。

「……ありがとう銀色狼さん。約束します。魔法使いとして、私たちがあなたがたの良き友となることを、心から約束する」
 優は左胸に手を当て、最高敬意をこめるときに行う特別なお辞儀で、地面に膝をついて深く頭を下げた。

「ありがとう」

 種族を越えて助け合うことが、こんなに必要で、こんなに尊い結びつきによるとは、それまでの優には考える余地さえなかった。
 千年桜の下で待つ仲間たちのことを思い、何度もお礼を述べながら、優は深い安堵に涙が溢れた。

――「ありがとう、狼さん」



 その頃、千年桜の下では東條晃と永久が、泥まみれになりながら大地にルーンを描きこんでいた。
「ちょっとそこ! 踏まないでくれ、それは基盤となるカノケン文字なんだ。朱雀の守護壁の効果を補助する役割がある」
 炎のサークルの中にダイナモンの生徒たちがひしめき合っているせいで、大地に魔法陣を描く作業は思った以上に難航している。
「余計な御世話だ、東條」
 朱雀が不愉快そうに舌打ちする。だが、その目は炎陣の外で揺らめく王たちから一時も逸らされることがない。
 東條が朱雀に反抗して言った。
「杖もなく無茶な暴走をしてるんだ、お前がいつ力尽きても平気なように、防御網は二重に張っておくほうがいい」
「俺は力尽きない。その前にアイツが来るさ」
「ふん、それはどうかな。強がるな。カッコつけしいも大概にしないと、本当に燃え尽きて死ぬぞ。それに、尋常じゃない汗をかいているじゃないか。そろそろ限界だろう」
 東條は朱雀と言い合いをしながらも、休むことなく地面にルーンを掘りつけ、またヒステリーに叫んだ。
「おいおいおい、山口永久! そこ間違ってるじゃないか!」
「なによ、怒鳴らないで!」
「そこに描くのはスリザスソーンだ、どうしてラグズドラを描いてるんだ? それじゃ『茨の結界』の代わりに『馬車』を召喚することになるぞ!」
「え……? ッあ! うそ、なんてこと……、ごめんなさい!」
 永久は顔を真っ赤にしながら、地面に一度描いた『R』に似た文字を消し、それとよく似た別の文字に書き換えた。
 そんな東條と永久のやりとりを横目に、朱雀がやり返す。
「お前たちのやりとりを聞いている方がよっぽど疲れる……。そんなに俺を疲れさせたいのか? 頼むから首尾よくやってくれ」

 実際、朱雀は滝のように汗をかき、かなり消耗していた。炎の守護壁は、最高難易度の魔法で、本来なら杖なしに行っていはいけない魔法だ。
 朱雀自身がそのことを一番よく知っている。かつて最強の魔法戦士と謳われたシュコロボヴィッツとナジアスでさえ、魔女の力から王国を守るために巨大な炎の守護壁を発動して死にかけたくらいだ。吏紀が皆に呼び掛けて持ち合わせのアトスの石を炎にくべてくれたおかげで少しはましだが、それでも朱雀はかなり疲労していた。

 だが、朱雀はここで力を緩めるわけにはいかない。
 例え狼たちとの交渉に失敗しても優が迷わずこの場所に戻って来られるように、例え交渉に時間がかかっても、俺たちがまだ無事でいるかどうかを優が心配することがないように、優がオロオロ山のどこにいても、朱雀の炎を感じられるように。



次のページ 7話15