月夜にまたたく魔法の意思 第7話10
ダイナモン魔法学校は魔力のあるオロオロ山の頂にあり、城の北側と南側、そして西側は断崖絶壁の要塞だ。唯一、人が歩いて出入りできるのは東側だけで、そこから敷地の外に出ると、辺りは深い森に包まれている。
「この森には銀色狼が生息しているの」
「危険なのよね……?」
「怒らせなければ大丈夫。銀色狼は神聖でとても賢い種族で、むやみに人を襲ったりしないから。初代ゲイルの時代には、魔法使いたちは銀色狼と友だちだったそうよ」
先を行く流和と永久の会話を聞きながら、優は慎重に歩みを進めていた。
前夜激しく降った雨のせいで、森の中はむせ返るほど湿った空気に満ちていて、大地はぬかるんでいた。木の葉にたまっていた水滴がちょっとした弾みでパラパラ降って来るので、濡れないように十分に気をつけなければいけなかった。
「ねえ、集合場所の千年桜って、遠いの? あとどれくらいで着く?」
「この調子で歩いていけば、30分はかかるわね」
「えー! そんなに!? 道に迷ったってことにして、戻らない?」
「ダメよ、優。またそんなこと言って」
不正な提案を当然のように流和に却下されて、優はもくもくとぬかるんだ獣道を歩き続けた。
「どうせ他の子たちもサボってるんじゃない? だってこの道、こんなにぬかるんでるのに、私たち以外の足跡が全然ないじゃん」
「足跡がないのは当然よ。他の生徒は跳んで行ったに違いないもの。こんなに道が悪いんだから、そうするのが当然だわ」
「それじゃ、私たちもそうする?」
そう言って永久が杖を出そうとしたので、すかさず流和がそれを引きとめた。
「待って永久。この森は銀色狼のテリトリーなの。彼らがこの森の秩序を保ち、邪悪なものたちからこの森を守ってる。もう何百年も前からずっとそうなのよ」
「うん、だから?」
「彼らは魔法を好まないから、森の中で杖を出すのは控えた方がいいわ。怒らせてしまうかもしれない」
「どうして」
「長い歴史の中で、銀色狼たちに対して敬意を払ってこなかった魔法使いも多くいたの。つまり、一部の魔法使いは銀色狼を自分の手下にしようとして魔力で彼らを抑えつけようとした。でも、気高い彼らはそんなことで魔法使いに従ったりしなかったわ。すると魔法使いは、今度は銀色狼を魔力で虐げた。だから、今も魔法使いと銀色狼との間には複雑な確執があるのよね……」
「なるほど、そういうことなら、ここは堅実に足で地面を歩くのがいいね」
「そうね」
「その意見に異を唱えるつもりはないけど、でも、他の子たちは飛んで行ったんでしょう?」
「まともな頭のダイナモン生なら、飛行術じゃなく、飛翔術を使うはず。浮力で大地を翔ける移動方法の一つで、初代ゲイルが考案したの」
流和はそう言うと優と永久の手をとった。
「小さな浮力でジャンプするイメージで。さあ、やってみるわよ!」
優と永久は流和に手を引かれて小走りに数歩前に出た。流和の浮力が3人の足もとに集まり、重力がみるみる遠ざかっていく感覚がくると、流和が楽しそうに叫んだ。
「ホップ・ステップ、ジャンプ!」
「きゃあ〜!」
「うわ〜!」
強い風に背中を押されるように、優たちの体はすごい早さで数メートル前方に吹き飛ばされた。
「うっそすごい! 魔法みたい!」
永久が目をキラキラさせて喜んでいる横で、「いや、これは魔法でしょう」と、いつになく優が冷静につっこみを入れる。
「ね、わかった? じゃ、今みたいに次は自分たちでやってみて。まずはここから、あの大きな木のところまで」
「もしかして飛翔術って、沈黙の山で空くんや朱雀くんが使ってた?」
「ええ、そうよ永久」
「なるほどね。だから二人とも私たちよりずっと足が速かったんだ。つまり、ズルしてたってことね」
と、優。
「隠密行動を行うときには欠かせない移動手段よ。杖を用いる飛行術は、魔力が膨大に解放されて目立つから……」
「でもあのとき、吏紀くんは私たちと同じように走っていたように思うんだけど、吏紀くんは飛翔術ができないの?」
「吏紀は私たちのペースに合わせていただけ。というのも、沈黙の山のときみたいな実戦では、役割分担をするのが普通だから。つまり、あのとき朱雀と空は飛翔術でみんなより先に出て、敵と最初に接触する前衛役。反対に吏紀は、前衛をバックアップしながら、戦闘に不慣れな私たちを守る後衛役をとっていた」
「そうだったんだ。そんなの全然知らなかった。でも誰が前衛で後衛かなんて、あのとき相談しなかったよね」
「相談なんかしなくても、彼らはああいう状況で瞬時に自分の役割を判断できるように訓練されてる。ダイナモンの生徒はみんなそうよ」
「そっか……。なんか私、場違いって感じがするわね。だって、実際の戦いのことなんて、私全然知らないんだもの。きっとこれから、吏紀くんたちの足を引っ張っちゃうんだろうな」
そう言いながら、腰の高さまである草の茂みを掻き分けながら、永久がちょっと落ち込んだ様子を見せたので、優が永久の肩をぽんぽんと叩いた。
「初めから上手く立ちまわれる魔法使いなんて居ないよ。これは訓練して身に付けてゆくことだもん、永久ならすぐにできるようになる」
すると優の言葉に流和がニヤリとした。
「そうね。きっと優には朱雀がこれから優しく手ほどきしてくれるはずだわ」
「優しく、なんて、冗談でしょ流和!」
「ほら、こんなこと話してるうちに遅れちゃう! 二人とも私に着いて来て」
流和が小さな窪みを跳び越えて、前方の大きな樫の木まで、少なくとも10メートルはジャンプした。それに続いて、永久が助走をつけてジャンプすると、空中でグラつきながらもなんとか流和の側に着地した。
「ほら、優も早く!」
前方で流和と永久が手を振っているので、優も小走りに駆けだした。
―― 飛ぶのとはちょっと違う感覚だ。
飛行術では、一度宙に浮きあがりさえすれば、後はほとんど一定の浮力を保てばいいのだが、飛翔術での浮力の操作はそれよりももっと繊細なのだ。
難しいのは飛びすぎないこと。
跳び上がる瞬間に浮力をバネのように一瞬だけ解放し、重力にまかせて体が大地に対して放物線を描きながら落下して行くのに任せる。そして着地の瞬間、一度手放した浮力を素早く呼びもどして体が受ける着地の衝撃を和らげるのだ。浮力の解放、断絶、呼び戻し操作を瞬時に行わなければいけないので、もしかすると飛行術よりも難しいかもしれない。
跳び出した瞬間、優の視界の下を草むらが勢いよく通り過ぎていったかと思えば、思っていたよりも早く流和と永久のところに到達してしまい、優は慌てて地面に飛び降りた。
「うっわあーー!」
「優、危ない!」
勢いよく跳びすぎたせいで、優は前のめりに地面に崩れ折れて、前方の樫の木におでこを強打した。
「……あいたた……」
顔を上げた優のおでこから血が滲みでた。傷ついた部分が、瞬く間に赤く腫れてコブになった。
流和と永久が蒼白になって優の顔を覗き込んだが、すぐにホッとしたように言った。
「大丈夫、大した傷じゃないわよ」
流和が言った通り、傷は少し擦りむいただけで血はすぐに止まった。
優は自分で持って来た絆創膏をリュックサックから取り出し、大袈裟な所作でそれを患部に当てがった。
「大丈夫? 立てる?」
「うん……」
突然無口になった優を気遣って流和と永久が手を差し出すが、優は一人で立ちあがって、膝についた泥を自分で払い落した。
いつもの優ならここで泣きだしたり、帰りたいとゴネたりするのに、今日は何も言わないようだ。
「よし、じゃあ行こっか」
優がケロっと笑うので、流和と永久の二人はますます不安がって顔を見合わせた。
二人は、試しの門のときに優が見せた顔を思い出した。あれ以来、優はなんだかとても悲しげな、それでいて妙に大人びた顔をすることがある。これまで見たことのないその顔を見るたびに、二人は優がすごく遠くに行ってしまいそうな気がして不安になるのだ。いつものように言いたい放題ワガママを言っている優のほうが、ずっと安心できるのだった。
「優、本当に大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。すぐに感を掴んでみせるから。じゃあ、千年桜の木まで競争だ!」
「え、ちょっと! 優!?」
意表をついて駈け出した優が、早くも次のジャンプをした。
「待ってよ、優!」
「危ないよ!」
優は危なっかしいジャンプと着地を繰り返し、生い茂る木々の間を次々にすり抜けて行った。
「ちょっと待って、優、スピード出し過ぎ!」
「ねえ、千年桜の木って、本当に千年も生きてるの?」
風のように茂みを跳び越えながら、優が流和を振り返る。
「前を見なさい!」
流和の怒鳴り声が森に木霊するのとほぼ同時に、優が着地に失敗して熊笹の茂みの中に転がり落ちた。
「ほらみなさい」
流和が恐い顔で優に追いつき、捕まえようとする。だが、優はすぐに跳び上がって、捕まらないように慌てて走り出した。
「まったく、どういうつもり!? 大怪我しても知らないから」
「優すごいね、全然追いつけないよ」
弾む息を整えながら、永久が流和に並んで大きな灌木の上に着地した。
「火の魔法使いなんだからあれくらい出来て当然なのよ。けど、あの子は着地が下手すぎて見てられない!」
流和の心配をよそに、優が前方で「おーにさーん、こーちらっ」と言っている。
流和と永久が苦笑いして顔を見合わせ、二人同時に跳び立った。
「あの木がどれくらいの樹齢なのかは知らないわ。でも『千年桜』と呼ばれているのは、千年間生きているからじゃなくて、千年間一度も花を咲かせたことがないからだって言われてる。それくらい、あの木が花を咲かせてるのを見た者が少ないってことね」
「それって、何かの呪いなの?」
「呪いかどうかは定かじゃないけど、『誰かが死ぬときに満開になる』と言う噂がある」
「うわ〜、不気味」
「けど、その見解とは全く別の言い伝えもあってね。あの木は別名『約束の木』とも呼ばれていて、『約束が成就するときに咲く』という人たちもいるの。まあ、ダイナモンの七不思議の一つみたいな感じよね」
流和の話を聞いているうちに、優たちは白樺と柳の木々が茂る地帯に入って行った。どの木も普通の森で見るよりずっと大きくて、化け物みたいに背が高い。幹の太さなんか、乗用車を丸ごと一台呑みこみそうなほどの太さをしている。それだけオロオロ山の森の歴史が深いことを意味しているのだろう。
「千年桜はこの先よ。でも、ここからは気をつけてね。そのすぐ手前が急勾配で、ちょっとした崖みたいになってるから」
と、流和が二人に注意してから、柳の木を交わして前方に進んだ。永久がその後に続き、優も一番最後から従った。
地面がゆるやかな下り坂になると、吊る草や実生が密生する大地に頭まですっぽり呑みこまれた。これでは方向が分からなくなりそうだったので、少し高くジャンプすると、今度は柳の木々の枝葉が体にからみつき、鞭のように体を叩く。優は進むのを躊躇して、先に行った二人から遅れてしまった。
一方で、永久の飛翔術の上達はこの短時間で目覚ましく、先頭の流和に遅れることなく着いて行っているようだ。
「ねえ、ちょっと待ってよ! っわ、っと、うわあああ!!」
吊る草が足に絡まって転びそうになったので、優は体勢を崩したまま無理に浮力を使ってジャンプした。そして白樺と柳の葉に視界を奪われたまま、体だけが重力に任せて落下して行く。前が全然見えない上に、どれくらい下まで落ちるのかが予想もつかない恐怖に、したたか優は悲鳴を上げた。
バサバサバサッ!!
森のカーテンを抜けて突然開けた視界の先に、ひときわ大きな桜の木と、その周りに集まる多くの生徒たちが見えた。ベラドンナの白いブレザーの流和と永久もそこにいる。その瞬間、思っていたよりも地面が遠くにあることが分かり、優はゾッとした。自分は今、崖から落ちているのだ!
宙に放り出された優の体は重力に引きつけられて落下の一途をたどる。
目の前で走馬灯のように景色が過ぎ去り、物凄い速さで近づいて来る地面を前に、優は慌てて浮力を呼び戻そうと手を伸ばした。
「危ない! 優!!」
「何あの子、こっちに突っ込んでくるわよ!」」
地面にいる流和と美空が同時に叫び、周囲のダイナモンの生徒たちが巻き添えをくわないように慌てて避難する。
今まさに地面に頭から衝突しようとしている優は、浮力を集中した両手を地面に伸ばし、押し返した。
その体に生まれながらに宿っている魔法の力、炎の瞬きが優の周囲を覆った。地面を押し返した反動で前方宙返りをした優は、空中でスケート選手のように2回転したあとに、かろうじて両足で地面に着地したのだが、体はそれだけでは止まらない! 優は瞬時に両足を踏ん張りしゃがみ込んだ状態で地面の上を数メートルもスライディングしてからやっと止まることができた。まるで忍者や映画のアクションスターのような動きだ。
周囲の生徒が唖然として見つめる中、優はホッと溜め息をついて額の汗をぬぐった。
「セーフ……」
「何がセーフなものですか、ベラドンナの明王児優! 遅刻ですよ」
見ると、桜色のローブを身にまとった桜坂教頭が険しい顔で優を睨んでいた。その後ろには、他に3人の先生らしき人がいる。
「それに、龍崎流和、山口永久、あなたたちもね」
「申し訳ありません」
「ごめんなさい」
流和と永久はすぐに謝ったが、優だけは首をかしげて桜坂教頭を見返した。
「何ですか? 明王児優。何か言いたいことがありそうですね」
「……いえ、何でもありません。ただちょっと、変な感じがして」
優は素直にそう言った。
たった今、大事故を免れたばかりなので、気が動転しているだけなのかもしれないが、桜坂教頭を見た瞬間に、優は何か奇妙な違和感を察知した……。
というのも、今優の目の前にいるのは確かに桜坂教頭の姿をしているのだが、なんだかいつもと違う感じがしたからだった。気持ちの悪い違和感。そういえば、暗闇の間で魔女に憑依された永久を見たときにも、優は似たような違和感を感じたのだった。でも、そのときの感じとも少し違うようだ……。
「まったく、呆れたものですね。あなたのせいで、皆は授業の開始時刻を遅らせなければならなかったのですよ? それに、こちらにいらっしゃる賢者ゲイルも、播磨先生も神山先生もね、皆お忙しい中、わざわざ時間を割いて特別にお越しになっているというのに、謝罪の言葉もないのですか」
「ごめんなさい。ここまで来るのが、すごく大変で……。私、ダイナモンの授業にはとてもついていけないと思います。病弱だし」
「そのようですね。ですが、ベラドンナの生徒だからと言って、あなたを特別扱いするわけにはいかないのです。さあ、生徒の列にお戻りなさい。本日は全員参加の必修授業です」
優は肩をすくめて踵を返し、流和と永久のいる列に加わろうとした。
「待ちなさい!」
優のその態度が気に入らなかったと見えて、桜坂教頭が怒鳴った。
「あなたのそのふてぶてしい態度は、火の魔法使い特有のものなのでしょうかねえ。反省の色が全く感じられません。罰として、今日の課外授業ではいかなる状況でも杖を出すことを禁じます!」
「え、でもこの森では、はじめから杖を出してはいけないんでしょう? 神聖な狼たちがいるから」
「口答えするつもりですか! これは明王児優、あなただけではなく、ここにいるすべての生徒に対して与えるペナルティーです!」
「桜坂教頭! なぜ僕たちまで?」
東條晃が異を唱えた。
「連帯責任です。一人の遅刻が皆の遅れとなり、一人のミスが、皆の命にかかわる窮地につながる。実戦ではよくあることですから、覚えておきなさい」
桜坂教頭が冷たくそう言い捨てたので、それ以上何も言う者はいなかった。
ただ、ダイナモンの多くの生徒がこの瞬間から優に敵意を抱いたことは間違いなさそうだった。
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