月夜にまたたく魔法の意思 第5話9





昼食前の鷲時計が鳴る頃。
優は薬師丸先生に連れられて、東の塔の長い螺旋階段を上って行った。

まるで、絞首刑に処せられる囚人のように、のろりのろりと階段を上る優を、薬師丸先生が苛立たしげに何度も足を止めて振り返った。
優の足が重いのは、体力がないのと、精神的な重圧の問題のせいだ。

――鞭でお尻を叩かれる。

朱雀の言った言葉が頭から離れない。
そんなのは、昔の映画の中の話だけだと思っていた優は、それでもしかし、ダイナモンならば今でも実際にあり得るのだろう、と覚悟を決めようとしていた。
いっそのこと、逃げてしまおうか、という考えが優の頭をよぎったとき、長かった階段が終わり、紫色の絨毯の敷かれた廊下の先に、重厚な両開きの扉が見えた。

「やっと着いたな。さあ、真っすぐに進むんだ、猿飛業校長がお待ちだ」

薬師丸先生が優の背中を押して、先に歩かせた。
目の前の扉を見つめながら、このまま永遠にたどり着くことがありませんようにと祈りながら、優は柔らかな絨毯の上をゆっくりと進んだ。
祈りは聞かれず、真鍮製の扉はすぐに優の目の前に来た。

ドアベルもノッカーもない。えらく錆びついていて、重たそうな扉だ。
本当なら、ドアをノックして中に入るのが礼儀なのだろうが、この真鍮製の扉を手でノックしても、意味がなさそうだと思った優は、迷うことなくドアに手をかけた。

瞬間。
真鍮製の扉から火の粉が舞いあがり、扉全体が燃える石炭のように赤く光ったので、優はドアから手を放した。
みるみるうちに、扉に大きな鳥の彫刻が浮かび上がってきた。
なるほど、魔法の扉か。
優はその美しい扉の彫刻に魅入られ、まじまじと、そこに描かれている一羽の鳥を見つめた。大きな、キジのような、尾びれの長い鳥が、扉の中央に、真っすぐとこちらを向いて描かれている。
その姿は燃えているが、痛みも熱さも感じない。ただ一つ感じるのは、強い炎の力だけだ。
優には、扉の彫刻の鳥が、まるで生きているように見えた。

「わあ、綺麗」
特に意識することなくそう呟いた優は、再びドアにそっと手をかけた。
すると、優の耳もとに、やけにガラガラした声が飛び込んできた。

――『押すのでもなく、引くのでもない』

「え?」
それはまさに、優が扉を押し開けようとした矢先のことだった。「押すのでもなく、引くのでもない」?
優は少し驚いて、手を止めた。声がどこから聞こえてくるのかと、辺りを見回すと、扉の上に古びた電気スピーカーが、まるでこの空間にはそぐわない形でとってつけたように備えられているのが見えた。ただし、配線はちぎれていて、どこにもつながっていないようだ。

再び、さっきのガラガラした声が語りかけて来る。

――『賢者の住まいに続く扉は、炎の礎。その扉は、命の息で開かれる』

優はポカンと口を半開きにして、スピーカーを見上げた。
どう考えても、あのスピーカーから聞こえて来る声ではない。と、すると……。

優はほぼ直感的に、真鍮製の扉の中に刻まれた、大きな鳥に目を止めた。ルビーのように光る鳥の目と、優の目が合う。

「なるほど、あなたね」
ついに声の主をつきとめた優が、ニヤリと笑った。

「何を呟いている?」

背後から、薬師丸先生が不思議そうに優に問いかけてきた。

「え?」

優はいぶかしげに、自分を見つめる薬師丸先生と、扉の鳥の彫刻とを交互に見やった。
もしかすると、この鳥の声は先生には聞こえていない?
でも、そうだとするととても不思議だ。ベラドンナの魔法の本しかり、ダイナモンの大浴場の蛙しかり、どうしてこういうことが優の身にだけ次々と起こるのだろう……。

彫刻の鳥が、優にウィンクした。鳥のくせに。
――『校長がお待ちかね。さあ』

そう鳥に言われ、優は戸惑いながらも、扉にそっと自分の息を吹きかけた。
するとどうだろう、扉が音をたてて開き始めた。途端に、強いジャコウの香りが優の鼻先をかすめる。
薄暗い部屋の奥から、猿飛業校長のしわがれた声が、優を招いた。

「よく来たな。さあ、中に入れ」

優が部屋の中に入ると、その背後ですぐに扉が閉まった。

「これは一体、どういうことでしょう」
薬師丸先生が、たった今閉まったばかりの扉と優とを指さして、驚いた顔を校長に向けた。
不死鳥の扉を、優が自分で開けたのでビックリしている様子だ。

業校長は静かに優を見つめると、やがてニコニコしながら口を開いた。
「聖アトス族の勇気と、魔法使いの賢さ、それに、ナジアスの優しさを兼ね備えておる」

「と、いうことはつまり? この子はアトスと魔法使いの混血児ですか? しかも、ナジアス系の」
「ナジアス系のということは、シュコロボビッツ系のということじゃな、二人は結ばれたのだから。 明王児 優、と言ったな」

「あ、はい」

業校長と薬師丸先生の言っている意味がよく理解できなかった優は、少し遅れて返事をした。

「そなたの両親の家系について、教えてはくれぬか」
業校長の質問に、優がすぐに答える。
「父はガーネットの魔法使いで、母は人間でした。……二人とも、死にました。魔法使いに殺されたんです。だから私は、魔法使いにはなりません」
「なるほど、そうであったか。だがの、明王児優、そなたはまだ若い。自分の生き方を決めるのを、そう焦ってはならぬ」
業校長は落ちついた様子で、優を諭すようにそう言った。
だが、優はそれには返事をせずに、ただ黙って校長を見つめ返した。
魔法使いにはならないつもりだった。優の意思は固く、これからもきっと変わることがない、と、優は思った。

「さて、本題に入るとしよう。薬草学の授業で、大爆発を巻き起こしたそうじゃな、リュウマチ薬の調合中に」
「……、はい、ごめんなさい」
優は態度を一転、唇を噛みしめて、薄暗い校長室の中を密かに見回した。
お仕置き用の鞭はどこにあるのだろうか。長いのか、短いのか、棘がついているのか。鞭のことを考えただけで、優の身体から血の気が引いていく。

校長は話を続けた。
「薬師丸先生から詳しい状況を聞いたところ、あの爆発は、ファイヤー・ストーム、別名、『竜の巣』と呼ばれるものだったそうじゃな。とても火力が強く、誰にでも作りだせるものではない」
「ごめんなさい」
「いやいや、謝ることはない。強い火力を操れず、クラスメイトを危険な目に合わせたことは褒められたことではないが、幸い死人は出なかったし、皆、軽傷じゃ。罰として、薬師丸先生からすでに厳しい課題が提出されておるじゃろう。今日、薬師丸先生がそなたをここに連れて来たのは、もっと別の要件があってな」
「……、え。でも、じゃあどうして」
優の疑問をみなまで言わせず、校長が話を続ける。
「今日、そなたをここに呼んだのは、そなたの強い火力を見込んで、一つ頼みを聞いてもらいたいからじゃ」

業校長が、紫色の長いローブを引きずって、優の前までやって来た。
驚くほど背の高い老人なのだが、重たそうな山高帽が災いして首が縮まり、その歩く姿はやっぱり亀のように見える。

これから校長に何を言われるのか、という緊張と、その校長の歩き方が面白すぎて今にも笑いだしてしまいそうな気持ちが混ざって、優の顔がひきつった。

「実は、我がダイナモン魔術魔法学校では数種のドラゴンを飼育しておってな」
「ッ!? ドラゴンて、本当にいるんですか?」
優の驚いた表情に、業校長もつられて驚いた顔になる。

「もちろん、居るとも。だが、誰にでも触れるものじゃないし、奴らはとても気難しくてな。ドラゴンは今や、魔法生物絶滅危惧種に指定されておる。そんな中、我が校のドラゴンの一匹が妊娠したのじゃ。正式名称、フィアンマ・インテンサ・ドラゴンというイタリア発祥のドラゴンなのじゃが、これがまたドラゴンの中でも特に気性が激しく、巨大で、火力があるため、手を焼いておる」

優は、校長の話をポカンとして聞いていた。目は真剣だが、校長の言っていることが半信半疑なので、口は半開きになっている。
朱雀ならアホ面と言って怒りそうなものだが、業校長は極めて寛容に話を続けた。

「フィアンマ・インテンサ・ドラゴンは、日本名で激炎竜(ゲキエンリュウ)と言う。普段から手がつけられないのに、妊娠しているフィアンマ・ドラゴンはさらに最悪じゃ。この学校でフィアンマ・ドラゴンに無事に出産させ、子育てをさせるためには、どうしても炎の魔法使いの力が必要なのじゃ。つまり、竜の巣の。竜の巣は、生まれて来る子ドラゴンの良い寝場所になるのじゃ。……、言っている意味が分かるな?」

優が少し考えてから、首を振った。

「できないと思います」
「だが、薬草学では出来た。しかも、リュウマチ薬からな。実際に竜の巣を作るときには、もっと火力の高い魔法薬を使うのだぞ」
と、薬師丸先生が口を挟む。

「でも、薬草学のときは偶然、ああなってしまっただけで、あれと同じことをやれと言われても、多分できないと思います」

優の言葉に、業校長と薬師丸先生が顔を見合わせた。
そして、業校長が厳しい顔で言う。

「この学校では、『できない』と言うことは許されないのじゃ。もし、そなたが何もやる前から『できない』と言い張るのなら、こちらにも考えがあるぞ。例えば、鞭とか」

優がハッと息を呑んだ。
「でも……」

「だが、もしもやってくれるなら、鞭に変えて飴をやろう。ドラゴンの妊娠雌の面倒を見、生まれて来る子どもに竜の巣を与える努力を最大限惜しまずにやると約束さえすれば、このワシがお前に、何でも欲しい物を一つ与える。どうじゃ」

優は小さく溜め息をついて、うつむき、自分の靴の先を見つめた。
さすが、ダイナモンはベラドンナとは違うな、と思う。
ベラドンナでは、どんなことでも『できない』と言い張れば、見逃してもらえた。でも、ダイナモンではそうはいかないのだ。
出来るか出来ないかは別として、まずは、やってみることを求められる。

遠くの方で、お昼を知らせる鷲時計が鳴るのが聞こえた。
ここで『やる』と言わなければ、業校長は優を校長室から解放してくれないだろう。

「わかりました、やってみます」
蚊の鳴くような細い声で、優が校長に答えた。
業校長が、即座に満足そうにほほ笑む。
「よろしい。では、そなたの欲しい物を一つ言ってみよ。今日中に、ワシがそれを与える」

校長は、先に優に飴を与えるつもりなのだ。
そうすることで、優に意地でも暴れドラゴンの面倒を見させようということだろう。やるな、校長。

気は進まなかったし、優の欲しい物を業校長が本当に今日中に与えることができるかは大いに疑問だったが、それでも優は一つ、どうしても今すぐ欲しい物を言った。

「寮の部屋に、バスルームが欲しいです。大浴場は、なんか苦手で……。小さいのでいいんです、浴槽とシャワーがついてるの」
こんなお願いは却下されるだろうかと思ったが、校長は一度頷くと、
「承知した」
と言って、中指をパチンと打ちならした。

「明王児 優、今日からお前を、ダイナモン魔術魔法学校のドラゴン飼育員として任命する。後に、魔法生物学の熊骸(クマガイ)先生が詳細を説明しに行くだろう。心してかかれ」
「……、はい」

すっかり元気を失った優の肩に手をかけて、業校長が上機嫌で優を校長室の外に送りだした。
恐るべき、業校長。
優は、ダイナモンの恐ろしさを改めて実感して、重たい足取りで食堂に降りて行った。





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