月夜にまたたく魔法の意思 第5話8





幸いなことに、死者は一人も出なかった。


「なかなかやるじゃないか」

煤(すす)だらけの地下廊下で、朱雀が自分の肩にかかった火の粉を払い落して、優に微笑んだ。
しかし、朱雀のその言動や態度は、とても場違いで、浮いていた。
他の生徒たちはみんな、自分が生きているのか死んでいるのかを確認するのに精一杯で、誰も言葉を口にできないでいる。
蒼白な顔で、ただ茫然としている可哀そうな子たちもいるではないか。

そんな中、薬師丸先生が生徒たちの無事を確認して、忙しく歩き回っていた。
何人かの生徒たちが、背中や腕に火傷を負っていたので、保健室に運ばれて行った。

やがて、全員の無事を確認した薬師丸先生が、ローブを翻して足早に優に近づいて来た。
綺麗に整えられていた薬師丸先生の髪は乱れ、煤をかぶっている。

「明王児 優!」
長身の薬師丸先生が、優を恐い顔で見下ろして眼鏡をずり上げた。キラキラした縁なし眼鏡の片方がひび割れて、ダメになっている。
「あとで私と一緒に、校長室に来るように」
罰則を免れないことは明らかだった。優は口を引き結んで、薬師丸先生を見上げた。

「はい、先生」

薬師丸先生はそれだけ言うと、立ちすくむ優を置いて、怪我をした生徒たちを追って地下の階段を上って行った。

その日のダイナモン魔法学校の午前の授業は、薬草学の教室が爆発し、消滅したことで中断された。
その腹いせにか、薬師丸先生は生徒たち全員に大量の課題を出した。
ドラゴンの髭から作れる魔法薬100種類を調べ、作り方と効用をレポートにまとめること。さらに、魔法界の7大薬草をそれぞれ100グラムずつ採取すること。さらに、各自自分で材料を採取して水虫の治療薬を調合すること。
すべてをこなすには、1ヶ月あっても足りるかどうか怪しい。しかし薬師丸先生は、課題の提出が認められなければ、薬草学の単位はいかなる理由があっても与えないと断言した。

リュウマチ薬を完成させることのできた生徒は一人もいない。順調だった朱雀の鍋も、優の鍋の最初の爆発で吹き飛んでしまったのだ。

そんなわけで、優は薬草学の授業を受けていた他の生徒全員から恨みを買った。
死にそうな目に合わされたのも、大量の課題が出されたのも全部、優のせいということなのだ。
冷たい視線と、怪物でも見るような恐怖の視線が優に注がれたが、誰も何も言わなかった。
みんな、優のことを恐がっていて、口をきくのもはばかられるようだ。

「わざとじゃないのよ、本当なの。ごめんなさい。ただちょっと、蛙を逃がしただけなの。悪かったわ」

優のことを取り囲んでいた数人に向かって優がそう言っても、誰も取り合ってくれなかった。
ダイナモンの生徒たちは呆れと疲れの混じった表情で、立ち去って行った。
流和と永久が、憐れむように優の肩をたたいた。

「まさか、こんなことになるなんてね」
「そうね。校長室に呼ばれるなんて、最悪だわね。でも、これで優だけ先にベラドンナに帰れるかもしれない」
「わざとじゃないんだよ。蛙を逃がしただけなの……」
優が必死に、ことの成り行きを親友に説明しようとしたとき、朱雀が口を挟んできた。

「蛙のせいじゃない。お前の火が強すぎたんだ」
「どういう意味?」

優の疑問に、吏紀が代わりに答える。
「魔力封じのゴーグルをかけていた後遺症だ。自分の力を上手くコントロールできなくなってる。だから、必要なときに魔法が使えなかったり、全然意識していないときに魔法が暴走したりするんだ」
「そっか、それで……」
吏紀の話を聞いて、流和が納得したように優を見た。

「優、教室中の釜に火をつけたのはやっぱりあなたでしょう。しかも、一瞬で。授業のはじめ、私と空の炉にもなかなか火がつかなかったんだけど、優が自分の炉を火鉢で叩いて何か言った途端に、教室中の炎が燃え上がったのよ」
「あ、私のところにも火がついたよ、そのとき」
と、永久も合槌をうつ。

「それは朱雀がやったんだよ。分からなかった?」
「いいや、分かってないのはお前だ。俺は誰の炉にも火をつけてない。お前がやったんだ」
「うそ、やってないよ」
「いや、やった」
「やってないって」
―― チッ
朱雀が舌打ちした。

「だから、自分の力をコントロールできてないって言うんだ。あの時、君は自分では意識しなかったかもしれないが、魔法を使ったんだ」
と、吏紀が間に入る。

そして朱雀が溜め息混じりに口を開いた。
「いくら灰をかけて炎を小さくしても、お前の火の威力は全然落ちてなかった。それどころか、灰をかけられた炎は怒り心頭してたぞ。炎を小さくするときには、灰をかけるんじゃなく、なだめてやらなきゃいけないのに。だからお前はバカなんだ」
「そんなこと言われてもね……。私はもう魔法使いじゃないんだから」
優が口を尖らせた。

その瞬間、朱雀が指をパチンと鳴らして優の顔の前に炎をまたたかせた。
「きゃあ! 危ない、何するの」
優が驚いて身体をのけぞらせた。
「お前は火の魔法使いだ」
「いいえ、辞めたのよ」
間髪いれず、朱雀が、またパチンと指を鳴らした。
朱雀の炎が優の髪に伸びた。すると、優の髪はキラキラと緋色に輝いて炎を退けた。
「ほら見ろ、お前は火の魔法使いだ」
「綺麗ね」
と、横で永久が呟く。

「パチパチやるのはやめて」
優が朱雀の手を振り払う。

「二人ともそれくらいにしたら? 痴話げんか見てるみたいで、気分が悪くなってきた」
空が苦笑いしながら口を出した。

「そうだ二人とも、そうやってどうでもいい議論をしているうちに、本当の問題を見過ごしてしまうんだぞ」
吏紀がたしなめる。

「本当の問題?」
朱雀が3度目に指を鳴らして優を怒らせた後、吏紀を振り返った。

「火の魔法使いが自分の力をコントロールできないのは、非常に危険だということだ」
「なるほど、それは言えてる」
「あげく、俺たち全員を丸焼きにするところだった。もしかしてまだ怒ってるのか? 昨日、お前の貧乳を……」
「空! やめて」
流和がすぐに空を黙らせて、話題を切り替えた。優に、昨日の浴場での話はタブーだ。

「そもそも、優から無理やり魔力封じのゴーグルを取り上げた朱雀にも、問題があるんじゃない? こうなることが、分かってたはずでしょう」
「何言ってる。火の魔法使いが魔力封じのゴーグルをかけていたこと自体が想定外だ。こうなったのは自業自得さ」
「だな。魔力を封じるという禁忌を犯したんだから、今となってはどうにもできない。しかし、優はこのままじゃまずいな。試しの門を受けるまで、もうそんなに日がないし……」
「平気さ。校長室に行って尻を鞭で叩かれれば、甘えた態度も腐った心意気も変わるだろう。そうなれば、俺がみっちりしごいてやるから」
朱雀がニヤリと笑って優を見た。

「ベラドンナに帰りたいよ」
優がしかめっ面で流和に抗議した。だが、こればかりは流和にもどうすることもできない。
昨日の沈黙の山の事件を考えると、賢者の鏡でベラドンナに帰るのは危険だ。今度はどこに引きずり落とされるか分からない。

「逃げようとしても無駄だぜ」
空が流和にウィンクしながら、地下出口に向かって歩き始めた。

朱雀がその後に続く。
「逃げられるわけないさ。空も飛べない奴は、ここから一歩も出られない」

最後に吏紀が、優、永久、流和の3人を見回して、幼い子どもをねんごろに諭すように言った。
「もし外に出たくなったら、足で歩ける道があるのは東側だけだ。この辺の森にいる銀色狼は、沈黙の山にいる黒狼より手ごわいから、気をつけろよ。無事を祈ってる」


「吏紀くんて、優しいのか意地悪なのか分からないときがある」
3人がいなくなってから、永久が呆れたように呟いた。
「アイツはそういう奴よ。親切のつもりでいろいろ教えてくれるけど、大抵はイラっとさせられる」
と、流和が両手を上げて降参のポーズをして見せる。
空を飛ばずにダイナモンから自力で逃げ出すことは不可能だ。東の森を歩いて抜けるには、校長の許可がいる。

優は、がっくりと項垂れて暗い天井を見上げた。

「ダイナモンなんて大嫌い。私、どうすればいい?」
「どうもしなくていいのよ、優。 大丈夫、3人一緒なら乗り切れる。試しの門まであと数日じゃない、それまでの辛抱よ。試験を受けて、私たちが予言の魔法使いでないことがハッキリしたら、すぐに安全な方法でベラドンナに送り返してもらいましょう」

「そうよね。せいぜい、あと数日じゃないの。頑張りましょう、優」

流和と永久がそう言って優を励ますが、薬草学の教室を爆発させて校長室にまで呼ばれてしまった優は、今やとても事態を楽観視することはできなかった。
何かとても、厄介な事が起こる予感がしてならない……。


一方、優たちを残して先に地下から上がった朱雀、空、吏紀の3人は、午前の残りを自分たちの寮で過ごすために北東の塔に向かっていたが、
3人とも一様に気がかりな思いを抱えていた。
最初に口を開いたのは空だ。
「なあ、アイツの力に驚いてるのって、俺だけかな」
するとすぐに、吏紀も口を開く。
「いや、リュウマチ薬からファイヤーストームを引き起こすなんて、ちょっと考えられない火力だと思う。今まで、明王児優がシュコロボビッツだということにいまいち確信が持てなかったが、あれは間違いない。本物のシュコロボビッツだ。朱雀はどう思った?」

優の火力に驚きを見せる空や吏紀とは違って、朱雀はまるで別の考えに浸っていたかのように、上の空でこたえた。
「ファイヤーストーム……別名、竜の巣。確かにいい火力だった。……なあ吏紀、ベラドンナの図書室に、真理の鏡があったの覚えてるか」

突然の朱雀の言葉に、吏紀が少し首をかしげながらも頷く。
「ああ、そういえばあったな。たしか歴史書の棚の近くに。それがどうかしたのか」
「お前が優と『アシュトン王の功績』を読んでた時、真理の鏡に映る優の姿が、紅炎に包まれていた」
「紅炎って、まさか……火の魔法使い最高火力の紅炎のことか? それって、火力だけで比べれば朱雀の蒼炎よりも上だよな」
空が驚きを露わにして足を止めた。
その横で、吏紀が顎に手を当て、考え込む。
「蒼炎と紅炎……、驚いたな。伝説の2つのシュコロボビッツが、この時代に同時に揃うなんて」

だが、朱雀が考えているのはもっと別のことだった。
「俺が気になるのは、薬師丸のことだ」
両手を制服のポケットに入れて、廊下の真ん中を幽霊のように進んで行く朱雀に、すれ違う他の生徒たちが道をあける。
物思いに沈む朱雀には他の生徒の姿は、おそらく見えていないのだろう。ダイナモンの生徒たちは、すれ違いざま肩をぶつけて朱雀の思考を妨げるようなことがあれば、間違いなく自分に災難が降りかかるということをよく心得ていた。

「薬師丸がどうかしたのか?」
「今まで薬師丸から罰則を与えられた生徒はたくさんいたけど、校長室に連れて行かれるのは今回が初めてだ」
「そりゃ、教室を大破させたんだから、優が校長室に連れて行かれるのは当然じゃないか?」
「いや、解せない。薬師丸も、あいつのファイヤーストームを見たはずだ」
「だから?」
「つまり、薬師丸は優に罰則を与えるのではなく、何か別のことを考えてるって思ってるんだな、朱雀は」
「多分な。……確証はないが、気になるんだ」
朱雀がイラついた様子を隠しもせずに呟いた。

「へえ」
「ほお」
空と吏紀がそれぞれ、当たり障りのない合槌をうった。
朱雀が制服のポケットに両手を入れている時は、退屈しているときか、イラついているときのどちらかだ。

思いつめた表情で不機嫌に廊下を歩いて行く朱雀を見て、空と吏紀が互いに目配せしながら、少し驚いた顔をした。
朱雀が他人のことを自分のことのように気にする姿を、空と吏紀は今まで見たことがない。

前に、みんなが隠れて、朱雀にビックリパーティーを準備しているときも、朱雀はこんな風に不機嫌になった。
それが自分にとって良いものであるにしろ、悪いものであるにしろ、朱雀は秘密や嘘が大嫌いなのだ。
先の読めない展開や、予想外のことが自分の身に起こることを極端に嫌う。だから何か疑わしい気配を感じると、朱雀は決まって不機嫌になる。
今までは、自分のためだけに。

だが今回は違う。
朱雀は今、優の身に起ころうとしている何か予測不可能な事態を案じて、不機嫌になっているのだ。
朱雀は自分でそのことに気づいているのだろうか?

親友の空と吏紀には、そんな朱雀の姿が不思議に思われたのだった。




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