月夜にまたたく魔法の意思 第5話3





部屋を出て、どこをどういうふうに階下に降りたのかは覚えていない。
ただ、最初に寮の部屋に向かったのとは絶対に違う道を通って、優たちは流和に連れられ、白い柱が並ぶエメラルド色の回廊まで降りて来た。
上ったときよりも多くの階段を下った気がするので、もしかしたらそこは地下なのかもしれなかった。
屋内なのに、そこには庭園が広がり、ジャスミンやカモミール、その他さまざまなハーブの香りのする湯気が立ち込め、水の流れる音が聞こえてきた。

白い光が注いでいるので、優は目をすぼめて天井を見上げた。すると驚くことに、そこには天井がなく、絵に描いたような空と雲が広がっていた。

「ダイナモン魔法学校の魔法の大浴場にようこそ」

空や雲は魔法だと流和が説明する間、優は目の前に広がる巨大な泉を見つめて、あんぐりと口を開けた。
「まるで、高級リゾートのプールみたい」

壁から滝のように水が注ぎ、広間一面に巨大な泉を形成している。盆を重ねたような噴水があちらこちらにあって、それが湯気を立ち昇らせているのだ。
水の上には六柱殿がいくつも建っていて、中には石造りのベッドや椅子が設けられている。

「お湯はどこからきてるの?」
永久が不思議そうに訊ねた。

「聖アトスの聖水を地下から引いているのよ。水を沸かしているのはドラゴンと、炎の妖精たち。ここの聖水には、石鹸やシャンプーを使わなくても、ただつかるだけで身体を清められる不思議な力があるの」

優と永久は、流和に導かれるまま、泉のほとりのエメラルドの回廊を左回りに進んだ。
「昔の人は、地中から湧き出す熱をもった水を、地獄からの魔の手ではないかと恐れた。でも、聖アトス族の知恵のある学者アスクレピオスは、地から湧き出た水に摩訶不思議な力があることを発見し、人々に入浴をすすめたの」
そう言って、流和が浴場に描かれている巨大な壁画を指差した。
そこには、怪我をして包帯を巻いた人や、老人や、若い子どもたちが、9つの泉につかっている様子が描かれていた。
「なるほど、そのおかげで、この素晴らしいダイナモンのお風呂が存在するってわけね」
と、永久が頷く。

「あの絵はどういう意味なの? お風呂が9種類あるみたいだけど」
「そう、ここには9つの源泉があると言われていて、その水質は全て異なっているの。傷を癒すのに良い泉とか、心を癒すのに良い泉、それぞれあるけれど、一日で全部を回るのはちょっと、しんどいわね。何度か入るうちに、そのうち分かっていくと思う。ただし、実際には8つの源泉しか見つかっていないから、9つめを探そうとしても無駄よ。9つ目の源泉は、あると言われているけど、伝説みたいなもので、実際に入ったことのある人は極めて少ないの」
「伝説の泉? 何よそれ、どんな泉なの?」
永久が興味を示して聞いた。

「魔法には伝説がつきもの……その伝説の泉は、フィーリアの泉と言うのよ。ギリシャ語で、友愛という意味。実際に存在するかどうか、私には分からないわ」
「不気味。それってなんだか、怪奇現象みたいだね。行方不明になった人とか、溺れ死んだ人とかいる? このお風呂で」
優はお風呂の伝説には慎重な態度だ。

「まさか! そんな事故が起こったという話は一度も聞いたことがないわ。大丈夫よ、泉の番人が私たちをいつもどこかで見守っているの」
「泉の番人!? それって、ライフセーバーみたいなものかしら、どこにいるの? いくら命を守ってくれるって言っても、裸を見られるのはちょっとね……」
永久と優が辺りをキョロキョロ見回した。だが、夜明け前という時間帯なので、優たちの他には誰もいない。

「実は、泉の番人についても詳細は不明。正確には、会ったことのある人はいない。つまり、守り神のようなものっていうか……、ある人は、それはアスクレピオスの亡霊だとも言うし」
「うわっ、不気味!」
「優ったら気にしすぎ。流和が言っているのはただの伝説よ」
「まあ、そうね。泉の番人の話も伝説にすぎない……でも、ダイナモンにはよく出るのよ、幽霊が」
「勘弁しよて! 一人で寝れなくなっちゃう。もう、帰りたい」

優が本気で怒るので、流和と永久がクスクス笑った。
白い大きな柱の立つ建物まで来ると、流和が足をとめて、持って来た着替えを近くの石像の持つ盆の中に置いた。
「ここが、レジーナよ。ダイナモンの大浴場には4つの建物があって、西にはレジーナ、東にはエクセルシオール、北にはトレッタ、そして南にはサルーテがあるわ。今私たちがいるレジーナには喜びと平安の泉が流れていて、ここは主に、女の子たちがゆっくり入浴するところよ」

流和がそう説明しながら、制服を脱いで入浴用のローブに着替え始めた。
永久も流和に習って着替え始めたが、優だけは心配そうに辺りを見回した。
「ねえ、見た感じ、ここの大浴場には仕切りがないけど、男の子たちはどこにいるの? 着替えを見られたりしない?」
「仕切りはないけど、誰も覗いたりしないわよ。男子は東のエクセルシオールにいる。そこが、彼らの縄張りだから。明確な境界線はないし、互いに相手の泉に入っちゃいけないなんてルールはここにはないけど、大丈夫、今までバカな真似をした生徒は一人もいないから」
「私、混浴風呂って初めてなんだよね。なんか、気が引けちゃう」
「そのためにローブを着るのよ。泉の中で、もしもバッタリ異性に出くわしても裸を見られないように」
「そっか」

流和に言われて、優もやっと汚れた制服を脱ぎ始めた。

「ねえ、西が女子で東が男子の泉なら、北と南はどんな泉なの?」
優が入浴用のローブに着替えるのを待つ間、永久が聞いた。

「北側にはトレッタと呼ばれる可愛い塔があるの。あそこには善意と誠実の泉が流れていて、イベント事や交流をするのに使われているわ。楽しい気分のときに行く泉ね。水温も低めだから、サロンつきの公共プールみたいなイメージかな。男女兼用の場所だから、あそこではローブを脱がないように気をつけてね」
「なるほど。南側は?」
「南側はお勧めできないわ。南のサルーテには柔和と自制の泉が流れていて、しかも美しい庭園があってね、水妖精たちが一日中音楽を奏でているの。ここにある泉の中で、最も美しい場所……でも、あそこはダイナモンの性格の悪い奴らが集まる場所で、彼らはとても排他的なの。よそ者とか、自分たちが認めない生徒をサルーテから締め出して楽しんでる。卑劣な連中に何をされるか分からないから、あそこには絶対に行っちゃダメよ」
「嘘でしょ、ダイナモンの子たちって、そんなに酷いの? お風呂で地取り争いなんて」
永久が信じられない、という顔をした。

「具体的に、どんなことをされるの? もしもあそこに、間違って入っちゃったら」
と、黒いローブに着替えた優が挑戦的に南側を見据えた。

「優ったら、バカなこと考えてるんじゃないでしょうね、絶対に入っちゃダメよ? お願い、心配させないで」
「ねえ、教えてよ。もしものときに想定しておきたいの」
「もしも、なんてないわ。ダイナモンに来たからには、私があなたたちを守るんだから。でも、最後に私がサルーテに行ったときは酷かった……。あのときは、間違ってサルーテに入って来た新入生の男の子が、無理やりローブを脱がされて素っ裸で逆さ吊りにされてた……私、あれ以来、サルーテには行ってないの」
「酷い辱めを受けるってことね。優、流和の話を聞いてわかったでしょ? あそこには、間違っても行くべきじゃないわ」
「わかった、あそこには絶対に行かない」

優はローブの胸元をしっかり締め直して、少しでもサルーテに行ってみたいと思ったことを後悔した。

それから、優、流和、永久の3人は湯気のたつ泉のほとりに腰をおろし、つま先をお湯につけてみて、湯加減がちょうどいいことを確かめてから、ゆっくりとお湯の中に入った。
「見て、汚れがどんどん落ちて行くわ!」
体中にこべりついた泥がみるみるうちに消えて行くことに気づいて、はじめに永久が感嘆の声を上げた。
「それにこのお湯、とってもいい香りがする。カモミールかしら」
「汚れはすぐ落ちるし、怪我にもいいのよ」
そう言った流和の顔色が、早くも回復のきざしを見せていた。
だが、優は胸に強い痛みを感じて顔を歪めた。黒狼に引っ掻かれた胸の傷が、思ったよりも深かったようだ。
泉の水がその傷にしみて、塞がりかけていた傷口から再び血が滲みでて来た。

「流和、どうしよう、血が出てきちゃった。すごく痛いわ……」
「優! 本当だ、血が出てる。黒狼に引っ掻かれたやつね、見せてみて」
流和が優のローブを開いて、胸の傷を覗きこんだ。
「うわ、ザックリいっちゃてるわね。本当、痛そう……でも、これくらいなら大丈夫よ。 この先に癒しの滝があるの。そこにいる蛙の水をかければ、すぐに良くなるはずだわ。着いて来て」
そう言って、流和が優の手を引いて、泉の奥深くに泳ぎ出した。
永久も心配そうに、お湯の中を泳いで来る。

泉の上に点在する六柱殿や噴水を越えて、しばらく泳いで行くと、ゴーゴーという音とともに、小さな神殿が目の前に建っているのが見えた。
神殿全体が薄い水の滝に覆われていて、周囲に水の粒がキラキラ飛び散っている。

「あれが癒しの滝よ」
流和が、滝のすぐそばまで優を引っ張って行った。

「ここは男子のいるエクセルシオールのすぐ近くだから、私と永久はここで見張ってる。優はあの滝をくぐって、神殿の中に入ったら、小さな蛙の像が水を吹き上げているから、ローブを脱いで、傷口に直にその水をかけてね。ほら、いってらっしゃい」
「わかった、行って来る。でも待っててね! 絶対に置いて行かないでよ」
そう言って、優は胸までつかる泉の中をフラフラしながら進み、何度か振り返って流和と永久がちゃんと自分を待っていることを確かめてから、恐る恐る滝の中をくぐって行った。

滝をくぐる瞬間は恐かったが、中に入ってしまうと、優が思ったよりも静かだった。
白い柱と水の壁に囲まれた神殿の中には、外で感じた滝の音はほとんど聞こえない。
代わりに、静かに水の流れる音が聞こえてきたので、優はその音を頼りに蛙の石像を探した。

水を掻き分けて奥に進んで行くと、優はすぐに、石造りの木の枝の上に、蛙の石像が一つだけあるのを見つけた。
蛙の口から、他の水とは違う金色に輝く水が、緩やかな放物線を描いて岩の上に吹きだしていた。その岩は、人が一人座るのにちょうどいい大きさだったので、優は水から上がって岩の上に腰かけ、蛙の水を傷に当てるためにローブの胸元を開いた。

だが次の瞬間、それまで一定の速度で流れ続けていた蛙の水が、突然止まった。

「え? ……嘘、なんで」

今まさに自分の傷口に蛙の水を浴びせようとしていた優は、目の前の石像を凝視した。
しばらく待ってみても、蛙の口から再び水が噴き出す気配はない。

水を出すのに、スイッチのような物がどこかにあるのか、それとも、岩に座ったのがまずかったのだろうか。
優は蛙の水が出なくなった原因を探って、首を傾げた。
するとその直後、もっと信じられないことが優に起こった。


「お嬢さん、新顔じゃな」

蛙が喋ったのだ。
見間違いではない。
優はその時、蛙の口が動くのをはっきりと見たし、エメラルドのはめられた蛙の目が、生きているように優を見ていることにも気付いた。
開きかけたローブの胸元をしっかり締め直して、優は蛙を睨みつけた。

「驚いて声も出ないか」

蛙が嘲笑った。

「喋るとは思わなかったの、まさか、蛙が」
優はそう言いながら、ベラドンナの魔法の図書館のことを思い出した。
だが、初めて本たちが喋ることに気がついたときに比べると、優の感動は薄かった。
むしろ、お風呂で無防備な状態になっているときに、こう突然と石像に話しかけられては、感動と言うよりも、不愉快の方が強い。

「人と喋るのは久しぶりじゃよ、もう、300年ぶりくらいになるか。お前さんがここに入って来た時、古い知人が久しぶりに戻って来たのかと思ったんだが、どうやらワシの勘違いだったようじゃ。よく見ると……似てはいるが、全然違う……」
「傷を治すのに、ここの水がいいと聞いてやって来たの。血が止まらなくて」
本たちもそうだが、ここの蛙も話が長そうだ。優は要点だけを蛙に伝えた。

「ワシの話を聞き流すつもりかね。これだから若い者は……傷を治してほしければワシの話に付き合え」
「疲れてるの」

優がイラつきを隠さない声でハッキリそう言うと、蛙は口を閉ざし、一言も喋らなくなった。
しかも、水を吹くことさえしない。
傷を治したければ、蛙の話に付き合えということか。

「わかった、似てるって、誰に?」
優が諦めて話に応じると、蛙はすぐに喋りはじめた。
「その目、その髪、そして、痩せっぽっちのその身体。かつて、シュコロボビッツを救った優しい乙女に、そっくりじゃ!」
「もしかして、炎の魔法使いシュコロボビッツとナジアスのことを言ってる?」
「ワシはあの子を、ナージャと呼んでおった。素晴らしい魔法使いだった」
「私は魔法使いじゃないの。だから、ナジアスとは違う」
「それなら、何故、ワシと話ができると思う」
「分からない。蛙さん、何者なの?」
「ただの蛙じゃ」
「名前は?」
「名などない」
蛙が突然、話しにくそうに態度を一変させた、と、優は思った。

「傷を治して欲しいじゃろ、ほれ、傷を見せてみろ」
「歳は何歳?」
「この姿になってから、歳を数えることを止めた。ほら、早く傷を出せ、ワシの気が変わらないうちに」
蛙は何かを隠しているようだった。だが、優には関係ない。石像の秘密を探ることより、今は傷を癒してもらうことのほうが大事だ。
優はローブを肩からおろして、蛙が水をかけやすいように、上半身を出した。

「そっとやってね。とても痛いの」





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