月夜にまたたく魔法の意思 第4話9





二人とも、全身ずぶ濡れで震えていた。春先の夜は、やはり湖で泳ぐには早すぎたようだ。
湖から上がった流和と空の二人は、乾いた地面の上で互いを見つめあった。
ナイアードの爪は、二人の着ている制服を切り裂いて皮膚まで到達し、赤黒い染みを浮き上がらせていた。

「大丈夫かい」
「私は平気よ、それよりもあなた、ひどい傷だわ」

流和が手に持っていたピンク色の真珠を地面に落として、空の右手を持ち上げた。
ナイアードの一匹に噛まれた空の傷から、血がぽたぽたと滴り落ちている。傷の周りが早くも黒く変色していた。

「平気だよ」
空は傷口から血を吸いだして吐きだす、という動作を数回続けてから、制服のネクタイをほどいて、きつく自分の手に巻きつけた。
それでも血は、すぐにネクタイを浸透して染みを広げて行く。

「血が止まってないわ」
流和の声が不安に震えた。
それでも流和は、冷静さを失わずに空の顔色を伺い、周囲の状態に気を配ることも忘れなかった。
現役を離れていたとはいえ、流和は元ダイナモンの優秀な生徒だった。実践での注意力は鈍ってはいない。
人間の体重の約8%が血液量だとして、その3分の1が出血すると、命に危険が及ぶ。
でも、空の顔色からすると、まだ意識はしっかりしているようだし、貧血状態にも陥っていないようだった。
流和は少しほっとして考えた。それに、空には治癒魔法があるではないか、と。

空はすでに治癒魔法で止血を始めていた。

問題は、二人の血の臭いに誘われて、沈黙の山に潜む獣がやって来ないかどうかだ。
流和はほぼ瞬間的に、宙からサファイヤの杖を取り出して、やがて来るかもしれない獣に備えた。

「ナイアードの牙には毒があって、凝血作用を妨げるんだ。だから出血がなかなか止まらない……。でも、こんなのは序の口だよ。奴らが本気だったら、今頃俺は、幻覚に捕り付かれて正気を失ってたに違いない」
「ナイアードたちは、本気じゃなかった?」
「そういうこと。君を心から愛していたおかげで、僕は救われたんだ。晴れて、恋の試験に合格、ってわけだな」
空が、不謹慎にへへへと笑った。


「ごめんなさい、私のせいだわ。ナイアードなんか、召喚しなければ良かった、こんなことになるなんて……」
「はじめてだったの?」
「そうよ」
「信じられない、そうだったのか!?」
空が目を見開いて流和を見つめた。
「俺はてっきり、今回はたまたま調子が狂っただけなのかと……。だって、どうしてあんなに沢山のナイアードを召喚したんだ? 少なくと5、6匹はいたよな」
「私にもわからないわ。1匹で良かったのにね……」
「まったく……、この貸しは大きいから、覚えておいてくれ」
「悪かったわ、本当にごめんなさい」

流和が、舌足らずな口調でもう一度謝って、空の頬にそっとキスをした。
瞬間、空の顔に笑顔が浮かぶが、それでも空は、悲嘆にくれた様子で話を続けた。

「治癒魔法でも血が止まらないみたいだ。あとで、朱雀に焼いてもらわなくちゃ……。ちゃんとキスしてくれないと、元気が出ないよ……」

空の言葉に、今度は流和がニヤリとほほ笑む。
「ダイナモンに着いたらね」
「それまで無事に生きていられるかどうか……」
「空ったら、こんなときに悪い冗談を言うのはやめてちょうだい、悪い人ね」
「あれ?」
「……、え?」

突然、空が、今までとは違う調子で流和の背後に目を止めた。
流和も、空の視線の先をたどって振り返って、はっと息を呑みこんだ。

暗い地面の上で、真珠が光っている。先ほどまではピンク色だった手のひらサイズの大きな真珠が、今は確かに青白く光っているのだ。
しかもその輝きは、刻一刻と強さを増していくみたいだ。

「善悪の石が、光ってる」
「これって、いいことなのかしら……?」
流和が地面から真珠を拾い上げた。空が首を振る。

「分からない、朱雀に聞いてみよう」



流和と空が最初のポータルを手に入れて湖から無事に上がった、ちょうど同じ頃、沈黙の山の頂上では吏紀と永久の二人が2つ目のポータルを探しているところだった。
朱雀は、白い真珠が山のてっぺんにあると言ったが、てっぺんと言ってもいろいろある。
何かもっと、詳しい説明を聞いて来るべきだった、と吏紀は思った。

沈黙の山の頂上には木が生えておらず、尖った岩肌が空に突き刺さるようにそびえているだけだ。
ロッククライマーが好んで昇りそうな岩肌ではあるが、とても素人が徒歩で昇るのは不可能な絶壁だ。
もっとも、沈黙の山には一般の登山客はやって来ないだろうが……。

絶壁の下の、かろうじて歩ける傾斜を永久と二人でぐるぐる周ってみたが、ポータルらしき物は見当たらない。
すると、永久が絶壁の上を指さして言った。

「上で、何かが光っているように見えるわ。誰か、いるのかしら」
それは青白い、懐中電灯の灯りのようにも見えたのだ。

「見て来る。君はここで待っていてくれ」
吏紀がいとも簡単に浮力を掴んで宙に舞い上がった。
飛ぶことに不慣れな永久は、できれば自分は絶壁の上までは行きたくなかったので、吏紀に言われた通りにじっと待った。

浮力を操れない人間が昇るのは不可能だとも思える、崩れかかったとんがりの先に、吏紀は確かに光る物を見つけた。
もちろん、辺りには吏紀の他には誰もいない。
空気が薄くて、月と、無現に広がる空の他には何もないその場所で、吏紀は青白く光る2番目のポータルを手に取った。

「見つけたのね」
宙から降りてきた吏紀を見て、永久が嬉しそうに言った。夜が更けて来て、気温が下がってきている。
永久は寒かったので、これでやっと暖かい場所に移動できると思った。

だが、吏紀は浮かない顔だ。

「危険探知の石が光ってる。どういうことかな……」
辺りは暗く、風一つない静けさは先ほどと変わらない。それなのに、今、吏紀が手に持っている危険探知の白い真珠は、刻一刻と輝きを増しているように見える。

「危険を察知すると青白く光り出す、って、朱雀くんは言ってたけれど……」

永久が不安な面持ちで辺りを見回した。沈黙の山には黒い狼がいる、と、流和が言っていたことを思いだしたのだ。

「長居は無用ってことかな。集合場所に戻ろう、飛べるかい?」
「ええ」

吏紀と永久がそろって、沈黙の山の麓に向かって飛び立った。




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