月夜にまたたく魔法の意思 第4話10




流和と空が最初のポータルを見つけ、永久と吏紀が集合場所へ飛び立とうとする少し前、朱雀は最後のポータルを手に入れるため、沈黙の山の中腹にある魔女の墓に向かっていた。

空中でスケートボードを踏むように、優を乗せた杖を足で操る朱雀は、上空の月を見上げて、今が真夜中を少し過ぎた時間であることを知った。
夜明け前が一番暗い。何か悪いことが起こるとすれば、真夜中を過ぎた時間帯だ、と、朱雀は思った。

山の西側には大地が痛々しく裂けた崖があり、それを越えると、柳の木の群落がある。
夜の針葉樹の森も不気味ではあるが、柳の森はもっと不気味だった。

「寒いね」

と、優が誰に言うでもなく呟いた。もしかしたら、ゲイルの予言書に言ったのかもしれない。
朱雀は急降下をして、低空飛行をはじめた。柳の葉が、朱雀の浮力に押されて軽やかな音を上げながら道を開く。

「眠くなって来ちゃった」

優が口に手をあてて、小さな欠伸をした。
こんな時にぎゃあぎゃあと喚かれても煩くてたまらないのだが、優のように緊迫感がないのもウンザリする、と朱雀は思った。

「着いたぞ」

とびきり不気味な柳の巨木の下で、朱雀は地面に降り立ち、杖を宙にしまった。
眠いと言っていたくせに、地面に下ろされた優はテクテクと辺りを散策し始めた。

「すぐ近くに崖があるから、死にたくないならジッとしてろよ。それでもお前が早死にしたいって言うなら、俺は止めないけどな。俺は石を取って来る」
朱雀はそう言い残すと、柳の木を迂回して森の中に入って行った。

残された優の目の前には、見上げるのも困難なほど大きな柳の木が立っている。
まるで、お化け屋敷の入り口を塞ぐカーテンのように、柳のツルがびっしりと垂れ下がっていた。

「どう思う?」
――とっても不気味。

優の問いかけに、ゲイルの予言書が答えた。

風のない静かな夜。満月は白く輝いている。
ふと、優の鼻孔をかすかな香りがかすめた。これは、何の香りだっただろうか……?
さすがに鼻のない本に香りのことを聞いても無駄だろう、と、優は匂いの元を探して辺りを見回した。

ほどなくして、優はまた同じ匂いを、今度はさっきよりも強く感じた。
どうやらそれは、薔薇の香りのようだ。ただし、聖ベラドンナ女学園に咲き誇っていたような、フェニキアバラや、ブルガリアンローズのような上品で甘い香りとは違って……もっと鼻を刺すような、苦い薔薇の香り。
もしかすると、この暗闇のどこかに野薔薇が咲いているのだろうか。
似たような香りを、優は、賢者の鏡の中に閉じ込められて、ムーンカードを燃やしたときにも感じたような気がした。

でも、全ては気のせいかもしれない。
優が感じた薔薇の香りは、この時もまたすぐに消えてしまった。

朱雀はまだ、戻って来ない。
遠くの方で、狼の遠吠えが聞こえた。そういえば流和が、ここには黒狼がいると言っていたっけ。
野生の狼なんて初めてなので、優の好奇心にたちまち火がついた。

真夜中の森で、狼の遠吠えを実践してみたことのある人は、世界にどれだけいるだろう。

深く息を吸い込み、口を尖らせて、顔を上に向ける。
「ウォオーーーーーーン」
優は力一杯、夜空に声を張り上げた。

生まれて初めての狼の遠吠えは、どうやら上手くいったようだ。
優の声に応えるように、遠くの方でまた狼の遠吠えが上がった。さっきよりも長い。
優は再び息を大きく吸い込んで、口を尖らせた。

「ウォウォーーーーーーーーーーーーン」
今度は、長さよりも声の高さで勝負だ。最初よりも高い声で、優は夜空に声を響かせた。
我ながら上出来だ、と、優が思った次の瞬間、優のすぐ背後で狼の遠吠えが響き渡った。

その瞬間、優は全身の筋肉を硬直させ、息をするのも忘れるほど震えあがった。
まさか、自分の遠吠えが本物の狼を呼び寄せてしまったのだろうか……。
どうしよう。

ゲイルの予言書を胸に抱え、恐る恐る振り返ると、そこに朱雀がいた。

「俺の方が上手い」
片手に黒い真珠を持った朱雀が、ニヤニヤしながら優を見ている。

優は一気に脱力して息を吐いた。
本物の狼じゃなくて良かった。と、ほっとしたのはいいけれど、狼と朱雀ではあまり違いはないかもしれない、と優は思った。

「どんなに上手く鳴いても、黒狼は俺たちにはなつかないぞ。昔、魔女の手下だったからだ」

そう言って、朱雀が優と向かい合って立った。
月明かりは、女性を美しく魅せる……。かつて空が朱雀に言ったことは本当だったみたいだ。
魔力封じのスキーゴーグルを外したおかげで、優の瞳の紅は深さを増し、その強い魔力の現れである髪のウェーブは、炎のように神秘的な曲線を描いていた。
優が人間界の育ちではなく、人間とのハーフでもなければ良かったのに、と、朱雀は思った。

そうして朱雀が優の瞳の輝きに見入っていると、突然、空に一本の光が昇った。
星一つない夜空がたちまち暁色に染まり、辺り一面を赤い光が照らしだした。

まるでそれを合図にしたかのように、風が吹く。
柳の木々がざわめき、垂れ下がっていた枝が揺れ動いた。風は山の頂上から麓に向かって吹いている。

朱雀が夜空に上った赤い光を見上げた一方で、優は、風でベールが解かれた木の根元に注意を引かれた。

「美空の救難信号だ!」
朱雀が空中から回転するルビーの杖を取り出した。

「また、あの匂いがする! あの柳の木の方からだわ!」
目の前の巨大な柳の木の中に何かがある、いや、何かが居ると優は思った。とても嫌な予感がした。
だが、それを確かめる前に、杖に乗った朱雀が優の身体を抱え上げた。

「ちょっと、何するの!?」
「あの柳の木の中には魔女の墓があるんだ! そんなものに用はないだろ。美空たちに何かあったんだ! 急がないと、手遅れになるかもしれない」
片手に黒い真珠と、反対の手には優を抱えた朱雀が、目の回る速さで山の東側に向かって飛び立った。

山の東側には、公安部の待機所の様子を見に行くために、美空と聖羅が向かっていたのだ。
まさにその方向から、暁色の光が空に立ち上っていた。

優は朱雀の脇の下から黒い山を見た。それは、沈黙の山だ。
そして、山の上に昇る、大きくて真っ赤な月を見た。美空の救難信号の光を受けて、月が赤く見えているのだ。

――沈黙の山に赤き月が昇るとき……

優の胸の中でゲイルの予言書が唸った。
上空から振り返ると、柳の木の群落の方へ、黒い狼たちが集まって行くのが見えた。

――古の魔女は墓より目覚め、地獄の門を開かんとせん。


恐怖は感じなかった。優にはあまりにも、現実離れしていることのように思われたからだ。
ただ、ゲイルの予言書に書かれていることと同じことが起こっている。
優はそれに気が付いているのに、どうすることもできない。おそらく朱雀も気が付いているのだろう。
だが、朱雀にもそれを止めることができない。

その時、朱雀の手に握られている生死の石が、淡く輝きを帯び始めた。
誰かが死ぬ直前に青白く光り出すという、死神の石だ……。





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