月夜にまたたく魔法の意思 第3話8





最初でこそ、朱雀に引きずられてわめき散らしていた優も、ガラスのカフェテリアを出てしばらくすると、すっかりおとなしくなった。

――朱雀には出来るそうなのだ。
魔女が人魚姫から声を奪ったのと同じように、朱雀は優から声を奪うことができるらしい。
声を奪うぞ、と朱雀に脅された優は、それから拗ねた子どものように静かになった。

口を結んで朱雀の後をついて歩きながら、優は考えた。
走って逃げるのはダメだ。朱雀は炎の蛇を持っているのだから、逃げ切れるはずはない。
優は言われた通り、図書室の鍵を開けるしかないのだ。
顔見知りをする本たちはきっと、嫌な顔をするだろう。それでなくてもゲイルの予言書は、自分の身が狙われてると思って神経質になっている。
優には図書委員として、本たちを守る義務がある。

でも、図書室の鍵を開けたとして、高円寺朱雀は自分の力でゲイルの予言書を見つけられるのだろうか……?
そんな疑問がよぎり、優は、灰色のブレザーをカッチリと着こなしている朱雀の背中を見つめた。性格が悪いのに、制服は優等生気どりで上品にまとっているから、余計に憎らしい。
もし、朱雀が目的の予言書を見つけられなければ、彼はその本を手にする資格がない。
もちろん、朱雀には見つけられないはずだ、と優は思った。
こんなに乱暴で性格ブスの人間には、どんな本だって見つけられるはずがないのだ。
朱雀が本を見つけられなかったら、優は知らないフリをすればいいだけだ。ゲイルの予言書なんて、見たことも聞いたこともない、と。

ダイナモンの生徒を図書室に入れるのは不本意だが、このさい仕方がない。
どうせ、朱雀には目的の本を見つけることができないだろう。
今、優にできることは、事態を見守り、本の意思を最大限に尊重してやることだけだ。

朱雀にはゲイルの予言書を見つけられるはずない、という結論に至った優は、急に気持ちが軽くなっていくのを感じながら、朱雀に話しかけた。

「人魚姫って、本当にいるの?」

人魚のように声を奪うと言ったからには、朱雀は本当に見たことがあるのかもしれない。
優は、人魚の物語には並々ならぬ興味があった。

だが、朱雀は答えない。
優はブレザーのポケットの中に手を入れ、図書室の木扉の鍵を握りしめた。

「ねえ」
「なんだ」
「人魚姫って、本当に……」
突然、朱雀が恐い顔で優を振り返った。
「黙ってろって言っただろ、お前の声は聞きたくない。一言も喋るな」
「……」

朱雀が指を振って魔法を使うような素振りを見せたので、優はまた口をつぐんだ。なんて嫌な奴だろう。
気持ちのいい春の陽光も、コイツのせいで台無しだ。
優は小石を蹴飛ばして、気に入らないという態度を全身から醸し出した。
だが、蹴り飛ばした小石が、間違って朱雀に当たらないようにだけは気をつける。今度怒らせたら、何をされるか分からない。

後ろを振り返ると、少し離れた所を九門吏紀がついてきていた。
今は朱雀に言われた通り黙っていろ、と、吏紀の目も語っている。

優は、内面に湧き上がる闘志をメラメラと燃やしながら、おとなしく図書館への道のりを従った。
本校舎から離れたグラウンドの脇を通り抜けると、その先に図書館へ続くイチョウ並木が続いている。
やがて、見慣れた白亜の建物が見えて来ると、ほのかに薔薇の香りが漂ってきた。
淡いピンク色のブルガリアンローズと、白いフェニキア薔薇の庭に囲まれた図書館は今日も変わらず美しくて、芳しい。

聖ベラドンナ女学園の生徒が、この美しい図書館をほとんど利用しないのは、優には少し残念だった。
素晴らしい本がいっぱいあるのに、その本を読むことができるのは一握りの生徒だけだ。
蔵書数10万冊を誇る聖ベラドンナ女学園の図書室も、誰も利用しないなら宝の持ち腐れだ、と優は思う。

図書館の鉄扉の前まで来て、朱雀は、壊れた南京錠の欠片を蹴散らした。

「なるほど、お前が言ったとおり、闇の魔法使いがやったってことに間違いはなさそうだ。鍵を壊した奴は、すでに予言書を持ち去ったかもしれない」
吏紀が、散らばっている南京錠の欠片を鋭く見つめて言った。
朱雀が鉄扉を注意深く調べて、指でなぞってから、吏紀に答えた。
「いや、おそらく、中には入っていない。これを見ろ、ソロモンの知恵の薔薇が敵を追い返したんだ」

扉に彫刻されているフェニキア薔薇の形が変わっていることに、朱雀と吏紀も気がついたようだ。
二人は、彫刻の棘の先に赤い染みがついていることにもすぐに気付いた。

「ソロモンの知恵の薔薇が、無断で図書室に侵入しようとした者を退けたということか」
「そう。強い、守りの魔法だ」

朱雀と吏紀が顔を寄せ合って注意深く扉を検証しているのを、優は蚊帳の外から見守っていたが、やがて口を挟んだ。
「南京錠を壊したのはてっきり、あんたたちだと思っていたけど、違ったんだ」

二人は優の言葉には耳も傾けず、話しこんでいる。

「一度、侵入に失敗したからには、次はもっと強力な奴が出向いて来るだろうな。そうなれば厄介だ。朱雀、中に入れそうか」
吏紀の言葉に、朱雀は首を振った。
「ダメだ。今朝来たときもそうだったが、この扉は形状を変えてから、どんな者も寄せ付けなくなっている。強引に入ろうとすれば、俺たちもこの薔薇の餌食になる。ただ、一人をのぞいて……」

朱雀が優を振り返った。
「お前は今朝、どうやって中に入ったんだ?」
「は?」

優は口をぽかんと開けて、首をかしげた。驚いたり、考え込んだりするときに無意識に口が開くのは、優の癖だ。
優には、朱雀の言っている意味が分からなかった。どうして中に入れないことがあるだろうか。鍵が壊されているんだから、誰でも扉を開けて中に入れるはずだ。
「よし、お前が先に入れ」
朱雀が優の腕をつかんで、扉の前に立たせた。
「わかった、レディーファーストってわけね。ありがとう」
優は嫌味ったらしくお辞儀をするのを忘れずにやってから、言われた通り、鉄扉を押し開けて緑色のエントランスに入って行った。

優のすぐ後を、朱雀と吏紀がついて入って来る。

「近づきすぎないでもらえる?」
肩が触れたのを嫌がって、優が、神経質に朱雀と吏紀から離れた。
痴漢に合ったような素振りの優に、朱雀と吏紀は顔を歪めながら、それでも警戒する様子でエントランスを見回した。

「白い石壁に、床はエメラルドか……エメラルドは、純潔と平和の象徴だ。この床には、争いを好む者を通さない強い魔法がかけられている。一体、この図書館はどうなってるんだ」
「ここが初代ゲイルの魔法で守られてる、っていう桜坂教頭の話は本当みたいだな。じゃなきゃ、初代ゲイルがこんな所に予言書を隠すわけがない。でも、どこかで見たことがあるような建物だと思わないか、この場所」
朱雀が、昨日感じた違和感を再び感じて言った。
それに対し、吏紀は検討もつかない、というふうに首をかしげた。
「デジャブーってやつだろ。夢でも見たんじゃないか? それか、何かの本で見たとか。それより、どうやってこの先に進む?」
「それを今、考えてるところだ」
朱雀と吏紀は、エントランスを半分も進まないうちに足をとめ、また辺りを見回し始めた。
二人の会話を聞きながら、優は真っすぐにエントランスを渡り、図書室に続く木扉の前に立った。

「どうしたの、もしかして活字恐怖症? さては、図書室に入るのが恐いのね?」
優はポケットから図書室の鍵を取り出して、それを指先に挟んでユラユラさせた。
そんな優をよそに、朱雀と吏紀は床や壁を探偵みたいに調べ回っている。
「早くしてよ」
優は腕組みして、朱雀と吏紀が来るのを待った。

「魔法がかかってるんだ。解くには段取りが必要なのさ」
吏紀がポケットからナイフを取り出して、それで白い壁の一部をこそぎ落とした。
「ちょっと、それ何? 何やってるの! ナイフなんか持ち歩いて、ダメじゃないの」
ポケットにナイフを持ち歩いているなんて、不良のすることだ、と優は思った。聖ベラドンナ女学園では、そんなの聞いたこともない。
吏紀が壁をナイフでつつく作業に集中しているので、代わりに朱雀が答えた。
「ナイフくらい誰でも持ってる。便利だし、流行りなんだ。ナイフを持ってるってことは、ある種の自己主張でもあり、男にとってはステータスでもある。ネクタイと同じさ」
「そんなの聞いたこともない、壁を傷つけないで! 先生に言いつけるわよ」
優が吏紀に向かって怒鳴った。
「言いつけるだと? それで脅しているつもりか。吏紀、早くしてくれ、小娘がうるさくて気分が悪くなってきた」

吏紀はナイフで掘削した石壁の粉を指の先ですり潰し、しばし観察してから、最後にそれを舐めた。
そこまでやって、ついに結論が出たようだ。
「壁はアトスの石でできてるな」
と、吏紀が言った。
「これは神聖な場所に使われる石で、昔は魔物よけにも使われた」
「アトスの石? まさか」
「間違いない。アトスの石は柔らかく、ハッカみたいな臭いがして、塩辛い味がする。朱雀も試してみるか」
「いや、結構だ」
吏紀に勧められるのを、朱雀は丁寧に断った。
「だが、意外だな。なんでこんな所に使われてるんだ」

吏紀と朱雀の言う「アトス」という言葉には、優も少なからず聞き覚えがあった。
優が読んでいる、『炎の魔法使いシュコロボビッツと火の魔法使いナジアスの伝説』という本にも書かれていたし、確か図書室にも聖アトス族について書かれた本が何冊かあるはずだ。
その中で、聖べラドンナ女学園は聖アトス族と関係が深い、という記述を読んだことがあるが、優はよく思いだせなかった。

ナイフをしまいながら、吏紀が困った顔で朱雀に歩み寄った。
「壁はアトスの石材で、床はエメラルド。ここはいわゆる、聖域だ。純潔と平和の魔法がかけられているこの空間は、どんな魔法を使っても通り抜けられないようになっているみたいだ。もちろん、物理的な破壊行為も効かないだろう。今朝、誰かが図書室に忍び込もうとして外の南京錠を壊したせいで俺たちまで中に入れなくなるとは……困ったな」

エメラルドの床の中央に、外の鉄扉と同じフェニキア薔薇の紋章が刻まれている。
その薔薇の棘は、いつでも侵入者を攻撃できるよう、鋭く伸びている。
図書委員の優だけが、棘に攻撃されることなく図書室に続く木扉に歩いて行けたのだ。
だが、ダイナモン魔法学校の生徒である朱雀と吏紀は、エントランスの中央から奥に進めないでいる。

「どこかに守りの魔法を解く手掛かりがあるはずだ。ある条件を満たすことで自動的に発動する魔法には、必ず発動を解除するための条件もある」
朱雀が床の美しい薔薇を見つめて、考え込んだ。
「皮肉なもんだな、美しい花には棘があるという……。一度くらいなら、そんな棘に刺されてみるのもいいと思っていたが、実際、刺されそうになってみると、いい気分はしないもんだ。棘は死の象徴だ。眠り姫も、糸車の針に指を刺されて死んだんだから」
「でも、眠り姫は王子様のキスで目覚めたのよ」
「お前は黙ってろ、イライラする」
優の言葉に、すぐに朱雀が顔を上げて睨んだ。

「おこりんぼさんね」
「キスが最強の魔法なんて、そんなのは幻想さ。お前みたいなメルヘン気どりの女には虫酸が走る」
「私はそうは思わないな。奇跡はあると思う、それを願う人がいる限り、必ずある」
「死の接吻ならあるぞ、よく覚えておけ。なんなら、後でしてやってもいい」
朱雀が優を見て、ニヤニヤ笑った。だが、その目は全然笑っていない。
朱雀に見据えられて、優は居ずらそうに足をパタパタさせた。しかし、次の瞬間、優を見据えていた朱雀の視線がずれた。

「その扉」
朱雀が何かに気づいたように、目を見開いた。
「どうした、朱雀」
吏紀も不思議に思って、朱雀の視線の先を追った。その先には優が立っていて、優の背後には図書室に続く木扉があるだけだ。

「どうして、その扉だけ木製なんだ?」
朱雀がぼそりと呟いた。
「外の扉は厳重な鉄製だった。エントランスは石材の壁と、エメラルド……ここまで厳重に守りを固めておきながら、どうして図書室に続く最後の扉だけ、そんな安そうな木の扉なんだ」
「確かに、この図書館の荘厳な造りにしては、あの扉は不自然だな」
吏紀も朱雀に言われて、扉を見つめた。
「ちょっと、この扉は、ヤナギハッカから作られてる貴重なものなんだからね、ケチつけないでよ」
「ヤナギハッカ?」
優の言葉に、朱雀の顔つきが変わった。吏紀も、「ヒソプだ」と言って驚いたように息を呑んだ。

「なるほど、魔法を解く方法が分かったぞ。古い歌にある、あの言葉だ。間違いない」
朱雀と吏紀が顔を見合わせた。
「へ? 嘘、どうして」
何かマズイことを言ったような気がして、優は口を覆った。だが、時すでに遅し。
一般的にはヤナギハッカと呼ばれるヒソプには、汚れた者を清くする特別な力がある。同時にヒソプは、怒りを鎮め、赦しを得ることを象徴する木でもある。
魔法界ではヒソプは有名で、その葉から作られた薬もたくさんある。
図書室に続く扉がヒソプの木から作られているということを知って、朱雀と吏紀はすぐに、守護魔法を解く手掛かりを導きだせたのだった。
――木扉に近づく者は、赦しを求めなければならないのだ。
図書室の守りの魔法が発動したのは、闇の魔法使いが南京錠を壊して強引に中に入ろうとしたからだが、そのせいで図書委員以外の人間は誰も中に入れなくなってしまった。朱雀や吏紀でさえ、守りの魔法が解除されなければ、先へは進めない。
朱雀と吏紀は、おもむろに胸に手を当てると、守護魔法を解除するため、床に頭がつくほど、深く頭を下げた。
そして呪文でも唱えるように、二人は言った。

『ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしの罪が清くなるように』

『わたしを洗ってください。雪よりも、白くなるように』

すると、床の中央に描かれていたフェニキア薔薇に変化が見られた。
蕾だった白い花が咲き乱れ、伸びていた棘が、みるみるうちに縮んでいったのだ。
優は黙って、朱雀と吏紀を見つめた。本当に、儀式めいたことが好きな人たちだな、と優は思った。
何がどうなっているのか、優にはさっぱり分からない。

「お前さ、またアホみたいに口が開いてるぞ。指でも、突っ込んでやろうか」
朱雀が真っすぐにエントランスを歩いて来て、優の顔を覗き込んだ。
優は口を閉じて、朱雀の整った顔を見上げて言い返す。
「人の顎の力って、理性的なときでも50キログラムは出るんだって。でも、いざとなれば、数トンの力が出るそうだよ」
朱雀が眉をしかめた。
「どういう意味だ」
「噛みちぎってやる、って意味よ」
「自分の状況がまだよく分かってないようだな」
朱雀が優の肩を乱暴にどつき、優を木扉に押し付けた。

「さあ、扉を開けろ」
「開けてください、でしょ」
優が鼻に皺をよせ、牙を剥き出しにして朱雀を威嚇した。女子生徒にはあるまじき、狂犬のような顔だ。
朱雀が恐い顔で優を睨んだが、優は腕組して木扉の前に立ちふさがり、威嚇を続けた。

「簡便してくれ、二人とも」
また喧嘩を始めだしそうな朱雀と優の間に、吏紀がすかさず割って入った。
普通、同じ属性の魔法使いは仲が良くなるものだが、朱雀と優は正反対だった。ことあるごとに揉め事を起こそうとしている。

「お前らしくないぞ、朱雀、任務を忘れるな。ゲイルの予言書を手に入れることが、最優先だ」
吏紀が朱雀の肩を掴んで落ち着かせようとするが、朱雀は首を横に振った。
「この女、ムカつくんだ」
「朱雀、頼む」

朱雀は普段、感情をあまり外に表さない。珍しいことだった。今までに見たことのない朱雀の様子を前に、吏紀は戸惑いを隠せなかった。
朱雀はどんな任務のときにも無感情で、合理的に仲間をリードするタイプだからだ。それが、ベラドンナに来て優に出会ってからというもの、何かがいつもと違っている。吏紀の前で、朱雀が他人に対してこんなに怒りをあらわにするのは、初めてのことだった。

「鍵を開けてくれ」
吏紀が朱雀の代わりに、優に頼んだ。だが、優は頑として動こうとしない。
「彼が礼節を重んじて私に頼むなら、開けてあげてもいいわよ」
そう言って、優が朱雀を顎で指した。
「いい加減にしろよ、お前。俺を誰だと思ってるんだ」
「あんたこそ、私を誰だと思ってるの。私は、聖ベラドンナ女学園でただ一人の図書委員なのよ。中に入れなかったら困るくせに」
「ああ、そうかい」
朱雀は大きく舌うちすると、腹立たしげに優の背後の木扉をドンと叩いた。

「一度しか言わないからよく聞け。『扉を、開けてください』」
朱雀の声が怒りに震えた。このうえ、さらに焦らされようものなら、朱雀の怒りは一気に爆発していたに違いない。

優は、「よくできました」と一言。
くるりと身体の向きを変えて、図書室に続く木扉の鍵を開けた。





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