月夜にまたたく魔法の意思 第2話11





九門吏紀は黙って、永久に右手を差し出した。
永久がその手を、恐る恐る掴むと、吏紀は永久の体を少しだけ引き寄せて、永久の背中に反対の手を回した。


「永久が転ばないように、ちゃんと支えてあげてね」
と、傍で見ていた優が口を挟んだ。

「魔法使いが転ぶなんてあり得ない。ほら、僕の肩につかまっていいよ」

吏紀は優に見向きもせず、永久に無表情でそう言った。
永久は、「困ったな」という表情で一瞬、優を見た。
だが、優が無言で頷いているので、言われた通り、吏紀のブレザーの肩に左手をのせた。

飛ぶことへのプレッシャーと、ダイナモン魔法学校の男子生徒が、息のかかるくらい近くにいることで、永久の手は汗ばんでいた。
今朝の飛行術の授業で永久が飛べなかったとき、ダイナモン魔法学校の生徒たちに笑われ、酷い罵声を浴びせられたのだ。
吏紀も、それを見て笑っていた生徒の一人だった。


「永久、楽しいことを考えるんだよ、ワン、ツースリー、ワン、ツー、スリー」
優がリズムをとって手拍子した。

永久は唇を噛みしめ、深呼吸して目を閉じた。
ダイナモンの生徒が近くにいるだけで、楽しいことなんて考えられそうになかった。
人間とか、魔法使いとか、一体何がそんなに違うんだろう、と、永久は思った。
上手くできないことを、みんながバカにする。
人間社会に普通に生きて来た永久は、ある日突然、魔法使いだと言われてから、自分が何者なのかが分からない。
魔法使いだと言われて聖ベラドンナ女学園にやってきたけど、永久は3年たった今でも、空を飛べないからだ。


永久はちっとも浮かびあがらなくなってしまった。
永久を支えて待つ吏紀も、それを傍で見守る優も、何も言わなかった。
ただ、固く閉じられた永久の瞼から、涙が溢れ出て来た。

暗くなった大空の広間に沈黙が流れた。

「飛べるよ、永久。絶対に、できるよ」
優が言った。
だが、永久は俯いたまま首を振った。

「でも、飛びたいでしょう?」

優の問いかけに、永久は涙を呑みこんで頷いた。
「もしもできるなら、私も空を飛びたい」

「それなら永久、忘れないで。本物の魔法使いは強い意思で空をはばたくんだよ。大空を翔ける鷲だって、最初は羽ばたくことを恐れるの。鷲だって、飛ぼうとしなくちゃ、どんなに力があっても飛べない。みんな最初は上手くいかないから、頑張って練習するんだよ。言っておくけれど、永久は鷲よりも素晴らしく空を飛べる力を持ってるんだよ」

「そんなことを言ってくれるのは、優だけだね」
永久が、涙声で小さく笑った。

「何言ってるの、流和もそうだよ。私と流和は、いつも永久の味方だよ」
「そうよね、オーケー、もう一度、やってみる」

永久は大きく、何度も深呼吸して、また目を閉じた。
「楽しみ、喜び、感謝、歌声」
永久がおまじないのよにそう唱えると、永久の足もとに、ふわりと温かい風が集まって来た。

永久を支えながらそれを見ていた吏紀が口を開いた。
「まだ、浮力が足りない。もっと、力を解放して」
「でも、恐い……」
浮力を爆発させてしまい、ロケットみたいに飛び出して大怪我をしたベラドンナの生徒を、永久は見たことがあった。

「そのために僕が支えてるんだ。何があっても、僕なら対応できる」
いささか自信過剰な吏紀の発言に疑問を感じながらも、永久は、今は飛ぶことに集中しよう、と思った。
永久は吏紀につかまる手に一層力を込め、かたく目をつむった。

「楽しみ、喜び、感謝、歌声。私の願いは空を飛ぶこと。私の中にある光の力よ、お願い、力をかして」
永久が祈るように唱えると、一瞬、暗い広間に光が飛び散った。

「開け、永久の力」
優も両手を胸の前で合わせて祈った。

すると、今までとは違う強い浮力が、光を伴って永久の周りに集まって来た。
その浮力は吏紀をも巻き込み、永久と吏紀の二人を光の輪が包み込んだ。
それを見た吏紀の口元がほころんだ。
それは、初心者が扱うには危険すぎるくらい、強力な浮力だったからだ。

「さあ、いくよ、しっかり僕につかまって」

吏紀がそう言った瞬間、二人は勢いよく宙に舞い上がった。
大空の広間に強い風が吹き荒れた。流れ星のような光の粒が、広間の闇の中に散って行く。

優は息を呑み、後ずさりした。
「すごい!」
見上げると、永久と吏紀の二人ははるか上空にいた。そのままの勢いで上り続けると、広間の天井にぶつかってしまいそうだ。
「危ない、永久! 止まって止まって!」
優が地上で、あわあわと小刻みにジャンプしながら叫んだ。
だが、優の心配をよそに、勢いよく上って行った二人を、突如紫色の光が包み、永久と吏紀は回転しながら宙にとどまった。

「強い浮力が必要なのは、地上から飛び立つ一瞬だけでいいんだ。あとは力を抜いて、風を感じてごらん。どうやって飛ぶかは風が教えてくれる」

4、5メートルくらいの高さまで下りてきて吏紀がそう言うのが、優にも聞こえてきた。
吏紀の紫色の光は少しずつ消えて行き、やがて永久の光だけで、二人は宙にとどまれるようになった。
それでも、永久はまだ目をしっかり閉じていた。

「永久、目を開けて! すごい、ついにやったんだよ!」
優の歓喜する叫び声に、永久はやっと、ゆっくり目を開いた。
床の上で、優が手を振っているのが見えた。

「優……」
永久の瞳の中に、またじわじわと涙が盛り上がってきた。
「今どんな気分? 最高でしょ!?」
優の言葉に、永久は声で応えることができなかった。ただ、嗚咽を押し殺して、何度も優に頷いて見せた。

「奇跡みたい。ありがとう」

永久の顔がくしゃくしゃになった。
優だけではなく、永久は吏紀にも感謝を述べて微笑んだ。

間近で泣き笑いする少女を前に、吏紀は少し面食らって、顔をそらした。

「4、5メートルは、これくらいの高さだ。明日のテストで必要な高さはクリアしたね。もう、いいだろ……」
そう言って、吏紀は空中で永久から離れようとした。

「ちょっと! 放さないで!!」

永久が体をビクりと震わせて吏紀にしがみついた。

「うわ……」
吏紀と永久の体が空中でバランスを崩して、一瞬、ふらついた。
吏紀は、女の子に抱きつかれるのが初めてだったので、これにはかなり動揺した。
「離れてくれ」という言葉が喉まで出かかった。そんなに近寄らないで、離れて欲しい、と吏紀は思った。
それは永久が人間出の女の子だから、というのではなく、むしろもっと違う、別の感情が原因だった。
なんだか、くすぐったくて、むず痒い感じがするのだ。

「突然放したらビックリするじゃない。落ちたらどうするの?」

そう言った少女は、本当に怒った顔をして吏紀を睨みつけた。恐い顔だ……。
吏紀は眉根に皺を寄せた。笑ったり泣いたり怒ったり、女の子ってみんなこうなのか?
少なくとも、吏紀が知っているダイナモン魔法学校の女子生徒たちは、こんな風に素直に感情を表したりしない。

「もう、一人で飛べるだろ」
吏紀は困った顔で胸元の永久を見下ろした。

「そうだけど……。ちょっと待ってほしいの。自分で放すんだから、あなたはジッとしてて」
永久はそう言うと、少しずつ慎重に、自分のタイミングで吏紀から離れて行った。

女の子の温もりと柔らかさが少しずつ自分から離れて行くのを、吏紀はじっと耐えて待った。
こんな姿は、朱雀や空には絶対に見られたくなかった。

「いつまでかかるの」
空中にいるのにへっぴり腰な女の子は今、吏紀の手を放すタイミングをはかりかねているようだ。
「もうすぐよ」

そう言って、永久は最後の一本の手を吏紀から放した。
「ひゃあ!」

別に何も起こらなかったのに、永久はまたすぐに吏紀の手を掴んだ。
「恐いの?」
「恐いわ、あたりまえよ」

空を飛ぶことが恐い。それを隠そうともしない。それが、吏紀にとっては新鮮で、不思議だった。
でも、嫌いじゃない。吏紀の目の前で飛ぶことと格闘している少女は、「恐い」と言っても、それに立ち向かう勇気がある。
吏紀は辛抱強く、じっと永久が一人立ちするのに付き合った。


そんな二人の様子を地上から見守っていた優は、ニヤニヤしながら何も言わずに、大空の広間をそっと抜け出した。
昨日のムーンカードは、あながち嘘ではなかったのかもしれない。
永久は、アメジストを持つ大地の魔法使いと出会ったのだ。
一方では流和が、エメラルドを持つ風の魔法使い、空と再会した。

「恋の季節だなあ。春だものねえ……」
優はそんな独り言を言いながら、一人で寮に帰って行った。
もし、昨日の図書室のムーンカードの予知が本当だとしたら、これから先、優には「コウモリ」と、「破壊」と、「炎に焼かれた少女」のカードが残っているのだが。
優は、このときはまだそのことを、深く考えていなかった。





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