月夜にまたたく魔法の意思 第2話10





永久は浮力を掴むコツを少しずつ掴み始めた。
足が床から離れるところまではできるようになった。だけど、そこから先が上手くいかなかった。
浮力の調整がとれなくてバランスを崩したり、恐がって、せっかく掴んだ浮力をすぐに失ってしまったりするのだ。

永久は何度も転倒した。
「考えてみれば、空を飛ぶなんて、ここに来るまでは考えたこともなかったんだわ。すごく、恐い……」
何度目かの転倒のあと、永久がスカートの埃を払いながら立ち上がった。

「明日のテストでは、吊り下げられたリンゴまで手が届かなくちゃいけない。だから少なくとも、4、5メートルは宙に浮きあがれなくちゃいけないわね。間に合うかしら」
永久が不安そうに優を振り返った。
「もっと低くしてくれればいいのにね」
と、優が首を振る。
「そうよね。4、5メートルなんて、考えただけでも立ちくらみしちゃう高さよ」

永久は溜め息をついて、再び意識を飛ぶことに集中し始めた。その額にはすでに、大粒の汗が滲んでいる。


日が傾き、優と永久の二人だけしかいない広間に、夜の帳(とばり)が下りて来た。
優は身じろぎ一つせず、じっと永久の飛ぶ練習を見守り続けていた。だが、やがて退屈してくると、優は無意識に辺りの様子に気が回るようになり、あることに気がついた。

ここにいるのは、本当に、優と永久の二人だけだろうか、と。
優の目が黄色いゴーグルの奥でかすかに力を帯びた。封じ込められた優の魔力が、確かに第三者の存在を感じ取っていた。
どうして今まで、そのことに気付かなかったのかが不思議なくらいだ。
今まさに、優の背後に、その人物が歩み寄って来るではないか。

コツコツ、と静かに足音が響いた。
それは優や永久のはいている華奢なローファーのたてる音ではなく、もっとがっしりした男物の革靴の音だった。
その足音に、飛ぶ練習をしていた永久も動きを止め、優の背後に目を向けた。

途端に永久が顔を曇らせたのを、優はゴーグルの奥から見ていたが、優はその人物を振り返らなかった。
ただ、先日から敏感になっている優の魔力が、またしても優に警告とも言える強い印象を与えて、優は確かに感じ取った。
――強い、アメジストの光

背後の人物が聖ベラドンナ女学園の生徒ではないことは明らかだった。
流和が先ほど、ダイナモンの生徒には会わないように気をつけろと言っていたことが思い出され、優は寒気を覚えた。


「そんなんじゃ、いつまでたっても飛べないよ。恐がってるからね」

感情をあまり感じさせない、理知的な男の子の声だった。
男の子は優の隣まで来ると、両手をポケットに入れて、ちらりと優を見下ろして来た。
灰色のブレザーを着た、スラリと背の高い男の子だ。

「あなた、誰?」
優が黄色いゴーグルをかけた頭を、青年に向けた。平静を装ったものの、その口調は、とても無愛想になってしまった。
永久が気を使って、優に耳打ちした。

「彼はダイナモン魔法学校から来てる留学生よ、確か名前は……」
「はじめまして、九門 吏紀だ。君は飛べるのかい?」

吏紀がいきなり、優に詰め寄って来た。まるで何かを探っているみたいだ。
優は吏紀という男の子に接近され、警戒して一歩後ろに退いた。
九門吏紀というこの男の子は、清潔感の漂うハンサムな青年ではあるが、その眼差しには同時に抜け目のない狡猾さが感じられるのだった。

これがダイナモンの生徒。流和の彼氏とはまた違った感じがする、と、優は思った。

「私は飛べないの」
優は吏紀から顔をそむけた。
「それにしては教えるのが上手いんだね」
吏紀がずうずうしくも優の顔を覗きこむ。
「盗み聞きしてたの?」
優の口が不愉快に引き結ばれた。だが、ゴーグルのせいで表情はよく分からないだろう。
「たまたま通りかかったんだけど、まあ、そうなるかな。ねえ、そのゴーグル……」
吏紀が優のゴーグルを興味深そうに見つめ、首をかしげた。

優の心臓の鼓動が早くなった。
自分が火の魔法使いであるということを、ダイナモンの生徒には絶対に知られてはならないのだ。
魔力封じのゴーグルは、吏紀の目をごまかせるだろうか。

「変ってるね」
「へ?」
「いや、なんでもない。変わった眼鏡をしているんだな、と思って。不思議だよ、君からはまったく魔力が感じられない」

優の心配をよそに、やがて吏紀は肩をすくめて、優から目をはなした。

優は心の中でホッとため息をついた。どうやら、気づかれなかったようだ。

「そうなの、私は魔法使いじゃないからね」
と、優は駄目押しで言った。すると、永久が何か言いたそうに眉をひそめた。
永久は、流和と同じで優が火の魔法使いであることを知っているのだ。

「でも、優はひの……」
直後、永久が言いかけたので、優は心底ヒヤリとさせられることになった。
永久はまだ、ダイナモンの生徒がベラドンナにやって来た事情を知らないのだ。
「そうだ! 永久、彼に手伝ってもらったらどうかしら! ダイナモンの生徒はしごく優秀だというよ。きっと、永久が飛ぶのを手助けしてくれるはずだよ!」

「え?」
「え、」

優の言葉に、永久と吏紀が一瞬見つめ合った。
話題をそらすため、優は勢いよくまくしたてた。

「あと少しで永久もコツを掴めそうなのよ。宙に浮く間、吏紀くんが支えになってくれたら、永久はきっと一人で飛べるようになる。ちょっとだけだから、ね、いいでしょう?」
優はそう言うと、吏紀の手首を掴んで引っ張り、永久の手と繋がせた。
このとき吏紀が明らかに嫌な顔をしたので、永久は困ったような目で優を見返した。

「いきなり何を言いだすのよ、優」
「永久、なりふり構ってる暇はないわよ。今、飛べるようにならなかったら、明日のテストでは落第だよ」
「そうだけど……でも、迷惑じゃないかしら」
「何よちょっとくらい! いいじゃないの、何のための留学生なの。さあ、いくわよ!」

優が二人を急かすように、手を打ち鳴らした。
はじめのうちは、吏紀の拒絶するような態度を敏感に感じ取って戸惑っていた永久も、「本当に飛びたいなら意地を捨てて何でもする覚悟じゃないとダメ」と優に言われて、いよいよ覚悟を決めたようだ。
永久は、ずっと飛べるようになるため頑張って来た。今度こそ、どうしても飛べるようになりたかった。
今、それが叶うかもしれない。
永久は、自分よりも頭1個分背の高い吏紀を見上げると、深深と頭を下げた。

「すみませんが、よろしくお願いします」


申し訳なさそうに頭を下げる少女を、吏紀は無表情で見下ろしていた。
正直、魔法界では、「人間の女の子には触りたくもない」という意見が主流だ。吏紀も決して例外ではなかった。
魔力を持たない人間は、魔法使いにとっては理解し難い存在で、汚れている。
これが空や朱雀だったら、汚い手で触るな! と言って激怒していたかもしれない……だがしかし、と、吏紀は冷静に思考を巡らせた。
今、吏紀の目の前にいる女の子は、信じられないことにダイヤモンドを持つ光の魔法使いなのだ。
ダイヤモンドの魔法使いというだけで、魔法界では一目置かれる存在だ。そして、予言の魔法使いである可能性があり、
数日後には校長の命令通りダイナモンに連れ帰らなければならない少女。
その時になって少女が空も飛べないようでは、少女を連れて行く自分たちが手こずらせられることになるのだ。

だから、彼女が飛べるように、ここで手助けしておくことは必要な措置だ、と吏紀は考えた。

吏紀は小さく溜め息をついた。気の進まない仕事だが仕方ない。
骨折りな仕事をする前の儀式のように、吏紀は制服のネクタイを右に左に引っ張った。






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