月夜にまたたく魔法の意思 第10話6




 冷たい雨が降り止まない。それは、優たちが氷の魔女アストラの領域に踏み込んだことを意味していた。
 この魔法の雨は、仲間たちの体力をことさら消耗させた。
 業校長が贈ってくれたフェニックスの羽毛を編み込んだローブを着ていなかったら、きっと今頃、全員が凍え死んでいたことだろう。
 特に炎の魔法使いは、氷の力に敏感だ。空と吏紀は内心、氷の傷から回復したばかりの朱雀の身を案じた。
 今、朱雀の瞳はシュコロボヴィッツの輝きに紅く染まり、真っすぐに前を見据えている。
 どう進むのが仲間たちにとって最善の道なのか、朱雀は神経を尖らせながらも、迷うことなく選択していった。

 西の森の木々はどれも枯れていて、雨よけにはならなかった。ダイナモンの山の柔らかな腐葉土とは違って、地面はゴツゴツとした岩が剥き出しになっている。雨に濡れてその地面がひどく滑りやすくなっているので、優は何度か転んだ。

 それでも優たちは黙々と歩き続けた。会話をする余裕はない。
 半日飛んだ後なので、どこかで少し休みたかったが、立ち止まれば何か悪い物に追いつかれそうな嫌な予感がした。
 辺りには不気味な気配が漂い、10人の気持ちを焦らせるのだった。だから誰も、休憩したいとは言わない。

 ダイナモンを出発する前に先生たちから、西の森に入ってからは飛行術を控えるよう、硬く言い含められていた。
 西の森は本来、光からは離れた場所。楽しみや喜び、感謝や歌声という、人の心の陽の力で浮力を得る光の魔法使いには、飛行術は負担がかかりすぎる。
 いざという時のために浮力を温存するためにも、今は徒歩での移動を余儀なくされるわけだ。

 いずれにしろ、光の魔法使いは西の森に長くはとどまれない。
 魔女は西の森の最奥、光の魔法使いの浮力が全く働かない場所にいる。
 
 みんな、震えていた。真夏だというのに凍えるほど寒い。ローブのフードを頭からすっぽりかぶっているが、すでに全身びしょ濡れだった。
 しかも、もうじき日暮れだ。影が伸びて、刻々と真の闇が迫っているのを告げる。なんて無情に時は進むのだろう、と優は思った。
 時折、黒狼の遠吠えが木魂している。
 早くこの時が終わってほしい。

 尾根を一つ越えて、川沿いに窪んだ渓谷を進み始めた時、美空が突然、怖い顔で優を振り返った。
「伏せて!」
 その剣幕があまりにすごかったので、優はビックリして足を滑らせ、地面にへたり込んだ。瞬間、ブウン! と空気を裂く音とともに、優の頭上をかすめて大きな矢が地面に突き刺さった。
「何これ!」
「黒エルフよ!」
「杖を構えろ!」
 ブウン!
 間髪をいれずに優に襲い来る2本の矢を、美空が自らの弓で叩き落とした。そしてすぐに、反撃の矢を2本撃ち返す。
――すごい!
 敵の姿は全く見えなかったのに、暗闇の向こうで、ギャッ! という叫びと、ドサッと何かがくず折れる音がした。
 命中したんだ。
 優には見えないけど、美空には見えている。
 もちろん優にも、探知することはできた。しかし敵が素早過ぎて、動きを追いきることなんてとてもできない。

 呆気にとられている優を、後ろから東條が掴み起こして、ダイヤモンドの杖を高く掲げた。
『ルミーナ エスト!』
 強烈な白い光が、爆発的に辺りに広がる。

「黒エルフは光に弱い。攻撃されたら強い光で時間を稼いで、逃げるんだ!」
「わかった」
 実戦訓練の時のように東條からそう教えられて、優はようやく我に返った。
 自分に向けられた本当の殺意に、すっかり体が固まってしまったんだ。ここにいる10人の、他の誰かではなく、黒エルフは明らかに優を狙い撃ちしてきていた。
 いまだに、この殺意を優は理解することができない。怖いというよりも、それは優にとって信じがたい事実なので、つい思考が停止してしまう。

 対してダイナモンの生徒は敵から向けられる殺意に鋭く反応して、的確に対処できる。
 これが、実戦を経験している者とそうでない者の違い。

「死をリアルにイメージして反射的に回避する能力は、上級者向けの訓練で身につけるものだからな。死ぬところだったぞ、優」
 吏紀が、周囲の黒エルフを牽制するため手榴弾のような魔法を投げながら言った。

「ありがとう」
「仲間に礼を言う必要はない」
 と、東條が言った。
 命を預け合っているのは、当然のことだから。
「そうよ。口を開いている暇があったら、顔を上げて。後ろは任せたわよ」
「うん」
 美空が優の背中をポンと叩いて、自分のポジションに戻って行った。


 朱雀は振り返らなかった。敵が優を狙ってきているのは一目瞭然だ。だから歯がゆさがこみ上げて来る。
 できれば、優を守るために後ろに下がりたい。だが朱雀が不用意に動けば、チーム全体を壊滅させる恐れがある。先頭を任されるというのはそういうことだ。
少しでも隙を見せれば、陣は簡単に崩されてしまうだろう。上手く隠れてはいるが、周囲にはそれだけ多くの敵が潜んでいるということに、朱雀は気づいていた。
 だから後ろは仲間に任せて、朱雀は前を見ていなければならない。
 仲間を信じて。

 おそらくは、そんな朱雀の心中を最も察した美空が、誰より早く優を守るために動いた。
 朱雀は、それでいいと思った。

「この川沿いを下流に進めば、最初の休憩地点にたどり着けるはずだ」
 龍崎一族とは、そこで合流することになっていた。優たちは、ひとまずその場所までは自力でたどり着かなくてはならない。
 
「あとどれくらい?」
 と流和が聞くと、朱雀が即答した。
「飛行距離にして20分くらいか」
「歩きだと?」
 と永久が聞くと、少し困ったように空が言った。
「4時間くらいでいければいいとこだけど……」
「この悪路じゃ、ざっと5時間てとこじゃないのか」
 と、吏紀。
「最高!」
 三次が冗談まじりにそう言った。

 普段から森の中を歩きなれている三次や桜は、優より年下でも歩みはしっかりしていた。文句も言わずに、前を行く朱雀、空、吏紀に着いて行く。
 そればかりか、三次も桜も、何度も優の手を引っ張ったり、歩きやすい道を教えてくれたりした。
「こういう岩は本当によく滑るから気をつけて。靴は汚れるけど、思い切り泥の中に足を入れた方が安全だよ」
 お陰で優にも、少しずつ歩き方のコツが掴めてきたみたいだ。
 以前の優なら、文句ばかり言っていたと思うが、今は仲間について歩いて行けることが嬉しく思えるんだ。
 一歩、また一歩と森の奥へ進むごとに体はどんどん重たくなってゆく気がしたけど、優は前を進む仲間たちから力を得た。

 そうして2時間ばかり進むうち、辺りはすっかり暗くなってしまった。真夏の日暮れ時にはまだ早いはずなのに、真っ暗な空。
 皆、杖に灯りをともして慎重に進んだ。
 下流に進むにつれて川幅が広くなってきたようだ。
 降り続いている雨のせいなのか、すさまじい激流だ。足を滑らせてあの川に落ちれば、どんなに泳ぎが上手い人でも岸に渡りつくことは難しいだろうな、と優は思った。

 と、朱雀が立ち止り、杖を持たない左手を伸ばして、他の皆にも止まれの合図を出した。
 瞬時に、全員が杖を構える。
 朱雀が警戒しているのは前方の、川の中。水しぶきが狂ったように弾けて白く浮きたっている。

 
――ヒュルヒュルヒュルヒュル! ドドーン!
 鞭が空を裂くような音を誰もが聞いたが、その音がどこから来るのか瞬時に判断することができなかった。直後、朱雀たちがいる前方の地面が吹き飛んだ。
「くっそ、なんだこれ! 棘がある!」
 空と朱雀が、杖を持った手と体を、蛇のようなツルんとした蔓に絡めとられて、みるみるうちに川の方に引きずり寄せられていく。
 見ると、永久の首と、流和の足にも蔓がからみついいる。それは大蛇が地を這うかのごとくうごめきながら、永久と流和を川の中に引きずり込んでゆく。

「忌々しい! 魔力封じだ、みんな下がれ!」
 川の中に引きずり込まれないように、朱雀がかろうじて体勢を維持しながら、他の仲間に叫んだ。
 今までに見たことのない植物で、対処法がわからない。
 
 その時、それまで目の前の蔓を怖いくらい凝視していた桜が、ハッとして叫ぶ。
「それは肉食性のジオテルマンよ! 別名、人喰い【釣る】草。棘には魔力封じの毒があるわ!」
 桜はダイナモンの温室係で、植物には誰より詳しい。

 朱雀が舌打ちした。西の森に関する記述の中で、魔力封じをする植物や生き物がいることを確かに読んだ記憶がある。
 優が正体を隠すためにかけていた魔力封じのゴーグルと同じで、その毒には魔法使いに魔法を使えなくさせる効果がある。
 なんと忌々しい!

 川面から、さらに3本の蔓が飛び出して残りの者を捕捉しようと暴れ回るが、吏紀、東條、美空の3人は朱雀に言われて後方に下がっていたので、上手く蔓草をやり過ごすことができた。

 その時、上空からまた空気が裂けるブウン! という音がした。
 見上げると、無数の白い線……。
―― 黒エルフたちが追いついて来たのだ!
 しかも、今度は数百本もの矢が隙間なく降り注いできたので、優はギョッとして息を呑んだ。
『アヴィエンテ!!』
 東條がひるむことなく杖を掲げた。
 素晴らしく硬度のある光の防御壁が全員の頭上に召喚される。
 もし、東條がそうしてくれなかったら、皆が串刺しになっていたことだろう。
 間髪をいれず、美空が魔法の弓矢を召喚し、天高く黄金の矢を放った。
『グランディング・アロー!』
 美空が放った矢は、数千本にもなって周囲の暗闇の中に降り注いでゆく。 

 優は、ダイナモンの生徒たちの素早い立ち回りを前に、心を震わせた。彼らがいなければ、きっと優はもう何度か死んでいた。

 吏紀がアシュトン王の剣を宙から取り出し、永久に絡みつく蔓をバサリと切り落とした。
  
 朱雀は魔獣狩りの大刀を自らの頭上に召喚すると、落下してきた大刀を足で回し蹴って、自らに巻きつく蔓を切り離した。

 吏紀と朱雀がやったのを見て、三次と桜が、それぞれ日本刀と和刀を手に呼び出し、空と流和の蔓を断ち切った。
 二人とも、どうすれば対処できるのかを学習するのが早い。

 そうして優以外の全員が、人喰い【釣る草】や黒エルフと戦っているとき。
 優は背後に忍び寄る不気味な気配に気づいて、振り返った。
 緊張状態の中で、自然と魔力探知魔法が発動していたみたいだ。
――なんだろう。生き物?……じゃない。
 でも確かに、強い闇の魔力を帯びた、何かが近付いて来る。
 優はルビーの杖を強く握りしめて、暗闇の先に向けた。
 地面がかすかに揺れて、木々の闇の間から、
 優はぽかんと口を開けた。想像していたのと違う……そこに現れたのは、ロボットを思わせる巨大な岩の化け物。
 体長はゆうに3メートルは越えるだろう。デカイ。
 何これ、雪だるまみたい。いや違うか、岩ダルマ、だ。
 
 と、心の中で目の前に現れた物の姿を嘲笑しながらも、それが纏う強靭な黒い力がみるみる増大してゆくのを感じ取って、優のシュコロボヴィッツの瞳が強く光った。


――『フランマ エスト!』
 怒りのこもる朱雀の炎が炸裂し、水中の人喰い【釣る草】ジオテルマンを勢いよく焼きつくした。
 なんて忌々しい魔力封じの毒!
 目の前で燃えて灰となる釣る草を満足げに見下ろしながら、背後で優の強大な力が発動されるのを感じて朱雀は驚いて振り返った。

――『パリエーテム・フラムメア 炎の守護壁!』

「ゴーレムだ!」
 吏紀が叫ぶ。
「きゃああああ!!!」

 朱雀が振り返ったのと、吏紀が叫んだのはほぼ同時だった。そして優が宙を吹き飛ばされて朱雀の頭上を飛んで行ったのも。

「優!!」

 多分、川の中に落ちた。
 一瞬にして、優の姿はどこにも見えず、すでに声も聞こえなかった。

「ゴーレムに魔法は効かない! みんな下がれ、奴にも魔力封じの力があるぞ」
 吏紀がアシュトン王の剣を構えて、直後に三次と桜に振りおろされた巨大な岩腕の攻撃を代わりに受けるが、吏紀、三次、桜もろとも軽々と吹き飛ばされて川に落ちて行った。

 上空からは絶え間なく黒エルフの矢が降り注いでくる。ゴーレムが目前に迫って来ても、東條は少しも防御壁の力を緩められないでいた。
 朱雀が魔獣狩りの大刀を両手で支え、東條に向けられるゴーレムの鉄拳を受け止めた。
 ガーン!
 凄まじい破壊力だ。かろうじて吹き飛ばされずに最初の攻撃を受けても、朱雀もそう長くはもちそうにない。
 昔なら、聖アトス族がゴーレムのような魔法の効かない敵を倒してくれた。だが、今は……どうする?

 朱雀は歯をくいしばってゴーレムの攻撃に耐えながら、必死に思考を巡らした。
 魔法は効かない。上には黒エルフ。足で逃げるのは、おそらく不可能。なら、浮力を使って全員で撤退するか?
 いや、ダメだ。それでは黒エルフの矢の餌食になってしまう。
――優!

 答えは朱雀の中にすぐ出た。他に選択肢はない。

 両手剣をたずさえて加勢しようとしている空に、朱雀が視線を投げた。
「空、みんなを連れて川に飛び込め! 下流に休憩地点がある。そこで合流だ! きっと、先に飛ばされた奴らもそこに行きつく!」
 絶対的に追い詰められた状況下で、誰も異議は唱えなかった。

「わかった。お前はどうするんだ?」
「俺は最後に行く! 東條、みんなが行くまで、防御壁を切らさないでくれ」
「でも、俺が先に行ったら高円寺、お前は?」
「なんとかするさ! 早く行ってくれ、もうもたない!」

 空、流和、永久、美空の4人が、それぞれ杖も武器もすべて宙にしまいこんで、意を決して暗い激流の中に飛び込んで行った。
 
「じゃあ、行くからな!」
 そう言って、東條が川に向かって走りだしながら、ダイヤモンドの杖を回転させて宙にしまった。

 光の防御壁が消えて、途端に上空から黒エルフの矢が降り注ぐ。

 朱雀は東條が無事に川に飛び込んだのを感じ取ってから、最後の力を振り絞ってゴーレムの腕を振りほどくと、降り注ぐ矢の中を川に向かって走り出した。
 自分が持っているのが、優の選んだような小刀じゃなくて良かった、と思いながら、場違いにも朱雀は小さく笑った。

――優って、泳げたんだっけか。まったく、心配ばかりさせられる……。

 朱雀は大刀で矢を弾きながら最後に自分も川の中に飛び込んだ。




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