月夜にまたたく魔法の意思 第10話4




 徐々に大気が薄くなるのを感じながら、東條は後方を気にして舌打ちした。
 朱雀を先頭に、しなやかな鞭のように乱れなく飛ぶ左翼と右翼の間で、優だけがゆらゆらと危なっかしい飛びっぷりで、しかも常に少し遅れ気味なのだ。

 この先、西の森に近づくにつれて大気の乱れはどんどん激しくなるはずだ。魔女が降らせる氷の雨と、邪悪な闇が支配する領域に入れば、今のような飛び方をしていては先へ進めなくなるだろう。ましてや、一日飛び続ければ誰でも疲れが出て、ミスが出やすくなる。東條にしても、いつまでも後方の優ばかり気にして飛び続ける余裕はなかった。

 ポジション代えを提案しようかと思っていると、前方で朱雀の浮力が急激に増した気配を感じて、皆が自分の杖をギュッと握りしめた。――急上昇する!
 朱雀の浮力は後ろに従うほかの全員に働きかけて、次にどちらに進むのかを語らずとも自然と感じさせてくれていた。
 リードが上手い奴だ、と、東條でさえ憎らしくも関心してしまうほどだ。
 すごく飛びやすい。

 大気が蠢き低い呻き声を上げるのは、そこに上昇気流があるからだ。
 だが、高速の気流の中に入るには、体を砕く衝撃が伴う。上手くやらないと全員散り散りに吹き飛ばされるぞ……、と、東條が肝を冷やした矢先、朱雀が前方で杖を蹴って体を垂直に倒した。空と吏紀が躊躇うことなくそれに続くと、左翼も右翼も少しも乱れることなく、実際、東條もほとんど風の抵抗を受けることなく、ただ下から物凄い勢いで突き上げられるようにして一気に上昇した。

 急激な気圧の変化で耳がキーンとなり、明らかな気温の低下で、肌にもピリっとした痛みが走る。
 そして何より、突如現れた強い光に目を細めた。

「うわあ! 綺麗」
 やっぱり少し遅れて雲の上に飛び出して来た優が、背後で呑気に歓声を上げるのが聞こえた。

 足もとには見渡す限りの雲海。雲の峰が渡す水平線から朝日が顔を出している。その光で、雲の海は黄金色に輝いていた。

 地上は厚い雲に覆われ鬱蒼としているが、視点を変えれば世界はまだこんなに美しい。
 優が気持ちよさそうに両手を広げて、太陽の光をいっぱいに浴びて目を閉じるのを見て、東條は前方に呼びかけた。

「あの脳天気娘をどうにかした方がいいんじゃないのか!」

 朱雀が振り返って、優が目を瞑ったまま踊るように飛んでいるのをチラと見やるが、またすぐに前方に向き直って東條に応えた。

「今さらどうしろと……手遅れだ!」
「ええ!? 何かいったあ?」
 優がムッとしたのを感じて、朱雀が腕組みしながら杖の上で後ろ向きになった。逆光でその表情は見えないが、優には朱雀が笑っているような気がする。
「俺と山形から飛んで帰ったときより、ずっとマシな飛び方をしているじゃないか」
「そお?」
「見て、感じながら飛ぶんだ。離れすぎないようにな」

―― 見るのは、仲間たちの息遣い。感じるのは、仲間たちの力の瞬き。

「うん! ここからだと、みんながとってもよく見えるよ!」
 わかっているのか、いないのか。それでも優が自信満々にそう言うのを聞いて、初心者の戯言と一層不安になるかと思ったのに、東條は何故か自分がホッとしていることに驚いた。

 なんだろう、この……、炎の魔法使いの超絶的な余裕は。
 いや、違うな。きっとただ、呑気で無知なだけなんだ。とすると、想像を絶するほど馬鹿な奴は、逆境をはねのけて他人に平和をもたらすというのか。
 東條の心境など露知らず、朱雀と優はいつも通りに会話を交わす。

「着いて来れそうになくなったら、ちゃんと言うんだぞ」
「うん。まだ大丈夫だと思う」
 朱雀はさして突っ込むこともなく頷くと、前に向きなおって左やや後方を飛ぶ空に話しかけた。
「死の沼までは、このまま雲の上を飛ぶ。降下地点が近づいたら知らせてくれ」
「わかった。問題ない」
 
 雲の切れ間がなければ上空からは地上の様子が分からない。かといって何度も分厚い雲をくぐって地上に降り、現在地を確認するのは非効率的なのだ。
 こんなときは、空の探索カラスが役に立つ。
 カラスたちは地上の至る所にいて、常にその様子を空に教えてくれる。どこに上昇気流があり、どこに風が吹いているか、そしてどこに敵がいるか。このような情報収集の仕事はカラスのような、使い魔の仕事だ。
 しかし東雲家の探索カラスは他の使い魔よりも優れ、魔力探知魔法に似た力で、主人はカラスと己の位置関係を正確に把握することができる。逆もまたしかり。空がどこにいても、カラスたちは主人の位置を正確に把握している。東雲一族はこの力によって、星のない空でも方角を見失うことなく正しく飛ぶことができるのだ。東雲家のカラスは古より続く忠義の賜物。

 朱雀は、親友のもつこの力に絶対の信頼を置いている。

「しばらくは楽に飛べそうだな」
 と、吏紀が安堵して言った。

 その通り、確かにしばらくは楽に飛ぶことができた。
 雲の上では真夏の太陽が降り注ぎ、地上の冷気とは裏腹に、暑いくらいだった。

「こんなに日を浴びることになるんだったら、日焼け止めクリームを塗ってくるべきだったわ!」
 色白の永久の肌が、早くもピンク色に変色し始めているのを見て、優がリュックから小さな白いボトルを取り出した。
「あるよ! ほら」
 桜の肩を突き、『UVカットクリーム』と書かれた小さなボトルを押し付けた。
「永久に回してあげて」

 桜が言われた通り前にボトルを回すと、東條が「はあ?」という顔をしてから、だが、呆れたように首を振りながらも回ってきたボトルを永久に渡してやる。

 永久は受け取った日焼け止めクリームを素早く顔や首、手に塗りつけた。
「優は変なところで準備がいいのよねぇ。私だって持って来てたのよ、化粧ポーチに入れて。けど、闇に包まれた深い森に行くなら必要ないと思って、イチジク寮に置いてきちゃった。こんなことになるなら、やっぱり必要だったわね!」
 準備していたのに今手元にないことが、よほど腹立たしいと見えて、永久はグリグリと白いクリームを塗りこんでいる。

「次、私にも貸して」
「吏紀くん、これ、流和に回してあげてくれる?」
 吏紀は、後ろから伸ばされた永久の手から日焼け止めクリームを受け取ると、朱雀をとばして、それを空に放り投げた。

「おっと」
 空中でわざと危なっかしいキャッチを見せた空を、後ろから流和が小突く。
「ちょっと! 落とさないでよ?」

「なんだよ、日焼け止めクリームって」
 空からクリームを受け取りながら、「絹のように白い肌を維持するのに必要なクリームなのよ」、と流和が応えた。

「それって、アロエみたいなもの?」
 と、興味を示した桜が、日焼け止めクリームの持ち主である優を振り返って問い掛ける。
「アロエは日焼けを治療するために塗るでしょう? 日焼け止めクリームは、太陽の光が肌を焼くのを防いでくれるんだよ。女の子には欠かせないアイテム」
「ふうん。それってどんな魔法で作られているの?」
「ううん、マジック・フリーだよ。人間界のお化粧品だからね」
「へえ……」
 桜は津々と優の言葉に耳を傾けて、瞳を輝かせた。
「私、いつか人間界に行ってみたいと思ってるの!」

 瞬間、東條が山羊のように鼻で笑い、美空が「やめておいた方がいいわよ」と呟いたが、桜の目の輝きは少しも曇らなかった。

 桜って、ダイナモンの生徒なのに、人間界への拒絶とか、魔力を持たない人間への差別が全然ないんだ。
 長い歴史を振り返れば、人間と魔法使いは互いに傷つけたり、傷つけられたり、無下に利用したり、利用されたり。苦い過去もあったのだろうけど、もとは互いに忌み嫌い合う理由などなかったはずだ。桜の純粋さを見ると、優は本当にそう思わされる。

「そのときは私が桜を案内してあげるよ。デパ地下でタダで試食して、お化粧品売り場にも行こう。きっと薬局も楽しいよ! それからお台場の観覧車に乗って街を見下ろしながら、たこ焼きを食べるのもいいし、そうだ、マックを食べよう!」

「マックってなんだよ。それも『マジック・フリー』なんだろうな?」
 空の問いかけに、流和が答える。
「マックというのはマクドナルドの略称で、サンドイッチみたいな食べ物を売っているお店のことなの。私も食べたことがあるけど、激ウマよ」
「ふうん」
 今度、行ってみたい。もし生きて帰れたら。
 けど、空は口にはしなかった。未来のことに意識を向けたら、今の自分が弱くなる気がするから。
 今にだけ意識を集中しなくては、負けてしまいそうになるから。

 そんなふうに思ったのは空だけではなかったようで、みんな言うべき言葉を失って黙りこんだ。


「心配しないで、私が人間界を代表して、ちゃんとみんなに御馳走するから!」

 ただ一人、優以外は。




 その頃、魔女の軍勢が魔法戦士たちを迎え撃つべく西の森全域、さらには死の沼に進軍していた。
 対して、東雲一族は死の沼に集結し、魔女の軍勢を押しとどめていた。西の森への道を切り開き、魔法戦士たちを最初に森に送りこむのが東雲一族の務めだ。
 その先の西の森にはすでに龍崎一族が潜入している。森に入ってから魔法戦士たちを導く任は、龍崎一族が負っている。
 そして魔法戦士たちが魔女の城に到達するのと同時に、業校長と公安部選り抜きの部隊が攻め入る計画だ。

 魔法界はもちろん、予言の魔法使いだけを苦しみに合わせるつもりはない。
 光の魔法使いは一つなのだ。予言にある者も、ない者も、皆闇を祓うために戦う。



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