月夜にまたたく魔法の意思 第10話3




 出陣の日の朝がきても、あまり実感が湧かなかった。ゆるやかな曲線を描く2本の剣を朝の光に照らして見てから、空はブドウ寮の自室の窓から、ドラゴン小屋に立ち上るファイヤーストームを遠くに見つめた。ベラドンナの生徒がダイナモンにやってきて久しく、優のファイヤーストームは欠かすことなく毎朝焚かれている。その温かさが、夏だというのに太陽を遠ざけている暗雲の寒々しさを退けて、ダイナモンの皆を心地よく目覚めさせているのだ。
 空は視線を上に向けて、かすかに眉を顰めた。
 上空の大気には悪意が満ちている。飛ぶのに苦労しそうだな……。
 せめて出発の朝くらいは晴天が良かった、と思いながら、空は剣を鞘に納めてダイナモンの制服に着替え始めた。
 これから戦地に赴く高校生が制服姿で参上するのか、と思われるかもしれないが、魔法学校の制服には、その学校の生徒を守護する特別な魔法がかけられているのだ。校外実習や、実習という名の公安ミッションに出かけるときにも、ダイナモンの生徒ならば必ず自校の制服を着て行くものだ。相手が魔女であってもそれは変わらない。自校の制服に身を包むことは邪悪な力から身を守る手段であり、如何なる場所でも自分たちの所属を示す、ダイナモンの生徒特有の誇りでもある。

 いつもなら悪ぶってシャツの一番上のボタンをはずしたり、わざとネクタイを緩めたりするのだが。
 空は敬意をこめて、今朝はカッチリとその灰色の制服を着こなした。そして締めあげたネクタイには、東雲一族の家紋である雲のマークが刻まれたエメラルドのピンを留める。
 それは東雲家正当後継者の証。
 ダイナモンの生徒である空はまた同時に、東雲一族頭首の名も背負っているのだ。
 今も尚、死の沼上空で闘ってくれている同胞に、――父に。 みっともない姿は見せられない、と思った。

 空は念入りに身なりを整えると、鞘に納めた剣と、業校長から贈られた鼠色のローブを肩から下げて部屋を出た。
 6年間過ごした自室を、感傷に浸りながら振り返ったりはしない。どうせいつものように、またここに戻って来るんだ。
 そう思った時、初めて湧いた胸騒ぎに、空はバタンと後ろ手にドアを閉めて予感を断ち切った。




 その頃、ドラゴン小屋では優がいつになく熱心にファイヤーストームを焚きあげていた。
「今日が最後になると思うの」
 炎の中で髪を揺らしながら、優がドラゴンたちに湿っぽく話しかけている。

「悪い魔女を倒したら、私たちベラドンナ女学園に帰るから。もうここでこんなに火を燃やすのも最後なのよ。でも私がいなくなっても、どうかみんな、お元気で……」

 ドラゴン飼育員をやってきて分かったことがある。
 それは、ここにいるすべてのドラゴンたちが、優の言葉を理解しているということ。
 だけど、今朝はどのドラゴンも、優の言葉をただ黙って聞いているばかりで、何も応答してこなかった。

 やがて三次がドラゴンたちの朝食を運んでくる頃合いになり、ファイヤーストームを終息させると、

――『優。』

 と、この日初めて、ミルトスの檻の中からローが呼びかけてきた。

――『私たちみんなで話し合って、決めたことがあります』

 いつになく恭しい物言いに、どうしたことかと首を傾げながら優が近付くと、巨大な肢体を軋ませてローがゆっくりと檻の向こうにすり寄って来た。

――『かつてアトスと魔法使いがともに立ち上がり邪悪な魔女と闘った時。炎のドラゴンの牙は彼らとともにありました。この私も、まだ幼かったけれど、ナジアス様を背に乗せて戦地に舞い降りたのを、昨日のことのように覚えています。だから――』

 山のように大きなモンシーヌアス・レッドドラゴンが首をもたげて、優の視線の高さまで頭を降ろして来た。

――『あなたの手の中にある私たちの鍵を、持って行って下さい』

「え……?」


 驚いた。

 握りしめていた優の手の中に、突然と違和感が生じ、ローに言われて見てみれば、そこに小さな金の鍵が5つ……、いや、6つある。6つめはひときわ小さな鍵だ。

――『それは私たちをこの檻から出す鍵です。どこにいても、その鍵を手にして私たちの名を呼ぶなら、その場へ行きましょう。必要としてくださるならばいつでも、この力を貸しましょう。今日も、炎のドラゴンの牙は白の魔法使いとともにあります』

 優はこのとき、小屋にいるすべてのドラゴンの目が、自分に注がれていることに気づいた。あの、サンクタス・フミアルビーでさえ、天井の檻から水色に輝く瞳をこちらに向けている。

――『ローレム・イプサム・キングドラの名のもとに』
 それは、優しい炎を持つドラゴンの王の中の王の名。
 優の掌の中で、6つの金の鍵がかすかな光を帯び、ドラゴンたちの名前が浮き上がる。
 巨大な火山の主、モンシーヌアスレッドドラゴンの、【ロー】
 チビな高速ドラゴン、【シュピシャー】
 岩をも砕く頑丈さをもつ、【カーロル】。ドラゴンの中では最も温厚な性格を持つ。
 天を翔ける聖なる竜、【フミアルビー】
 灼熱の炎を持つ、【グルエリオーサ】
 そして我らの友、【ノステール】。


――『我ら火竜がアトスとモアブに誓う戦いの絆は昔も今も、変わることはありません』



 優は本で読んだことがある。
 かつて、炎の魔法使いシュコロボヴィッツとナジアスが邪悪な魔女と闘ったときにも、ドラゴンたちが彼らとともにいたことを。
 問題はそのとき、多くのドラゴンたちがアトスと魔法使いのために命を落としたことだ。もちろん、アトスの聖戦士たちも、力ある魔法使いたちもいっぱい死んだし、それからシュコロボヴィッツとナジアス自身でさえほとんど死にかけたくらいの、凄まじい戦いだったと聞く。だけど、当時のドラゴンたちの死にざまは、本で読むだけでも目を逸らしたくなるほどに残酷無惨だった。


「みんなの気持ちはわかったよ。ありがとう。本当に心からそう思ってるよ」

 優はベラドンナの白いブレザーの内ポケットに6つの鍵をそっと入れると、どうかこの鍵を使わずに済みますようにと願った。






 城の東にある正面玄関には、小太りのおじさんの肖像がある。もじゃもじゃの髭を豊かにそなえたその肖像は、いつも何かを考えこんでいるかのように眉間に難しい皺を寄せている。
 今、鼠色のローブにすっぽりと身を包んだ優は、肖像を横目に一瞥すると、外に続く門を見上げた。
 そこにはギリシャ語で『真の英知とは、己が無知であることを知ることである。さあ、若者たちよ旅立て』と刻まれている。
 門をくぐって外に出てから振り返ると、表側には同じくギリシャ語で、『若者たちよ。良く学び、良き魂を育てよ』と。

 ダイナモンの生徒たちがこの学校に入るときの、最初の戒めと、そしてこの学校から旅立って行く時の最後の戒めがそこに記されているのだ、と優はこのとき初めて気がつく。

 短い期間だったけど、いろいろなことがあったな。
 毎晩の朱雀との魔法訓練。初めての舞踏会。授業にはさっぱりついて行けなかったこと。食堂で食べる食事はいつも最高。恐いこともあったし、失敗もあったけど、一人じゃなかったな、と優は友人たちのことを思う。朝起きると隣にいて、夜眠るときにもすぐ近くに居る。当たり前のように平和な毎日が過ぎると思っていたんだ。

 大丈夫。これからも毎日は過ぎる。と、優は自分に言い聞かせて正面玄関の石階段を下り、外に出た。
 これからともに出発する仲間たちがすでに、陣形を整えて並んでいるのが見える。それを囲んで、ダイナモンの生徒たちと、それから先生たちが。
 陣形の一番前にいる炎の魔法使いを見つめて、優はかすかに頬をほころばせた。

 ダイナモンに来て初めて、本当の恋をした。不吉な予言がなければ、きっと出会うことさえなかっただろうたった一人の人と。
 優は最後に親しみをこめて、巨大なダイナモン魔術魔法学校の、くすんだ石づくりの校舎を振り返った。
――「いってきます」


「優、遅いぞ。早く位置につけ。上空にいい風が吹き始めてる」
 空に言われて、優は慌てて陣形の一番最後についた。

 先頭を飛ぶのは朱雀だ。ルートを選択しながら荒れた空を、仲間をリードしながら飛ぶ技術と経験が一番あるのが朱雀だからだ。炎の力で闇と氷を裂き、仲間を守りながら飛ぶことができるのは朱雀しかいない。これには想像をはるかに凌ぐ集中力と労力が費やされるはずだった。
 だから、その左右に空と吏紀がいて、空は風を操作し、朱雀の選択する飛行ルートを補助する役目を担っている。加えて先行して飛ばす空の探索カラスたちからの情報も、朱雀のルート選択に活かす狙いもある。一方で吏紀は素早い状況判断能力と知恵を用いて、敵に遭遇した場合の攻撃や回避を指揮する役目を担っていた。もし先頭を飛ぶ朱雀に何かあった場合は、一時的に吏紀が代わりを務めることも想定されている。

 朱雀を先頭に、左の空の後ろには、流和、美空、三次と続く。また右の吏紀の後ろには、永久、東條、桜が続く。
 こうして朱雀を先頭にして渡り鳥のように二つのラインを描く陣形を組み、その一番後ろで中心を飛ぶのが優だ。これだけは渡り鳥の陣形とは異なる。

 両サイドの列はいずれも、前後の仲間と離れすぎないように、逆に近づきすぎて空中で衝突してしまわないようにと、互いに調節し合うことができるように、個人のスキルや経験を考慮してメンバー配置がなされている。空を飛ぶのに不慣れな者は、ベテランの者がサポートしやすいように配置さている。例えば、永久の前を飛ぶのが吏紀で、後ろを飛ぶのが東條であるように、長距離の、しかも悪天候の中を飛行初心者の永久が安全に且つはぐれずに飛び続けることができるように、前からも後ろからも永久をサポートする体勢がとられているのだ。
 三次と桜が、それぞれ美空と東條の後ろについているのにも同じ意味がある。
 また、左翼と右翼の魔法能力のバランスも等しくなるように考えられていた。

 最後に先生たちが最も時間をかけて悩み抜いたのが、誰を最後尾にするかということだった。
 実は、このようにチームで空を翔けるときに、最後尾を飛ぶ者には先頭を飛ぶ者と同程度か、それ以上のスキルが求められることがある。

 先頭者が進むべき方向に意識を集中させている間、最後尾を飛ぶ者には仲間全体を補助する能力が求められる。
 速度に乗り遅れている者はいないか、横風に煽られてロストしてしまった者はいないか、チーム全体に常に気を配り、仲間が完全に一つとなって飛べるように守護する者。
 加えて、最後尾は最も死角になるポジションで、仲間からの援助は受けにくいから、何があっても自分自身で飛び抜く力が求められるのだ。
 果たして優にこれができるのか。仲間を守りながら、自分の身も守る。
―― ダイナモンの先生たちの見解は、五分と五分だった。

 明王児 優には計り知れない才能があるし、先頭と最後尾にそれぞれルビーを置くのはチームに安定感を与える、という主張がほんのわずかに勝って、優が一番後ろになったのだが、肝心の優自身には、最後尾を飛ぶ難しさや、担う責任はあえて説明されなかった。そういうことは言葉で教えられたからといって一朝一夕に出来ることでもないのだ。実際にやってみないことには、必要性もやり方も分からない。

 だから、優が最後尾を飛ぶことになったと知った時に、朱雀もこう言っただけだった。
「一番風の抵抗のない所を飛ばせてやるんだから、しっかりついてこいよ」
 と。

 他の仲間たちも、最後尾を任せられた優の身を多少は案じていた。けれど、多少風に煽られて逸れることがあっても、優なら魔力探知魔法で、どんな暗闇の中でも朱雀の居場所を見つけて戻ってくることができるだろう、という思いもあった。



 出発を目前にして、陣形を整えた10人の周りに浮力が集まる。
 桜坂教頭が厳しい顔で、だけどその瞳を赤く腫らして気高く宣言した。
「誇り高き戦いをしなさい。これまであなたたちが歩んできた道に恥じるような姿は、決して見せてはいけません」

 マリー先生は、瞳に涙をいっぱいに浮かべて10人の魔法戦士たち一人一人をただ見つめていたが、やがていつもの医務室で怪我人に命令をするときのように厳しい声音で、
「どんな結果に終わってもいいから、全員で無事に帰ってくるのよ」
 と言った。口調と内容が全然あっていないので、これには空が苦笑いする。

「ダイナモンの生徒たちよ、今こそ戦士を送りだす時じゃ!」
 業校長の合図で、エントランスと城の前庭に出ていた生徒全員が両手を10人の魔法戦士たちにかざした。色とりどりの光がそこにある。

「神の祝福と加護が汝らにあらんことを。風を受け、翔けよ、雄々しく、飛び立て!」

 猿飛業校長のダイヤモンドの杖から強い光が差し、上空の曇天を引き裂いた。同時に、生徒たちの色とりどりの光が優たちを包みこみ、今までに感じたことのないほど強い浮力が集まって来るのを感じて、――朱雀が燃える黄金のルビーの杖を回転させながら召喚すると、勢いよく舞い上がった。優にはそれが、本を読んで想像していたシュコロボヴィッツの姿に見えた。
 続いて空と吏紀が瞬時に舞い上がると、それに続いて流和と永久も、美空と東條も、三次と桜も昇っていく。

「なにやってるの、ほら遅れないの!」
 少し出遅れた優に向けて、マリー先生がぎょっと目を剥く。

 慌てて杖を召喚して、優もユラリと宙に舞い上がりながら、そこにいる先生たちを振り返った。熊骸先生や播磨先生、それに安寿先生もいる。

「いってきまーす!」

 少しバランスを崩しながら手を振る優を、先生たちがかなり心配そうな顔で見ている……。

「明王児、遅れるな!」

 と、上空から東條が振り返り怒鳴った。





 雲の狭間に消えて行く魔法戦士たちを見送りながら、桜坂教頭が呟いた。
「心配ですねえ……」

 その隣に賢者ゲイルが音もなく歩み寄り、頷いた。




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