月夜にまたたく魔法の意思 第10話2



 試しの門を通った10人の魔法使いたちの出陣の日が決まった。次の満月の夜が明けた朝だ。

 武器を与えられた優たち10人は、その数日後、フェニックスの羽を丹念に織り込んで造られたという特別なローブを、業校長から贈られた。西の森には魔女の力で氷の雨が降り注いでいるという。その中に入っていくためには、強い炎の力で身を守る必要があるのだ。
 ローブは地味な灰色で、後ろに大きなフードがついているのがいかにも魔法使いっぽく、時代遅れで優の好みじゃなかった。でもさすがは魔法のローブだ。実際に羽織って見るとすごく軽くて、そしてすごく温かいのだった。

 ダイナモンから出発して、西の森までは空を飛んで行くことになっている。
 その飛行ルートや、飛行するときの10人のフォーメーションも、ダイナモンの先生たちの知恵によって細かく決められた。
 誰が先頭を飛び、誰が一番後ろを飛ぶか。気象の乱れに対応しながら、空に道を見つけながら飛べるのは誰か。飛行中に敵の攻撃にあったとき、仲間をフォローできるのは誰か。10人それぞれの長所をいかして、10人それぞれの弱点を補いあえるように、毎日シミュレーションが繰り返された。

 予言の魔法使いたちが確実に魔女の元まで行けるように、途中に中継ポイントも準備されるようだった。
 西の森の手前、死の沼上空には東雲一族が待機して、道を開いてくれる。
 また、西の森の浅瀬では龍崎一族が敵の注意を引き付け、予言の魔法使いたちがさらに森の奥に進みやすいように道を開けてくれるという。
 その他、魔法省公安部とダイナモン魔術魔法学校の先生たちはモアブ領域の守護にあたり、魔法警察は人間界とモアブ界との境界を守ることになっている。

 実際、人間界が今日まで無事に機能しており、さらに優たちがモアブ界にあるダイナモンで普通に生活ができているのは、魔法公安部や魔法警察が闇の魔法使いと死闘しながらも、なんとか領域を守ってくれているからなのだった。その守りの手は少しも緩めることができない。今、魔法界は守備に人員を使い切り、西の森に攻め上がる軍を整えられずにいるのが現状だ。
 東雲家と龍崎家は、自分たちの息子、娘が予言の魔法使いとして魔女の元まで遣わされるというので、あえて守りを捨てて前線に出ているにすぎない。
 これは大きな犠牲を伴うものであるはずだった。

 もう、ほとんど猶予はなかった。守りは破られつつある。早く魔女を討伐しなければ、こちらがやられてしまう。
 時間がとても早く、日々が機械的に過ぎて行くように感じられた。いろいろなことを忙しく準備したせいで、感情が鈍くなっている。

 そして出陣の時が、いよいよ明日に迫った満月の夜。
 優は流和と永久に気づかれないように、そっと部屋から抜け出した。
 向かった先は、中庭の東側だ。

 雲ひとつない満月の光を受けて、優はネグリジェのまま中庭に跳びだした。夏の夜にしてはやっぱり寒くて、吐きだす息が白い。
――月光の庭で、マリー先生が泣いている。
 優は、桜から聞いたことを覚えていた。
 今もパペットの呪いにかけらて操られているマリー先生。そんな先生を救う手掛かりを得られるかもしれない。チャンスがあるとすれば優にとっては今夜が最後だった。

 フェニキア薔薇の白い蕾が美しく並ぶ茂みを掻き分けて庭の東側に進んで行くと、アルテミスの吊る草によって形成された小高い壁が現れた。
――満月の夜にだけ、この吊る草の間に道が開くの。

 刺さるような月明かりを受けながら、優は開いている場所はないかと辺りを見回した。するとすぐに、人一人がちょうど通れそうなくらいの隙間がある場所を見つけることができた。
 月光の庭は、この先にある。優は迷わず中に踏み出そうとした……
 と、不意に背後に炎の瞬きを感じて、次の瞬間にはがっしりとした腕が優の体を後ろから抱き寄せた。
「朱雀!」
「なにしてる」
「どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だ。部屋から抜け出す優の気配に、俺が気づかないわけないだろうが。今度は何を始めるつもりだ?」
 朱雀は少しも手を緩めないで捕まえ続けるので、優は少しも身動きがとれなくなってしまう。
「マリー先生が月光の庭で泣いてるって聞いたから、これから会いに行くんだよ。満月の夜しかチャンスがないの」
「マリー先生? ……あ、パペットの呪いか」
 朱雀が優を放した。

「もし、これからの戦いで、私たちが朱雀のお父さんを倒しちゃったら、マリー先生は死んじゃうかもしれない。その前に、呪いを解く手掛かりをつかみたいんだよ」
 なんでもかんでも背負い込むのは無理なのに、優はそう言った。
 出陣の準備で目まぐるしく毎日が過ぎていたので、すっかりマリー先生のことを忘れていた朱雀も、今ここで優に対して、マリー先生のことは諦めろとは言えない気がした。
――優が諦めなかったから、朱雀は光にとどまることができたんだ。
 同じように、マリー先生のことも助けると約束したではないか。

「わかった。俺も一緒に行こう」
 だが、優はピシャリと手のひらを朱雀に向けた。
「朱雀は来ないで」
「はあ? なんでだよ」
「女同士のほうが話しやすいことってあるでしょ」
「けど、何かあったらどうするんだ」
「大丈夫。危険なことは起こらないって気がする。マリー先生は、私たちのことを大切に思ってくれてるもん。あからさまに危害を加えて来たりしないよ」

 優の言葉に、朱雀は少し考えてから、やがて頷いた。
「わかった。なら俺は姿を隠す。けど、すぐ傍に居るからな」
 そう言って朱雀は指をパチンと鳴らすと、その場から姿を消した。こんなとき優は朱雀のことを、本物の魔法使いみたいだな、と、改めて思うのだった。

 それから優は小さく深呼吸すると、ゆっくりと月光の庭に足を踏み入れた。途端に、優は少しだけ目を細めた。
 辺り一面に真っ白な月光花が咲き乱れていて、それが満月の光を受けて輝いているのだ。――眩しい。

 小さな庭だが、背の高いアルテミスの壁があちらこちらにせり出しているので、一望することはできない。
 優は魔力探知魔法でマリー先生のオパールの輝きを頼りに進んで行った。すると、小さな噴水の向こうに六柱殿があり、その柱の陰に座っている人影を見つけることができた。

「マリー先生」
 優が六柱殿の階段を上っていくと、マリー先生こと小林真理子先生が、驚いたように肩を震わせて振り向いた。

「……明王児さん?」
 月明かりを受けて、マリー先生の長い睫毛についていた雫が光った。やっぱり、泣いていたんだ。
 深い青色の艶やかな肩だしドレスを着たマリー先生は、月の女神さまみたいにとっても綺麗だった。流和がもうちょっと大人になったら、こんなふうに綺麗になるのかもしれない、と優は思った。
「綺麗……」
 思わず優の口から漏れた言葉に、マリー先生はハッとして、それから悲しそうに笑うと、不意にまた溢れて来た涙を止めるように瞳を手で抑えた。

「どうして泣いているんですか?」

「悪い子ね。生徒はもう寝ている時間でしょう。それにあなたは、明日の朝、出発なんだから、こんな所にいてはダメじゃない」
「そうなんですけど、眠れなくて」
「大変な任務を受けているんだもの、眠れないのも不思議じゃないわ」
「そうじゃなくて、……長い旅に出る時に、ふと残していくもののことが心配になることがあるんです。庭に咲いているミモザの花のこととか、ご近所のおばさんとか……、泣いている先生のことも」
 小さく首を傾げて、琥珀色の美しい瞳が優に注がれた。
「私? どうして」
 どうしてマリー先生のことが気になるか? 優にはそれを上手く説明する言葉が、すぐには見つからなかった。
「マリー先生は私の怪我を治してくれたし、それに……、それにとっても綺麗だから!」
 自分で言っておいて、これもなんだかしっくりこない。
 怪我を治してくれた優しい先生。厳しい人だけど、その立ち居振る舞いから醸し出されている、マリー先生の美しい生き方。そう、マリー先生ってなんだか、ただの美人というよりも内面から湧き出て来る美しさをもった魔法使いだと思う。この人が悲しみ、苦しんだまま死んで行くのを、優は黙って見てはいられない、そんな気がした。――助けたい。


「私のことなら心配ないわよ。大丈夫だから。泣いていたのは、大切な人を思っていたからなの」
 けれど優は食い下がった。
「私だったら泣きたいときは、ベッドの中でこっそり泣きます。でも、マリー先生はいつもここで、って聞いたから」
「好奇心の旺盛な子ね」
 マリー先生は目を細めて、困ったように優を見つめた。
「婚約したのよ、この場所で。まだあなたみたいに学生だったけどね。この場所にいると、彼がすぐ傍に居る気がするの。……ほら、もう十分だわ。ベッドに戻りなさい」
「その人、死んでしまったんですか?」
「ううん。生きているわ。闇の世界に行ってしまった……私一人を残して」

 マリー先生の瞳から、真珠のような大粒の涙がポロリと落ちた。

「一度闇に堕ちた者は、二度と光の世界に戻ることはない。けれど、約束したのよ、あの大戦の前夜、彼が出陣していくときにね。『必ず戻る』と、……約束したの。けど、多分、彼はもう戻らない。そう、思うでしょう? 闇の魔法使いなんだものね……」

 優は少し首をかしげてから、眩しい月を見上げて言った。
「もしも朱雀が、私に約束してくれたことなら、私は信じると思います。最後までずーっと」

 マリー先生の口から嗚咽が漏れた。叫びたいほど悲しいのを、唇を噛んでこらえているんだ。
「ええ、信じているわ。バカよね……彼を取り戻すためなら……何でもするのに……ここで泣くこと以外に何も思いつかないの」
 肩を震わせて吐きだすように、マリー先生はそう言った。

「その人の名前はなんていうんですか?」
「紫苑……。紫苑よ」
「先生……」
 優は播磨先生の目を通して見た、あの紫苑という男の人のことを思い出した。

「それって、播磨先生の親友だっていう、元アメジストの紫苑ていう人ですか? 悪っぽく笑ってドキっとさせるんだけど、紳士的にも見えるあのハンサムな魔法使いさん!?」
「あなた、紫苑に会ったの?」
 マリー先生が驚いたように目を見開いた。
「播磨先生の目を通して、挨拶程度に顔を見合わせただけです」
「和人(カズト)の目を通して見たのね。彼は元気そうだった?」
「そうですね、聖羅よりは元気そうでした。私たちのことを見て笑ったんです。それが、ちょっと他の闇の魔法使いとは違う感じがして……、それに、あんなにイケメンの大人はなかなかいないと思います!」
 優の言葉に、マリー先生が少しだけ笑った。

「紫苑はね、すごくモテるのよ。けど、いつも冗談ばかりして他人を驚かせて喜んでいるせいで、せっかくの彼の優しさに気づいてる友人は少なかった。和人や私くらいかな、本当の彼を知っていたのは」
「マリー先生」
 優は両手でマリー先生の手を握った。
「私たちはそこに行きます。紫苑さんのいる場所へ。一度闇に堕ちた魔法使いが二度と光の世界に戻れないなんて、播磨先生は信じてませんよ。私もそう思うんです。もしも紫苑さんが戻りたいと願うなら、私たちがきっと道しるべになります。だからマリー先生もそう信じて下さい。この世界で一番大好きな人が信じて待っていてくれるなら、それは物凄い勇気になると思うんです。できないことも、できるって思える。朱雀を思う時、私もそうだから」

「変な事をいう子ね……でも、……いいえ、やっぱり変だわ!」
 マリー先生は優の手を握り返すと、こらえきれなくなったように声を出して、その場に泣き崩れた。

「もしも紫苑に会ったら、伝えてほしいの」

 マリー先生はどれくらい泣いていただろう。
 どんなに泣いても、その涙は枯れることがなかった。優にはそれが、紫苑さんを思って湧きあがるマリー先生の愛の形に見えた。
 そうして、途切れ途切れに声を枯らしながら、マリー先生はやっと、心の中にある思いを優に零した。


――『今でも、あなたを待っています』
――『たとえあなたが闇の世界に囚われようとも、私はあなたを永遠に、愛しています』



 真夜中の空は寒いほどに透き通っているみたいだ。
 その空を見上げながら、マリー先生の心の闇は晴れただろうか、と優は思いを巡らした。それは、優には分からないことだ。
 マリー先生の愛が紫苑さんに届けばいいのに、と優は思った。けれど優は、流れ星に願いをかけるようなことはしない。そんな余裕はない。もう願っているだけじゃ、この心の疼きは癒せない気がした。
 マリー先生の言葉を伝えるんだ。魔女の城へ行けば、きっと紫苑さんに会えるはずだ、と優は思った。


 マリー先生が先に部屋に戻って行った後も、優はしばらく月光の庭にとどまり月を見上げていた。

「ねえ、朱雀。私、紫苑さんを助けたい」
 六柱殿から夜空を見上げる優の隣に、朱雀が音もなく姿を現した。
「そう言うと思ってたよ」

 朱雀は六柱殿の石のベンチに腰を下ろすと、片膝を抱えて、優と同じように夜空を見上げた。
 しばらくそうして何も言わずに、ただ互いの存在だけを感じて同じ空を見上げていた。二人一緒に寄り添っていると、寒くなかった。

「お前さ、ああいう男が好みなんだ……。正直なところ、俺とどっちが好き?」
 やがて沈黙を破って唐突に囁かれた言葉に、優が視線を朱雀へ落とした。
「聞いてたの?!」
「全部聞いてたさ。俺が約束したことなら、優は信じるんだな。最後までずーっと」
 にわかに優の頬に熱が集まる。

「できないことも、できる、って思えるんだな。俺を思えば」
 改めて朱雀から言われてみると、とっても恥ずかしい。優は口を半開きにして、何て言い訳しようかと考えた。
 その半開きの口に、朱雀の温かい唇が触れて、イタズラにペロリと舐められた。
「俺もそうだよ、優を思う時。できないことも、できる、って思える。そして強くなれる」

 朱雀の紅色の瞳が優を見ていた。初めて会った時には想像もできなかった。朱雀の瞳の輝きがこんなに優しいなんて。
「う……」
 同じ気持ちだなんて、まるで奇跡みたいだ。優は胸がすごく熱くなるのを感じて、涙ぐんだ。

「で、俺とどっちが好き?」
 先の会話を朱雀がまた持ち出した。
「朱雀のことが世界で一番好き」

 きっと朱雀は優の気持ちを知っているに違いない。それでいて、何かあるとわざと、優の口からもう一度聞こうとするんだ。
 好きだ、って言葉がいつか、愛してるって言葉に代わることを期待して。
 優もいつかマリー先生みたいに、朱雀のことを愛していますと言えるようになるのかな。

「ねえ、このプレシディオリングだけど、戦いの前に朱雀に返したい」
 優が自分の親指にはめられているルビーの指輪をはずそうとした。
「なんで、つけておけよ」
「でも、私が死んだら朱雀も死んじゃうじゃん」
「そう思ってれば、簡単には死ねないだろ。優はいざとなると、無茶しそうだからな……」
 そこまで言って朱雀は不意に、真剣な顔で優を真っすぐに見下ろしてきた。
「俺を一人にしないって、約束してくれ」
「朱雀は一人じゃないよ。空も吏紀も、流和も永久も、他にも仲間たちがいっぱいいるでしょう」
 
 朱雀は立ち上がると、優に手をさしのばした。優がその手をとって、二人で手をつないで歩き出す。
「そこに優もいてほしい。いつも」
「もちろん、私も朱雀の傍に居る。約束するよ」
 どうしてなのか、朱雀は真顔で優の手をギュッと強く握りしめてきた。けど、それ以上は何も言わずに優を部屋まで送ってくれた。
 そして、おやすみ、の後に、「また明日」、とキスをした。


――また明日。

 明日はあるんだ。当然のように。



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