月夜にまたたく魔法の意思 第1話1





 一匹の猫が、歩いている。
 猫は茂みをかきわけ、楓の木の上に登って行った。



 ここは聖ベラドンナ女学園。
 東京のど真ん中に門を構えるこの学校は、敷地全体が高い石塀で囲まれた、閉鎖的かつ威圧的な空間だ。
 年に一度の入学試験は形ばかりで、実際には、この学校に入学するには特殊なコネがいる。
 そう、都内でも有名なこのお嬢様学校には、決して公にはされない秘密があるのだ。
 それは、――政府公認の魔法学校だということ。


 間もなく朝日が到来することを知らせる静かな青白い光の中を、聖ベラドンナ女学園の白い制服に身を包んだ女の子が一人、敷地内の図書館から出て来た。
 女の子は、まだ白い空に向かって小さくあくびすると、顔を覆う黄色いスキーゴーグルの位置を直した。その前髪が虫の触角のように跳ね上がっているのは、どうやら寝ぐせではなさそうだ。
 明王児 優(めいおうじ ユウ)。
 彼女は聖ベラドンナ女学園で、ただ一人の図書委員だ。

 明王児 優は、いつも顔に黄色いスキーゴーグルをかけていて、それを決して人前で外そうとしなかった。だからせっかくの可愛い制服も台無しだ。
 学園のユリの花をイメージした白いブレザーは、ユリのように歩く美しい女性を象徴した貴意の高いもの。歩くたびに柔らかく揺れる濃紺のプリーツスカートは、お嬢様たちの腰元をことさら色っぽく引き立たせる、はずなのだが。優の黄色いスキーゴールは絶大に悪目立ちして、まず制服には目がいかない。そればかりか、優の長い黒髪はほつれた毛糸のようにいつも絡まってボサっと広がっているので、細い体を柄にみたてれば頭の部分が毛先の長いモップのように見えてしまう。

 だが、自分のヘンテコな外見など気にも留めない優は今、図書館から出てきて柔らかな光を受けながら、確たる足取りで図書館脇を通り抜け、裏庭に向かって行った。
 一面に咲き誇るさまざまな種類の薔薇が、朝露に濡れてキラキラ光り、湿った草とブルガリアンローズの香りが心地よく満ちている。
 優は気持ちよさそうに庭を横切ると、園庭を囲む楓の木の中の、その一本の前で立ち止まり、深く息を吸い込んで、いきなり話しかけた。

「おはよう! 流和(ルワ)」
―― 声がデカい。
 木の上の枝葉の影から姿を現した栗色の猫が、眉間を寄せたように見えた。
 猫はしなやかに宙を舞って地面に着地すると、優を見上げた。

「おはよう、優」

 挨拶がまだ終わらないうちに、猫の姿は、優と同じ白い制服を着た女の子の姿に変わった。
 猫の毛色と同じ、栗色の巻き毛をフワリとかきあげてから、彼女は腰元に手をあてて、今度はニコリと優を見下ろしてきた。弓なりに上向いた長い睫毛と、大きな瞳。ふっくらとした薔薇色の唇はいつもしっとり濡れているみたいに見える。優とは対照的に、その仕草の一つ一つが、洗練された大人らしさを醸し出している。
 龍崎 流和(りゅうざき ルワ)。 優の親友だ。


「どうして私がここにいる、って分かったの?」
 流和が驚いたように早速訊ねてきたので、優はエヘヘとうそぶく。
「なんとなくだよ」
「嘘よ。猫の姿になった私に気づくなんて相当鋭い。ダイナモンでもそういないのよ」

 流和が探るように目を細めて無言で見つめて来る。勘が鋭い流和は、優が適当に話を流そうとしても、気になったらとことん追求してくるところがある。頭の回転が早くて、嘘を見抜くのが上手。友だちとしては心強いけど、それがたまに面倒なこともある。

「流和が、明け方から敷地内を歩いて回ってるのを『感じた』んだよ。強い水の力を感じるってことは、流和だもん。何かあったの?」
「さすがは火の魔法使い。鋭いわね。」

 流和が感心したように優を見つめ返してきた。
 けれど、顔の半分を黄色いゴーグルで覆っている優の表情は読めないので、褒められたことを喜んでいるかどうかは伺い知れない。

「私が火の魔法使いなんて、そんなの買いかぶりだよ。今日は偶然、流和のことを敏感に感じ取れただけ」
 優が図書室の仕事を中断して庭に出て来たのは、流和がどうして猫の姿で動き回っているのかが気になったからだった。
「ところで、わざわざ猫の姿で校内を見回りしてたのは、どうして? 普段はそんなことしないのに」
 すると、今度は流和が答えにくそうに優から視線をそらした。
「ちょっと、ね。目が覚めちゃったの。なんだか胸騒ぎがして……」
 胸騒ぎとは。
 優は内心、意外に思った。言葉にできない嫌な予感。そんな予感を今朝は優も感じていたのだ。
「優こそ、こんな朝早くから図書室の見回り? この時間じゃ誰も来ないでしょうに」
 実は、この時間じゃなくても、ベラドンナ女学園の図書室にはほとんど誰もやって来ない。
 けれど図書委員の威厳を保ちたくて優は鼻高々に応じる。
「まあ、図書委員ですからね。常に図書室のことには気を配っていないとならなくて」

 優はそう言うと、自慢げに笑った。
 そして、気がかりとなっていることを親友の流和に打ち明けてみることにした。

「実は一冊だけ、文句を言ってるのがいてさ。うるさいから叱りつけてたの。昨日の夜からずーっとなのよ!」

「文句を言うって、図書室の本が? へえ、そんなことあるのね」
「うん、よく言うんだよ。ページが折れてる……とか、シオリの挟まっている位置が気に入らない! とか、本て結構、几帳面な奴が多いんだけどね」
 そこまで言って、優は考え込むように口元に手を持って行くと、首を傾げた。
「でも今朝のはなんか、今までの文句とは違う感じでさ、ちょっと気になるんだ」
「私には本の声は聞こえないから、相談にはのれないかもしれないけど……気になるって、具体的には何が?」

「とっても古い予言の書が、『並び位置が気に入らないから別の段に移してくれ!』って言うの。その理由が、『自分は狙われてるんだ!』って。そう言ってきかないの。ひどい被害妄想だよ。あんな古い予言の書、誰も読めないだろうし、だいいち読もうともしないはずなのに」
「へー、それで?」
「希望通り、別の段に移してやったよ。アンタがここに在ることは私だけの秘密にしておくからもう大丈夫、って言い聞かせて、やっとおとなしくなったんだ……」


「予言の書が、文句をねえ……」

 流和も優の話を聞いて、考え込む。
 聖ベラドンナ女学園の図書室にある魔法の本は、お察しの通り誰もが読めるわけじゃない。
 中でも予言の書の秘密は深く隠されていて、それを読むことができるのは時の賢者ゲイルか、ごく一部の力のある魔法使いだけ。
 それなのに予言の書が狙われる理由って、何なのかしら、と。

 流和が思案している間、薔薇園をゆっくり歩き回りながら、優は何らかの回答を待った。
 流和の方が、優よりも魔法に詳しいからだ。

「何か思い当たる?」
「分からないわね。ただちょっと、イヤな予感がする」
 漠然とだが、流和は今朝、不吉な予感に目を覚ました。それで猫の姿になって校内を見回りしていたのだが、ただの思い過ごしと思った予感が、今、優の話しを聞いてさらに募っていった。
「今日、部活が終わったら永久(トワ)と一緒に図書室にお邪魔していいかしら?」
「もちろん! いいよ」
 優が嬉しそうに頷いた。
「今日は古い本の修復作業をしないといけないから、遅くまでかかりそうなんだ。居てくれたら助かるよ」
「そっか。ところで私、今日は、」
 そこまで言って、流和が口に手をあてて大きな欠伸をしながら、
「午前の授業は休むわね。早起きして動き回ったら、なんだか眠くなってきちゃった」
 と言った。
 優がコクリと頷く。
「あら偶然。私も休もうと、……って流和、またサボり!? 先生に怒られても知らないんだ」
「優に言われたくないわよ。私よりサボってるくせに」
 底辺争いを恥とも思わず、途端に流和と優が言い合いになる。

「私の理由はいつも正当だもん! 図書委員の仕事で忙しいし、」
「誰も来ないのに?」
「そうだけど……あ、でも、あと、貧血とか、生理とか」
「毎週生理があるのね、優は。体育の授業なんて、一度も出たことないでしょう、知ってるのよ」
「大切なのは、先生に病弱だって印象づけること」
「あ、ずッるーい、そういうの本当ずるーい」
「いいんだもん」
「まったく、優ったら。……じゃ、午後にね。午後の授業は出るんでしょ?」
「うん、多分。ところで、午後の授業って、なんだっけ?」
「まったく、優ったら!」
 流和は最後にもう一度繰り返した。「まったく、優ったら」と。それが流和の口癖だ。

 そうこうするうち、朝日が存在感を増し始めて園庭が眩しく輝きだすと、そろそろみんなが起き出してくる時間になったことを知って、二人は足早に歩き出した。
 流和は眠るために女子寮へ。そして図書委員の優は、また図書室へ。
 
 これが、聖ベラドンナ女学園で最も不真面目な生徒、明王児優と、龍崎流和だ。


 聖ベラドンナ女学園のように、国に守られ、政府に公認されている魔法学校には、魔法界からつまはじきにされた二流、三流の魔法使いしかいない。
 なぜなら、本物の魔法使いは、魔力を持たない人間と関わり合うことを嫌って、決して都会の中では生活しようとしないからだ。
 都会で暮らし、人間の保護を受けてコソコソ生活する隠れ魔法使いのことを、一流の魔法使いたちは『デキソコナイ』と呼び、疎ましく思っている。

 はるか昔から文明の発達した現代にいたるまで、いつも変わらずひっそりと存在し続けてきた魔法使いは、ある時代には迫害され、ある時代には時の偉人として祀り上げられてきたものだが、現代にあっては物語の中の架空の存在にすぎない。今となっては、人間にとっても魔法使いにとっても、互いの存在を「架空」にしておくくらいの距離感が調度いいのかもしれない。近づき過ぎれば敵対したり、そうかと思えば迎合したり、その繰り返しだからだ。

 ネオンと雑踏にまみれた多くの人間は、この世界に魔法使いが本当にいるなんて思いもせずに、今日も安心して朝寝坊をしていることだろう。

 だが、本物の魔法使いは今日もなお生きていて、今も強い魔力を操り、今朝の流和と優のように――盗人のように忍び寄る災いの足音を聞きわける。
 そうして魔法使いは、空が白む頃眠りにつき、日が大地の露を乾かす前に目覚めるものだ。




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