第4話−3

 失踪した小倉絵美菜さんは、渋沢学院1年の特待クラスの生徒だった。
 そういうわけで、数馬が機転を利かして、私たち4人を特待クラス、つまりその学年で一番頭のいいクラスに転入させる算段を整えてくれたのだった。
 ただでさえエリートが通うという学校の、その中でも群を抜く特待クラスに……。

 だけど、ひとクラスに一度に4人も転校生がやって来るなんて、ちょっと強引だよね……。
 担任の村崎美里先生は、明らかに私たちを不審がっていた。そればかりか、「うちのクラスは誰でも入れるクラスじゃないのよ。授業について来れないと判断したら、いつでも他のクラスに移動してもらうから、そのつもりで」 と、いきなり脅されてしまった。

 私たちはそろって朝の教室に案内された。
 すでに生徒全員が着席して、先生が来るのを待っていた。

「それじゃあ転入生を紹介します。美南メグミさん、天草リュウくん、蓮条キュウくん、そして、春乃さなえさん。自己紹介して」

「キュウです! よろしくお願いします!」
「天草リュウです。よろしく」
「美南メグミです。メグって呼んでください! よろしく〜!!」
 メグは胸の前で両手を交差させてから、親指を突きたててそれをクラスのみんなに伸ばしてノリノリの挨拶をした。
 うわ、メグ面白ーい。
 さなえはニコニコしてその様子を見つめていたんだけど、クラスのみんなは驚くほど無反応で、早くも1時間目の教科書を取り出したりする子もいた。
 その反応に、リュウは無表情だったが、キュウは引きつった顔をして「ハハッ……」と引き笑いした。
「なにコイツら……感じ悪〜」
 と、メグが呟いてる。

 私は、メグの挨拶は可愛いと思うんだけどな。
 気を取り直して、さなえも自己紹介をした。
「春乃さなえです。イギリスで育ったので、英語とフランス語が話せます。最近、手話を勉強しはじめました」
 そう言って、さなえは右の手を拳にして顔の前に持って行き、拳を開いてからそれを胸の高さまでおろした。
――「よろしく・お願いします」

「へえ、イギリスのどこに住んでたの?」
 と、一番前の一番右側に座っていた男の子が手を上げて質問してきた。
「アボンリーっていうところだよ。赤毛のアンが住んでいたところ」

「どうして手話を勉強し始めたの?」
 と、今度は教室の真ん中くらいに座る女の子が質問してきた。
「駅の改札の向こうとこちら側で、手話で会話してる恋人がいたの。それを見て、すごくロマンチックだな、って思ったからだよ」
「きゃあ! 素敵〜。機会があったら私にも教えて欲しいな!」
「うん! いいよ」

「ほらほら、質問はそこまでにして! 1時間目を始めるわよ!」
 村崎先生が、騒ぎだした生徒を沈めたので、私たちは追い立てられるようにして席に着いた。



 一時間目は数学の授業だった。
 さなえの席は、さっき手話のことを質問してきた可愛らしい女の子の隣だ。
「朝吹麻耶よ。よろしくね」
 と、女の子が小声で自己紹介してくれた。

 キュウとメグは、さなえよりも一列後ろの席で隣り合わせの席。そしてリュウは、窓際の一番後ろの席だ。

 先生が黒板に数式を書き始めているうちに、さなえはザッと教室の中を見回してみた。さなえたち4人をのぞいてクラスには24人の生徒がいるようだ。
 普通の学校だと、一クラス30人前後いるという話しを聞いたことがあるから、この特待クラスは人数が少なめなのかな。

「まったく分からない」
 と、後ろでメグが呟く声が聞こえて来ると、
「目立たないようにすればいいんだよ。当てられないように、こう、おとなしくいこう」
 とキュウが応えている。

 当てられる、ってどういうこと? と、さなえは思った。
 目立たないようにしていないと、何かを当てられるのか……?

「ねえ、それって、どういうこと?」
 と、さなえがメグを振り返った。

「さなえ! ちが、春乃さん! ちょ、声がでかい」
「え?」

「誰!? お喋りしてるの!」
 黒板に数式を書いていた先生が、いきなり怒鳴ってさなえたちを振り返った。

 え、もしかして授業中って喋っちゃいけないの……? 知らなかったー、とさなえは思った。
 探偵学園の授業では、疑問に思ったら誰でも口を開いてその場で質問するし、生徒同士の話しもそこまで厳しく禁じられてはいない。
 ほんの少しだけ通ったイギリスの学校でも、みんな自由に発言していたし、家庭教師の先生と勉強をしているときだって、話すのを禁じられたことはない。
 ちょっと喋るのがそんなに悪いことなの?

「どんくさいんだから、もう……」
「あは、あはは……マズイね」
 メグとキュウが渋い顔をしている。
 先生が恐い顔でキュウを睨んだ。
「あなたなの?」
「いや、僕は……ね、ねえ」

 さなえは先生に向かって手を上げた。
「すみません。私です。当てられる、ということの意味がわからなくて……」
 教室中がシーンとなり、みんなの視線が集中するのがわかる。
 すると、窓際で椅子をずらす、ゴトンという音が大きく鳴って、なぜかリュウが立ち上がった。

「すみません。僕も独り言を言っていました」
 途端にさなえに集まっていた注意が、一斉にリュウに向けられる。

「独り言? あなたそんな癖があるの? まあいいわ、これは東大の入試問題よ。10分以内にこれを解けなければ、このクラスの授業にはついて来れないわ」
 そう言って先生が、黒板の数式を指差した。
「無茶よ。私たち、ほんとは中2なのに……」
 とメグがさなえにしか聞こえない声で囁いた。
 そうか、先生は早速、転入生たちの力量を試す気なんだな、とさなえも思った。

 教室がシーンと静まり返る中、リュウが黒板の前に出ていき、チョークで答えを書き始めた。
 実際、東大の入試問題というやつがどれくらい難しいのか、さなえには分からなかったんだけど、リュウが迷うことなく次々に新しい数式を書きこんでいくのをクラスのみんなが見つめる様子から、なるほど、リュウはすごいことをしているのだな、とさなえにも理解することができた。

 リュウって頭がいいんだな、と、さなえは改めて思った。
 問題は、【X】で表される【f】という連続な関数があったとき、【関数f】を別の係数【a】と【b】で表した場合に、【X】がただ一つ定まるための条件を求めなさい。というものだった。
 ただ一つの答えが定まるための必要条件を求める問題だ。
 なんだか探偵の謎解きに似ているな、とさなえは思った。

 さなえにはきっと、あそこまでスラスラ問題を解くことはできないだろう。先生が言った通り、たっぷり10分はかかってしまうに違いない。
 だってさなえは、数学が苦手なんだもの。それにこんな静かな教室で、みんなに見られながら問題を解くなんて、どんなに緊張してしまうことだろう……。

「先生、これでいいでしょうか」
 ものの1、2分で、リュウは黒板に全ての数式を書き終えてしまった。

「……、完璧だわ」


 瞬間、クラスのみんなの憧れの眼差しが一斉にリュウに向けられた。
 けど、リュウは何でもないことのように、そっぽを向いている。
 愛想がないな〜、とさなえは思う。

「じゃあ、次は春乃さん」
「へ?……」
 さなえが首をかしげていると、村崎先生がニコヤカな顔をしながら言った。
「イギリスではどんな授業スタイルだったのか知らないけど、『当てられる』ということの意味を、この機会に知っておくのもいいでしょう。前へ出なさい」
「は、はい……」

 メグ、キュウ、そしてリュウが憐れみの目で見つめる中、さなえはとぼとぼと黒板の前まで出て行った。
 クラスのみんなの視線がさなえに集まっている。
 はい、当てられるという言葉の意味が、これでよくよく分かりました。と、さなえは心の中で叫んだ。
 けど今さら、先生は許してはくれなさそうだった。
 学校って、なんて恐ろしい所なんだろう……。

 先生は、さっきリュウが書いた解答を黒板消しで消し去ってしまってから、また新しい関数の証明問題を黒板に書いた。

「これも、東大の入試問題よ」
「10分、かけてもいいですか……?」
「そうね。天草くんは特別に早かったみたいだけど、このレベルの問題は、それくらいはかかって当然でしょう」

「それくらい、って、そもそもあたしには問題の意味すら分かんないんですけど……」
 とメグが密かに毒づいていた。

 人前に出るって、緊張するんだな。
 さなえは震える手でチョークを掴むと、それからしばらく、問題をただ見つめ始めた。
「さなえ、大丈夫かしら……」
「うん、僕もう、見てられないよう……」
 だが、メグとキュウがそんな風に心配していることなど、さなえには聞こえるはずもない。

 2分ばかり経った頃、さなえはようやく考えをまとめて、ゆっくりと黒板に数式を書き始めた。
 もちろん、リュウのようにスラスラではない。何度も言うが、さなえは数学が苦手なのだ。
 ゆっくり、ゆっくり、丁寧に、一つ一つの数字や記号を書き連ねていく。

 イギリスでさなえの家庭教師をしてくれた先生は、ハーバード大学で昔、数学の研究をしていたというお爺さんで、さなえのお父さんの知り合いだったんだ。頭がツルっと禿げているのに口髭はサンタクロースみたいにフワフワした、面白いお爺さんだった。
 さなえはほとんど学校には通えなかったので、家でばかり勉強をしていたから、自分がどれくらい難易度の高い勉強をしているのかを意識したことはなかった。というのも、さなえのお父さんがそういうことをあまり重視していなかったのだ。お父さんはいつもさなえに、「難しい勉強ができる」ことよりも、「物事の本質を理解し、筋道だてて考えること」の方を重視した。

 数学はそれが最も試される教科と言える。
 だから、何時間でも時間をかけて、ゆっくり考えさせられたものだ。
 そうやってさなえが問題を解くのを見つめながら、お爺さんはよく言ったものだ。
――「美しい、ああ美しいね。数は常に美しい」 と。

 途中、何度か手を止めて考え込みながら、ちょうど10分が経過する頃。
 さなえは最後の解を黒板に丁寧に書きとめた。

 チョークを置いたさなえが先生を振り返ると、先生はすでに驚いた顔で黒板を見上げていた。
「あなた、面白い証明の仕方をするのね……、こんなの見たことないわ。でも、とても美しい解だと思うわ」

 てっきり性悪だと思った先生が、惚れこむようにいつまでも黒板を見つめている。
 なるほど、この先生もあのお爺さんと同じ、数の美しさに魅せられた数学者なのだ、とさなえは思った。

 こうして、なんとか数学の時間を無事に乗り切ることができたときには、さなえは緊張で汗びっしょりになってしまっていた。



 
次のページ 4話−4