第4話−1
探偵学園の短い夏休みが終わった週の、最初の日曜日。
カンカン照りの太陽が町を焼きつけ、ミッションルームも外と同じくらい蒸し暑かった。
なぜかクーラーが効かないその部屋で、みんなそれぞれ別のことをして時間を過ごしていた。
数馬は氷嚢で首を冷やしながら、何やらロフトの下のパソコンスペースで忙しそうにしているし、リュウは中央テーブルでさっきから真剣に本を読んでる。リュウが読んでるのはドイツの哲学者、エーリヒ・フロムの代表作『自由からの逃走』という一冊だ。すぐ近くには、同じエーリヒの著作である、『悪とは』という分厚い本も置かれている。
メグは玩具の扇風機で風を送りながら、窓際のソファーで死にそうな顔をしているし。
キンタは、リクライニングチェアで上半身を伸ばして、熱病患者よろしく氷嚢を頭にのせて、さっきから少しも動かない。
―― おは・よう。私・の・名前・は・春・乃・さ・な・え・です
今、さなえはティーテーブルの前の小さな椅子に座って、両手を動かしながら手話の練習をしているところだった。
新学期から新しく始まった語学の選択授業で、さなえは『手話』を選択したんだ。
メグは一緒にフランス語を選択しようと言ってくれたんだけど、さなえはイギリス生活が長かったから、英語はもちろん、フランス語も話せるようになっていたんだよね。
「手話なんてマイナーなクラス、よく選択するよわね」と、メグは言うけど、これがやってみると、結構おもしろいんだ。
ちなみにキュウとキンタは英語、数馬は中国語、リュウはロシア語を選択したらしい。
「おはよう!」
片手に食べかけのかき氷を手にしたまま、キュウが元気にミッションルームに飛びこんできた。
「おはよう」
さなえが、覚えたばかりの手話を使いながら、キュウに挨拶を返した。
「へえ」
すると、キュウも見よう見まねで、右手の拳をこめかみに持っていってから、両手の人差し指を向かい合わせて折り曲げる、という手話で返してくれた。
「おは・よう」
たった今入って来たばかりのキュウも、すぐにミッションルームの異常な熱さに気づいたようだ。
「はあ。なにこの部屋。なんでこんなに暑いの?」
「クーラーが古くて効かないんだよー……」
まんじりともせずに、キンタが呟く。
「えっ」
キンタに応答しながら中央テーブルに座ったキュウは、ふと、目の前のリュウが読んでいる本を何気なく目にして、顔をひきつらせた。
……重い。
よくこの蒸し暑さの中で、そんな難しそうな本、読めるよね、とキュウは内心で思ったのだった。
「団先生に頼んで新しいの入れてもらおうよ〜」
と、メグがソファーの上でバタバタした。
数馬がノートパソコンを開いたままロフトの下から出て来て、メグを一瞥した。
「秋葉のネットアイドルが、そんなダラシナイ格好してていいの?」
「なに言ってんの?」
心当たりがないと見えて、メグが変な顔をする。
「見ちゃったよ。メグのブログ」
「え?」
「メグ、ブログなんてやってたの?」
数馬が中央テーブルの上にノートパソコンを置いたので、みんなでその画面を覗きこんだ。
見ると、『メグたんブログ』というタイトルで、確かにメグのプロフィール写真が載ったブログが公開されている。
「何よこれ……」
何故か、当の本人が一番驚いた顔をしている。
「メグがブログとは……」
「いいんじゃない? 可愛いね〜メグ」
と、さなえ。
「女ってさ、いろんな顔があるっていうけど、ホント恐いよな。超ブリっこしてるんだよ、このブログの中のメグ」
「あたし、こんなの知らないわよ!?」
「照れてるし……」
「だから違うんだってば! こんなの作った覚えないもの」
数馬とメグが言い争うのを、キンタがニヤニヤして見ている。
その横で、キュウだけが、何かひっかかるのか少しも表情を変えずに、ブログのいろいろなページを確かめ始めた。
「あっ、ねえ」
「ん?」
ブログに掲載されたメグのアルバム写真を次々映し出しながら、キュウが言った。
「これ全部、隠し撮りっぽくない?」
「隠し撮り……?」
「あ、そうだね。メグが自分で撮ったにしては、不自然だね」
と、さなえ。
「全部、目線外れてるな」
と、キンタ。
「もしかして……」
「なに」
「メグに憧れてる奴の仕業かも」
「どういうこと?」
「つまり、メグのようになりたいっていう奴が、メグに成りすましてブログを立ち上げたんだよ。ネットの中じゃ、自分の理想の女の子になれるからね……」
ネット独特の社会を紐解く数馬の説明に、メグは満足そうに頷いてる。
「でも、それがよりによってメグとは……」
数馬はやっぱり一言多い。
「え、じゃあ、もう一人のメグがネットの中で存在してる、ってこと?」
「自分を捨てて他の誰かに同一化しようとする。病的な心理さ」
と、それまで全く無関心だったリュウが、初めてつまらなさそうに呟いた。
「こういう奴はエスカレートすると恐いんだよな……」
と、数馬。
「やめてよ気持ち悪い! ねえ数馬〜」
メグが数馬にすがりつく。
「お願い、これ作ったの誰かすぐに調べて!」
お安いご用、と言わんばかりに、数馬が頷く。
「こっちもメグになりすまして表に引きずりだしてやろう。任せて」
こういうときの数馬、本当に心強いね。
「しかし、こうも暑いと、脳みそトロットロの奴が増えてくるなあ」
そう言ってキンタが再びリクライニングチェアにどっぷりと沈みこんだ。
「遠山! いい若者がなにだらけてるんだ」
滑るような動作で非常扉から入って来たのは、七海先生だ。
今日はいつもの変装スタイルではなく、上下ともに真っ白のスーツにピンク色のネクタイを合わせて、頭には夏用の白いハットを斜めにかぶっている。
「七海先生……ってか、どうしたんすか? その格好」
キンタの問いかけに、七海先生はニヤリと頬をゆるめた。
「今日はちょっとしたデートがあってな」
――違和感。
さなえは七海先生を見つめ、違和感の正体を探ろうとした。
「相手、誰なんですか?」
キュウが興味しんしんで身を乗り出した。
「バラのように美しく、鋭い尖った棘を隠し持つ……恐い女」
この言葉は本当だ、と、さなえは感じた。でも、最初に七海先生が「デート」と言ったのは嘘だ。あるいは、何かの隠語?
もしかすると七海先生は、難しい心理戦が求められる相手との駆け引きに出かけるのかもしれない。
七海先生の顔がニヤニヤしているのを見て、メグがいぶかしんだ。
「顔とセリフが全然あってないんですけど」
「一人で行くんですか?」
さなえが奇妙なことを聞いたので、七海先生が一瞬、言葉に詰まった。
キュウが代わりに答える。
「なに言ってんのさなえ、デートは一人でいくものでしょ。ね? 七海先生」
「お、おお……」
「気をつけてくださいね」
さなえがゆっくりと、気持ちを込めて言ったので、七海先生はさなえの意図していることに気づき、優しく微笑んだ。
「心配するな、春乃。俺を誰だと思ってる。団先生の愛弟子、七海幸太郎様だ」
「先生……」
さなえの様子と、それに対する七海先生の応答を見たQクラスのみんなも、これから七海先生が何か危険な任務に行くんだということを、悟った。
「ったく」
末恐ろしいな、と七海は心の中で毒づきながら、Qクラスの生徒たち一人一人を見回した。
我が教え子ながら、師匠の嘘をこうも簡単に見抜くとは。おまけにコイツらは、それに気づいても何も言おうとしない。
問い詰めても俺が極秘任務のことを喋らないことが、わかってるんだな。
まだまだ青臭いガキのくせに、探偵がどういうものかってことが、わかってやがるぜ。団先生がコイツらに期待するのも分かる。
本当、扱いにくゼ、まったく。
「というわけで、団先生からの新しい指令だ」
――Dan Ditective School Mission Disc
七海先生がカッコよくポーズを決めながら、指の間に挟んだディスクを掲げた。
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