第2話−8

 キュウとメグがトリック解明に向おうとしていた頃、さなえはいつもより遅くに目覚め、身支度を整えていた。
 昨日の深夜、メグが「牧野君のお見舞いに一緒に行こう」と誘ってくれたのだけど、それより先にリュウと約束してしまったさなえは、それを断ったのだった。おかげで、メグはまた何かを勘ぐっているようだ。後で何を言われるか知れない。

 さなえはまだ少し寝ぼける目で携帯を開いた。
 昨日、さなえはリュウが無事に家に着いたかどうか心配になって、そろそろ家に着いたかなという頃合いに、『無事に着いた?』
 とメールしたのだった。すると驚くほどすぐに、『まだ起きてたの? 着いたよ』という無愛想な返信が帰って来た。
 そして今朝、新着メールが1件届いていた。

―― 12時に、さなえの家の近くの陸橋で待つ。 リュウ

 さなえは時計を見た。11時10分。
 すでに身支度を整えていたさなえは鞄を肩から提げて姿鏡の前に立つと、ざっと今日のコーディネートを確認した。
 紺色のプリーツスカートに、ニットのベストを合わせ、半袖のレース地のブラウスで決めている。
 さなえの服装はいつも、こういうブラウスとスカートが定番だ。メグからはちょっと地味で真面目すぎると言われるけど、これが気に入っているんだ。
 けど、姿鏡に映る自分の姿は、今朝はどうにもいまいちだった。
 両手のひらのキャラクター入り絆創膏はまだ見過ごせるとしても、両肘と両膝に貼られた巨大絆創膏はなんとも格好悪く、せっかくの全体のコーディネートを台無しにしてしまっている。ちなみにリュウが昨日巻いてくれた包帯は少々大袈裟だったので、さなえは昨晩お風呂から上がった時に取ってしまったのだった。
 顔の腫れはほとんどおさまっていたけど、口の端はまだうっすらと赤みがかっていた。

「元気を出して、いってらっしゃい」
 さなえは鏡の中の自分にそう言うと、これまた地味なローファーを履いて、家を出た。

 さなえの家から待ち合わせの陸橋までは歩いて5分もかからない。
 まだ早いけど、お天気もいいことだし、リュウを待つ間、読書でもしていよう。

 だが、陸橋の上にやって来たさなえはハッとして足を止めた。
 なんと、すでにリュウがやって来ていたのだ。今、リュウは陸橋の柱に寄りかかって、楽な姿勢で本を読んでいる。
 早足でリュウに近づきながら、さなえは腕時計に目を落とした。DDSの電波時計には寸分の狂いもないはずだ。その時計が、11時20分を指している。
 待ち合わせの時間は12時のはずだ。
「リュウ、早いね……」
 恐る恐る声をかけると、リュウがパタリと本を閉じて顔を上げ、ニコリとした。
「おはよう」
「お、おはよう……」

「武山勇気の自宅はここから歩いてすぐなんだ。まだ早いけど、行ってみる?」
「うん」
 リュウについて歩きながら、さなえは聞いた。
「でもリュウ、なんでこんなに早いの?」
「君の行動は読めないからね。早めに行って、本でも読んでいようと思ったんだ」
「え? どういう意味」
 さなえがしつこく聞くので、リュウがはにかんだ。
「人と待ち合わせるとき、もしかしたら相手は遅刻してくるかもしれないし、もしかしたらその逆に、とんでもなく早く来るかもしれない。僕はいつもその二つの可能性を考えるけど、大抵はその答えが見つかるのに、今朝のさなえの行動は読めなかったんだ。だから念のため、早く来ただけ」
「どれくらい前からあそこで待ってたの?」
「さなえが来るちょっと前だよ

 さなえが来るちょっと前って、約束の時間の1時間くらい前じゃないのかな……。もしさなえが時間どおりに来たら、リュウはあそこで1時間近くも本を読んで待っている気だったのだろうか。変わってるな、とさなえは思った。けど、すごい興味が湧いて、さなえはまたリュウに質問した。

「ねえ、人と待ち合わせるときの二つの可能性って、面白いね。いつもそんなことを考えてるの?」
「考えるってほどでもないけどね。人と待ち合わせをして、予想外に待たされたり、その逆に相手の方がとんでもなく早く来て自分を待っていたとしたら不愉快になるだろう」
「うん、確かにそうだね。でもそんなこと考えたこともなかったよ。じゃあ、例えばメグと待ち合わせをするときだったら、リュウはどうする?」
 リュウはすぐに応えた。
「僕は時間どおりに待ち合わせ場所に行くだろう」
「え、どうして?」
「日頃のメグの行動を見ていれば、分かる。メグはお洒落に気を使っていて、しかもいろいろなことに気を取られることが多い。だから、待ち合わせの時間には5分くらい遅れて来るタイプだ」
「すごい! 正解」
 さなえはいつもメグと待ち合わせをするときのことを思い出して言った。

「じゃあ、キュウは?」
「キュウは律儀だから、時間に遅れずにやって来る。こちらは約束の5分前に待ち合わせ場所に着くようにしていれば、キュウに失礼にならない」
「すごい! じゃあ、数馬とキンタは?」
「数馬は几帳面だから、時間に遅れるのを絶対に許さないタイプだ。5分前か、それよりも早くに待ち合わせ場所へ行くのがいいだろうな。キンタもああ見えて堅気だから、待ち合わせで人を待たせるのは嫌いなタイプだと思う。多分キンタは、待ち合わせには滑り込みでも時間きっかりにやって来るはずだ。こちらもそれに遅れないで行けばいい」
「へえ。リュウって、みんなのことをよく見てるんだね」
 それなのに、さなえのことは予想できないなんて、ちょっと酷いではないか。
 さなえは内心でショックを受けた。
 リュウは、Qクラスの他のみんなのことはよく見ているのに、さなえのことは見ていないんだ。

「いや。さなえのこともよく見てるよ」
「ええ!?」
 まるでリュウに心を読まれた気がして、さなえはビックリしてリュウを見つめた。

「けど、それでもさなえって、どこか、すごく予想しにくいところがあるんだ。興味深いよ」
「私は時間ピッタリに待ち合わせに行くタイプだよ。だから、次待ち合わせるときには、今日みたいに早く来たらダメだからね」
「でも、今日は早く来たじゃないか」
「それは……」
「どうして?」
「わからないよ。なんとなくだもん」
「ほらね」
 リュウはニヤリとして、先を進んだ。

 どうにも腑に落ちない思いを胸に抱え、リュウの後に従って歩き続ける。
 すると、リュウは住宅街の中にある大きな公園の中に入って行った。
「武山勇気はよく、この公園で絵を描いているんだ」
「ふーん」
「あそこだ」
 見ると、階段沿いに植えられた花壇の端に、一人の男の子が腰かけているのが見えた。彼が武山勇気君か。
 真夏の日中の熱い時間、しかも昼時とあって、公園には武山君の姿しかなかった。
 武山君は今、水彩絵の具でスケッチブックに色を重ねようとしているところだった。

 近づいて行くと、スケッチブックに空を飛ぶ天使が描かれているのが見えた。
 自由や喜びや希望が感じられる、素敵な絵だった。けど、武山君は深刻な表情でその絵には似つかわしくない真っ黒な絵の具を筆につけていた。
 そして次の瞬間、武山君は黒絵の具で天使をぐちゃぐちゃに塗りつぶしてしまった。
「あ……」

 リュウが武山君に声をかけた。
「絵には、その人の心が描かれるっていうよね。その絵には不安に押しつぶされそうな君の心が溢れてる」
 いきなりズバリと言ってのけたリュウに、さなえは心底ギョっとしてしまった。リュウは話を続けた。
「記憶を失くしたっていうの、嘘なんじゃないの? 受験勉強に追われ、絵を描く自由を奪われた君は、」
「ちょ、ちょっと待ってリュウ!」
 さなえは慌ててリュウの腕を掴んだ。
 リュウの言っていることはもしかしたら本当なのかもしれないけど、そんなことを言ったら武山君の神経を逆なでしてしまうはずだよ。
 実際、武山くんはリュウの言葉にピクリと震え、怒った顔で立ちあがった。

 さなえがリュウと武山君の間に入った。
「ごめんね、いきなりひどいことを言って」
「僕は真実を、」
「リュウっ」
 さなえは人差し指をたてて、リュウを恐い顔で睨んだ。けど、全然恐くない、とリュウは思った。
 ただリュウは肩をすくめて、さなえに任せることにした。

「君は、誰」
「春乃紗奈江。学校でリュウと同じクラスなの。絵を描くのが好きな男の子がいる、って言われて、会ってみたいなと思って」
 っていうのは口からでまかせだった。
 リュウが無表情でさなえの言葉を聞いているが、内心ではなんて思っているか知れない。

「さなえ、ちゃんか。君も絵を描くのが好きなの?」
「うん、大好き! 私のパパも絵を描くのが好きなんだよ」
 これは本当。
「へえ、そうなんだ」
「武山君、ていうんだよね。ねえ、その絵、見せてもらってもいい?」
「別にいいけど」
 武山君がさなえにスケッチブックを差し出してくれた。
 スケッチブックを受け取ったさなえは、感覚を集中させた。芸術的作品には作者の心が込められている。音楽であろうと絵画であろうと、さなえは昔から鋭い感覚でその心を感じ取ることができた。
 やっぱりそうだ。
 武山君の絵から感じられるのは、自由や希望や喜び。けど、それは遠い昔のことか、もしくはまだ手に入っていないもの。
 武山君はそれを求めて苦しんでいる。

「上手く描けてるのに、こんなふうに塗りつぶしちゃうなんて、もったいないよ」
 さなえが顔を上げると、武山君とさなえの目が合った。
 武山君がジッとさなえのことを見ている。
 やがて、武山君が静かに口を開いた。
「そんなもの、何の価値もない」
「価値がない? そんなこと、誰が言ったの」
「みんなさ。みんなそう言うに決まってる。ただの夢物語で、そんなもの何の役にも立たない」
「私はそうは思わないな。この絵に込められている自由な心や、希望や、喜びは、この世界に必要なことだと思うから。ねえ、人が幸せを感じるのは、どこだと思う?」
「え?」
 さなえの唐突な質問に、武山君がきょとんとしたが、さなえは続けた。
「アメリカの科学者が証明したんだって。人が幸せを感じるのは頭の中にある脳じゃなくて、ここだ、って」
 そう言って、さなえが武山君の胸を、指先でツンと突ついた。
 そのとき、何か重たいものがスーッと取り去られたみたいに、武山君の目から、ポロポロと涙がこぼれ始めた。

「変だな、君って」
 武山君は不思議そうに首をかしげて、涙をぬぐった。

「へへ、よく言われるんだ。でも、武山君が描いたこの絵には、素敵な願いがいっぱい込められてるっていうのがわかるよ。きっとそれは、武山君自身の、大切な思いなんだよ。だから誰が何て言っても、それをこんなふうに黒い影で汚してしまっちゃダメだと思うな。昔私のパパが私に言ったの。勉強は絶対にしなくちゃダメだって。それは、近い将来に絶対に私の力になるからだ、って」
「どういうこと」
「仲間を蹴落として有名企業に就職するためじゃなく、自分自身の心に描くたくさんの夢を実現するために必要な力を身に着けるために、私たちは勉強しないといけないんだよ。Aクラスの生徒だった武山君は、きっとすごく優秀な人だよ。それに、こんなに素敵な夢を持ってる。この夢を実現するの、諦めるのはまだ、早いんじゃないかな」
 さなえはそう言って、絵を武山君に返した。
 武山君はそれを大事そうに両手で包むと、小さく微笑んだ。

「そんなこと言ってくれる人、今までいなかった。そうか、夢って、諦めなくていいんだ……。毎日勉強しろ、って追い立てられて、いつの間にか僕たち、友だちや夢や、大切なものを何もかも奪われた気になってた……でも、違ったんだ」
「うん」
 武山君の中から暗い影が消えて行くのが、さなえはその目を見ていてわかった。
 キラキラ輝き始めた武山君の瞳を見て、武山君はもう大丈夫だ、とさなえは思った。

「神、だよ」
「え?」
 突然言った武山君の言葉に、さなえは首を傾げた。
「神を名乗る人物から、パソコンや携帯にメールが来るようになったんだ。僕が記憶を失った、っていうのは嘘。失踪事件のときも、僕たちは神の指示を受けて、東京都内の廃校に隠れていただけだったんだ」
「そうだったんだ。神の正体を知ってる?」
「いや、知らない。素性がわかるような話題は一切振って来なかったから……。このこと、親や先生に言わないで」
「もちろん、私たちは何も言わない。話してくれてありがとう」
 さなえはリュウを振り返った。
 リュウは何も言わずに肩をすくめると、少しおどけた顔をして微笑んだ。
「行こう」
「うん」
 リュウとさなえが歩きはじめると、武山君がさなえを呼びとめた。
「あの、さなえちゃん! 僕、勉強頑張るよ。でも、今度は仲間を蹴落とすためでも、有名大学に進学するためでもない。自分の夢を叶えるために」
「うん、がんばってね」
 さなえは武山君にピースを送り、公園を後にした。

「やはり、今回の失踪事件の裏には、事件を誘導している真犯人がいたんだ」
「うん。ミッションルームに戻ろう」
「さなえ」
「え?」
「ありがとう。多分、君がいなければ真相は聞き出せなかった」
「うん。リュウったらいきなり酷いことをズバリ言い過ぎなんだもの。ビックリしちゃったよ」
「酷いこと?」
「本当のことを言われたら、人はショックを受けるものだよ。リュウっていつもそうだよ」
「そうか……」
 リュウは少し考え込んで、そして唐突に言った。
「さなえの今日のスカート、すごく可愛いね」
「ええ!?」
「なるほど、本当だ。確かにショックを受けたみたいだね」
「ちょっと待ってよ、今のはショックを受けたっていうか……」

 本当のことを言われたら人はショックを受ける。
 リュウは多分、さなえのその言葉を何か勘違いしてる……。



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