第1話−8
最初に来たときよりも早い時間帯だったこともあり、ビルの中の薄暗さはそれほど気にならなかった。
今日はペンライトがなくてもいけそうだ。
事件現場となった3階の部屋にたどり着くと、さなえはゆっくりと中に入って、そしてすぐに立ち止った。
―― 不自然。
やっぱり、最初に感じた違和感は錯覚ではなかったんだ。
さなえが感じている奇妙な印象は、一人でやって来た今、はっきりとその存在感を放っている。
でもさなえには、具体的に何が「不自然」だと感じられるのかが分からなかった。
いつもこうなのだ。感覚だけが先走りし、理屈が分からない。
さなえは深呼吸すると、感覚を研ぎ澄ませた。部屋には乱雑に置かれた段ボールの山しかない。
―― 不自然。
でも、どうして? ただの段ボールだ。
足もとに視線を落とすと、コンクリートが剥き出しのヒンヤリとした床が。
―― 不自然。
床が? どうして。
「さなえ?」
「きゃあ!」
突然背後から肩を叩かれて、私はビックリして飛び上がった。
「リュウ……。驚いた」
「驚いたのは僕のほうだ」
リュウは警戒するように周囲を見回すと、何かを探るようにさなえを一瞥した。
「君、一人で来たの?」
「う、うん」
さなえが頷くと、リュウはさらに不思議そうにさなえを見つめた。
「何度か呼んだけど、僕に気づかなかったね。そんなに集中して、いったい何を考えてたの?」
「大したことじゃないの。この部屋に並んでいる段ボールや、それからこの部屋の床の感じが……、なんだかとっても変な感じがするなって。おかしいよね、こんな何でもないことが気になるなんて……」
それはさておき、さなえはリュウに呼ばれていたのに気付かなかった自分に、ちょっと驚いた。
超感覚にとらわれているときには、他の感覚、たとえば聴覚などに意識が行きとどかなくて、気づかないことがあるよ、って国立能力開発研究所のお医者さんが言っていたのを思い出す。
自分の能力を使いこなせないっていうのは、こういうことでもあるんだ。
「そうか。邪魔をして悪かったね」
リュウは無表情にそう言うと、ポケットからボイスレコーダーを取り出してそれに記録をとりながら、岡田律子が発見された奥の部屋まで歩いて行った。
「事件当時、外につながるドアも鍵がかけられ閉まっていた。出入り口には10センチほどの穴。……部屋は蒸し暑く、日中は40度を越えていると推測される」
リュウの声を遠くに聞きながら、さなえは部屋の中を見回してみた。
出入り口には確かに10センチほどの穴がある。そして、リュウが今入って行った奥の部屋のドアの下にも、10センチほどの隙間があいている。
さなえは部屋の外に出て、リュウが言った穴から部屋の中を覗き込んで見た。
そのとき、さなえのポケットで携帯のバイブが鳴り、さなえはまたビクっとして飛び上がった。
しかも慌てて携帯を取り出した拍子に、ポケットに一緒に入れていた追跡マーカーのケースを床に落としてしまった。
「あ! うそ、やだ……」
ケースからオレンジ色の追跡マーカーの粒が転がり出て、床に広がった。
この追跡マーカーは一人一人違う色で、Qクラスの場合、さなえはオレンジ色だ。ちなみにリュウはグリーンで、メグはピンク、キュウは青色、数馬は白で、キンタが黄色だ。
床に散らばってしまったマーカーを拾い集めようとしたら、オレンジ色の粒が、どうしたことか出入り口の穴に吸い込まれるようにして次々に転がっていってしまった。
「え、なんでよもう……」
自分のドジ加減に嫌気がさしながら、さなえは穴から覗きこんで追跡マーカーの転がって行く先を見守った。
すぐに何かにぶつかって止まるだろうと思ったのに、意外にも球は障害物を次々にかわして、かなり遠くまで転がって行ってしまっている。
「はあ……、いやになっちゃう」
溜め息をついて穴から覗いていると、部屋の奥からリュウが出て来て、さなえが覗いている壁の向こうがわで膝をつき、屈みこんでこちらを覗きこんできた。
小さな穴ごしにリュウとさなえの目が合う。
なに遊んでるんだ、とリュウに怒られてしまいそうだったので、さなえは気まずくなってしまった。
「ごめん、わざとじゃないの」
一方、リュウが言ったのは予想外のことだった。
「どうやら君の直感は正しかったみたいだ。謎が、解けたよ」
「謎が解けたって、どういうこと」
さなえはポカンとしてリュウを見返した。
二人はそのまま動かずにかがみこんだまま、穴ごしに会話を続けた。
「僕が遺体発見現場に立っていたら、そこに君の追跡マーカーが転がって来たんだ」
「うん、ケースを落としちゃって」
「そう。さなえが部屋の外で落とした追跡マーカーは、この穴をくぐり抜けて手前の部屋に入ると、さらに僕がいる奥の部屋まで転がって来たんだ。つまりこの部屋の床は、見た目では分からないほどわずかではあるけど、奥の部屋のある一点に向かってゆるやかな傾斜になっていたんだよ。そして、一見部屋の中に乱雑に置かれているように見えるこの段ボールも、実は追跡マーカーが転がって行くのを邪魔しない位置に置かれていた、と僕は考えたけど、君はどう思う? さっき、さなえがこの部屋の段ボールや床を不自然だと感じていたのは、そのせいだったんじゃない」
「うそ、リュウに言われるまで気付かなかった……」
「このトリックを使えば、部屋の外から鍵をかけた後に、鍵だけを中に戻すことが可能だ。例えば、氷の球なんかを使えば……」
「すごいよリュウ! 謎が解けたね!」
さなえはリュウの推理に感動して、目をキラキラさせて微笑んだ。
「シャーロック・ホームズみたい!」
「……。」
意図せずして向けられた笑顔に、リュウが閉口する。
「君って、……ッ!?」
そうして何かを言いかけようとしたリュウが、突然ハッとして目を見開いた。
「さなえ!!」
「えっ、キャア!!」
次の瞬間、床に屈みこんでいたさなえは、後ろから誰かに掴まれ、軽々と体を持ち上げられた。
なんとか敵を振りほどいて逃げようとしたが、顔に布を押しあてられたさなえは、ツーンと鼻に刺さるような甘い臭いを感じたあと、瞬く間に意識を失ってぐったりと倒れ込んだ。
「ケルベロス! 彼女に何をした」
リュウは部屋から飛び出し、男に掴みかかった。
「ご心配なく、少し眠っていただいただけですよ。ンフッ」
ケルベロスと呼ばれた男は、足もとで眠るさなえを抱き上げると、リュウに向かって丁寧にお辞儀をした。
「キング・ハデス様からの伝言を受けたまわっております。私と一緒に来てください」
「その前に彼女を安全なところへ」
さなえの体をリュウが受け取ろうとしたが、ケルベロスは渡さなかった。
「ンッフッフ。春乃紗奈江……、彼女を再び見つけたことを、ハデス様はとてもお喜びでしたよ、リュウ様」
「なんだって」
リュウの表情がこれまでよりも一層険しく、怪訝な面持になる。
「どうして彼女の名前を知っているんだ」
「今はまだ、私の口から詳しくは申し上げられませんが……ンフッ。彼女の身の安全は、リュウ様、あなたにかかっていると言っても、過言ではありません。ンフフ」
「……。」
夕陽が影を伸ばし、辺りが闇に包まれていく時刻。
リュウはそれ以上は何も言わず、ケルベロスのあとに従った。
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