第1話−10

伸びてゆく影の上に、一輪の水仙が咲いた。
彼は彼女に心を奪われ、その花を手に入れたいと願った。
しかし彼女が愛したのは別の男。
影はどんなに伸びても、彼女を染めることはできなかった。
ならばいっそのこと……

―― お母さん。

 影は闇と成り、いついつまでも、彼女の血を恋い慕う。その闇の名は冥王星。
 時代を越え、世代を越えて、わが孫までもが同じ道をたどるだろうと、王は誓った。


 ひどい頭痛を覚えて、さなえは目を開いた。頭がボーっとする。
―― ここは、どこだろう。
 白い天井に、眩しいくらいの朝日が反射していた。
 どうして自分がここにいるのかを思いめぐらしていたさなえは、雑居ビルで起こったことを思い出し、ハッとして体を起こした。

「リュウ?」

「お目覚めですか、さなえ様……ンフッ」
「あなたは……誰?」

 小さな白い部屋の片隅に、猫背の男がまるで本物の影のように、ひっそりと佇んでいた。
「わたくしの名は、ケルベロス。冥王星の王、ハデス様に仕えております。以後、お見知りおきを……ンフッ」
「……冥王星……?」
 太陽系の一番外側にある星だということ以外に、さなえには聞き覚えのない名前だった。

「ンッフ、昨日は手荒なことをして申し訳ありませんでした。リュウ様をおとなしくさせるには、ああするよりほかになかったのであります、ンフ」
「リュウは、どこ?」
「さきほどから、貴方様をお待ちですよ。ンフッ、さあ、こちらへどうぞ」

 さなえはベッドから降りて、近くの椅子に置かれていた鞄をつかむと、ケルベロスの後について廊下に出た。
 ここはどこかの病院跡地だろうか? 自分たちの他には誰もいる気配がない。

 部屋を出るとすぐに、両手をポケットに入れたリュウが、壁によりかかって立っているのが見えた。
 リュウは物思いに沈んで、さなえが今までに見たことがないくらい、ひどく恐い顔をしていた。
「リュウ……?」
「さなえ!」

 さなえに気づいたリュウはホッとしたように顔をほころばせると、足早に近づいて来てさなえの手を掴んだ。
「帰ろう」
「うん」

 さなえはリュウに手を引かれて廃墟のような白い廊下を進んで行った。途中、真っ白なワンピースに身を包んだ美しい女の人が、リュウに微笑みかけた。
「さきほどお話した、お爺様からの通達のことを、くれぐれもお忘れになりませんように。今回の事件には関わってはいけませんよ」
「そういうことなら、余計に引き下がれないと言ったはずだ」
 嫌悪の滲む顔で女の人に応えたリュウは、真っすぐに前を見て歩き続けた。

「リュウ様」

 女の人が呼びとめたけど、リュウは無視した。
 さなえは恐くなって、リュウの温かい手をギュっと握り返した。
 この人たちは一体、なんなんだろう……? わけが分からなかったけど、今そのことをリュウに聞いてはいけない気がした。

 リュウに手を引かれるまま、さなえは東京の街に出て、無心で歩き続けた。
 朝日が、まだ青白いコンクリートの町に反射している。休日ということもあって、車も人もほとんど通っていなかった。

 腕時計に目をやると、まだ朝の5時前だった。

「怪我はないかい」
 それまでずっと黙っていたリュウが、前を向いたまま静かに言った。
「うん」

「何かひどいことを、言われなかった?」
「うん」

 さなえは頷いて、リュウの横顔を見つめた。眠っていないのか、リュウは少し疲れた顔をしていた。
 ちょうど信号が赤になったので、二人は立ち止った。
 そうして、リュウが心配そうにさなえの目の中を覗きこんできた。
 途端にさなえはカーッと頬を赤らめ、リュウの胸を押し返した。
「リュ、リュウ……、近いよ。なに?」
 
 瞬間、リュウがフっと微笑んだ。

「どうやら大丈夫みたいだね。もしかしたら、催眠をかけられたんじゃないかと思ったんだ」

 へえ、リュウってこんなふうに笑うこともあるんだと思いながら、さなえはリュウの言った言葉に引っかかってギョッとした。
「催眠!? なにそれ、急に心配になってきちゃった……ねえリュウ、大丈夫、って、さっきみたいに目を見たらわかるの?」
「いや、わからない」
 リュウがきっぱりと断言した。
「え……」
 さなえは言葉を詰まらせ、疑うように目を細めてリュウを見上げた。
「目を見てもわからないのに、どうして大丈夫だって言えるのよ」
「泣いたり、笑ったり、……照れたり。催眠をかけられている状態の人間は、そういう感情が乏しくなるんだ。けど君は、僕がちょっと顔を近づけただけで……」
「だって近いんだもん!」
 リュウが最後まで言うのを防ぐようにさなえは言い、そしてまた少し頬を赤らめた。

 普段はあまりリュウと話したことがないさなえだけど、このときは意を決して聞いてみることにした。
「ねえ、あの人たちは、リュウの敵なの?」
「どうしてそう思ったの」
「だってリュウ、すごく怒ってるみたいだったから」
「……そうか」

 リュウは何かを言いたそうにして、さなえを見つめ返した。
 まさかこんなに早く、自分の正体を明かす時が来るとは思っていなかったのだ。
「君には、嘘やごまかしは通じないって気がするな」
 それはリュウの直感だった。
 Qクラスにやって来たさなえが、理屈ではなく感覚でいろいろなことを見抜いているのを、リュウはよく観察していた。
 だから、リュウは諦めて小さく溜め息をついた。

「冥王星、という言葉を聞いたことがあるかい」
「さっき、ケルベロスという人が言ってた。自分は冥王星の王、ハデスさまに仕えてる、って」
「冥王星というのは、世界で暗躍する巨大な犯罪組織の名称だ。僕が探偵学園に入学したのは、奴らをこの手で捕まえるためだ」
 リュウの目が真剣だった。
「……リュウ、もしかして、その人たちに酷いことをされたの?」
 さなえがひどく心配そうに聞くので、リュウは少し驚いてしまった。
 この子は、人のことを悪く思ったり、疑ったりすることがないのかな、と思ったのだ。

 リュウにはさなえのことがとても理解できなかった。目の前のさなえと、そして自分という存在があまりにも相違していることが悲しかった。
「そうじゃない。僕は冥王星の創始者の血を引いている。つまり、僕には犯罪者の血が流れているんだ」
 重たく低い声で言った、真実。
 さなえはどんな顔をするだろう。僕を嫌い、軽蔑するだろうか……。
 だが、リュウの想像に反して、さなえはきょとんとした顔で首を傾げた。そして、今までと変わらない真っすぐな瞳でリュウをマジマジと見つめてきた。
「リュウも悪いことをしたの?」
「へ?」
「リュウも犯罪を犯したの? たとえば、人を殺したり……」
「まさか! 僕は犯罪に手を染めたことは一度もない」
 さなえはホッとしたように息をつくと、
「そっか。良かった」
 と何でもないことのように言った。
 信号が青になり、さなえはリュウと手を繋いだまま、また歩き始めた。
「良かったって、なにが。僕は犯罪者の子なんだぞ」
 リュウが信じられないという顔でさなえを見つめる。

「人は皆兄妹、って言うくらいだよ? そんなこと言ったら、世界中の誰だって犯罪者の子どもじゃないの」
「僕は人類統計学的なことを言ってるんじゃないんだ」
 リュウが不機嫌に言い返す。
「でもリュウは悪い人じゃないでしょ? 冥王星を捕まえるために探偵学園に入ったなら、私たちの仲間だよ。冥王星を捕まえるの、私も手伝う」
「え? 君はいったい、何を言ってるんだ、さなえ。とても正気とは思えないな」
「だって私も一応、Qクラスの一員だし……。少しは役に立ちたいんだもん。ひどいよリュウ、私のことをノケモノみたいに言って」
「君のことをノケモノみたいに思ったことは一度もない。そういう意味じゃなくて」
「でも、いつも足手まといだとは思ってるでしょ」
「思ってない。ただ、君のことがまだよく分からないだけだ。さなえはまだQクラスに来て間もないからね。入学試験を受けたわけでもなく、話を聞くとどうやら編入試験を受けたわけでもない。数馬でさえハッキングできなかった極秘情報みたいで、君の素性もわからない。どんな能力があるのか、どんな生い立ちの人なのか……けど、団先生が決めたことだ。さなえをQクラスに加えたのには、ちゃんと考えがあるのだと思う。だから、僕は君のことを悪く思ったりしていないよ」
「……。」
 自分がいつも気にしていることを、こんなにズケズケと言われるとは思わなかったので、さなえはちょっとショックを受けた。
 数馬に至っては、さなえのことをハッキングまでして調べようとしていたみたいだし……。
 さなえはガックリと項垂れて、黙りこんでしまった。
 そんなさなえの様子に気づいたのか、リュウが今度は優しく話しかけた。

「さなえはあいつらを見て恐くなかったのかい? 冥王星はそこらの犯罪者集団とは違うんだぞ」
 口を閉ざしていじけたようにしていたさなえだったが、やがてリュウに応えて言った。
「恐かったよ。特にあのケルベロスって人は、……狼みたいだよね……」
「っ……」
 リュウが一瞬噴き出したが、すぐにこう言った。
「狼か、それは言えてる」
「けど。みんなで一緒なら大丈夫だって気がするし」
「え、みんな?」
「うん、Qクラスのみんな」

 リュウが途端に険しい顔になった。
「Qクラスのみんなには、冥王星のことは言わないでくれ」
「え、どうして」
「犯罪者の子どもが探偵学園に入学したなんて知れたら、なんて思われるか想像つくよね」
「みんなは気にしないと思うけどな」
 さらりと言ってのけたさなえの言葉に、またしてもリュウがぎょっとする。
「なっ!……。さなえ、君は人が良すぎる。それに冥王星のことをよく知らないからそんなことが言えるんだよ」
「冥王星のことはよく知らないけど、リュウのことなら少しは知ってるもん。私が恐がっていたときに、雑居ビルで手を繋いでくれたし。それに、Qクラスのみんなのことも知ってる。悪いことと良いことの区別がついているから、みんな探偵になろうとしてるんじゃないかな。だから、リュウが冥王星の血を引いているからって、それだけでリュウのことを悪い人だって決めつけたりはしないはずだよ。みんなはきっと自分の目で、リュウが悪い人なのか良い人なのかを見極められる。私たちは仲間だもん」
「……。」

 リュウは言葉を詰まらせ、ジっとさなえを見つめた。
 この世界に、そんなことを言う人がいるとは思ってもいなかったからだ。
 憎くて、疎ましくて仕方ない自分という存在を、ありのままで受け入れてくれる人がいる。それは、リュウにはにわかには信じがたい事実だった。
―― 仲間。
 さなえと繋いでいる手の温もりに、リュウはこのとき初めて胸が震えた。
 

 朝日が一層輝きを増し、灰色の街が、今はキラキラと輝いている。



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