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愛し君の、愛しドゥジャルダン
枚数: 33 枚( 13,083 文字)


 ずんぐりとしたムッチリボディに、小さくて愛らしい、つぶらな眼。その姿には透明感があって、いそいそと行く頼りな
い足取りは、まさに可憐な淑女。
 ああ、今日も絶好調ね、マイ・スウィート・ドゥジャルダン。グッドモーニング。
 実体顕微鏡を覗きこみながら、眩暈にも似た恍惚感を覚えて、潤子は口元をほころばせた。

 ここはカリフォルニア工科大学の、宇宙適応能力開発研究室。
 国際航空宇宙機関、通称NASOから多額の資金援助を受けて、世界中から集められた優秀な科学者が日夜先進的な研究
を行なっている。より遠くの宇宙へ、より永く――研究の内容は一貫して、地球に存在している生命が、どうやったら地球
外でも永続的に存続していけるかを開発することだ。
 理論物理学者、実験物理学者、宇宙物理学者……チームの中心となっているのは個性が強くプライドの高い物理学者ばか
りだが、中には生物系の科学者もいて。
 潤子はこのチームの微生物学者だ。

「As usual this morning, you are still gross... なあ潤子、NASOに送る卵の準備、もうできてるか?」
 朝の培養室に、潤子と同じ日本人の男が白衣も着ないで、しれっと入ってきた。
 潤子はイヤそうにその男を横目で見ると、すぐにまた顕微鏡のレンズに視線を戻した。
「乾眠状態への移行が昨晩終わったところ。午後には発送する予定。ところで要(かなめ)、こんど私のことキモいとか言
ったら、人事にモラハラで訴えるからね」
「お前さ、顕微鏡覗いてるときの自分の顔、見たことないだろ」
「あるわけないでしょ」
 応じながら、潤子は顕微鏡で観察しているディッシュを取り換えた。
 要がゆっくりと近づいて来る気配がした。
「俺はいいけど、他の奴に見られないようにしろよ」
「なんで?」
「マスでも掻いてるみたいにエロい顔してるから。しかもお前が萌えてる相手は、体調1ミリたらずのクマムシ属、ドゥジ
ャルダンヤマクマムシだ。短い足が8本だぜ? 相手にしてはちょっと、小さすぎるんじゃないか」
 デカいのが好きだろ女って、と、要は意味深に付け加えた。
「私はサイズよりもフォルムを重視するの。ああ……超セクシー」
 顕微鏡を覗きこむ潤子の口角がイタズラに上がった。
「抱き枕にしたいくらい愛らしいって思うのは、きっと私だけじゃないはずよ」
 理系の研究室で下ネタが飛び交うのは日常茶飯事だ。マスるやナニるに動じるほど潤子はウブではない。
 それどころか顕微鏡の焦点をしぼり直しながら、潤子はまた頬を緩めて今度は不適な笑い声まで漏らした。うはは、あは
ん、と。
「そうか、微生物学者はみな変態なんだな」
「要に言われたくないわよ。言わせてもらえば、物理学者なんかみんなオタクでしょ? 工学系は特に」
 相手の核心を突いてやったとばかりに、潤子がフンと鼻を鳴らす。
 しばし沈黙した要は、潤子が顕微鏡を覗いている実験台の上に浅く腰かけて腕を組み、やがて不満そうに呟いた。
「ただのオタクじゃない。IQの高いオタクだ」
「認めたわね、っていうか上乗せしてくるあたりGross! それって尚更たちが悪いじゃない」
「どこが。俺に言わせればオタクは人類の夢を具現化している先駆者だ。中でも物理学を日々の糧とする俺たちは、スター・
トレックやスター・ウォーズの世界を現実に生きているんだからな。具現化しうるもののレベルが違うんだ。そこは一般
のオタクとは差別化してくれよな」
 潤子が所属するチームの物理学者たちは、要と同じようにみんなスター・トレックやスター・ウォーズが大好きだ。運悪
く、彼らがクリンゴン語で会話しているのを耳にしてしまったときなんか、潤子は心底ゾッとしたものだ。
 今朝もそのときと同じような感覚が潤子を襲った。正直、要が言っていることがよく分からなかったので、潤子は適当に
合槌を打って話を合わせる。
「それって、ダースベーダーが作るデス・スターは、チューバッカが作るデス・スターよりもスゴイってこと?」
 その瞬間、要がショックを受けたようにハッと息を呑み、空気が張り詰めた。
「いろいろ間違ってて、突っ込みようがないよ。デス・スターを作ったのは……いや、もういいわ。潤子とスター・ウォー
ズの話をしたら、多分まる1日あっても足りないよ」
 その言い方が、まるで「馬鹿だな」と見下げられているようで、釈然とはしないものの。
 かくして、しょせん潤子には理解できないオタクの世界の住人、それがこの男、要だ。

 残念だな、と、絶賛彼氏募集中の潤子は密かに思う。要は、外見だけは棒ネクタイをお洒落にしめて、いつもブランド物
のジーパンをそれとなくはきこなしているセンスのいい好青年の風貌。仕事も早いし、日本人にしては背が高い。黙ってい
ればモテるだろう。だが、外身と中身にギャップがありすぎるのだ。しかもその中身には、潤子には到底理解できない、と
ろっとろのウォーズやトレックが詰まっているのだから、もはや手の施しようはない。

「それはそうと、次の宇宙探査に持って行く例の卵。急いでくれってNASOから催促の連絡があったんだ。ちょっと、見
せてもらっていい?」
 要はこのチームのリーダーで、NASOとの連絡役でもある。だから、他の研究者たちの仕事の進捗具合をチェックする
責任があるのだ。
 潤子が研究しているドゥジャルダンヤマクマムシの卵は現在NASOが注目している研究材料で、今日中にサンプルをN
ASOに発送する予定だ。
「どうぞ。そこの乾燥機に入ってる。中に赤いシールが貼ってあるディッシュが5枚あるから」
 顕微鏡から顔を上げずに潤子が親指でさした先に、四角い冷蔵庫のような箱がある。
 それはドゥジャルダンヤマクマムシの卵を乾燥させるために特別に製造された、湿度と温度を完璧にコントロールするこ
とができる精密機械KANSOUKUNだ。
 ドゥジャルダンの卵は乾燥させると眠った状態となり、代謝機能がほぼ停止する。この状態を潤子たちは「乾眠(かんみ
ん)」と呼んでいるのだが、ひとたび乾眠状態となった卵は、様々な極限状態に耐えうるという不思議な性質を持つ。
 潤子は微生物学者として、ドゥジャルダンの卵が乾眠したときの「強さ」の秘密を調べている。
 しかしドゥジャルダンの卵は急激な乾燥には弱いので、最初は湿度の高い環境の中に置き、そこからゆっくりと時間をか
けて徐々に湿度を下げ、乾燥させていく必要がある。そこでこのKANSOUKUNは、湿度を自動制御しながら一週間か
けて繊細なドゥジャルダンの卵を安全に乾眠状態に移行させてくれる優れ物なのだ。
 
 要はジーンズのポケットに指先を突っ込みながら、ゆっくりと乾燥機に近づいて行った。
 乾燥機の扉には赤文字で、「Do not open!」と書かれた張り紙がされている。潤子が書いたものだろう。
 潤子は、クマムシを培養しているこの部屋に他の研究者、とりわけ物理学者たちが入ることをすごく嫌がっている。とい
うのは、培養室ではクマムシを培養したり、その卵を乾燥させたり、培養液を移し替えたりという細やかな操作が、汚染な
く精密に行われることが求められるのだが、彼女に言わせれば、要を含む物理学者たちの指先には一様にしてデリカシーが
ないそうなのだ。
 クマムシは繊細だから、童貞君の不器用な手で触られたら嫌がる、と潤子は揶揄する。
 にもかかわらず、チームの物理学者たちは潤子の仕事を珍しがってズケズケと培養室に入って来るので、至る所に「Do
not open !」とか、「Keep out !」とか、「Do not touch !」という張り紙がされまくっているわけだ。
 他にも培養室での決まり事は多い。そしてそれを守らなければ、相手が誰であろうと潤子はマジでキレる。
「手は洗った?」
 と、このときも、要がまさにKANSOUKUNの扉に手をかけようとした瞬間に、潤子の声が飛んで来た。
「培養室に入る前に洗ったよ。決まりだろ」
「ちゃんと手袋をしてね」
 まるでちゃんと避妊してね、と言ってくる一晩限りの女が吐くような冷たい口調に、初めてでもないのに、要はどぎまぎ
した。
「ああ、そうだった」
 乾燥機の隣にある棚に、様々なサイズのグローブが几帳面に取りそろえられている。その中から要は、Lサイズのラテック
スグローブを取り出して装着した。
 それから少し緊張しながら乾燥機の扉を引き開けると、冷蔵庫を開けるときのような吸着感があって、プシューと空気が
漏れ出すかすかな音がした。
「開けっ放しにしないでよ」
 潤子にそう言われても、だが要は、乾燥機の中を見回して首をかしげた。
 中は三段構造の棚になっているが、そのどこにもディッシュは見当たらない。乾燥機は空っぽだ。
「なあ、潤子。赤いシールのディッシュって、どれ。ここには何も入ってないけど」
「はあ?」
 この時初めて、潤子が顕微鏡から顔を上げて要を振り返った。それから自分が観察していたドゥジャルダンヤマクマムシ
のディッシュを素早く、だが音もなく静かにインキュベーターの中にしまいこむと、要が見ている乾燥機の中を一緒に覗き
こんだ。
「なんでよ! あり得ないんだけど!」
 言わずもなが、潤子の悲痛な叫びが、さほど広くもない培養室にキーンと反響した。

 潤子は頭が真っ白になった。
 ディッシュ1枚に、卵が100個入っていたはずだった。全部で5枚。それが、すべて無くなっている!?
 ただの卵ではない。ヒューマンの遺伝子を水平伝搬させるのに潤子が休まず半年間もかけてやっと確立した、それは特別
な卵だった。真空に耐え、寒さに耐え、強烈な太陽光と放射線に耐え、高熱にも耐えうる卵。NASOが次の宇宙探査に持
って行って、卵の耐性力と、その中に取り込ませたヒューマンの遺伝子の動態を確認することになっている、その卵が! 
 人類が宇宙環境に適応する足がかりを得るための、そんな貴重な卵だというのに……。

「まずい、気分が悪くなってきた。過呼吸発作で死ぬかも」
 両手で口元を抑え、肩をふるわせ始めた潤子に、だが要は冷静に問いかける。
「ここに入れたのは間違いないのか?」
「間違いない。朝晩、毎日2回ずつ確認して、ノートに記録してきたもの。昨日の夜までは確かにあったのよ」
「予備はないのか?」
「親虫からまた生ませることはできるけど、ドゥジャルダンの卵は乾眠させるのにまた1週間かかる」
「シャトル打ち上げは3日後だ。今日中にヒューストンに向けて発送しないと間に合わない」

 要と潤子は、しばし見つめあって鍛え上げたおのおのの頭脳をフル回転させた。
 NASOは今回のシャトル打ち上げと、チームの研究にすでに多額の資金を投じている。スポンサーであるNASOの期
待を裏切れば、資金は打ち切られて研究は頓挫。チームは解散に追い込まれてしまうかもしれない。
「代替案は?」
 もちろん、バックアップはとってあるんだろうな、とでも言いたげな要の口調に、潤子は少し考えてからハッと顔を上げ
た。
「ヨコヅナクマムシの卵なら夕方までに準備できると思う。乾燥に強いから8時間あれば乾眠状態にもっていける」
「ヨコヅナクマムシ? なんだそれ」
「ドゥジャルダンヤマクマムシとは違って、水生のクマムシなの。バックアップ用に日本の大学から少し分けてもらってて、
ドゥジャルダンに水平伝搬させたのと全く同じヒューマンの遺伝子を取りこませてある」
「へえ、やるじゃん。とりあえずそれ、すぐに準備してくれ」
「わかった」
 潤子はすぐにクリーンベンチの電源を入れて、産卵期のヨコヅナクマムシを培養しているインキュベーターから、慎重な
手つきでディッシュを取り出し始めた。
「でも、NASOには何て?」
 心配な顔で問いかける潤子に反して、要は冗談ぽく笑い返した。
「誰か命知らずな奴が、潤子の培養室から卵を盗み出したって報告するよ」
「笑いごとじゃないでしょ。FBIが動くかも。そうしたら犯人は確実に射殺してって言ってよね」
「もちろんだ」
 要は頷きながら、だが、何か解せないという風に首を傾げた。
「でも一体、誰が卵を持って行ったんだ? 卵料理なんか作れる代物じゃないのに……もしかして企業のスパイでも紛れこ
んだかな」
「ここに卵があるのを知っていたのは、チームのメンバーだけのはずよね」
「心当たりがないか、全員に聞いてはみるけど」
「もしかしたら、オックスが怪しいかも。いつも日曜は休むのに、昨日ラボに来てたから。なんか、新しい実験をするんだ
とか言ってた」
「オックスが? まさか……」
 潤子に言われた要は半信半疑でぼやきながら、憂鬱な気持ちで隣のデスクルームに移動した。
 気は進まないが、まずはNASOに電話で報告を入れなければならないだろう。



 NASOに事の次第を報告し、どうしてそんなことになったのか、と、研究室のセキュリティーの甘さを延々と責めたて
られ、ドゥジャルダンヤマクマムシではなくヨコヅナクマムシの卵なら送れるという潤子の代替案を提案して、それを先方
の最高責任者に受け入れてもらうまで小一時間かかった。その上、もし卵が本当に盗まれたとなれば、合衆国を揺るがす大
問題になるからな、記者会見の準備をしておけよと、脅しまでかけられた。
 すっかり精神を削られた要は、それからゲンナリした気分でオックスを捜し始めた。
 もしオックスが卵を盗った本人だとすると、今頃はデス・スターに逃げ込んで小さなオムレツでも作っているかもしれな
い。映画、スター・ウォーズに出て来るスーパーレーザー搭載の最強の宇宙要塞デス・スター。俺が逃げ込みたいよ!
 オックスの手にかかったとすれば卵は無事ではないだろうな、と要は思った。ロケット発射用の高エネルギー燃料で車を
吹き飛ばし、軍事用レーザーでスーパーマンのフィギュアを破壊しようとして大学の壁に穴を開けた奴だ。卵が無事である
はずがない。
 ああ、考えただけでも頭が痛い。どうかオックスが犯人ではありませんように、と要は心中で願った。


 
 オックスはすぐに見つかった。
 ミーティングルームのテーブルに足をのせて、煽るようにコーヒーを飲んでいるちぢれ金髪の男。彼が要たちのチームの
宇宙物理学者、オックスだ。しばしば問題行動が目立つ彼ではあるが、IQはチームの中で一番高い。そして一番年下のマ
スコットキャラ。そんな可愛いもんじゃないが。
 
「Hey, Ox! The Egg to send to NASO disappeared from the incubation room, this morning. Do you know something?」
(オックス、NASOに送る卵が今朝、培養室から消えたんだが、お前何か知らないか?)
 オックスの返答は、「はあ? 知るかよ」だった。
 徹夜明けと見えて、どことなく機嫌が悪い。
 一晩中、実験をしていたのかと聞くと、「そうだよ」と。
 それなら、昨日ラボに誰か怪しい人物がやって来なかったか? と聞いてみると、オックスは、そんな人物は誰も来なか
ったと言う。
「Well then, did not anyone enter the incubation room last night?」
(じゃあ、昨夜は誰も培養室には入ってないんだな?)
「No way, I got in」
(まさか、俺は入ったよ)
「What? Why」
(は? なんで)
「Because I needed it for the experiment, I got eggs」
「なんだって!?」
 それまで英語で会話していたのに、要の口から思わず日本語が吹きだした。
 オックスを見つめる要の視線が、みるみる冷たくなる。
「おい、お前、今の日本語で言ってみろや」

 普段、二人は英語で会話をするが、要と付き合いの長いオックスは日本語を理解できるし、片言ではあるが喋ることもで
きる。
 オックスは悪びれることもなくこう言った。
「タマゴ、もらった。ジッケンにいるから」
「それだよ! NASOに送る予定の卵。どうすんだ、潤子が怒りまくってんぞ」
 するとオックスは子どものように拗ねて、唇を尖らせる。
「If it is an egg to send to NASO, Junko should write that」
(NASOに送る卵なら、そう書いておくべきだろ潤子の奴め)
「書いてあったろうが、入るな、開けるな、触るなって。潤子にしては親切に英語で書いてあったぞ? この前のミーティ
ングでも、赤いシールはNASOに送るやつだと言ってたよな」

 「そうだっけ?」と肩をすくめて困った顔をするオックスに、要は深く、深く、溜め息を吐いて見せる。
 それで、培養室から勝手に持ち出した卵をどうしたのかと聞くと、オックスの瞳が一変、少年のようにキラキラ輝きだした。
 楽しそうに昨晩の実験の成果を語るオックスとは対照的に、その時、卵たちに何が起こったかを知らされた要はますます
顔を強張らせ、ついには青ざめた。
 どうやらこの宇宙物理学者は、一晩かけて大切な、大切な卵に酷く手荒な仕打ちを与えたようだ。半年かけて潤子がNA
SOのために準備したドゥジャルダンの卵500個は、そのせいできっと全滅してしまったことだろう。

「ついて来いオックス。今、俺に話したことを、潤子にも話すんだ。大丈夫、お前の墓は俺がたててやるから」
「できない。ジュンコ、こわい」
 こいつ、ふざけんなよ。と、要の中でついに堪忍袋の緒が切れた。
「スター・ウォーズでは、命令に逆らうドロイドは拷問装置で分解処理をされることになっている。ちょうどそれに似た実
験を細菌ラボがやってるんだ。バクテリアが牛の死体をたった一晩で分解処理してしまうらしい。もし言う通りにしないな
ら、俺がお前を牛と同じ目に合わせてやるぞ、オックス! どうだ、試してみるか」
 潤子も恐いが、要が怒るともっと別の、洒落にならない恐さがある。
「Dammit! Fine, I will do it」
(ちくしょう! わかったって)
 舌打ち混じりに、オックスが渋々とテーブルから足を下ろして立ち上がった。そして要について歩きだしながら、ジャッ
プはおとなしい奴ばかりだと聞いていたのに全然話が違うなあ、と、のたまうものだから、要は肩をすくめて「竹槍の精神
を舐めるな」と、一笑した。
 その不適な笑みが危険なほど不気味に投げかけられたので、オックスはついに黙りこんだ。



 培養室では、潤子が忙しそうにクリーンベンチで作業を行っていた。積み重ねられた新しいディッシュには寒天が入って
いる。ヨコヅナクマムシの卵を乾眠させるためのディッシュだろう。
 潤子の後ろでは、今まさに遠心分離機が回転を終えて停止ブザーが鳴ったところだ。
 遠心分離機から潤子が取り出したのは、5本のラウンドチューブだ。そのチューブの底には、白っぽい沈殿物が見られる。
質量勾配を利用して、遠心力で卵だけを沈殿させたのだ。上手く沈殿させるために、あらかじめ卵には重さをつけてある。
だから、卵は成体のクマムシよりも沈殿しやすいのだ。
 潤子はクリーンベンチの中にチューブを運び入れると、オートピペットで上澄みを取り除き、新たな培養液をチューブに
入れて滑らかな手つきで沈殿物を懸濁し始めた。充分に懸濁を行った後、今度はマイクロピペットを用いて、スライドガラ
スの上に必要量をとったら、それを顕微鏡の元まで運び出し、カウンターをカチカチ鳴らして数えはじめる。
 1枚のディッシュに、100個ずつの卵を入れるため、1マイクロあたりに何個の卵が入っているかを数えているのだ。

 流れるように素早く無駄のない動き。驚くほど丁寧な一つ一つの所作は、美しくさえある。
 チームの物理学者たちは口にこそ出さなかったが、みんな、潤子が培養室で仕事をしているのを見るのが好きだった。見
ているだけで楽しいのだ。
 潤子が寒天ディッシュに100個ずつの卵を撒き終えるまで、その一連の作業を見守りながら、要とオックスは培養室の
入り口に突っ立って、飽きることなく静かに待った。
 潤子が卵を撒いた5枚のディッシュを乾燥機に入れる。祈るように扉を閉めて、乾燥機の扉の電子盤を操作して湿度が
99%から0.5%まで、8時間かけて徐々に低下するようにセットする。これでひとまず仕込み完了だ。
 潤子がようやく、入り口にいる二人を振り返った。
「ヨコヅナクマムシの卵は、夕方5時に仕上がる予定。さっき電話して、輸送業者には5時10分に取りに来てもらうこと
にしたから」
 忙しく立ち働いたせいで潤子の顔は桜色に染まっていた。

「犯人が分かったよ。オックスだった」
 要が極めて冷静に、静かにそう言ったのには、なるべく潤子の神経を逆立てないようにしようという意図があった。
 だがその意図は虚しく砕かれて、静かな培養室に、潤子の遠慮のない舌打ちがチッと響いた。
 赤鬼潤子がギロリとオックスを睨む。

「I am sorry Junko. It was necessary for the experiment」
(ごめんよ潤子。実験にどうしても必要だったんだ)
「実験に使うときには、先に私に言ってって、いつもあれだけ言ってるのに」
「俺からもきつく言い聞かせておくよ。勝手にサンプルを持ち出すのはルール違反だ。わかってるよなオックス? 潤子が
バックアップを持ってなかったら、俺たち全員の首が飛んだかもしれないんだぞ」
 要からもきつく言われて、オックスは居づらそうに「オウ」とか「ヤハ」とか意味のない音の欠片を漏らした。

「で、一体何の実験に使ったの?」
「説明しろよ、オックス」
 言われたオックスは、いきなりペラペラと早口な英語でまくしたて始めた。
「The space environment recreation room was completed. So I put eggs in it. While changing the temperature from
80 degrees to minus 196 degrees, I am applying a heliumion beam in an ultra vacuum environment......」
 ベラベラ、ベラベラ。
「ごめん、日本の方々にも分かるように、日本語で話してくれるかな」
 オックスの生意気な流暢な英語ときたら、なんと小憎らしいこと。潤子は心の中で、オックスが舌を噛んで死んでしまう
ようにと祈願したくらいだ。まったく本気で。
「意味分かるわよねオックス、Japanese please?」
 潤子に再び言われてオックスはややムッとした表情を垣間見せたが、仁王立ちの潤子に目を細められると逆らうことはで
きない。
「うちゅうの部屋、できた。だから、タマゴ入れた。チョーしんくう、気温80ドからマイナス196ド。ヘリウムイオン
ビームあててるゼ。Fuck! にほんごムズい。した、かんだだろ……」

 なるほど。潤子が懇切丁寧に丹精込めて育ててきたドゥジャルダンヤマクマムシの卵を。宇宙環境再現室が完成したから
その部屋にブチ込んだと。気温を80度からマイナス196度まで変化させながら、超真空環境で、ヘリウムイオンビーム
を当てているところだ、と。
「まったく、何をしてくれてるんだよ。どうする潤子」
 要が神妙な顔つきで潤子に歩み寄った。
「貴重生物殺害容疑でFBIに突き出すか?」
 要は心底から潤子に同情せずにはいられなかったのだ。
 朝晩とクマムシたちを顕微鏡ごしに愛でている潤子には、さぞや辛い事実であろうと思ったから。
 だが意外にも、潤子はさらりと言ってのけた。
「いいよ。死んではいないと思うから」
「へ?」
 予想しなかった反応に、要は拍子を抜かれる。意味がわからない。
「え死なないって、なんで。凍結状態に耐えられるのはいいとして、気温80度は生存限界なんじゃないのか」
「あの子たちは151度の高温まで耐えられる」
「へえ……。でも、超真空はさすがに」
「空気のまったくない超真空でも、乾眠状態の卵なら10日間くらいは大丈夫」
「マジか。でも、ヘリウムイオンビームを当ててるらしいけど。確かあれ、8000シーベルトはあるんだ。人間なら10
シーベルトで致死だぜ? その800倍のビームはさすがに」
「8000シーベルトなら、ぎりぎりセーフ。耐えられると思う」
 要が吹いた。それほど、驚いた。
 物理学者の要には、地球上の生物は単なる有機物の集合体でしかない。要が考える優位基準では、宇宙に単体で存在する
ことができない有機生物はスター・ウォーズに出て来るC-3POよりも下位にあった。
「……なにそのフォース。って、そんなにすごいのか、クマムシの卵」
 物理学一筋でやってきた要には、正直、潤子が日々大切に扱ってきたクマムシのことがよく分かっていなかった。ただ、
極限環境に対する耐性が高い微生物であるとは聞いていたのであるが、まさかあの8本足のトロそうなムシっこがここまで
強いとは。その辺のウイルスや細菌よりもはるかに強いではないか、ドゥジャルダン。
 
 驚いている要を尻目に、潤子は笑いながら、
「私が毎朝マスってる理由がわかった? とにかく強いのが好きなの」
 と、わざと艶っぽい声を出した。まるで彼氏でも自慢するような口ぶりだ。と言っても、ドゥジャルダンヤマクマムシの
ほとんどはメスで、単為生殖、つまり、オスを必要とせずに増殖することができる。
 要は言葉を失い、潤子を見返した。白衣の潤子は天使というよりもどちらかというと鬼っぽいことが多いのだが、クマム
シのことを話すときは果てしない優しさをたたえた、柔らかい表情になる。
「NASOが宇宙探査に持って行くのよ、それくらい耐えられないと困るじゃない。そもそも今回は、卵の中に仕込んだヒ
ューマンの遺伝子が破壊されずに維持できるか確かめるのが研究の目的なの。疑似宇宙空間で卵が死なないことはすでに実
証されているから、オックスがやった実験はもう古いのよ。もったいないなあ、5枚全部使ってしまうなんて。要、NASOには聞い
てみてくれた? 今回はドゥジャルダンじゃなくてヨコヅナでもいいか、って」
「ああ、かなりもめたけど、最終的にはヨコヅナでもいいって判断が出たよ。むしろ、最近ではドゥジャルダンよりヨコヅ
ナの方がポピュラーになってきてるらしくて、好都合だって」
「それは良かった。なんとか、首がつながったわね」
 潤子がホッとしたように微笑んだ。
「Shall I return eggs?」
 今さらになってオックスがおそるおそる、「タマゴを返そうか?」とか聞いて来たので、潤子は少し思案してから、やが
て首を横に振る。
 もう実験はやってしまったんだから、オックスが盗んだ卵はこのまま10日間は宇宙環境再現室に入れたままにするのが
いいと潤子は思った。その後、ヒューマンの遺伝子がどうなっているかを解析してみれば、NASOの実験に並行して潤子
たちの研究室でも新たなデータを得られるかもしれない。オックスにとっては、新しく完成した宇宙環境再現室の性能を確
かめる良い機会にもなるんだろうし。

 だから潤子は珍しく親切に英語でオックスに応じる。
「No, you shall not. Please continue your experiment for 10 days, then I will analyze the genes」
(返さなくていいから、このまま10日間実験を続けてよ。そしたら私が卵の遺伝子を解析するから)
 萎(しお)らしく眉をひそめているオックスに、しかも潤子は優しく微笑みかけさえした。
 それなのに、オックスはますます眉間の皺を深めて震えあがった。
「ジュンコ、こわい」
「はあ!? なんでよ。Come here Ox, デコピンするからデコ出しな!」
 ゴム手袋を脱いで発射準備を整えたデコピン拳を、潤子は自分よりも頭ひとつ分大きな金髪男に差し向けた。
 それをオックスが本気でガードしようとする。
「Fuck off!」
「こんど勝手にサンプルを持ち出したら、アンタにヘリウムイオンビームとやらを当ててやるからね!」
「ああ、もう煩い、やめろって」
 傍から見るとじゃれあっているようにも見えるオックスと潤子の取っ組み合いを、それまで何やら思案していた要が、す
ぐに制止して、二人の間に割って入った。
「なあ潤子、オックスが盗んだ卵、サンプルとして俺にも少し分けてもらえないかな。構造を調べてみたいんだけど」
 要は、宇宙工学物理学者として、クマムシの卵の構造を利用した新世代の宇宙船を開発するための研究を行っている。か
なり斬新的なアイディアではあるが、クマムシの卵の構造を利用した有機的宇宙船が、生命の輸送に役立つのではないかと
考えられているのだ。
「もちろん、いいわよ。じゃあ、10日後に。もういい? 仕事が山積みなの」
 もう用はないとばかりに、潤子は手を振って、二人の物理学者を出口の方に掃いだした。
 その時、あまりにバタバタ立ち働いたのと、オックスと格闘したせいもあって、バレッタで後ろに纏めていた潤子の髪が
ほつれて額にかかった。それを見たオックスが、
「ジュンコ、ボサボサ。You should make it more cute」
 と、呟いた。
 たった今締め上げたばかりのオックスから、もっと可愛くしろよ、とか上から目線で吐かれたものだから、収まりかけた
怒りが再燃して潤子の顔がまたたく間にぷっくら膨れ上がったのは、言うまでもない。
「Shut up! 年中スウェットパンツをはいてるオックスに言われたくないわよ!」
「Denim does not fit my delicate skin. It rubs and it hurts!」
(デニムは俺のデリケートな肌にあわないんだよ。擦れて痛いんだ!)
「考え方の方もそれくらい繊細だったらいいんだけどねオックス!」
 そう言った潤子に対して、オックスがさらに何か捨て台詞を吐こうとしたのを見てとって、すかさず要がオックスを培養
室の外に蹴りだした。
「潤子に絡むな、オックス。お前は今日中にNASOに始末書提出だからな。じゃあ潤子、あと頼んだぞ」
「うん、まかせて」
「ああ、それとさ」
 何か思い出したように要が立ち止って、潤子を振り返った。束の間、要と潤子の視線が絡む。
「強いのが好きなら俺、その要望には応えられると思うから」
 唐突な申し出を受けて、潤子は一瞬、呆ける。
 だがやがて、要が言わんとしていることをくみ取った潤子は、ニヤリとして要のジーンズの腰元にチラリと目をやると、
照れることもなく言い返した。
「私が言ってる強さって、七転八倒するようなアクロバティックなやつじゃないけど、そこのとこは大丈夫?」
「念の為確認させてもらいたいんだけど、じゃあ、どういうの?」
「ジックリことこと、一晩中。甘口で」
 それだけ言うと、潤子は要に背を向けて鼻歌まじりにインキュベーターを開いた。
 そして微生物学者である潤子はクマムシのディッシュを宝物みたいに大切に取り出して、そそくさとまた実体顕微鏡を覗
き始める。
 潤子の背後で、要が笑っているような気がした。けれど、潤子は振り返らない。
 やがて要が、静かに培養室から出て行った。最後に一言、「わかったよ。最初のデートはカレーだな」と、甘く囁き残し
て。


 そうして培養室に訪れた心地のよい静寂に呼応して、潤子の体内にまたたく間にアドレナリンが巡っていく。
 ああ――可愛い、可愛いドゥジャルダン。今回の宇宙旅行はヨコヅナちゃんにとって代わられたけれど。今日も明日もあ
さっても、あなたは生命の神秘を私たちに教えてくれる地球最強の小さな勇者。
 顕微鏡のレンズを一心に覗きこみながら、潤子のニヤニヤは止まらない。
 NASOは人類の宇宙進出に先駆けて、この小さな卵を送りだそうとしている。
 こんなに小さな卵に、人類の大きな夢と希望がこめられている。なんというロマンだろうか。
――いつか自由に宇宙へ。どこまでも果てしなく広い世界へ。
 これまでは、宇宙空間に生命が永続することは不可能だと言われ続けてきた。
 けれど希望の卵が孵る時、人類はこれまでの不可能を越えて行けるかもしれない。
 だから潤子には、この小さな生き物たちが愛おしくてたまらないのだ。
 今、潤子が見つめる視線の先では、ドゥジャルダンヤマクマムシがもぞもぞと古い殻を脱ぎ捨てながら、また新たな卵を
産みおとそうとしている。

 今日も絶好調ね、マイ・スウィート・ドゥジャルダン。



(完)