スラムダンク3話2




 数分後、唯は体育館の片隅でパイプ椅子に座らせられ、足を膝からゆっくりと上げたり下げたりする、超軽い運動をさせられた。
 唯はこの簡単な足の上げ下げ運動を、毎日練習前に100回やらなくてはいけないことになった。
 しかも聖は、少しでも膝に異常を感じたらすぐに止めて、自分に報告するようにと言ってきた。過保護すぎだ。

「おおー、さすが女子、気合入ってるな〜」
 スリー・オン・スリーの片手間に、1年の桑田が女子たちの白熱した練習ぶりを見つめる。
 桑田とペアを組んでいた桜木が隣のコートを見つめて、すぐに唯に気がついた。
「あ? なんで桜野だけサボってんだ」

 三井にパスを送ってから、宮城も振り返る。
「あ、本当だ、サボってる」

 シュッ
 三井が放ったスリーポイントシュートが華麗に決まる。だが、自分に全然注目が集まっていないので、三井は少しムッとしながらも、桑田や桜木、宮城に並んで隣のコートに目をやった。
「膝でも壊したのか、ありゃリハビリだな」
  自身も膝を怪我したことのある三井は、膝のリハビリ運動には詳しい。

「おい桜野! なにサボってんだ、チビのくせに! 怪我でもしたのか」
 隣のコートから大声で話しかけて来る桜木に、唯は心底イヤな顔を返した。
 しかも、桜木の声を聞きつけた別の男子たちが、反射的に唯の方を振り返って来たので、自分のやっている地味な運動が恥ずかしくて唯は赤面した。

 他のメンバーが激しい運動でアップしたり、ボールを使った練習をしているというのに、唯だけが椅子に座らされて単純な足の上げ下げ運動……。
 チビだから特別メニューだ、なんて聖は言ったけれど、こんなに惨めなことはない、と唯は思った。

「邪魔しないでくれるか」
 聖がツカツカと男子コートの脇まで行き、無愛想に言った。
「ああ!? 邪魔なんかするかよ。でも、なんでアイツだけあんな地味なことやってんだ? もしかして怪我でもしたのか」
「怪我はしてない。大丈夫だ」
「なら、練習させなくていいのか?」
「もしかしてチビだからレギュラーからはずしたのか?

 桜木や三井、それに宮城の率直で失礼な質問に、聖は不意に口元を緩めた。

「練習ならさせる。でも、その前に、やらなきゃならないことがあるんだ。あいつが自分の才能を開花させたとき、身体を壊さないように。まずは基礎的な身体づくりをしっかりさせないといけない」
「ほお。あのチビにもこの天才と同じような才能があるとは……、信じられんなあ! ガーハッハッハ!」
「いや、お前が言うなよ、花道」
 宮城がゆるく突っ込む横で、三井が首をかしげて聖に問う。
「はあ? なんだよ、その才能って」
「見てればわかる」

「ゴラアアアアア!! お前たち、なにサボってる!! 練習に戻らんか!」
 直後、赤木の激が体育館中に響き渡った。
 桜木、宮城、三井、そして桑田の4人が赤木のゲンコツを喰らい、コートに引き戻されて行く。


「聖先輩、終わりました。練習に入っていいですか?」
 唯はパイプ椅子を素早く片付けて、聖の元に駆け寄った。もう、パイプ椅子を使った地味運動はまっぴらだ。これが毎日、自分だけ続くかと思うとガッカリしてしまいそうだ。唯は、動きたくて、ウズウズしているのに。
 聖はジロリと唯を見下ろすと、左手にはめているゴツイ腕時計に手をやった。
 どうやら、唯の足の上げ下げ運動にかかるタイムを計っていたようだ。

「ちょっと早すぎるな。ゆっくりやれって言ったろ。膝の調子はどうだ」
「全然異常なしです!」
「さっきのは膝の筋力を鍛える最も安全な運動なんだ。早くやりすぎたら逆に膝の靭帯を痛めることがある。慣れてきたら徐々に足首に重りを付けて行くけど、明日からはもっとゆっくりやれ」
 唯には、聖がどうしてそんなに『膝』にこだわるのか、いまいち理解できなかった。

 すると唯の心中を見抜いたらしい聖がすぐに説明を加えてくれる。

「これからやる練習では、膝を酷使するからだ。もともとバスケでは、ジャンプ、ダッシュ、スピン、どの動きでも膝が重要な起点になるが、特に身体の小さいお前にとって、膝を壊すことは死活問題だ。もしも少しでも膝を壊して、全力で跳べなくなったり、全力で走れなくなるようなことになれば、ジャンプ力もスピードもない、ただのチビ。だからこそ、日頃から柔軟や正しい筋力トレーニングが必要不可欠なんだ」
 コンコンと説き伏せられて、唯は何も言い返せない。
 聖の言うことがわからないわけではないが、練習へ焦る気持ちを押さえることは、唯にとっては簡単ではなかった。

「はい。……わかりました」

 聖は手招きして、唯をゴール下まで連れて行った。

「海南の沢喜多は、ポイントガードであるにも関わらず、毎試合、平均30得点を決める脅威的なスコアラーだ。これがどういう意味かわかるか」
「え? どういう意味って……。すごいですね」
「馬鹿だな。単純に考えて、海南に対抗するためには、湘北のガード陣も同じくらい得点できなきゃ、うちに勝ち目はない、ってことだぞ」
「でも、うちには百合姉やアッキーもいるし。ポイントガードの他にも、キャップや宮内先輩、それに恭とか、得点できる選手がいっぱいいるじゃないですか」
「それは海南も同じだ。海南にも百合みたいなシューターがいるし、リバウンドを取りダンクを決めて来るセンターやフォワードがいる。全体の力が拮抗したときに、片やガードが30点決めるチームと、片やガードが全然得点しないチームが試合を行えば、どんなことになる? その差を誰が埋める?」
「キャップとか?」
「違うだろ! バスケは5対5、全員でするものだ。ガードに決められた点は、ガードが返せ。自分でつけられた差は、自分で埋めろ。初めから他の奴に頼ろうとするな。全員で守り、全員で攻めるのがウチのやり方だ。それが、俺たち、いや、村上先生や安西先生が作った湘北の強さなんだ。もしそれができないなら、うちは負ける」
「負けるのは嫌です」
「お利口だ。つまり、ポイントガードにはいざというとき、自分で点を取りに行く能力が必要とされる。……唯、お前も例外じゃない」
 聖に言われた言葉に、唯は言葉を失った。
 一瞬、冗談でそんな無茶を言っているのだろうか、とも疑ったくらいだ。
 でも聖の目は真剣だった。

「湘北は、チームワークを大切にするチームですよね。私、ポイントガードはパスをしたりアシストしたりして、チームワークを組み立てて行くものだと思ってたんですけど」
「それは基本中の基本だ。もちろん、その通り。けど、分かってないな……。お前、白金戦のラスト3分で自分でレイアップシュート決めただろう」
「あ、はい。あのときは私が一番ゴールに近かったから」
「お前がシュートを決めた時、俺たちみんなが確信したんだ。この試合は、『勝てる』って。どうしてだか分かるか?」
「逆転ゴールだったから?」
「違う、得点は関係ない。唯、お前がチームに『勝つんだ』という強い意思を表明したからだよ。それまでゲームを組み立て、他のメンバーにシュートを決めさせているだけだったお前が、チームに勝利への強い意思を表明したあのシュートに、空気は完全に変わった。だからその後3分間、百合はシュートを1本も落とさず、神崎キャプテンと城岡、それに早川は白金に1点も得点を許さなかった。チーム全員が一つになって勝利を掴んだのは、お前があのとき勝利への意思を仲間に伝達したからだ。攻撃の指令塔であるお前自身が、勝ちたいという思いをプレイにこめること、そのために自らがシュートを決めに行くこと、それがチームの力になる。忘れるな」

 唯はそれまで、アシストこそがチームワークだと思っていた。
 けれど今、仲間を背に自らが得点することもまた、仲間を助け、仲間に勝利を信じさせる、チームワークなのだ、ということを聖に教えられる。
 湘北女子というチームをさらに強くするため。
 果たして、バスケットボール選手としては身長に恵まれない唯に、一体どうすればゴールが狙えるだろうか。

「海南のディフェンスは、白金とは比べ物にならないほど固いぞ。仲間にパスが通せなくなったらどうする? もし仲間にミスマッチが生じたら? 仲間が完全に塞がれたら。ボールを持ったお前はコートにただ一人。それでも時計は止まらない」
「スリーポイントシューターになれということですか?」
「もちろん、それもある。今日からお前は練習の後、百合や亜紀と一緒に必ず200本ずつ、ミドルシュートと、スリーポイントシュートを決めて帰ること」
「わかりました」
「でもそれだけじゃ不足だ。バリエーションが低すぎる」
「そう言われても……」
「お前、昨日の対白金戦で自分が何点決めたか、覚えてるのか」
「5点です」
「それが問題なんだ、少なすぎる。海南戦ではお前一人で20得点は決めること。そのために必要な練習を、今日から死ぬ気でするんだ」
 唯は今度こそ本当に言葉を失った。
―― 20得点……!?
 湘北に来るまでまともに試合に出してもらえなかった唯にとって、それは予想だにしない高度な要求だった。

「へえ、無理だ、って言わないんだな」
 唯が悶絶していると、聖がいきなりニヤリと笑った。聖としては、もしも唯がここで弱音を吐いたら、蹴り飛ばしてやるつもりだったのだ。

「いや、言葉を失ってただけです。でも20点なんて、一体どんな練習を?」
 できる、とか、出来ない、とかを自分で決めつけないのは、唯の良いところだった。
 自分に限界を定めないから、純粋に努力して可能性を広げて行くことができる。これはバスケに限らず、何かに挑戦する者すべてに必要な資質だ。

「まずは、お前の最大ジャンプ力を知りたい。そのうえで、シュートにバリエーションをつけていく。垂直飛び、何センチだ」
「48センチです」
「この1週間で、あと22センチアップさせる」
「すごい!」
「ランニングジャンプは?」
「わからないです」
「じゃあ今、ゴールに向かってジャンプしてみろ。もしできるなら、NBA選手みたいにリンクを掴め」
 このとき聖は、リングを掴め、というのは唯を挑発するために冗談で言ったのだった。
 高校バスケのリングは、地上から3メートル5センチの高さにある。身長158センチの唯には、どんなにジャンプしても届くはずのない高さだ。

「長めに助走してもいいですか?」
「いいぞ」

 唯は、ハーフコートのセンターラインまで下がった。
「桜野唯、いっきまーす!」
 トントン、とその場で数回足踏みした唯が、次の瞬間、トップスピードで駆けだした。100メートルを12秒で走ることのできる唯は、おそらくその辺の男子よりも足が速い。

 風のように走って来た唯は、ゴールから少し離れたフリースローライン上で強く地面を蹴り、文字通り風のように舞い上がった。
 チビの唯にとっては、バスケットリングに触れることは夢にまで見るほど憧れていることだ。唯の心は躍った。
 今まで唯に、『リングを掴め』なんて言った人はいなかったから、実際に試したことはなかったけど、この時、唯は枷をはずされた鳥のように羽ばたき、両手をグンと前に伸ばした。

ギュンッ

 オレンジ色のリングが、唯の身体の重みを受けてしなる。瞬間、聖の体に鳥肌がたった。
 身長182センチの聖の頭上を軽々と跳び越えて行った唯が、今は、鉄棒にぶら下がる子どものように楽しそうにリングからぶら下がっているのだ。
 そして、嬉しそうに笑っている。

「おぉ……、ギリギリセーフ、なんとか届いたー!! バスケットリングに触るの初めてー!! ヤッフ〜」

 男子側のコートで、一部始終を見ていた宮城がボールをとり落とした。
「あんのチビ、なんて跳躍しやがる!! 信じらんねえ、生意気な……」
 身長168センチの宮城でさえ、リングには手が届かないのだ。宮城は拳を握り、悔しそうに唯を見つめた。

「うわあ、すごい、やっぱり、高いな〜。背の高い人たちは、こんなふうにコートが見えてるんだ……」
「聖、何やってんの! 危ないから早く、唯をそこから降ろしてやって!」
 唯に気づいた神崎が、反対側のゴール下で叫んでいる。
「大丈夫ですよ、キャップ、これくらい〜」
 唯はリングから手を放し、地面に飛び降りた。
 着地の瞬間、ズドーン! という衝撃が体に走る。やっぱり、リングは高い。
 リングの上から見た景色と、コートから見る景色があまりに違い、唯は改めて自分の上背のなさを思い知らされ、ガックリする。

「……。」
 聖が無言で湘北女子のパーソナルファイルを開き、唯のページに新しい書きこみを加えた。
 生まれ持ったしなやかな身体と、強い腱。わかっていたけど、予想以上だった。
 筋力を鍛え、身体のバネをもっと上手く使えるように柔軟性を高め、トレーニングすれば、唯はもっと高くジャンプできるようになるだろう。

 だが、高くジャンプすれば、それだけ怪我もしやすくなる。
 飛び上がり時のインパクトや、着地の衝撃で膝や腰に負担がかかる。
 唯の強靭的なジャンプ力は、背の小ささをカバーする強い武器にもなるが、同時に、怪我の危険にもなる、まさに唯にとっては両刃の剣だ。

――膝周りの筋肉強化、それに正しい滞空姿勢と着地姿勢をみっちり身体で覚えさせなくてはならない。

「聖先輩?」

 パーソナルファイルを閉じて、聖が顔を上げた。
「さっきやった足の上げ下げ運動と、それからストレッチ全種、明日から2倍だ」
 無表情で淡々と早口に語られた聖の言葉に、唯の顔が蒼白になる。
「ええ!? どうしてですかー? リングに手が届いたのに!」
「俺としたことが、予想外だった。高くジャンプしても怪我をしない身体を一日も早く作るためだ、なんとか海南戦に間に合わせたいな。……駄々をこねるな、言うことを聞け」
 腰に手を当てて見下ろす聖が、唯の頭にポンと片手をのせて、困ったように微笑んだ。

「もうちょっと背が高かったら、どんなことになってたんだろうな……。すごいじゃん」

――すごいじゃん。

 唯はきょとんとした。
 聖が唯のことを褒めてくれたのは、初めてだったからだ。



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