スラムダンク2話7




平塚体育館の中庭で昼食をすませ、各自ストレッチをしてから体育館周囲を10分間ランニング。
湘北女子は適度に身体を温めて、早めに体育館入りした。

そこはつい先ほどまで、湘北男子が三浦台と戦っていたコートだ。

ジャージを脱いで、軽いパスワークと、ステップ練習、それからシュート練習をすませて最終調整を終え、マネージャー兼トレーナーの聖の指導のもと、十分なストレッチ運動に入る湘北女子メンバーたち。

「白金は選手層が厚く、当たりの強いチームだ。交代要員がいくらでもいるから、ファウルを恐れずに大胆に当たって来るぞ。みんな怪我しないように、しっかり伸ばしておけよ」
そう言いながら、聖は選手たち一人一人の名前が入った乾いたタオルをベンチに一枚ずつかけていき、クーラーボックスに入っているドリンクの温度を確かめた。
ドリンクが冷たすぎるのは、集中力の低下を招くので良くないのだ。
それから聖は、湘北女子全員のパーソナルファイルを開いて、一人ひとりのコンディションを確認して回った。

「早坂、足首の調子はどうだ」
「もう全然平気です」
屈伸しながら、恭が答えた。

「桜野、筋肉痛はまだあるのか?」
「少しだけ。でも、もうほとんど平気でーす」
唯の答えに、聖が無表情で神崎を振り返る。

「神崎キャプテン、桜野出すんですか」
「出すわよ、1年はまず試合に慣れさせないといけないから、初戦から積極的に使っていくつもり。何か問題ある?」
「筋肉痛がまだ残ってるみたいなんで、フル出場はちょっと……」
「分かってる、唯は後半から使うわ。前半はエリカに任せるつもり」
「了解」

それから聖は、今回の試合でスタメン起用された唯一の一年、城岡華雅里の様子を伺った。
「城岡、体調どうだ。フル出場なんだから、少しでも異常があったらすぐに言えよ」
開脚伸びをしていた城岡が、不安な面持ちで聖を見上げた。
「体調はバッチリなんですけど、緊張しちゃってヤバいです……」
「ったく、お前は」

聖が華雅里の頬に両手をあて、親指で下まぶたを引っ張った。緊張で血行が悪くなっていないかどうか確かめたのだ。
極度に緊張すると、呼吸困難になったり、貧血を起こす場合があるからだ。

「貧血にはなってないみたいだな。お前は身体がデカいくせに、メンタルが弱いんだよ。桜野にお前の身長を少しやって、あの図太さを分けてもらえたらいいんだけどな」
「ちょ! 聖先輩、今の聞こえましたよ。人のことを心臓に毛の生えたチビみたいに言って、ヒドーイ」
「そこまで直接的には言ってないだろ。っていうかお前、その前屈、ふざけてやってるのか」

唯が開脚して前屈する姿を見て、聖の目が鋭く光った。

「真面目にやってますよ」
「前見た時より身体が硬くなってる。さては昼飯を食い過ぎたか……」
「ひどい! ちゃんと調整してるんですから」
「でも、唯さっき、ハチミツりんごジュース飲んでましたー」
と、恭が告げ口する。

「はあ!? スポーツドリンクか温かいお茶系にしろって、神崎に言っておいたのに」
「私はちゃんと言ったわよ」
少し離れたところから、神崎が答える。

「甘い物の摂り方には気をつけないといけないんだぞ、特に過激なスポーツをするときには、筋肉の疲労を早めてしまうことがあるからな。どうしても甘い物が欲しくなったら、ジュースのように砂糖たっぷりのものじゃなく、代謝のいいブドウ糖の方がいい。ジュースは禁止だ、わかったな」
「はい……」
唯がしょんぼり顔を伏せた。

「ちょっと、後ろから押すぞ」
突然、聖が、前屈している唯の上にまたがって、後ろから体重をかけてきた。
「あいた! あたたたたた!!!」
「やっぱり、硬い。うつ伏せになれ、大腿四頭筋と大殿筋を伸ばすから」
「へ? 何ですかそれ。痛くするつもりじゃないでしょうね」
「大丈夫だ。ただし日頃のお前の不摂生が俺の予想しているものより悪ければ、痛いかもな」

唯がうつ伏せになると、聖が唯の両足首を掴んで、膝を後ろに折り曲げた。そして、そのまま上から体重をかける。
太ももの前側の筋肉が、じんわり伸びるのが感じられたが、痛くはなかった。
それから聖は、唯の左膝を後ろから持ち上げて、左臀部の筋肉を反対側の手で押した。
これは気持ちいい。
唯はすっかり脱力して目をつぶった。聖に身体を触られて嫌だという意識は全然湧いて来ない。
聖が考えているのはいつも、筋肉と靭帯と栄養バランスもろもろのことだけなのだ。
いやらしさは少しもない。

聖は、唯の右臀部の筋肉にも同じような処置を施しながら、ぼそりと呟いた。
「体が小さければ小さいほど、コートでは柔軟性が必要になるんだ。桜野、お前はバスケット選手にしては小柄だけど、いいセンスと運動能力を持ってる。しっかり調整していけば、お前は今よりもっと早く走れるようになるし、もっと高く飛べるようになる。だから、甘やかすわけにはいかない」
「アイタ!」
聖が唯のお尻をバシンと叩いた。
主将の神崎が、ニヤリとして唯を見る。
一方、少し離れた所で一人でストレッチをしていた石田百合が、昔を思い出すように遠い目で聖を見つめていたことには、誰も気づかなかった。

「よし、いいだろう」
「どうして叩いたんですか、今」
「サービスだよ」
「……、ありがとうございました」

聖は左手にはめたゴツイ時計に目をやりながら、次のターゲットを探してストレッチをする女子たちの間を歩き回った。
「愛されてんな、唯」
恭が肘を頭の後ろで伸ばしながら、冗談を言った。
「いま聖先輩にやってもらったやつ、恭にもしてあげよっか?」
「んー、いい。今度にしとく」
「遠慮しなくていいのに、ほら、ちょっとうつ伏せになってごらんよ」
「いいって」
「いいから」
「わかった、わかった」
恭と唯がじゃれ合った。

そんな二人をよそに、聖は真剣な面持ちでひとしきり選手たちを見て回ってから、最後に2年の石田百合に話しかけた。
「百合、調子どう」
「うん、悪くない。大腿二頭筋を伸ばすの、手伝ってもらえる?」
百合の言葉に、聖が少し顔をほころばせた。
「いいよ」
百合が仰向けに横になって膝を丸めると、聖が百合の上に覆いかぶさって、百合の両膝を押しつける。
百合は頭の下で両手を組んだ姿勢でリラックスしながら、聖を見つめて言った。
「誠也、今でもバスケがしたい?」
「なに、いきなり」
聖が驚いたように百合を見下ろした。

「ちょっと、昔を思い出しただけ。でも、辛くないのかな、って思って。私だけバスケをしてるの……」
百合の話を聞きながら、聖は百合の片足を持ち上げて百合の頭の方にそれを折り曲げた。太ももの裏の筋肉を伸ばすためだ。
「別に辛くないよ。百合がまたバスケをしてる姿を見られて、嬉しい。俺が事故にあって一生バスケが出来なくなったときに、百合がバスケを辞めるとか言い出したときは、本当ビックリしたから」
「バスケは辞めるつもりだったの。だって、一人で全国を目指しても意味ないもの。だから、湘北に来たのよ。それなのに、諦めの悪いあなたはノコノコとこの学校にやって来て、まんまと女子バスケ部のトレーナーになっちゃうんだから、私の方こそビックリしたわよ」
「俺がここに来たのは、お前と一緒に、また全国を目指すためだよ」
聖が、百合を見下ろして笑った。
「まあ、このチームはかなり骨が折れそうだけどな。これ、痛くないの?」
百合は、聖に足を思い切り頭の上に押し上げられても、全然平気なようだ。

「私を誰だと思ってるの。あのカチカチの唯とは違うんですからね」
「百合の身体が柔らかいのは、よく知ってるよ。なんでつっかかるわけ? もしかして、妬いてる?」
「まさか! あり得ないでしょう」
「あ、そう。ちょっと残念」
「それはそうと、……誠也」
「ん?」
「私、絶対負けないからね」
「分かってるよ。一緒に全国に行こう」
聖が手を出し、百合を起こした。握り合った二人の手に、かなり古びた同じ模様のミサンガが結ばれていることに、今は誰も気が付いていない。

石田百合と聖誠也は、同じ私立の緑南中学出身だ。
二人とも、中学時代は県内で有名なバスケットボール選手だった。中学を卒業したら同じ高校に進み、一緒に全国制覇を目指すことが、二人の夢だった。
百合と聖が揃いのミサンガをつけるようになったのはその頃だ。
しかし、中学3年の夏、部活帰りに聖が交通事故に合った。しかも轢き逃げだった。
発見されるのが遅れ、出血がひどかったこともあり、一時は意識不明の重体。
なんとか命をとりとめたものの、聖は医者から、もう歩くことは無理かもしれないとまで言われた。たとえ歩けるようになっても、バスケに復帰することは不可能だと。

聖の事故をきっかけに、百合はバスケットボールを辞めた。二人はそのことで病室でひどく喧嘩した。
聖は、百合にはバスケットボールを続けてもらいたいと思っていたからだ。
でも百合は聖とちゃんと話しあうこともせずに、バスケ部がマイナーな湘北高校に入学して来たのだ。
それでも、聖は二人の約束、『全国制覇の夢』を諦めなかった。
百合と同じ湘北高校に入学した聖は、1年のときはひたすら厳しいリハビリに励んだ。
その頃の聖と百合は、ろくに会話を交わすこともなかったが、ある日リハビリを終えた聖が突然、女子バスケットボール部に入部したことが騒ぎとなった。
マネージャー兼トレーナーとして男子が女子の部活に入るなんて、前代未聞の出来事だったので、その噂はすぐに百合の耳にも届いた。

2年になって百合が、急に女子バスケット部に入部したのは、聖が女子バスケット部に入部したからだったのだ。
中学時代の約束のミサンガは、今も二人の夢を繋いでいる。聖の事故からずっと止まっていた二人の時計が、こうして動き出した。


――試合開始10分前。
湘北対白金女学院の試合を観に来たギャラリーたちが、まばらにスタンド席を埋めて行った。

安西先生がベンチ入りしたのを合図に、主将の神崎がメンバー全員を呼び集めた。




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