シャインとシャドウ 2話6
白亜の本殿とは違って、グロッグアイランドの古城は、まるで燭台に灯る蝋燭のようにいくつもの小塔が鋭く天にそびえている。
サファイアブルーで統一される屋根の鮮やかさは今も変わらないが、壁面はもともと漆喰塗の白であったのが、長い年月とともにくすんで今は灰色になっている。
数百万種の薔薇が植えられた広い庭園を抜けてユイリアたちが古城に到着する頃には、すでに日が傾いていた。
「コムストッグ公爵令嬢のシャドウ様とシャイン様。お待ち申しあげておりました。すぐにお部屋にご案内させていただきます」
離宮の女使用人は皆、銀色のドレスを身にまとっている。役職によって純白のエプロンをあしらったメイド服であったり、ドレスの裾の長さに多少の違いはあるが、同じ銀色の布地にサンカヨウの花模様があしらわれたドレスは、一様だ。
ユイリアたちを部屋に案内してくれた王宮使用人は、長いドレスの裾を後方に垂らした、身分の高い女性であることがわかった。
ユイリアだけは、その女性に親しげな笑顔を見せて、それから丁寧にドレスの裾を持ち上げて深くお辞儀をしたが、この時、妹のオフィリアにはユイリアがどうしてそんなことをしたのか理解できなかった。
二人が案内されたのは3階の二間続きの眺めの良い大部屋だった。奥の部屋がユイリアに、手前の部屋がオフィリアにあてがわれているようで、すでにそれぞれの部屋には、二人の旅行用の荷物が運び終えられていた。
「お夕食は予定通り、7時からでございます。晩餐の席にはジェームズ殿下と、それからこの度の選別の集いにお越しになられたすべてのお客様が一堂に会されることになっております。お二方様とも、すぐに晩餐用の衣装にお召し代えくださいませ。シルバとマゼンタが、シャドウ様とシャイン様の身の回りのお世話を仰せつかわります。あらゆる用事をこなすに十分な訓練をしておりますので、何なりとこの二人に用事をお申し付けください」
メイド服姿のまだ若い二人が前に進み出て、それぞれ膝をかがめてユイリアとオフィリアに頭を下げた。
「それでは、私はこれにて一時、下がらせていただきます」
初老の案内人が、ドレスの裾を広げて深々とお辞儀をするのを見て、ユイリアがクスっと笑った。
「ありがとう、エルサ。お変わりなくお元気そうで、とても嬉しいわ。こちらへの滞在中、私たちをどうぞよろしくお願いします」
「ユイリア様……」
初老の女は、一瞬驚いたように息を呑むと、思わずユイリアの本名を口に出してしまって、ハッと口をつぐんだ。
「いいのよ、貴女は私たちにレディーに欠かせない教養を教えて下さった尊いお方ですもの。今でも私は貴女を家族と思っていますわ、エルサ小母さま」
「大昔のお話ですのに、私のことを覚えていらっしゃったとは……真に、光栄でございます。私は今、この離宮でメイドたちの統括を任されております。ですが勿論、お入り用とあれば何なりと御用をお申し付けくださいませ」
エルサ、と呼ばれた初老の女は一層深く頭を下げてから、感慨深くユイリアを見上げた。
「シャドウ様、本当にお美しくなられて……」
ユイリアとエルサのやり取りを聞いていたオフィリアも、驚いたようにエルサを見つめた。
「エルサって、あの恐い、エルサのこと? 嘘でしょう。全然気づかなかったわ! 私たちが3才くらいのときだから……、もう15年ぶりくらいになるじゃない!」
「まあ、シャイン様は相変わらず、自由奔放なお口のききかたをなされるようですね」
瞬間、エルサに鋭く見つめられて、オフィリアが反射的に背筋をピンと伸ばした。
「ほら、恐い!」
その反応が幼い頃そのままなので、エルサの顔がたちどころに嬉しそうに緩んだ。
「まあまあシャイン様。お二人のお変わりのないご様子を伺えて、エルサは幸せでございます」
「エルサほど優れた教師はいないと、お父様はよく仰っていたわ。教えに恥じないよう、私たちも努めなくてはね、オフィリア」
それから昔話にたちどころに花が咲き、いよいよ晩餐の時間が迫ってきた。ユイリアとオフィリアは、それぞれシルバとマゼンタに手伝ってもらって大急ぎで晩餐のドレスに着替え、階下に向かった。
応接間はすでに解放されて、大広間のテーブルにの方へ、ほとんどの招待客が移動をすませていた。
晩餐の席では男女が交互に座るという社交界の決まりがあるので、ユイリアもオフィリアも応接間でパートナーとなってくれる男性を探さなければならなかった。そうして晩餐の席には男性にリードされて入って行くのがならわしなのだ。
ただし、女性側から男性を誘うことはできないので、応接間に入ったユイリアとオフィリアは、誰かリードしてくれる男性が声をかけてくれるのを待った。
ユイリアはエドワード子爵を探して辺りに視線を走らせた。オフィリアのふりをしてエドワード子爵にご挨拶を申し上げれば、上手くパートナーに誘ってくれるかもしれないと思ったのだが、どうやら彼は、すでに別の令嬢を伴って席に着いてしまったようだ。
「誰を探しているのですか」
その時突然、目の前にオーギュスト伯爵が現れた。
ダークグレーのスーツをシックに着こなし、本来カジュアルに合わせる棒タイをエレガントにしめている。センスの良いスーツだとユイリアは思った。ただし、懐中時計のものと思われるチェーンがベストの胸元にかかっているのが、少し悪っぽく見えた。スーツの胸ポケットに覗かせているハンカチーフと、それからカフスボタンが深緑色だった。狼の牙を秘めた黒い瞳は生気に溢れていて、先日、コムストッグ公爵家にやって来た時のようなおぼろげな印象は過ぎ去っていた。
これらのことを瞬時に読みとったユイリアは笑みを浮かべて、会釈を返そうとしたが、その間にオフィリアが嬉しそうに前に進み出て伯爵の腕をつかんだ。
「オーギュスト伯爵様!」
「これはシャイン公女、今宵はいつになく、お元気ですね。旅の疲れは出ていませんか?」
双子が一緒に立っていれば、少しくらい見間違えそうなものなのに、オーギュスト伯爵は完璧にユイリアとオフィリアを見分けているようだ。
「ええ、ちっとも疲れてなんかいませんわ。ところでオーギュスト伯爵様、晩餐の席では、もちろん私をリードしてくださるでしょう?」
「そうできればいいのですが」
と、オーギュスト伯爵がふと背後に視線を送ったかと思えば、その先から今度はジョージ王子が近付いて来た。
「お前の相手は俺だよ、オフィリア」
「ジョージ!」
途端にオフィリアが嫌そうに眼を見開いてジョージ王子を睨みつけた。
だが、このような公の場で身分の高い男性からの誘いを断ることは大きなマナー違反となる。
「なんだよ、せっかく待ってやってたのに。……だいたい、お前がルークの奴と話しがあうはずがないだろう。オフィリアはユイリアとは違うんだからな」
ジョージ王子は、口の悪さでは兄のジェームズ王子を上回る。
「こんなの最悪! 聞いてないわよ。こっちにも都合というものがあるんですからね。シャドウを誘ってあげてよ」
オフィリアが舌打ちまじりに文句を言うと、ジョージ王子もやり返す。
「知るかよ、お前の都合なんて」
「シャドウを誘ってあげてよ」
「嫌だ、恐い」
「ジョージ殿下、私ではご不満ですか」
ユイリアが満面の笑みで問いかけると、ジョージ王子が早口で呟いた。
「ユイリアじゃなくて、ルークが恐いんだよ。ほら、いくぞオフィリア。晩餐を食い損ねるところだ」
ジョージ王子はオフィリアとは同じ年で、二人とも憎まれ口をたたきあってはどうでもいいようなことですぐに喧嘩をするのだが、それでも何故か昔から通じ合うところが多いように、ユイリアには見えた。
そのせいか、ここぞという重要な公務のときにはジョージ王子のお相手をオフィリアが務めることが多いのだ。
半ば強引に、ジョージ王子がオフィリアを連れて大広間に出て行ったのを見届けてから、オーギュスト伯爵が自然にユイリアに腕を差し出して来た。
ユイリアは思い悩む。
オフィリアの新しい恋心に配慮すると約束したこともあったし、それに、もうあの男に会ってはいけないと魔女から釘を刺されていたこともあって、ユイリアはオーギュスト伯爵の誘いをここで素直に受けてしまうのはまずいと思った。だから、この瞬間に他にユイリアを誘いだしてくれる殿方はいないものかと周囲を見回して見たのだが、その時オーギュスト伯爵が静かに微笑みながら、ユイリアの耳もとで囁いた。
「僕以外に貴女を誘う者がないように、他の紳士たちには言い含めてあるのです。裏の世界では、『手を回す』と言ったりするかな」
ユイリアはドキリとしてオーギュスト伯爵を見上げた。
「私が貴方様のお誘いを断るとでも思いまして?」
ユイリアは淑女らしく控えめにオーギュスト伯爵の腕に手をかけた。すると、オーギュスト伯爵はゆっくりと晩餐の席に向かって歩き出しながら言う。
「ここまでして断ることはできないでしょう。けれど、僕を避けようとなさるかもしれないと思いました。先日、お屋敷に伺ったときにも、貴女は姿を見せてくださらなかったですね」
「ご存じの通り、私は隠居の身なのでお客様にお会いすることはないのです。それはそうと、お加減はもうよろしいのですか、ルーク様?」
「はい」
ユイリアから「ルーク」と呼ばれて、オーギュスト伯爵は嬉しそうに笑みをこぼした。
晩餐の席には巨大な長テーブルがUの字に設けられていて、上座にジェームズ王子が坐している意外には、特に席順が階級ごとに定められているということはないようだった。
だから最後に大広間に入ったユイリアとオーギュスト伯爵は、一番下座に座ったのだった。
オーギュスト伯爵が椅子を引いて、ユイリアを座らせてくれた。その所作があまりに親切で優しいので、ユイリアも思わず微笑んだ。
「お父様から伺いましたが、あの紅茶とピンチョスは、あなたのご配慮だったそうですね」
ユイリアの隣の席に座り、オーギュスト伯爵はすぐに膝の上にナプキンを広げ、とてもリラックスした様子でユイリアを見つめた。
「まあ、父は話してしまったのですね」
「どうやら僕は、お父様から気に入られたようです。あのワイルドベリーのお茶はとても美味しかったから、近いうちにまた、御馳走になりに伺うつもりです。今度は貴女が僕を迎えてくれるといいのですが、ユイリア」
食前酒が配られ、ジェームズ王子の挨拶で盛大に乾杯が掲げられた。
その挨拶で、選別の集いの間は、今パートナーとなっている相手と共に行動することが知らされ、中段の席でオフィリアが悲痛の溜め息を漏らし、下座ではユイリアも内心で「これは困ったことになった」と思った。
前菜が給される中、この先、どうすればエドワード子爵に近づく機会を得られるか、ユイリアは瞬時に思考を巡らせた。
そんなユイリアの心境を、どうやらオーギュスト伯爵は敏感に察知したようだ。
「僕ではなく、他に意中の紳士がいるようなご様子ですね」
と、問われてユイリアは静かに頷いた。
「その方はエドワード子爵様だと言えば、貴方様は私を彼に引き合わせてくださいますか?」
今度はオーギュスト伯爵が無表情に押し黙り、二人の間に重たい空気が流れた。
「今のお言葉を撤回されるおつもりはありますか、ユイリア」
「というと?」
「あの紅茶に惚れ薬が入っていたのかもしれませんね。考えてみると、あれ以来どうも僕はおかしい」
公爵家への訪問の際にふるまわれたユイリアの紅茶のことを言っているのだろう。
「ふざけないでください」
「花開く前の蕾を切り落とされたら、貴女だって怒るでしょうユイリア。僕の恋の花は、まだ若い蕾なのです。エデワード子爵を引き合いに出されて無惨に切り落とされるおつもりなら、流石の僕でも我慢ができませんよ。一体、どうしてあのエデワード子爵に関心を持たれるのか、まずは説明していただけますか」
ユイリアは少しの間、思案した。オーギュスト伯爵に嘘やごまかしは通用しないだろう。
エドワード子爵への関心の源を、このままただの好意にとどめおくことは難しいように思われた。
嘘が通用しないとなれば、本当のことを打ち明けるしかないわけだが、果たしてそれはユイリアの望む結果をもたらしてくれるだろうか。
オーギュスト伯爵の黒い瞳は表情なく、今は鋭くユイリアを見つめている。触れれば火傷をしてしまいそうなほど熱く、意思の強い危険な視線だ。
「ルーク様、あなたは不思議なお方ですね。私のささやかな企み事は、どうやら貴方様には隠し通せそうにはありません」
「企み事? ではやはり、エドワード子爵にお心があるわけではないのですね」
張り詰めていた空気が溶けて、オーギュスト伯爵が安堵の吐息を漏らしたかに見えた。それがユイリアには不思議でならなかった。
「もちろんです。私はエドワード子爵様には一度もお会いしたことがありませんもの。妹のオフィリアが以前に、エドワード子爵様に親しくしていただきましたので、お名前だけは存じていたのですが」
「そういえば、シャイン公女とエドワード子爵はよく舞踏会で一緒でしたね」
「ところがここへ来る途中に、オフィリアが湖畔でエドワード子爵様にご挨拶を申し上げると、そのご様子がいつもと大変違ったそうなのです」
「違うと言うと、具体的にはどのようなところが、ですか」
「私が一番気になりましたのは、オフィリアが彼の匂いが違うと言ったことなのです。なんでもエドワード子爵様はミントの香りにアレルギーがあるとかで、いつもは柑橘系のコロンをつけているそうです。ですが湖畔で妹がお会いしたときには、ミントの香りがしたそうです」
「その時、エドワード子爵にアレルギー症状は出ていませんでしたか?」
「私が見たところでは、出ていませんでした。それに、オフィリアはこんなことも言いました。エドワード子爵が、最初、オフィリアが誰だか分からないような素振りを見せた、と。男性というのはそういうものなのでしょうか? 舞踏会で何度も相手をした女性のことが、ある日突然、誰だか分からなくなってしまうようなことが」
「ないでしょうね。それでなくても僕たちは、社交界で人の名前や顔が分からないことが恥になることがありますから」
オーギュスト伯爵が即座に断言したので、ユイリアは嬉しく思って先を続けた。
「今朝の新聞に、国境安全警備の新兵が二人、行方不明になった記事が載っていました。エドワード子爵様はそのとき、現地にいらっしゃったようです。その数日後、これはルーク様もよくご存じでしょうけれど、怪盗ラッフルズがエドワード子爵様の屋敷から絵画を盗み出していますね」
ユイリアがそこまで口にした時、オーギュスト伯爵は、この勘の良い令嬢が言わんとしていることを察して、ズルそうな笑みを浮かべた。
「貴女は本当に賢いのですね、ユイリア。当てて見せましょうか、貴女は、ここにいるエドワード子爵が偽物だと思っているのでしょう?」
「はい。これは妹には話していませんが、おそらく彼は国外からのスパイだと思います。国境に視察に行かれた時に、本物のエドワード子爵と入れ替わったのではないでしょうか。 アスターシャからフローラ姫がお越しになるこの時期に、国境安全警備の責任者が敵国のスパイに成り変わったとしたら……」
「大変なことになります。だから、すでに手は打ってあります」
オーギュスト伯爵がユイリアの言葉を遮って先を続けたので、ユイリアは耳を疑った。
「オーギュスト伯爵様は、ご存じだったのですか?」
「ルーク、と。今度、僕を名前で呼んでくれなかったら本当に、キスしますよ」
オーギュスト伯爵はそう言って笑ったが、人を射抜く力のあるその目は本当に怒っているようだった。
「御冗談を。たとえ私がキスしてくださいとお願い申し上げたとしても、貴方は私にキスなどするはずがないのです」
「ほお、どうしてですか?」
「なぜなら、オーギュスト伯爵様は代々から続く素晴らしい紳士淑女の御一族だからです。だから口では何と仰っても、作法に反することはしないのです。と、すれば、私はいつでも好きなように貴方様のお名前を呼ぶことができるのです、オーギュスト伯爵様、と」
「なるほど、僕の忍耐をお試しになるおつもりなら、それもいいでしょう。後悔されても知りませんよ」
晩餐の席が盛大に盛り上がっていて、尚且つユイリアたちのいる下座の席が他の人々とは少し離れていることもあって、二人の会話が他に漏れる心配はなさそうだったが、オーギュスト伯爵は声を潜めて話し始めた。
「さて、新兵が2人、行方不明になった直後から、ジェームズ殿下の命で僕はエドワード子爵を監視していました。彼が敵国のスパイと入れ替わっている証拠もすでに掴んでいます」
「それがあの絵画なのですか?」
「正確には、絵画の中に隠されていた地図です。それはフローラ姫の旅程が記された極秘の地図で、国境安全警備隊の長たるエドワード子爵でも、持っていてはいけないものです」
「ではこのまま、偽のエドワード子爵を泳がせておくおつもりなのですね。フローラ姫の旅程は密かに変えて安全を担保し、偽のエドワード子爵が動き出したところを見計らって捕えるおつもりなのでしょう。そういうことなら、私の出る幕はなさそうです」
「まさか貴女は、たった一人でエドワード子爵に近づき、事の真相を突きとめようと思っていたのですか?」
「もちろんです。公にはできない複雑なお話ですから、憶測で誰かに打ち明けることなどできませんもの」
「危険がすぎます。貴女は、僕が誰だか知っているでしょう。次にこのようなことがあったら、真っ先に僕を頼ると約束してください」
「わかりました」
給仕がターチュ・リエと呼ばれるウミガメのスープを運んで来たので、ここで会話はいったん打ち切られた。
「ルーク様」
「はい」
「お気持ちに感謝します。ありがとう」
ホッとしたように笑みを浮かべたユイリアの姿がルークの瞳の中で揺れた。
「どういたしまして、ユイリア」
不意に熱を帯びた心の躍動を抑えて、ルークは紳士らしく微笑み返した。だが内心では、指先が銀食器を溶かしてしまうのではないかと心配になるくらい、ルークの胸は熱く高鳴った。
一人の女性をこれほど愛らしいと思えたことは、未だかつてないから。
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