シャインとシャドウ 2話7
晩餐は滞りなく進み、メインディッシュのタラ料理がテーブルに運ばれてくると、穏やかな談笑を制してジェームズ王子が口を開いた。
「剣に歌、音楽と踊り、あらゆる芸術と、乗馬。アスターシャの姫は多才であられると聞く。姫を存分に楽しませるため、皆の力を借りたい。明日からは、ここで共に食事についている紳士淑女のペアで王宮が用意した難題にかかってもらう。皆の健闘を祈る。今宵は、心ゆくまで楽しく過ごされよ」
ジェームズ王子が杯を掲げると、皆一様に杯をあげてそれに応えた。
「難題とは。お手柔らかに願いたいものですな」
席の中ほどに座るカビオリ侯爵のご子息が、ワインで紅潮した顔をほころばせた。その隣に座るレイモンド公爵令嬢が微笑み返す。
「本当に、ジェームズ殿下のお計らいは底が知れませんものね」
談笑に耳を傾けながら、ユイリアはタラの料理にナイフとフォークをつけた。ブルックリンでは魚はあまり食べられないが、砂漠の国アスターシャでは交易が盛んで、魚が多く食事に用いられると聞いたことがある。
フォークに切り取った白身のタラを、ためらうことなく一口含んでみると、タラにはアイオリソースがかかっていることが分かった。これはアスターシャ国でよく用いられるソースで、ブルックリンではとても珍しいものだ。ニンニクに卵黄、レモンが用いられているだろうか。それに、かすかにオリーブオイルの風味が口に広がる。
タラに添えられているニンジンのソテーと、ゆず風味のジャガイモのピューレも、ブルックリンではとても珍しい味付けだった。
突如出された異国の料理に、他の貴族たちが揃って手を止める中、ユイリアはこれまで出された他の料理と同じく残さずに楽しんだ。
その様子はまるで、異国の料理の味を覚えて持ち帰ろうとでもするみたいだった。そんな様子を、ルークは関心したように見つめた。
「ブルックリンには魚が苦手な者が多いようですが、貴女は違うようですね、ユイリア」
「魚は体に良いと聞きます。他国のお客様をお迎えする必要に備えて、屋敷の料理人には様々な料理を教えてもらいました。これは、アスターシャ国のものではありませんか?」
「はい、外交のためアスターシャに赴いたときに、これと似たものを食べたことがあります。タラのアイオリソース添えとは、ジェームズも乱暴な事をする……。僕も、魚は嫌いではありませんが、初めて口にしたときは戸惑ったものです」
ルークはナイフとフォークを器用に用いて、タラの身にアイオリソースをたっぷり絡め、飾りに添えられているシソの葉を添えて美味しそうに食べた。
なるほど、皿に添えられているシソの葉は飾りではなく、風味を楽しむものなのだと理解して、ユイリアもルークがやったのと同じように食べてみた。
淡白なタラの身に絡みつくオリーブの芳醇なまろやかさ。その上に、レモンのツンとする酸っぱさが刺激となり、最後にシソの風味が全てを包みこむ。キャンパスにいくつも色を重ね奥行きのある絵画を描くのと同じだ。料理の中に季節や風土、香りや色が鮮やかに描かれている。ユイリアは心から感服して、目の前の料理を残すことなく味わった。
「アスターシャは、どのような国でしたか?」
食事を進めながら、ユイリアの深緑色の瞳が好奇心に輝くのをルークは見た。
「色で表すなら、赤。広大な国土のほとんどが砂漠で、昼は灼熱の太陽が、夜は深淵の闇と寒さが大地を覆う厳しい土地です。その土地を行きかう人々はみな、強靭で気高く、互いを助け合って生活をしているのが、とても魅力的に映りました。そして、砂漠の中に流れる大河には幾千の船が渡り、交易が盛んなのです。そのような土地柄のため、他国の文化に柔軟な国民性に、僕は衝撃を受けました。彼らは独自の文化を堅固に築きながらも、自分と違う存在に対しても大変柔軟なのです」
ルークの話しを、ユイリアは夢中で聞いた。ルークは、実際に自分の目で見て、触れて、そして感じたことを、楽しそうにユイリアに話して聞かせてくれる。
「北の砂漠、クリスタリアとは違い、南の砂漠アスターシャ国は、文化が大きく異なります」
「例えば、どんなことですか?」
「食の文化もそうですが、一番驚いたのは、女性に花を贈ってはいけないということです」
ルークはクスクス笑った。
「死んだ花は縁起が悪いのだそうです」
「まあ。考えもしませんでした」
「そうでしょう。初の外交交渉でアスターシャの宮廷に招かれた時、胸に生花のコサージュをつけていって、誰にも相手をしてもらえませんでした。黒い燕尾服を着て、胸に死んだ花をつけている僕は、死神と間違われたのです」
「今日の我が国とアスターシャ国との国交が危ぶまれているのは、よもやそのせいではありませんよね?」
「違いますとも! すぐに誤解は解け、彼らは僕を受け入れてくれました。それで、僕も彼らを受け入れたいと思いました。今では、文化や食事、言語の違いを越えてアスターシャはブルックリンを信じてくれています。その気持に応え、今度こそアスターシャの姫を無事にジェームズの元に迎えたいのです……」
と、そこまで口にして、ルークは不意に口を閉ざした。語りすぎたと思ったのかもしれない。
だが、ユイリアがすぐに後を継いだ。ルークの沈黙を不自然に感じさせないばかりか、それが当然とばかりに言った。
「ルーク様がそう仰るのなら、私もいつかアスターシャに行ってみたいと思います」
それから、静かに一息ついて、ルークを見つめた。
「心は共に。私も力を尽くしましょう」
さらりとそう言ってのけたユイリアを、ルークは驚いて見つめ返した。隣にいる彼女は、大丈夫だと微笑んでいる。その圧倒的な存在感に、ルークはしたたか息を呑まずにはいられなかった。彼女が隣に居るだけで、どうしてこんなにも、ルークは力づけられるのか、とても説明がつかない。
この控えめな月色の乙女は見るからに華奢で、他のどんな女性よりも儚げであるのに、絶大な存在感を持ってルークを支えてくれる。
これが、一国の第一王子たるジェームズ王子を、これまで影で支えてきたコムストッグ・ハイエネス公爵の第一公女、ユイリア嬢なのか。
デザートの洋ナシ菓子が運ばれてくる頃、ルークはユイリアに言った。
「食後に庭を散歩しませんか」 と。
月は明るく、日中の温かな陽気がまだ心地よく残っていて、庭を散歩するには気持ちが良さそうだった。
だが、ユイリアは黙して思案した。というのも、ジョージ王子に伴われて行くオフィリアが悲しそうな目でこちらを見ていたからだ。オフィリアはオーギュスト伯爵に好意を抱いている。それに、オーギュスト伯爵は他の貴族の令嬢たちの間でも人気があると見える。晩餐の間中、ユイリアに向けられる視線は痛かった。それもそうだろう、最近になって突然と社交界に顔を出したユイリアが、何故オーギュスト伯爵と共に居るのか。疑問を抱かれるのも無理はない。だから、夜の庭に二人で出かけるのは得策ではないように思われた。
デザートを食べ終えて、他の貴族たちがまばらに席を立つ中、食事を終えたルークはユイリアの返答を待っていた。断られることなど想像もしていない、楽しそうな目をしている。
ユイリアはデザートを終えて、ナプキンを置いた。
「この城の庭には幽霊が出るのです」
「恐くありません」
即答だった。しかも、一瞬にしてユイリアの意図を見抜いたルークは、途端に意地悪な目になった。
「私が幽霊を怖がるとは思いませんか?」
「冗談でしょう。貴女が幽霊を怖がるとは思えない。ところでユイリア、貴女は幽霊の存在を信じているのですね?」
「見たことはありませんが、現象として在ることは理解しています。ルーク様は信じていますか?」
「はい。見たことがあります」
「え!? それって、どんな……」
「庭を散歩しながらお話します」
ルークが席を立ち、ユイリアの椅子の背もたれに手をかけたので、促されるままユイリアも立ちあがった。
「明日は、朝早くから剣術があります。だから今夜は早く休まれた方がよろしいかと」
「まだ9時前ではありませんか。ご存じかとは思いますが、食後にすぐにレディをお帰しするのは紳士の礼儀に反します。小一時間は、一緒に食後の紅茶をいただいたり、庭を散歩したりするものです」
「なるほど、礼儀をご心配なさっているのなら、貴方様の名誉を損なうことはないとお約束します」
エスコートをするための手をユイリアがとらないので、ルークは困って肩をすくめた。
「わかりました。では、部屋までお送りしましょう」
ルークはそう言うと、今度はユイリアの手を自ら掴んで引っ張った。
されるがまま足早に晩餐の広間を出て、待合いの広間を抜けると、宮廷の従者たちが世話をするために二人に近づいてきた。だが、ルークは手を上げてそれを制し、人払いをしてしまった。
階段の下まで来たところで周りに誰もいないのを確かめてから、ユイリアはルークの手を振りほどいた。
「一体、なんのおつもりですか」
「ユイリア、僕の誘いを断るなら、本当の理由を言ってください。傷つきました」
「やんわりとお断り申し上げているのに、聞かないからです。礼儀だなんて言って」
「それは謝ります、礼儀だと言ったのは建前でした。でも、好意を寄せているのですから、もっと貴女と一緒にいたいと思うのは当然でしょう。紅茶の方が良かったですか」
「いいえ、紅茶でもお断りしました」
「どうして」
ルークが執拗に問い詰めるので、ユイリアは内心で、「この伯爵は本当に煙に巻くことができないお方だ」、と確信して溜め息を突いた。
分厚い深紅の絨毯の敷かれた階段を上りながら、ユイリアは心を打ち明けた。
「私は時限付きの身。ルーク様に限らず、他のどなた様と親密になるのも相応しくありません。加えて、ルーク様に御心を寄せる令嬢方が大変多くいることを、先ほどの食事の席でお見受けしました。ですから、不用意に私とともにいるところを見られては、貴方様にとっても、他の人々にとっても良くないと思ったのです」
話しを聞きながら、ルークは何も言わず、ユイリアのすぐ後ろをついて歩いて来た。そうして長い階段を3階まで上り切り、灯りのともる廊下を進んで部屋の前まで来ると、ユイリアは立ち止り、最後に言った。
「ですから、私とはあくまで公務でのお付き合いとしてください、オーギュスト伯爵様……!?」
音もなく、それは突然になされた。背後に感じられる冷たい扉の硬い感触とは裏腹に、ルークの熱い体がユイリアに押し当てられたのだ。
ユイリアの驚いた声は、ルークの唇に塞がれて一言も発せられることはなかった。厚い胸板を押し返そうとしたが、扉を背に押し付けられたユイリアの体は少しも抗うことができない。
――僕は何度も貴女に忠告をしました。
やがて唇が放されると、ルークが耳もとで囁いた。
「お判りですね、僕の正体を。紳士だなんてとんでもない、僕は何時でも欲しいものを手に入れる、ただの怪盗ですよ」
天使のようにくったくのない笑みを浮かべた彼は、だがその瞳の奥に狼のような鋭い獰猛を秘めて、息のかかる近さでユイリアの瞳の中を覗きこんできた。
一方で、突如として彼から与えられた恐怖と好奇心に、ユイリアは戸惑い、震えた。
押し当てられた体が、どんどん熱くなっていく。一体いつまで、彼はこうしているつもりだろう、と、ユイリアが考えあぐねていたとき、 廊下の向こうからオフィリアの声が聞こえてきた。どうやら、女中のマゼンタとともに部屋に戻ってきたようだ。
部屋の前の薄暗がりの中でユイリアとルークが二人きりでいるところを見られては、騒ぎになるのを避けられないだろう。さて、この事態をラッフルズがどう切り抜けるのか。だが、ルークは余裕の笑みでユイリアの手をとると、屈みこんでその手の甲にキスを落とした。
「また明日、貴女に会えることを楽しみにしています。おやすみなさい、ユイリア」
廊下の角からまさにオフィリアとマゼンタが姿を現そうとした瞬間、ルークは身を翻して壁の中に姿を消した。
なるほど、この城の隠し通路の仕掛けを、ラッフルズも知っているということだ。
「シャドウ! もうお部屋に戻っていたのね。オーギュスト伯爵様は?」
勢いよく歩いて来たオフィリアのために、ユイリアは部屋の扉を開けて先に通した。
「お部屋に戻られたのではないかしら。明日は早くから剣術の披露ですからね」
と、つとめて平静を装う。ファーストキスをたった今、怪盗に奪われたとは、死んでも口にすまい。
部屋に滑り込みながら、オフィリアが悲痛にまくしたてる。
「ドレスが苦しい。マゼンタ、脱がせてちょうだい! ……剣術! 忌々しい。 ジョージから聞いたんだけど、あれ、私たち女もやるんですって、知っていた? シャドウ」
「あら、そうなの」
「そうなのって、それだけ? もっと驚かないの?」
「驚かないわよ。アスターシャのフローラ姫には剣術の心得がおありとのこと。そのお相手を務めることはもちろん、有事の際にはフローラ姫をお守りするために、私たちが剣を持つことも当然、必要となるでしょう」
その後も、オフィリアは文句を言い続けた。
「剣は嫌いよ。殿方に嫌われてしまうわ!」
「王と国を守るため、私たちが剣を持つのは当然のこと」
「平和なブルックリンで私たちが剣をとるなんて、ぜーったいにあり得るはずがない、無意味なことよ」
幼い頃からユイリアとオフィリアは、有事に備えて剣術の訓練を積み重ねてきた。だからといって公の場で紳士を打ち負かして恥をかかせるのは淑女の礼に反する。
「なにも、殿方を打ち負かす必要などないのよ、オフィリア。明日はただ、たしなみがあるということだけを見せればいいの」
「決闘をするように言われたら?」
「型どおりに剣を打ち合わせてお終い。もし、それで終わらなければ、剣を落として負けてしまうの」
「そうね、シャドウの言う通りだわ。相手がジョージだったらムカついて首をはねてしまいそうだけどね」
「オフィリア!」
ユイリアに恐い顔で睨まれて、オフィリアはすぐさま撤回をした。
「冗談よ! わかってる」
「王子に手をかけるなど、冗談でも口にすべきではないわ」
「ジェームズ王子をグーで殴ったくせに」
ユイリアに再び睨まれて、オフィリアはベッドに潜り込んだ。
コムストッグ公爵家は代々、剣の名手を当主に持つ家系だ。父ハイエネスも例外ではないし、母シャーロットもその志を貫いている。家族だけではなく、コムストッグ家の使用人は料理人から女中に至るまですべてが、剣の心得を習得していた。それは自らと家族を、そして王と国民を守るためのもの。
その夜、ユイリアはゆっくりと風呂につかってからベッドに入った。
オーギュスト伯爵の、いや、ルークの、……違う、ラッフルズだ。彼の感触が、いつまでたっても唇からはなれなかったから、なんとしてもその熱を洗い流したかった。
男性とキスをしたのは初めて。でも、あれは正式なものではなかったのだと、自分に言い聞かせる。きっと明日になって顔を合わせたら、オーギュスト伯爵は、いや、ルークは何事もなかったかのように振る舞うはずだ。だからユイリアも何事もなかったかのように振る舞うだろう。
女中のシルバがカモミール油を浴槽に注ぎ入れ、ユイリアの月色の髪を洗ってくれた。
「お嬢様、もう休まれませんと明日にひびきます」
「そうね、ありがとう、シルバ」
シルバに体を拭いてもらい、ナイトドレスを着せつけてもらってから、ユイリアはベッドに向かった。天蓋からは濃紺のカーテンが垂れ下がり、同じく濃紺のベッドカバーにはサンカヨウの花模様があしらわれている。ふと気付くと、ベッドの上に一輪の白薔薇と封筒が置かれているのが目に入った。
ユイリアは、まだ浴室で片づけをしているシルバを振り返った。
「私がお風呂に入っている間に、誰か来客がありましたか?」
「いいえ、どなたもお越しになりませんでした」
ちょうど片づけを終えたシルバが浴室から出てきた。
「そう。オフィリアは?」
「先にお休みになりました」
「ありがとうシルバ。もう下がっていいわ。貴女もゆっくり休んでね」
「はい、おやすみなさいませ、ユイリア様。明日は7時にお召し変えのお手伝いに上がります」
「わかりました。おやすみ、シルバ」
親切な女中が部屋を出て行ったのを見届けてから、ユイリアはベッドから封筒を取り上げた。
宛名には「月色の乙女へ」とあり、差出人には「 L 」とだけある。ラッフルズのLか、ルークのLなのかは分からない。
中には美しい筆記体で書かれた、短い手紙が入っていた。
――公務外のお近づきは慎めとのお達し、重く受け止め、今宵は密やかに心ばかりの品を貴女の元へお届けに上がりました。
ユイリアはベッドから美しい白薔薇をとりあげ、顔に近づけた。白薔薇には香りがほとんどない。
手紙はこう締めくくられていた。
――香りなく、色のないこの花は、貴女によって香り立ち、私の血によって赤く染まります。
暗に、白い薔薇と赤い薔薇の花ことばの両方をメッセージにのせていることを読みとって、ユイリアの胸は騒いだ。
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