シャインとシャドウ 2話8



 翌朝、ユイリアは予定通り剣術用のドレスを着せつけてもらった。ブルックリンでは、貴族の女性は裾が床につくロングドレスを着るのが一般的だが、剣術を行うときには踝丈のドレスを身につける。そしてバストが動かないように、胸の下には幅のたっぷりあるリボンが巻かれる。ドレスはキルトの分厚い生地でシンプルな単色だが、スカートの中にはシルクのレースを何枚も重ねたチュニックを履くので、レディの装いに相応しくスカート部分はふんわりと広がって美しい。
 オフィリアと共に剣術の広間に続く階段を降りていくと、一人の紳士が二人に気づいて階段の下にやってきた。
 二人に挨拶をするために待っているのだと悟って、ユイリアは微笑んで小さく会釈をした。そして階段を降り切ってから、その紳士に膝を屈めて挨拶をした。
「おはようございます、カビオリ侯爵御令子、アスラン様」
 並んで立ってみると、その紳士は長身で、大柄だった。オフィリアも見上げてから会釈をする。
 アスランは胸に手をあてて厳かに頭を垂れた。
「ご挨拶ができて光栄です、コムストッグ公爵令嬢。先日の王宮舞踏会で初めて貴女をお見受けして、大変お美しい方だと驚いておりました」
「まあアスラン様、私にはいつも会っているのに、そんなこと一言でも言ってくださったかしら? 私たち双子ですのよ。まったく同じ顔じゃありませんか」
 と、オフィリアが笑いながらアスランの大きな胸をどついた。
「もちろん、貴女も美しいですよシャイン」
「もう遅いわ。後出しではね」
 遠慮なくものを言うオフィリアにユイリアな内心ヒヤっとしたが、アスランは軽やかに受け流して二人を広間の奥へ導いてくれた。
 そんなアスランを見て、ユイリアは、二人が親しい関係なのだと気づいて安心した。
 ユイリアと違い、オフィリアは多くの貴族たちと顔見知りだ。礼儀に厳しい社交界の中でも、オフィリアは屈託がなく、素直で、感情を隠さずに何でも口に出してしまうのだが、根は優しくて、時には他人のために活発に身を捧げる健気なところもある。だから、きっと多くの人から親しまれているだろう、と、ユイリアは思った。
「ご紹介させていただきますわ、私の双子の姉、シャドウでございます」
「いやいや、たった今、ご挨拶したばかりです。もう知っていますよ」
 オフィリアの相手をしながら、アスランは二人を窓際のサーバーに案内してくれた。そこには長テーブルが並べられ、朝の紅茶とフルーツが準備されていた。ユイリアたちが近寄って行くと、給仕が紅茶を淹れてくれた。
 前夜に深酒をした貴族たちもいたと見え、時間どおりに階下に降りてきている者はまばらだ。
 広間を見回して見ても、どこにもオーギュスト伯爵の姿を見つけられなかったので、ユイリアは首をかしげた。彼なら時間どおりに降りて来るはずだと思ったからだ。それに、今朝はオーギュスト伯爵とどんな顔をして会おうかと身構えてもいたので、ユイリアは、なんだか肩すかしを受けた気がした。
 従者たちが決闘の広間にサーベルを準備する間、ユイリアたちは壁際に持ち出された椅子に座り、朝の紅茶をいただいた。
 ユイリアとオフィリアを先に座らせてから、アスランもユイリアの隣に座った。
「貴女のお噂はかねがね、耳にしていました。コムストッグ公爵には二人の美しいご令嬢がいると。だが噂ばかりで、まさかこうして、本当にお目にかかれるとは思っていませんでしたが」
 少し掠れた、厚みのある声は、何かをユイリアに問いたいようだった。
「私とオフィリアは二人で一つなのです。これまで、外のことはオフィリアに、宅の中のことは私が担ってきました」
「けれど、貴女はこうして外に出てきましたね」
「はい。きっとこれからも私と妹の担うものは変わらないのですが、王子のためとあれば、二人で力を尽くします」
 南の国境に近い領土を治めるカビオリ侯爵の御子息、アスランの名は、ユイリアもよく耳にしていた。
 ブルックリンに4つある侯爵家は、それぞれが東西南北の広大な領地を治め、国境を守っている。
「ところで、私も貴方様のお噂を良く伺っております、アスラン様」
「ほお、どのようなお噂かな? まさかもう知られてしまいましたか!」
 ユイリアは紅茶に口をつけようとしたのを止めて、かすかに首をかしげた。
「我が家は大変な大酒呑みの一族で有名だと! きっと貴女が耳にした噂はそのことでしょう!」
 アスランは紅茶をこぼしそうになりながら、ガハハと盛大に笑った。そして熱い紅茶を一気に飲み下すと、空のカップを給仕に引き取ってもらった。
 その横で静かに紅茶をいただきながら、ユイリアは昨晩のことを思い出した。大酒呑みと言えば確かに、晩餐の席でアスランはワインをたくさん飲んでいたようだ。だが、大酒呑みであっても、こうして時間どおりに広間に降りて来ているところを見ると、公務に差し支えることのないよう、加減をされていたのだろう。今朝は酒臭さも感じられないし、しゃっきりしている。つまりアスランは、節度ある大酒飲みということ。あるいは、もしかすると体内のアルコールを分解する代謝が良いだけかもしれないが……。
 その後も、アスランは自分のことを謙遜して田舎者だとか、粗暴だと言ったりしたが、ユイリアは真に受けなかった。たださり気なくアスランを観察して、見極めた。
 年の頃は、ユイリアよりも5、6歳は上に見えるアスランは、怖ろしい癖毛で、どうやらそれをおとなしく撫でつける気はないらしい。短髪があちこちに跳ね上がっているが、それが彼の雰囲気にとても合っていた。着ているものはどちらかというと地味で、都会受けしないところがあるが、よく手入れされていて清潔感があった。また、カフスボタンにもタイピンにも家紋があしらわれていて、それらは古いものであったが光るほどよく磨かれていた。そのことから、歴史があり、大切に扱われている品だということが一目で分かるのだ。
 だからアスランがどんなに自らを低く示そうとも、ユイリアはアスランを気に入ったし、頼れる紳士だと思った。
「現カブラギ侯爵様が南の地を治めていらっしゃるのは、大変心強いことだと、私の父がよく申しております。『平和な国は、まさしく治める者たちの手にかかっている』、と。貴方様もそのお父上の御志を受け継ぎ、南の地をあまねく心にかけておられるとか。ですから大変喜ばしく、有難く存じていました」
「私のような田舎者に、そんな言葉を言っていただくのは、いやはや……」
 アスランは困ったように頭をかいた。
「当家の失態を、当然、貴女はご存じのはずだが」
 というのは、南の国アスターシャのサフラン姫がジェームズ王子に嫁ぐためにブルックリンにやって来た時、南の国境のすぐ外で暗殺された、その責めを最も受けたのはカブラギ侯爵家だったからだ。しかも最初は、アスターシャの姫暗殺の主犯となった謀反の家として疑いをかけられ、それが無実と判ると今度は、姫を守ることができなかった無能な領主と噂が流れた。もちろん、ユイリアはそのことを知っている。だが、すべての責任がカブラギ侯爵家にあるというのはとんでもない言いがかりだった。
「あの痛ましい事件の責めを受けるのは、私たちも皆同様です。もし、貴方様が特別に責めを受けるなら、私が貴方様の盾となり、ともに闘いましょう。申し上げておきますが、貴方様がお父上の志を継いでおられるように、私も父の意志を継いでいるのです。ですから、私が今申し上げたことは、コムストッグ公爵の思いと同です」
「驚きました、貴女は、……」
 アスランはしばし言葉を失って、ユイリアを見つめた。
 ユイリアの深緑色の瞳が優しい光を帯びて、真っすぐに見つめ返していると知って、アスランは心打たれた。そして、このご令嬢は口から出まかせをいっているのではなく、心から自分を励ましてくれているのだと確信して、にわかに涙ぐんだ。これまで、ユイリアのように言ってくれた者はいなかった。それを言ってくれたコムストッグ公爵令嬢は、なんと機知に富み、柔らかに気高く、優しいのだろうか。
 今、アスランの隣に座って控えめに紅茶をすする淑女は、一見すると儚げで小さく見える。だがその内面は動かすことのできない山のように偉大で、静かな水面を湛える湖のように奥深い。そして、この方をもし妻に迎えたいと願っても、とても自分の手には負えないだろう、と、アスランは思った。
 この方が、ジェームズ王子を影で支えてこられ、あのオーギュスト伯爵に見染められている女性なのだということは、すでにアスランも聞きしに及んでいたが、これほどまでの淑女だったとは思わなかった。
「貴女は、本当に……、恐ろしい方だ」
「なんですって?」
「いえ!  これは失礼、貴方は、本当にお美しい方だ! 恐れ入りました。お美しい方です!」
 アスランはお手上げとばかり両手を上げて笑った。敬意と親しみのこもる眼差しを向けられ、ユイリアも悪い気はしなかった。むしろ、アスランに気に入られたことが嬉しかった。

「気になさらないで、この方はいつもこうなのです。ネジが飛んでしまっているのですわ」
 と、それまで二人の傍で話しを聴いていたレイモンド公爵令嬢が加わって来た。
「おお、これは『レモン姫』。剣術は休まれるのではなかったのかな」
 アスランが令嬢をレモン姫と揶揄したのも頷ける。まるでレモンを思わせる輝く金髪をしているからだ。
「公爵家の娘が剣術を辞退したとあっては、父上の名を傷つけることになる、と、兄に言われて思い直しました」
「ほお、アレックスの奴め。大したことを言う」
「彼女は、レイモンド公爵令嬢、リネットよ」
 オフィリアが割って入ってユイリアに令嬢を紹介してくれたので、ユイリアは立ち上がって膝を屈めた。
「はじめまして」
 リネットもドレスの裾をつまみ上げ、膝を屈めて微笑んだ。

 ブルックリンには公爵家が3家ある。最も王宮に近いコムストッグ公爵家、東に領地を持つレイモンド公爵家、そして西を治めるバスカール公爵家。
 バスカール公爵家にはまだ子どもがいないので、この度の選別の集いには参加していない。
 広間に集まりつつある人の流れの中に、リネット嬢が誰かを見つけて手招きをした。
「お転婆なシャインとは違って、御姉様はとても聡明なのね」
「なんですって!?」
 怒って詰め寄るオフィリアを、リネット嬢も華麗に交わして手を大きく振り上げた。
「兄を紹介しますわ、アレックス! こっちよ」
 すぐに、背の高い金髪の青年がユイリアたちの輪に加わった。リネットと同じ金色の短髪が少し跳ねているのは多分、寝ぐせだろう。身なりはきちんとしているが、どうやら髪だけは収まりががつかなかったようだ。
「兄のアレックスです。こちら、シャインの双子の御姉様」
「わあ、そっくりだな。けれど髪の色は少し違うのですね。シャインは金色だが、貴女は月のような銀色だ。はじめまして」
 ユイリアが膝を屈める前に、アレックスが人懐っこい笑みを浮かべて手を差し出して来たので、ユイリアはその手をとって握手をした。
「お目にかかれて光栄です」
「こちらこそ。ところで、オーギュスト伯爵はどちらに? 確か昨晩は、貴女と一緒でしたね」
「今朝はまだお見かけしていません」
「変だな。彼が遅刻するとは思えない」
 アレックスがそう言って辺りを見回すと、アスランも「確かに」、と、頷いた。

「諸君、おはよう!」
 開け放たれたテラスの窓からジェームズ王子が一人で入ってきた。散歩でもしていたのだろうか、と、ユイリアは不思議に思った。特に命じて人払いをしたのでない限り、ジェームズ王子が一人になることはないからだ。王位を継承する要人ということもあるが、ジェームズ王子は幼い頃から何度か命を狙われている。公務で離宮に来ているというのに、どうして今朝は人払いをしたのだろうか……。
「朝早くから皆、御苦労。朝食の準備をすでにさせてある。この剣術の訓練を早々にすませて……」
 と、ジェームズ王子が語る最中に、突如、ユイリアは息を呑んだ。
 テラスから仮面をつけた黒い影が城の中に飛び込んで来たのだ。
「ジェームズ王子!」
 何か嫌な予感がして、ユイリアはジェームズ王子をテラスから遠ざけようとした。
 防具をつけた剣闘士が訓練に飛び入り参上したのだろうか、否。その何者かはいきなりジェームズ王子に飛びかかり、難なく羽交い絞めにしたかと思うと、その首に短剣を押しあてた。体にフィットした剣闘用のエペを着こみ、顔には剣闘用のマスクをつけているので、正体が分からない。ジェームズよりも体の大きい、男……?
 傍にいたジョージ王子とジェレミー王子が剣を抜いた。二人がかりであれば、ジェームズを取り押さえている大柄な敵を打ちとることは容易いことのように思われた。だが、二人の王子の剣が敵に届く前に、、テラスの窓にかかるカーテンの影からさらに4、5人が飛び出してきた。
 黒ずくめの影たちは二人の王子の剣を弾き飛ばし、そして、切りつけた。
「ジョージ!!」
 ユイリアの隣で、オフィリアが悲鳴を上げた。
 その場にいた誰もが凍りつく中、ジョージとジェレミーは血を流して床の上に倒れ、少しも動かなくなった。

「何者だ」
 カビオリ侯爵の子息、アスランが剣を抜き、前に進み出た。ユイリアやオフィリア、それにレイモンド公爵令嬢リネットの盾となるように、暴徒たちと向き合う。
 震えるリネット嬢に、兄のアレックスが囁いているのがユイリアにも聞こえた。「お前は下がっていろ」、と。
 そう言ってアレックスも、腰の剣を抜いてアスランの隣に立った。
「我らの主君に手をかけたうえで、生きて帰れると思うな。だが、まずは、そなたらの言い分を聞こう」
 アレックスは敵を前にしても冷静だった。先ほどユイリアに見せた、人懐っこい笑みとは打って変わって、今は主君を守る騎士の鋭さを持つ。
 ただ、カビオリ侯爵家のアスランと、レイモンド公爵家のアレックスがどんなに強くとも、ジェームズ王子を人質にとられた上で、6人の敵を一度に相手にするのは手が余るのではないか、とユイリアは思った。
 ジェームズを取り押さえている大柄な男が一人、その周りに剣を掲げた敵が5人。その立ち居姿から、どれもかなり腕が立ちそうだ。
 黒い影の者たちの内、一人がアレックスに答えて言った。
「王子の身柄は我々が預かる。アスターシャの姫君との婚礼は破談となり、この国に大いなる戦禍が訪れよう!」
 男の言葉に空気が張り詰めた。
 これは国家の非常事態だ。だが、先にジョージ王子とジェレミー王子が倒されてしまったのを見て、多くの若い貴族たちは恐れおののき、剣を鞘におさめたまま壁際に下がっていた。剣を抜いているのは、アスランとアレックスだけ。平和なこの国で大切に育てられた若い貴族たちは、まだこの国を背負って立つ自覚に遠い。だからまだ、自らの手で闘うことよりも、他人の手で守られることに甘んじているのだ。

 ユイリアは覚悟を決めた。隣にいたオフィリアを見ると、同じ気持ちであることが分かった。だから二人の姉妹は何も言わずに頷き合った。
「王子を放せ!」
 アスランとアレックスが同時に暴徒たちに切りかかった。
 6人の敵のうち、5人は剣の達人だった。鋼の刀身が激しく打ち合う。その音で耳が切り裂けそうだった。
 アスランが最初の一人の剣を激しく弾き飛ばし、敵の剣は碧玉の床に滑り落ちた。ユイリアは静かに、その剣を拾い上げた。アスランは二人目と剣を交えたが、今度は一人目のように楽にはいかなかった。剣は互角。一方、アレックスも二人の剣士を相手に激しく剣を奮っていた。

 ユイリアが拾ったサーベルは軽く、女でも扱えそうだった。下から振り上げ、右上へ、そして素早く左へ、最後に、中央前へ。ユイリアは剣を振り、アスランとアレックスが闘うその真ん中を駆け抜けた。
 オフィリアが架台からサーベルを2本抜き、ユイリアの後を追う。
「何をしているのです! レディたちは下がっていてください」
 アレックスが叫んだが、もう遅かった。ユイリアは5人目の敵に付きかかり、剣を打ち合わせていた。
「ご心配は無用です。シャドウの剣の鋭さはお父様譲りですわ!」
 確かに、オフィリアが言う通り、ユイリアの剣は正確に敵の隙をつき、攻撃を返す素早さは負けていなかった。
 剣の強さは、体幹の強さとも言われる。腕の力だけでなく、フットワークと重心移動が突きの強さ、返しの強さとなる。力の強さでは男には敵わないが、研ぎ澄まされた感覚と技術が勝れば、単純な力の強さを上回ることができるのだ。ユイリアは敵の剣を回し取り、持ち手を打って、相手の剣を叩き落とした。
 ユイリアのように可憐な令嬢が、このように巧みに剣を使いこなすのを、これまでアレックスもアスランも見たことがなかった。
 剣術が上手い令嬢なら他にもいるだろう。だが、実戦で命をかけて敵を相手にするとなれば話は別だ。そんな覚悟は、男であってもなかなか身につけられるものではない。
 ユイリアの真剣な眼差しに打たれ、二人の紳士は一瞬、息を呑んだ。
「コムストッグ公爵のご令嬢とあれば、剣の心得は確かでしょう。ですが、このように不利な状況とあっては、……」
 アレックスが敵の二人の剣を同時に受けて後ろによろけた。
 壁際に下がっている他の連中は加勢しようとする気配さえない。
「ふん、臆病者など足手まといなだけ。御見それしましたぞ、コムストッグ公爵令嬢、このアスランが命に代えても、貴女方をお守りいたしましょう!」
 アスランがより激しく敵に剣を打ち付けた。だが、今アスランが相手をしている相手は――相当強い。剣の太刀筋が違う。

 ユイリアは息を整えて状況を整理した。
 ここまで、打ち払った敵は二人。今、アスランが一人、アレックスが二人の敵を相手に闘っている。そして、ジェームズ王子を人質にしている敵が一人。
 ユイリアは姿勢を正し、全身の余計な力を抜いて、アンガルドについた。アレックスが持て余していた敵の一人が、ユイリアに向かって来たのだ。
 サーベルの切っ先を、相手の鼻の高さに向けて構え、出方を待つ。だが、黒ずくめのエペに身を包んだ敵はユイリアが女なので躊躇したのか、攻撃してこようとしなかった。だから、ユイリアは躊躇うことなく剣を相手の頭に突きこんだ。その攻撃は刀身で弾かれたが、弾かれた勢いを利用して今度は、右下から左斜め上に向かって敵を切り上げた。ユイリアのその素早い剣の回転技に、相手は一瞬怯み、のけ反って一回転しながら後方に跳びのいた。――驚くほどの身軽さだ。
 床に着地した相手に、間髪をいれずユイリアは切りかかった。だが、敵はその一つ一つを確実に剣で防ぎ、弾き返してみせた。
 ことごとく攻撃が弾かれるので、ユイリアは敵と少し距離をあけて、再びアンガルドの姿勢をとった。
 息を整えて、勝機を模索する。ここまで手合わせして分かったことは、敵は男でかなりの剣の使い手だということ。そして、のらりくらりと攻撃を交わすばかりで、ユイリアに対してまだ本気で切りかかっていないということ。

 剣にはフォアとバックがあり、剣を持つ利き手と同じ方向の攻撃と防御がフォア、その反対がバックとなる。ふつうは、人体の構造上、バックから繰り出す攻撃はフォアよりも弱くなるし、バックの防御はフォアより弱くなるものだ。だが、今ユイリアが相手にしている男は、フォアにもバックにも強さに変わりがない。それだけ、剣を鍛えているということ。おそらく日常生活の中で、反利き手を利き手と同じく使う訓練をしているに違いない。
 このまま、まともに闘って勝負が長引けば、勝ち目はない、と、ユイリアは思った。
 ならば、ジェームズ王子を救うために何でもするしかない。

 傍で闘うアスランやアレックスが、それぞれの敵に窮しながらもユイリアのことを気にかけてくれているのが分かる。二人の足を引っ張ることがあってはならない。
 ユイリアは一瞬の隙をついて、サーベルを大きく振り上げて敵に踏みこんだ。咄嗟に相手が防御の剣を上げた、その刹那、敵の胸元に防御が空いたのをユイリアは見て取った。先に上げた剣は囮。ユイリアの剣はビュン! と、空気を切って切り返され、下から上に刺し上がった。だが、敵も剣の達人、間髪のところで相手の護拳がユイリアの剣を遮った。
 今だ。そう、相手に護拳を使わせるのがユイリアの狙いだ。護憲で攻撃を防御するときに、その一点に重心が寄る。重心が寄った場所へのさらなる攻撃は、通常の数倍の威力をもたらす。
 ユイリアは瞬時にサーベルを引き、護拳ごと敵の手首を力いっぱい蹴りあげた。
――カーン!
 敵の手から、剣が回転して飛び去った。
 蹴りあげた反動で、ユイリアのたっぷりと裾のあるドレスが広がり、敵の視界をわずかの間、塞ぐ。その瞬間、オフィリアが敵に追撃をしかけ、ユイリアはジェームズ王子を拘束する最後の敵に剣を向けて跳びかかった。
 不意打ちを受け、動きが遅れた大男の腕の中から、ジェームズ王子はするりと抜けだした。
「オフィーリア!」
 ユイリアの叫びとともに、剣がゆるやかな放物線を描いて宙を舞った。オフィリアが、敵に剣を向けながら、もう一方の剣をユイリアに投げたのだ。それは、王子のための剣だった。
 剣を振って大男を王子から下がらせ、ユイリアは左手で王子の剣を受け取った。それをクルリと回転させて、持ち手をジェームズ王子に向けて差し出す。
「俺に闘えというのか」
 こんな時なのに、ジェームズ王子は余裕の笑みを浮かべている。ユイリアはイラっとした。
「これは貴方さま御自身を守るための剣です、殿下。どうか、この場からお逃げください」
 そういう間にも、再び剣を手にした敵がユイリアたちに迫って来る。ユイリアは、ジェームズ王子を後ろに下がらせて、自らはサーベルを構えて盾となった。

 闘いは長くは続かなかった。ユイリアたちの負けだ。アスランはついに強敵の剣士に押し破られ、今は床に抑えつけられている。アレックスは敵に剣を弾かれ、その首筋に切っ先を当てられて動きを封じられている。
「剣を収め、王子をこちらに渡せばお前たちの命は保証しよう」
 オフィリアは最後まで抵抗したが、ついにはジェームズを人質とした大柄な男によって取り押さえられた。
「淑女に手を触れるな、放せ!」
 アレックスが抗したが、暴徒たちにそんな道理が通じるはずはなかった。

「殿下」
 ユイリアは覚悟をきめて、背後にいるジェームズに語りかけた。
「お逃げください。ほんのわずかの間、私が足止めをいたします」
 ユイリアは本気だった。命をかけてこの国を守る。そのために生まれ、そのために育まれてきた。そして、それだけの価値があると日々感じながら、この国を愛してきたし、そしてまた、愛されてもきたのだ。
「そこを、どけ」
 敵に剣を向けられても、ユイリアは動かなかった。その瞳に宿るのは恐怖ではなく、覚悟。

―― 王子を守る。
 その月色の乙女の覚悟に、人々は黙した。広間を覆う静寂の中で、ユイリアの覚悟だけが鋭く脈打っていた。
 その場にいた者は皆、畏れた。公女に相応しい、国を思う心の強さが、皆の心を打った。
 宮廷使用人たち陰ながら首を垂れ、公女に敬意を示した。剣を取らなかった臆病者たちは我が身の不甲斐なさに自責の念を抱いて拳を握りしめ、今倒れて敵に抑え込まれているアスランとアレックス、それにオフィリアは涙を忍んだ。

 ジェームズ王子が微笑んだ。剣を手に取った物は皆、王の心に適う。 ――合格だ。

「そこまで!」
 突如、ジェームズ王子が手を打って大声を張り上げた。
「ジョージ、ジェレミー、いつまで転がってるつもりだ、もう起きていいぞ」
 言われて、血を流して死んだはずのジョージ王子とジェレミー王子が、不機嫌そうに起きあがった。
「うわ、血糊がベタついて気持ち悪い」
「あまりに長く時間がかかるので、本当に死ぬかと思いましたよ兄上。もう疲れました」

「オーギュスト伯爵と、四騎士の諸君、それからドクター・ドクトル。迫真の演技、御苦労であった」
 ジェームズ王子がそう言うと、黒ずくめのエペに身を包んだ6人が、一斉にマスクを外して正体をあかした。皆、汗でぐっしょり濡れている。
 ユイリアを含め、その場にいた貴族たちは皆、何が起こったのかをすぐには受け入れられずに呆けた顔をした。
 だが、全ての剣が下ろされ、宮廷使用人たちが一斉に出て来て拍手喝采が湧き起こると、これまでに起こったことは全て、貴族たちの忠誠を試す芝居だったのだと気づいた。

 そしてユイリアは、ついほんの少し前まで一進一退の剣を交えていた相手がルークだったと知って、心底驚き、また嫌な気持ちになった。
 汗で濡れた額を上げて、ルークがユイリアに深く頭を下げた。

「見事な剣のお手前、感服いたしました。華麗なる足技をレディから受けたのは、初めてなので驚きましたが」
 王子を守ろうと必死なユイリアが、ルークの剣を蹴り飛ばしたことを、面白く思っているようだ。
 ユイリアは赤面した。――極めて不快だ。

 冷たい造り笑いを浮かべて小さく会釈をすると、「貴方とはもう、口をききません」 と、一言。ユイリアは足早に広間を出て行った。



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