シャインとシャドウ 2話9



 朝食の間中、ユイリアが本当に一言も口をきいてくれなかったことに傷ついて、オーギュスト伯爵はジェームズ王子に抗議をせざるを得なかった。
 ユイリアとともに闘ったアスラニエル・カビオリ侯子や、アレクサンダー・レイモンド公子が妬ましい。
「お前のせいだぞ、すっかり嫌われてしまった」
「赦せ。今回のことでは、他に適任がいなかったんだ。それに、お前があちら側にいれば、カッコつけてさぞや大立ち回りをしたに違いないからな。そうなれば適う者がいなくなるだろう……それでは、つまらん」
 離宮の隠し扉の中を、今、ジェームズ王子とルークの二人は注意深く進んでいる。向かうのは美術室だ。
「それなら、ユイリア嬢にとりなしてくれ」
 と、暗がりの狭い通路でルークがジェームズ王子に言った。
「いやだね。俺様がトバッチリを受けるだろうが」
 何をバカなことを言っているんだ? とばかりに、ジェームズ王子は盛大に肩をすくめて見せてから、明るい離宮の廊下に出て行った。廊下の大きな絵が、隠し扉になっている。その絵には、白い花嫁衣装のフローラ姫が等身大で描かれていた。
 ルークも後に続いて廊下に出ると、何気なく、壁にかかるフローラ姫の絵を見上げた。まだ、たったの少女だ。歳は16に満たないと聞いている。それでも、国交のため姉の代わりにブルックリンに嫁いでくる必要があるとは。フローラ姫の事情をユイリアに重ねて、ルークは複雑な気持ちになった。

 マホガニーの両扉を抜けると、天窓から明るい初夏の光が差し込む屋内庭園が広がっている。そこが美術室だ。この庭園の先にはさらに廊下が続いており、貴重な絵画の数々は直射日光の当たらない廊下と、その先の閲覧の間に展示されている。
 宮廷画家たちが仕事をするために、美術室の屋内庭園にはふんだんに自然光が取り入れられている。
 向かい合わせに立て掛けられているキャンバスの前に、すでにルーク以外の全員が座っていた。ルークは、すぐにユイリアを見つけて向かいの席についた。彼女は、ルークと目を合わせようともしない。
 これから午後の紅茶の時間までの間、互いの肖像画を描き合うことが、この度の課題だ。
 描き終わった絵をすべて壁にかけて、ジェームズ王子が誰なのかを言い当てられたら、それを描いた者はフローラ姫の絵描き遊びの相手に選ばれる。

 貴族の子息、子女ともなれば、絵画の嗜みを得ている者も多いが、今回のように人前で絵を描き、その絵を公に評価される機会は、なかなか無い。だから、集められた多くの貴族たちは戸惑いを隠せず、それはルークも同じだった。従者が、始まりの合図のベルを鳴らした。

 ユイリアを怒らせてしまった。ルークは、そのことを深く心に受け止めながら、神妙にカーボンチョークを取り上げた。絵を描くのは好きだし、慣れている。だが、描く相手がユイリアだと、キャンバスに納まる気がしなくて、上手く描ける自信がなかった。
 ――キスをしたこと?
 ――昨夜の贈り物が気に入らなかったのか。
 ――彼女を騙して剣を向けたこと。
 今となっては、どれも最悪なことに思われた。
 手にしたカーボンチョークをキャンバスにつけたとき、右手首に痛みが走ってうっかり落としてしまった。椅子に座ったまま、体を屈めてチョークを拾い、割れていないことを確認してふと顔を上げると、ユイリアと目が合った。
「もしかして、手に怪我をしていませんか?」
「僕とは、口をきかないのではなかったですか」
 どうやらルークは、口を開けばユイリアを怒らせるようだ。ぷい、と、そっぽを向かれた。
 でも少しすると、ユイリアは思い切ったように小さく息をついてから、立ちあがってルークのところまでやって来た。
「見せてください」
「まだ描いている途中です。もちろん完成したら、ちゃんと……」
「手を、見せてください」
 そう言って、ユイリアがルークに向かって、ここに手を出せと言わんばかりに両手を出したので、ルークはおとなしく従った。
 ユイリアがシャツの袖口を少し引きあげて見ると、手首が黒い痣になって、少し腫れていた。
「痛むのでしょう」
「平気ですよ。それより、貴女の蹴りは、実に、的確でした。お世辞ではないですよ」
「そもそも、褒め言葉ではありませんわ」
 クスクス笑うルークを、静かに睨みつけることで戒めてから、ユイリアは女中のシルバを呼んだ。ルークにははっきり聞こえなかったが、何かを部屋から持ってきてくれるように頼んでいるようだった。
 ほどなくして、女中のシルバがユイリアに何かを持って来た。ユイリアは丁寧に女中に礼を述べて下がらせてから、またルークのところにやって来た。
「手当をさせてください」
 と、ユイリアは言った。いつもなら、ルークはこのくらいの傷で手当を受けることはない。当然断るところだが、一方で、ルークはユイリアに何をされるのか興味があった。
 ルークが素直に手を出すと、ユイリアはサテンのポシェットの中から、ガラスの小瓶を取り出して、ポタポタとルークの手首に何かを垂らした。かすかにラベンダーの匂いがした。
「これは?」
「オリーブオイルに、ラベンダーとヘリクリサムを煎じたものです。鎮痛効果と、再生促進効果があります」
 ユイリアは、オイルをまんべんなく塗り込めながら、ルークの手首が曲がるのかどうかを確かめた。もし、捻挫をしたり骨折をしていれば、関節は曲がらないほど腫れあがる。
「よかった、折れてはいないようですね」
「僕はそんなにヤワじゃありません。ちょっと、内出血をしただけです」
 怪我を軽くみているルークをたしなめるように、ユイリアが一瞥を向けた。
 だが、本当に、男はよく怪我をするものだ。特に、ルークのような家業の者は尚更のこと。
「この薬は、貴女が作ったのですか?」
「薬というほどの物ではありませんが、庭のハーブで作りました。大丈夫ですよ、昔、ジェームズ王子で実験済みですから」
 ユイリアの作り笑顔に、ルークも笑顔で応答する。
 続いて、ユイリアはポシェットから別の瓶を取り出すと、小さな木べらでその中の物を取って、ルークの手首に上塗りした。
「これは何です?」
 初めてのことばかりなので、ルークは好奇心を抑えられなかった。
「これは蜜ろうです。傷口を清潔に保護し、これにも再生を促す効果があります」
 それから、ユイリアはルークの手首に包帯を巻いてくれた。実に、手際が良かった。
「明日の朝、包帯を換えますので、今日はこのままに。それと、……」
 ユイリアがポシェットに小瓶をしまいながら、なぜかその先を言いごもった。ルークは黙ってシャツの袖を直し、待った。彼女が何かを言おうとしているなら、それは聞く必要のあることだったし、言葉にすることを躊躇っているとするなら、それは二人の関係の核心をつく内容であることだと想像ができた。
「昨夜の贈り物のことです」
 と、ユイリアが囁いた。
「メッセージは確かにお受け致しました。貴方様の手にあるラベンダーと、そしてヘリクリサムが、私からの御返事です」
 それだけ言ってユイリアはすぐに席に戻ってしまったが、ルークにはそれで十分だった。ルークは再びカーボンチョークを取り上げてキャンバスに向かった。手が震え、顔がゆるんだ。それでもルークは平静を装って、キャンバスに向かい続けた。
―― 一人の女性に対して、これだけ胸が高鳴ることが、これまでにあっただろうか。
 思いを込めて一輪の薔薇を贈った。彼が込めた思いは秘められていて、たとえ見出されることがなくても、構わないと思っていた。だが、ユイリアはルークのメッセージを正確に読み取り、今、その証にラベンダーとヘリクリサムを返して来た。なんて賢い女性だろう。

 ルークが贈った白薔薇そのものには、「僕こそが貴女に相応しい」、という意味が込められていた。
 貴女によって香り立つ白薔薇は、恋の象徴。僕の血で赤く染まる薔薇は、「命をかけて貴女を守る」、ということを暗に示唆していた。
 そして赤い薔薇は、愛の象徴である。
――僕こそが貴女にふさわしい。僕は、貴女に恋をしています。だから、命をかけて貴女を守ります。そのとき僕は、貴女への愛をお示ししましょう。

 ユイリアが返したラベンダーには、「沈黙」の意味がある。ルークが怪盗ラッフルズであること、そして、ユイリアが背負っている使命のこと。どちらも、黙して守るべき秘密だった。魔女はユイリアに、ルークに近づいてはならないと言った。だから、二人の関係は沈黙の元に在る。ユイリアはルークに、要人するように警告を与えたのだ。
 だが一方で、ヘリクリサムには「永遠の思い出」が象徴され、転じて「いつまでも変わらない喜び」、という意味がある。
――どうか黙して、身をお守りください。貴方との出会いは永遠の思い出となるでしょう。貴方はいつまでも変わらない私の喜び。
 ルークの思いを受け止めた上で、この恋は叶わないものだと伝えている。
 もちろん、ルークとユイリアが互いを共有するこの時間は、永遠の思い出となるだろう。だが、ルークはこの恋をただの思い出で終わらせるつもりはない。
 ユイリアはルークの気持ちに応えて、いつまでも変わらない喜び、と、返してくれた。それならば、この愛を永遠にしてみせよう、と、ルークは思った。
 強い思いを抱くとき、ルークには言葉はいらなかった。ただ心に誓うだけでいい。
 ルークは黙してキャンバスに色を落とした。その中に、月の光の下で初めて出会った日のユイリアが描き出されてゆく。彼女を初めて見たときの衝撃を、今でもよく覚えているし、その美しさは何度見ても変わらない。それどころか、言葉を交わすごとに、見つめあうごとに、その美しさは彼の身近なものとなってゆく。色は増し、温度も伝わる。そして香りも。もはやユイリアはルークにとって、幻のような遠い存在ではない。この人こそが、ルークの求めていた存在なのだと予感していた。
 今や、予感は確信となり、やがてユイリアの存在は、ルークの魂にまで刻みこまれるだろう。――この恋は、いつか永遠の愛になる。

「僕のことを、怒っていますか」
「お心当たりが、おありですか」
「先ほどの剣術では貴女を騙して……」
「それは怒っていません。不愉快ではありましたが」
「昨夜、貴女の部屋に忍び込んで……」
「それは貴方様の性分でしょう。いさめることはできませんわね」
「では何に、お怒りなのですか。昨夜のことは、謝るつもりはありませんよ」
 ――昨夜のこと。ルークは、昨夜のキスのことを言っている。偽りの気持ちはないから、それだけは謝るつもりはない。
 だが、ユイリアが怒っているのはどうやら、まさにそのキスのことのようだった。彼女はキャンバスから目を放さずに、静かに口を開いた。
「親愛のキスも、友情のキスも、罰であってはいけません。もし昨夜のことがそうでないと言うなら、先に私の気持ちを聞いて下さったはずです、オーギュスト伯爵様」
 ルークはユイリアにキスをするために、自分をルークと呼ぶようにユイリアに求め、それが叶えられなければキスをするというゲームをしていた。そうしてルークはユイリアにキスをするという目的を果たしたが、それは彼女の気持ちを無視した独りよがりな行為だった。
 欲しいものを手に入れるために、盤上でチェスの駒を動かすだけではダメなのだ。ユイリアの心を得るためには、ルークも真心で彼女と接しなければ。
 ルークは心から、ユイリアに申し訳ないことをしたと、この時やっと気がついた。
「非礼をお許しください、ユイリア」
「もちろんです、ルーク様」
 躊躇うことも、跡を濁すこともなく、ユイリアはルークの謝罪を受け入れて笑みを浮かべた。
 ユイリアが笑ってくれること、それは、ルークにとって宝石よりも価値があることに思われた。ルークはその笑みを、そのままキャンバスに映しこんだ。

 定刻となり、貴族たちは午後の紅茶のため美術室をいったん後にした。その間に従者たちが、貴族たちの描いた絵を壁に展示した。それを、ジェームズ王子が楽しそうに見て回る。ユイリアが描いた絵はすぐにどれか分かった。
「あいつは、人物画の天才だからな」
 カーボンチョークだけで描かれているキャンバスを、ジェームズ王子は注意深く覗きこんだ。肌の質感や、髪の毛一本一本の流れ、瞳の輝きが、実にリアルに描かれていて、絵の中のルークが今にも動き出しそうだ。特筆すべきは、絵の中のルークが笑っていること。それは、ジェームズ王子が今までに見たことのない優しい表情だった。
――あいつは、こんな顔でユイリアを見ているのか
 その絵の右下には、「仮面の下」というタイトルが書かれていた。面白い。
 それから、ジェームズ王子はゆっくりと展示の絵を見て回りながら、ルークの描いた絵を探した。美術品に関して、ルークは学者のような知識を持っている。なるほど、あいつが贋作を見抜き、優れた芸術品を見出す心眼を持っているのは確かだろう。だが、ルーク自らが絵を描く姿など、ジェームズ王子には想像ができなかった。下手くそな絵を描いていたら、存分に笑ってやろう。さて、あの野蛮な腹黒男は一体、どんな絵を描いたのか……。と、ジェームズ王子は1枚の絵の前で足を止めた。
 
――ユイリアだ。

 惹きつけられた。
 ジェームズ王子はしばし、時を忘れてその1枚の絵に見入った。キャンバスいっぱいに月の光が溢れ、そのただ中にユイリアがいる。ユイリアはこちらを見つめて、ジェームズにも数えるほどしか見せたことのない、あの優しい笑みを浮かべていた。その絵はとても、美しかった。絵の右下には「赦し」と書かれている。
 ジェームズの親友であるルークと、ジェームズにとっては兄妹のように親しいユイリア。その二人の歴史がわずかな時間の中で、確実に積み上げられていることを、ジェームズ王子は二人の描いた絵から鮮明に見てとった。
 ルークは王の密命を受ける影の一族。一方でユイリアは国のために魔女に連れ去られる運命を負う。そんな二人がこれから歩む道は、きっと、険しいものになるだろう。それでもジェームズ王子は、この二人を応援したいと思った。
 もし、二人が諦め、希望を失うときがくるなら、その時は二人を励まし、支えよう。そう、ジェームズ王子は心に決めた。
 
 ところで、壁に並べられた絵画のうち、ジェームズ王子の弟、ジョージが描いた絵は別の意味で芸術的だった。そのキャンバスに描かれているのは、赤く塗られた三角形と、その上に小さな円が一つ。円の周りには申し訳程度に黄色い線が何本か引かれていた。その絵のタイトルは、「赤ばかり着ている女」。
 この絵を見て、オフィリアが激怒したのは言うまでもない。だが面白いことには、ジェームズ王子は弟の絵を見てすぐに、それをオフィリアだと言い当てた。
 一方、オフィリアが描いたのは、実にリアルなピーナッツの絵だった。いわく、ジョージ王子を抽象画で表現したらしい。タイトルはもちろん、「ピーナッツ」。これにはジョージ王子も不満を露わにオフィリアに詰め寄った。
「遊びじゃないんだぞ」
「この芸術が判らない? 曲線が、ジョージの顎とまったく同じだって、どうしてわからないの?」
「はあ!? どこが」
「貴方こそ、あの三角と丸は何なのよ。子どもの落書きのほうがまだマシ」
「あのなあ、抽象画っていうのは、俺様が描いたようなのを言うんだよ。兄上は判ってくれた」
「なるほど、貴方達、グルなのね。こんなの認められないわ。私のピーナッツの方がよっぽど芸術的だわね!」
「言ったな、今、言ったな! 俺じゃなくて本当はピーナッツを描いたんだろう!」
「ええそうよ、悪い!?」
 ジョージとオフィリアは、こうやっていつも喧嘩する。こういうとき、ジェームズは面白がって仲裁に入らないので、間に入るのはいつもユイリアの役目だ。

「二人とももう止めて。言いたいことをそれだけ言い合えばもう十分でしょう」
「まだ決着がついてない」
 と、口を尖らせるジョージに、オフィリアもプイとそっぽを向く。
「では私が決着をつけます。断言します。ジョージは手抜きです。そして、オフィリアはピーナッツを描いています。さあ、お互いに仲直りの握手を」
「子どもじゃないのよ、イヤだわ」
「じゃあどうしてピーナッツを描いたりしたの、オフィリア」
「それは……」
 言い淀むオフィリアに、ユイリアが諭して聞かせる。
「わかるわ。二人とも、相手のことを描くのが気恥ずかしかっただけなのよね。さあ、仲直りの握手を」
「恥ずかしくなんか!」
「丸と三角」
「私だって」
「ピーナッツ。二人とも言い訳はできないわよ。絵の才能は十分にあるって、みんな知ってるんですからね。さあ、仲直りの握手を」
 観念して、ジョージとオフィリアは握手をした。と、言っても、嫌そうに互いの手の先をちょっと握ってすぐに放した。しかもオフィリアは、その手をスカートで拭った。
「今、拭っただろ」
 だが、オフィリアは走り去る。
「ジョージ殿下、妹の非礼をお詫びいたします。どうかお許しを」
「別にいいけど。夜のダンスの相手は、ユイリアがいい。オフィリアには、ルークと組むように言ってくれないか」
 一部始終を傍で聞いていたルークは不満顔だ。
「ルーク様、このような事情なので、妹の気持ちが治まる一晩だけ、オフィリアの相手をお願いできないでしょうか」
 ルークは内心、がっかりした。ユイリアと一緒に踊れることを楽しみにしていたのだ。だが、紳士として断ることはできない。
「わかりました、お任せ下さい」


 ほお、どのような夜になるか楽しみだな、と、ジェームズ王子が一人、ほくそ笑んだ。




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