シャインとシャドウ 2話10
弟のジョージ王子は、ジェームズ王子と違って率直だ。
「いい匂いがする」
と、人目をはばからずにユイリアを引き寄せて、鼻を近づける。
シャンデリアの煌めく広間には、フルレンクスのドレスとタキシードを身に付けた紳士淑女たちの中に、オフィリアとルークがいた。広間の向こうで何が起こっているかを全て知った上で、ルークは努めてユイリアの方を見ないようにした。
「カモミールです」
「へえ」
ジョージ王子は頬をほころばせたまま、ユイリアの背に手をかけて、頭を垂れた。そんなジョージを、ユイリアは弟のように思っている。
ユイリアは優しく微笑み返して、左手をジョージ王子の肩にかけた。それから差し出されたジョージ王子の手に反対側の手を重ねて、肘を張り、クローズドプロムナードの姿勢をとった。
ヴァイオリンの軽やかなスタッカートに合わせて、素早く、鋭いステップで、ジョージ王子がユイリアをくるりと回した。アスターシャの伝統舞踏は、ブルックリンで主流のワルツとは異色の、キレのある直線的なダンスだ。ステップの一歩一歩にアクセントがあり、素早く踏み込みながら互いの足を交互に絡み合わせる。ともに踊る男女の距離が近いので、会話をすれば相手の耳もとで囁き合うことになる。
このアスターシャの伝統舞踏を、ブルックリンで踊りこなせる者は少ないが、他のペアが足をぶつけたり、転びそうになったりする横で、ジョージ王子はいとも容易くユイリアをリードしてみせた。他のカップルの間を抜けて、広間の端から反対側の壁まで、素早いステップで左右に体を切り返し、時折ターンを混ぜて滑るように翔けて行く。
そんな二人を、他のカップルたちがぎょっとして見つめる中、ユイリアはジョージ王子のダンスの上手さに感心して微笑んだ。これだけ素早い動きでステップとターンを繰り返しても、二人の体のコンタクトポイントは少しも離れることなく、ユイリアは柔らかく包まれている感じがした。
「お上手ですね」
バックランを終えてから、コントラチェックでユイリアを背後に大きく伸びあがらせ、床につくほど寝かせたポーズでジョージ王子は動きを止めた。そうして、そのままの体勢でユイリアを真っすぐ見下ろしながら含み笑いを漏らした。
「まあ、第二王子ですから、これくらいは」
と、一言。
それを聞いてユイリアは、ジョージ王子らしいな、と思った。ジョージ王子がこのように、ひねた物の言い方をするのは、兄のジェームズ王子の影に潜んで、第2王子としての立場から逸脱することなく育ってきたからだ。ブルックリンのためにジョージ王子は兄を支え、兄よりも前に出ずに、慎み深く後ろで控えている。そんな風に育ってきたから、何かを褒められても、それを己自身の努力の結果としてではなく、「第2王子だから」、と置き換える。
けれどユイリアは知っていた。ジョージ王子は時に、兄のジェームズ王子より忍耐強く、勤勉な努力家だ。しかもそのことを、決して誇ったりはしない。だからユイリアは、ジョージ王子にはいつも敬意を払っている。
「ジョージ殿下がいれば、兄上は心強いでしょうね」
「それはどうかな。兄上がヘマをしたら、その時は俺が王になる」
ユイリアをポーズから引き起こしながら、ジョージ王子は拗ねた子どものように呟いた。そんなジョージ王子を、ユイリアは笑って優しく抱きしめた。
「それは結構。ジョージ殿下も王の御心を継ぐに相応しいお方です」
「本気で言ってるのか?」
「もちろんです。けれど聡い貴方はもうご存じのはず、時には、王を支える者の方が強くなくてはならないことを」
「ああ、わかってるよ、ユイリア」
ジョージ王子は再びユイリアを迎えて、手を組んだ。そのまま、スロー、クイック、クイック、スロー。床を滑って、ユイリアを美しいクローズドプロムナードポジションに導いた。ユイリアの体のストレッチがとても美しいので、周囲の視線が自然と集まった。
「それなのにお前は、もうじきこの国からいなくなってしまうんだな」
「どうしてそれを」
「兄上から聞いた」
「あのお喋り……」
「俺にも話してくれて良かったはずだ。幼馴染なのに水臭いじゃないか。俺は、ユイリアが社交界から身を隠しているのは、病気のせいだと思わされていたんだぞ」
ジョージ王子はそこまで言うと、踊るのを止めてユイリアの手を強く握った。
「行かせないぞ、どこにも」
「ジョージ殿下……」
ユイリアは人目を気にして、ジョージ王子をテラスに伴った。窓は開け放たれて、夜の涼しい風を通していた。
「私もこの国を支えます。離れていても私の心はいつまでも、この国とともにあります」
「けど、寂しくなる。オフィリアはどうするんだ、ちゃんと、考えているのか?」
双子のオフィリアと離れ離れになること。それはユイリアが幼い頃から、ずっと心配していることだ。けれど、離宮に来てユイリアには分かったことがある。それは、オフィリアには親しくしてくれる多くの友人がいるということ。レイモンド公爵令嬢のリネットや、アレックス、カブラギ侯子。みな温かそうな人たちだった。従兄のジェームズ王子や、頼れるオーギュスト伯爵も、きっとオフィリアの助けになってくれるだろう。それに……
「オフィリアのことを、どうかよろしくお願いしますね、ジョージ殿下」
「もちろん、わかってる」
ジョージ王子の躊躇いのない応えに、ユイリアは驚かなかった。
「けど、誰もお前の代わりにはなれない。オフィリアは、ユイリアが一緒に居ると生き生きしてる。ここに来て、他の貴族たちにお前のことを紹介するあいつは、本当に嬉しそうだ」
そうなのだ昔から。
ジョージ王子はオフィリアのことをよく見ている。いつも。
オフィリアが本当に悲しいときには傍に居て、他の誰にも言えない弱音や愚痴を聞いてくれるのはいつもジョージ王子だ。
ユイリアが屋敷に閉じこもるようになって出来なくなったことを、ジョージ王子が代わりに果たしてきてくれた。
おそらく、オフィリアの最も醜いところを知っているのはジョージだし、彼女の心の奥底の悩みを理解しているのもジョージだろう。オフィリアにとってジョージは、飾ることなく自分自身をさらけ出せる最上の友。
だが、もはや二人の互いを思う感情は友情だけにとどまらないのではないか、と、ユイリアは思った。そうであって欲しいと願った。
とりわけオフィリアは、まだそのことに気づかないようにしているようだが。
「兄上と結婚するのは、ユイリアだと思っていたんだ」
「御冗談を」
「ユイリアを国から出すのは、兄上と結び合わせないための陰謀なのかと」
「いいえ、それは違います。私の使命は、生まれる前から決まっていました。それにジェームズ王子と私が恋仲になったことなど、一度もありません。ジョージ殿下もそのことをよく御存じのはずです」
「興奮した女はよく喋る……そういうところ、オフィリアにそっくりだな」
ジョージ王子はそう言って茶化したが、ユイリアは真剣だった。
「そのようなことが、間違ってもアスターシャの姫君の耳に届いては大変なことになります」
「これは俺独自の見解だが、兄上は少なくともお前のことを、妃に不足なしと考えていたと思う。もし自由に恋をしていい立場にあったなら、他国の姫など……」
ユイリアはジョージ王子の口を塞いで指をあてがった。
「そのようなことを仰るのは、ジェームズ王子とフローラ姫に対して礼を失しています。ジェームズ殿下は心からアスターシャの姫君フローラ妃を愛されるでしょう。その愛に、フローラ妃がお応えにならないはずはありません。私たちはそのために、力を尽くして姫君を迎える準備をしているのではありませんか。ジェームズ殿下の最も近くに居る貴方様がそのようなお気持ちを抱いているとするなら、たとえ口を閉ざしていてもそれは姫君に伝わってしまいますよ、ジョージ殿下。どうかお考えをお改めください」
だが、ジョージ王子はムキになって、懇願するようにユイリアを見つめた。
「愛する者を失って、他国の、見ず知らずの者を近くに迎え入れる。それがブルックリンのためだというなら、そんな国は滅びてしまえばいいのさ!」
「ジョージ殿下!」
「はっきり言うが、俺はこの結婚には納得できない」
こんなことが他に漏れては大変なことになる。ユイリアはジョージ王子をテラスの脇の長椅子に座らせると、自分はその膝元に跪いて身を低くした。
「ジョージ殿下、恐れながら申し上げます。貴方様が私を慕って下さっているのと同じく、フローラ姫もアスターシャ国の民と家族から慕われていることでしょう」
「何が言いたいんだ?」
ジョージ王子は腕組をしてユイリアを見下ろした。怒っているようだが、ユイリアは怯まない。
「貴方様が私を慕って下さるのは、私のことをよく御存知だからです。それと同じように、これから重ねるフローラ姫との時間の中で、姫のことをよく知れば、きっとジョージ殿下はフローラ姫を家族として愛するようになるはずです。どうか、御心をお治めください」
「じゃあ、お前はどうなる? どこへ行き、誰に愛されて生きる。俺たちの元から離れて、一体どこへ……」
突如、ジョージ王子が涙を忍んで真摯に問い掛けてきた。
だが、ユイリアはそれに答えることができない。
どこへ行くのかは分からない。
誰かに愛され、誰かを愛することができるのかも、分からなかった。
「俺はそんなのは嫌だ。ずっと俺たちの傍にいて欲しい」
そこまで言って、ジョージ王子はこらえきれなくなったように、一人でテラスから園庭に出て行ってしまった。
ユイリアは呆気にとられて、その場に取り残された。
そのとき、初めて実感したのだ。己がこの国からいなくなることで、悲しむ人がいるということを。苦しいのはユイリアだけではない。納得がいかず、心を痛めている者がいて、悲しんでいる。そのことが、ユイリアにはとても悲しかった。
不意に抑えようもなく、涙が出た。
ジョージ王子はテラスの階段に座り、一人で暗い園庭を眺めて気持ちを沈めていた。兄姉のようにして育ったユイリアが、大好きだったのだ。幼い頃から、兄のジェームズと結婚するのはユイリアだと思っていた。そんな二人を尊重してきた。
「泣いているの?」
赤いドレスの裾が視界の端に入って、ふわりと隣に腰掛けてきたのは、もう一人の幼馴染だ。
「泣いてなんかいないさ」
と、ジョージは鼻をすすった。何も言わずに差し出される香りの良いハンカチを、無言で受け取る。
「シャドウと話をしてくれたんでしょ」
「その呼び名を使うのはやめろよ、俺の前ではな」
「何て言ったの、ユイリアは」
「ジェームズの妃になる気持ちが、あいつに少しでもあればな……この国から奪われるのを止められたかもしれない。だが、そんな気はないようだ」
「そう……」
ユイリアがこの国からいなくなってしまう。なんとかそれを食い止められないかと、ジョージとオフィリアは考えを巡らせてきた。
「どうしてお前は泣かないんだ、オフィリア。悲しくないのか」
「悲しいわよ。小さい頃からずっとね。涙も枯れるほど、泣きつくした。――これから私一人でやっていけるはず、ないのに。どうしよう……」
ジョージとオフィリアは、どちらともなく手を繋いで、エントランスの階段の隅で肩を寄せ合った。
「ルークの方はどうだった?」
ジョージの問いに、オフィリアは口角を上げてジョージの肩に頭をもたせかけた。
「オーギュスト伯爵は頼りになるかもしれない」
「ユイリアに、本気なのか?」
「そう思う。それに、ユイリアも伯爵に好意を抱いていると思う」
「確信あるのか?」
「私たち、双子の姉妹なのよ」
と、無邪気にウィンクを投げてくる赤色の幼馴染に、ジョージは見とれる。濡れた瞳が流れ星みたいだな、と思ったが、それ口に出すことはなかった。
シャンデリアの煌めくダンスホールで、ルークは待っていた。ジョージ王子と何の話をしていたのかは、全く想像できなかったが、その内容がユイリアにとって大きなショックを与えたことは確かだった。彼女の気持ちが落ちつくまでは、近づいてはいけない気がした。他の誰かが、たとえばジェームズ王子や、カビオリ侯子やレイモンド公子が、ユイリアの様子に気づいていることは明らかだったが、彼らが彼女に近づかないように、オーギュスト伯爵は抜かりなく計らった。
先ほどの会話の内容を聞くのは下衆なことだと思い、ルークはピンクフルーツの発酵ジュースを手に、ユイリアの元に歩み寄った。
ユイリアの睫毛が、まだ涙で濡れていることにルークはすぐに気付いたが、努めて明るく会話を切りだした。
「妹君に、足を蹴られました」
だが、無反応だ。
ルークはユイリアの隣に浅く腰かけて、グラスを差し出した。
「ジョージ殿下は大丈夫です。オフィリア嬢が様子を見に行きました」
ユイリアははルークからグラスを受け取って、顔を上げた。
「お怪我はありませんでしたか?」
「大丈夫です。あるとしても、ちょっと貴女には見せられないところです」
と、ルークは笑った。ユイリアもルークに合わせて笑おうとしたようだが、その微笑みにはやはり元気がなかった。だから、ルークは最初の考えを改め、いさぎよく下衆な手段に出た。
「ジョージ殿下と何をお話していたのですか」
「たわいもないことです」
「嘘だ。言ってください」
もちろんユイリアは淑女だ。他人との会話をよそに漏らしたりしないことは、ルークにも最初から分かっていた。
「泣いていたのはどうしてですか」
「ルーク様、貴方はいつからそれほど率直になられたのですか」
嫌そうにかぶりを振るユイリアに、尚もルークは引き下がらずに言った。
「一体、ジョージ殿下は、どんな酷いことを貴女に言いましたか」
「ジョージ殿下は、この国から間もなく私が去るのを悲しく思ってくださったのです」
「それで、泣いたのですか」
「はい」
「わからないな。貴女がそれだけで涙を流すとは思えないな」
「私は物心がついた頃から、自分の使命について理解してきました。でも、そのことで他に、苦しむ人がいるということを、これまで理解していませんでした。彼らに何も残すことができないのが、悲しいのです。いっそ家族が私のことを忘れ去ってくれれば気持ちが楽になるのかもしれません。先ほどジョージ殿下から、私はどこへ行き、この先誰に愛されて生きるのかと問われました。私のことを案じてそのようなことを聞いたのだと思います」
「それでなんと答えたのですか」
「何も答えられませんでした」
その瞬間、ユイリアの瞳からまた涙が溢れだした。
すかさずルークがハンカチを差し出す。
「きっとこうなるから、魔女は私を屋敷に閉じ込め、誰にも会わないように言ったのです。外に出て知り合えば、別れの時に人々を苦しめ、私自信の信念さえ揺らいでしまうからです」
「僕に何かできることはありますか」
ユイリアは差し出されたハンカチを受け取って、その端で少しだけ涙をぬぐった。
「全てを捨ててこの国を出て行く勇気を、できれば私にください」
ルークがユイリアの言ったことを聞いてニヤリと笑った。怪盗であるラッフルズにとって、形の無いものを求める女性は不思議な魅力に満ちていた。
「考え方を変えてみたらどうですか。捨てるのではない、守るために一時離れるだけだと」
「そうですね。でも、一時で済まないかもしれません。戻って来られないかも」
「僕が連れ戻します」
と、何でもないことのようにルークが言った。
「貴女がどこへ行こうと、僕は必ず見つけだし、そしてこの国に連れ戻します」
呆気にとられて見つめるユイリアに、ルークは少しも揺らぐことのない真っすぐな視線を返した。
「あの薔薇のメッセージを覚えていますか?」
「はい」
「だから、何も心配はいりません。僕は命をかけて、貴女が守るものを守る。――僕を信じますか、ユイリア」
ユイリアには、彼が語ることは、信じるに値するものだと思えた。
「はい」
願いではなく確信をもって、ユイリアは返事をした。
「そのために私には何ができますか、ルーク様」
「僕を信じてくれること」
「それだけですか?」
「はい」
ルークは瞳を輝かせて笑った。
そんなルークの顔が、次の瞬間、真っ暗になって閉ざされた。
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