シャインとシャドウ 2話14
フローラ姫の友を選別する日々も今宵で結びとなる。
これまで、食事、剣、踊り、絵画、乗馬と様々な課題が与えられ、貴族たちはその教養と技を試されてきた。
だが、一流の宮廷使用人たちが王から委任されたその真の目的は、王の心に叶う貴族を見定めることだった。
誰にも分け隔てなく接する優しい心。
王への全き忠誠と勇気。
危機に直面してもゆるがない、気高さ。
貴族はその国の骨格を成す存在だ。
だから王は求める――彼らが心を尽くし、思いを尽くして民を守り、正しく導いていくことを。
そのためにこそ貴族には特別な財と権力が与えられているのだ。
ブルックリンの貴族は、ただ道楽にふけり、努力もせずに人を使役するものであってはならない。
代々、ブルックリン国王は脈々と同じ心を受け継いできた。それは次期国王となるジェームズ王子も例外ではない。
そして未来のブルックリン王妃となるアスターシャのフローラ姫にもこれから継いでいかなければならないものだ。
――だからこそ。
姫の友となる貴族たちが王の心に叶う者であることが重要なのだ。フローラ姫がこの国の在り方を、友との関わりの中で学び知ることができるように……。
すでにジェームズ王子は、宮廷使用人たちからの報告書を受け取っていた。
離宮で過ごした貴族たちが、どのような発言をし、行動をしたのか。その報告書には、朝の身支度から就寝まで、日々の貴族たちの暮らしぶりがどんな些細なことも事細かに綴られたうえで、最後に宮廷使用人からの評価が添えられていた。
オルランド男爵令子は節度の面で再教育が必要……、バロック公爵令嬢は謙遜の心を養う必要があります……、ミトロン伯爵令子は言動の正確性において再教育が必要……、と、厳しい評価が目立つが、そんな中でジェームズ王子の目を引く評価を得た者が数名いた。
―― 気高く賢い心
―― 適格な判断力とリーダーシップ
―― 打ち砕かれた誉れにも屈せず、王への忠誠を失わない
―― 太陽のように明るく、公平。(ただし、やや奔放)
―― 自制と謙遜を兼ね備えた淑女
―― 誠の勇気と優しさ
すべての報告書に無表情に目を通し終えてから、ジェームズ王子はそれを選り分けた。
この国を担っていく次世代の貴族たちは、ジェームズ王子自身を含め、まだ不完全ではある。だが確実に、王の心を自らとともに継ぐ者が育っていることにジェームズ王子は力を得た。彼らは未来のブルックリンを担っていく友でありまた、伴となる者たちだ。
ジェームズ王子は彼らの名を自らの胸に刻んだ。
ユイリア・ロザリンド・ハイエネス・コムストッグ公爵令嬢――通称、シャドウ
ルーク・アレクサンドル・ダラハン・オーギュスト伯爵――またの名を、怪盗ラッフルズ
アスラン・アジク・ダン・カビオリ侯爵令子
オフィリア・ローズ・ハイエネス・コムストッグ公爵令嬢――通称、シャイン
リネット・リン・ラファエロ・レイモンド公爵令嬢――通称、レモン姫
アレックス・リアム・ラファエロ・レイモンド公爵令子
離宮の大広間には今宵、管弦の楽器が並べられ、美しく着飾った貴族たちが最後の課題を受けるために降りてきた。
シャインの深紅のドレスに身を包んだユイリアは、マゼンタに髪を結ってもらい、いつもは肩から腰元まで垂らしている長い銀髪を、今宵はハイアップに纏め上げていた。デコルテを美しく露出させたオフショルダーの大胆なカットのドレスは、スカート部分の裾に一段絞りが入って、ふんわりと柔らかなプリンセスラインを浮き上がらせている。フリルや刺繍のないシンプルな仕立ての中で唯一、ウエスト部分にダイヤモンドを星屑のように散りばめた菱形模様があしらわれて、それがベルトのようにウエスト部分を引き絞っているので、バストから腰元にかけて女性らしいラインを強調していた。
ユイリアが歩けばその深紅のドレスはエレガントに広がって人々の目を一層惹きつけた。
階下の大広間に入っていったとき、その姿はいつになく人目を惹いた。
「シャイン公女、今宵はいつになくお綺麗ですね」
「なんて見事なドレスなんでしょう」
令嬢令子たちがあちらこちらで噂を始める中、だが、双子と縁の深い何人かの者はすぐにそれがシャドウであることに気づいた。
ジェームズ王子はいうまでもなく、ジョージ王子やジェレミー王子、それに宮廷使用人たちの中にも気づく者があったが、ユイリアがそのような恰好をしているのは何か理由あってのことだろうと悟り、あえて皆に「あれはシャドウ公女ですよ」と訂正することはなかった。
そんな中、第二王子のジョージがユイリアに近づいてきて、おもむろに口を開いた。
「どうしてオフィリアのドレスを着ているんだ?」
周囲の者に聞き取られそうだったので、ユイリアは慌ててジョージ王子の口を指先でふさいだ。
「しー、今夜は私がシャインです。どうかそのように振舞ってください」
「はあ……?」
ジョージ王子が口を半開きにしたまま見つめてくるので、ユイリアは思わず笑いだしそうになってしまう。
ユイリアでさえ、シャインの恰好をしていることに多少の動揺があったのだ。しかも、これほど大胆に肌を露出させたドレスを着るのも初めてのことで、自分がとても滑稽に思えた。
「やはり、従弟は騙せませんね。私がシャインではないと、もう見抜かれてしまうなんて」
「そりゃそうだろう、……綺麗すぎるんだ」
そしてジョージ王子は心配そうに眉をひそめた。
「そんな恰好で出歩いて、今夜はルークがいないんだろう? 誰か伴をしてくれる紳士はいるのか? 俺でよければ、」
「ご心配には及びません、今宵はシャインとしてエドワード子爵にご一緒させていただく予定です」
ユイリアの言葉に、ジョージ王子は表情を失った。
伴を断られて傷ついたというよりも、何かに気づいたようだ。
「何を企んでる?」
と、すぐに新たな質問がくりだされる。
「ジェームズ殿下の命なのです、彼を見守るようにと」
「危険はないんだろうな」
「はい、大丈夫です。それよりも、ジョージ殿下、貴方に折り入ってお願いがあるのです」
「なんだ」
「もうじきオフィリアがシャドウとしてここに降りてきます。オフィリアを、いえ、今夜限りのシャドウの面倒をお願いできないでしょうか」
ユイリアのこの求めに応じて、ジョージ王子がわざとらしく大袈裟にため息をつく。
「容易いが……あいつに果たしてユイリアの代わりがつとまるかな」
そう言いながら、ジョージ王子はユイリアを優しく抱き寄せた。
「わかったよ、任せてくれ。ただし、――無茶はするなよ、ユイリア」
ちょうどそのとき、少し遅れてオフィリアがどこか不安そうに大広間に入って来たので、ジョージ王子がすぐに進み出て、その手をとった。
オフィリアは、何と言ったらいいのか分からないといった顔をして無言でジョージ王子を見つめている。
「事情は聞いたよ。せいぜいボロが出ないように今夜は頑張るんだな。俺がお前の伴をしてやるんだから、大丈夫だ」
肌の露出の少ない、ユイリアのシンプルな青いドレスに身を包み、いつもはアップにしているブロンドの髪を今夜は腰元までゆったりと垂らしているオフィリアもまた、美しかった。
「なかなか似合ってるじゃないか。」
「姿はごまかせても、一言でも喋ったらきっとシャドウじゃないってバレてしまうわ」
「じゃあ喋るな。二人で黙々とグランドハープの練習でもしようじゃないか」
そう言って楽しそうに笑みを零すジョージ王子の横で、オフィリアは静かにため息をついた。珍しく緊張しているようだ。
一方、ジョージ王子が無事にオフィリアを引き取ってくれたことを見届けたユイリアは、いよいよシャインとしてエドワード子爵の元に歩みを進めるべく気持ちを奮い立たせた。
その一部始終を見守っていたジェームズ王子はいま、王宮使用人の一人に耳打ちして、秘かにカビオリ侯子アスランとレイモンド公子アレックスを急いで呼び寄せるように指示を出した。
さて、ユイリアはヴァイオリンを取り上げて、慣れた手つきでそれを左脇に抱えると、エドワード子爵の前に堂々と進み出て、大胆に膝をかがめて挨拶をした。
「御機嫌ようエデワード子爵様! 今宵は是非とも、貴方様からヴァイオリンのご指導をいただきたく存じます」
「これはこれは、シャイン公女。ご機嫌麗しく。ですが、僕からご指導とは、はて……」
「まあ、ひどい! お忘れになりましたか? 以前舞踏会でお話していたじゃありませんか! ――貴方様はヴァイオリンの名手なのだと。だから機会があれば、いつでも私に手ほどきをしてくださると、それはもう鼻高々に仰って、お約束したじゃありませんか!」
大袈裟ともとれる身振り手振りで迫られて、エデワード子爵が困ったように周囲に視線を走らせた。
「ああ、もう、わかりました、わかりましたから。どうかお声を静めてくださいシャイン公女。皆が見ているではありませんか」
グランドハープの前で、オフィリアが不満そうにつぶやいた。
「私あんな感じかしら? あそこまで厚かましくはないと思うのだけれど……」
「いや、まさしくあんな感じだぜ。むしろ本物よりも本物らしいくらいだ、あいつ本当にすごいな、あれじゃ見分けがつくわけない、ククッ……」
ジョージ王子が口元を抑えて笑いをかみ殺している。
エデワード子爵は周囲の注目を浴びてしまっていることに赤面しながらも、努めて紳士らしくユイリアに頭を下げた。
「僕で良ければ、謹んでご指導役にあずからせていただきましょう」
「そう仰ってくださると思っていましたわ!」
ユイリアは小さく飛び跳ねて、エドワード子爵の腕にしがみついた。
「噓でしょ、もう、……最悪」
人知れずオフィリアが頭を抱えている。
「お前、本当にあんな感じだよ」
「あそこまで酷くないでしょう」
「いいや、あの通りだ。これを機に、普段の自分の行いを顧みることだな」
と、ジョージ王子が冷ややかになじった。
同じころ、ジェームズ王子の横に控えていた第三王子のジェレミーが心配そうに兄に囁いていた。
「あの茶番は、なに? ルークが見たらブチ切れるんじゃない」
「黙ってろ、ジェレミー。何も言うんじゃない」
大広間が混んできたので、エドワード子爵はユイリアを窓際までエスコートした。
「良い音は、姿勢からです。では、構えてみてください」
「見本を見せてくださいますか?」
「いいでしょう」
ユイリアに並んで、エドワード子爵がすぐにヴァイオリンを構えた。それを見て、ユイリアもヴァイオリンを構える。
「いいですね。足を肩幅に開いて、左足を少し前に出して」
ユイリアはドレスの裾を少し持ち上げて、律儀にも言われた通り左足を少し前に出していることをエドワード子爵に見せた。
その仕草が少女のように無垢で可愛らしいので、エドワード子爵がクスリと笑みを零した。
「脇を開いて、手首はまっすぐに」
「こうですか?」
「綺麗にポジションがとれていますよ。それから肩に乗せたヴァイオリンに頭をもたせかけて。決して力まず、頭の重さを自然に預ける感じです」
言われた通り、ユイリアはヴァイオリンの上に頭をもたげた。
「そうです。背筋はまっすぐに、リラックスしてください」
ユイリアの周りをぐるりと回ってみて、エドワード子爵は頷いた。
「とても綺麗な姿勢です。では次に、弓を構えてみてください。こうです」
鏡合わせに向かい合って立って、エドワード子爵が見本を見せてくれた。ユイリアも同じように構える。
5本の指で丸く包むように弓を持ち、手首から肘、肩までが平らになるように真っすぐに……。
すると、エドワード子爵がユイリアの腕に軽く手をかけて上下にゆさぶった。ユイリアの腕は抵抗なく柔らかく揺れた。
「力みのない、良い構えです」
褒められて、ユイリアがニコリとほほ笑む。つられてエドワード子爵も笑う。
「G線のソからE線のシまで、順に音階を弾いてみてください」
ユイリアにとって、それは難しいことではなかった。ヴァイオリンはユイリアの得意な楽器の一つだ。
「こうですか?」
4本の弦の上で指を変えながら、一音ずつゆっくりと音を上げていく。
最後に一番高音のE線のシの音を弾き終わったとき、エドワード子爵が関心したようにユイリアを見つめた。
「G線をしっかり出せていることも見事ですが、E線をこれほど豊かに柔らかく響かせることができる方はなかなかいません。お上手ですねシャイン公女」
「教えてくださる方がいいのですわ」
「これならすぐに演奏に入れそうです。何か一緒に弾いてみませんか?」
「喜んで!」
「たとえば、これなんかどうでしょう。僕の故郷の田舎曲ですが」
そう言って、エドワード子爵がG線の低音から静かにメロディー紡ぎ出した。
ブルックリンの南の国境を警護するエドワード子爵は、カビオリ侯爵領と並んでエドワーズ地方に領地を構える貴族だ。
エドワーズ地方は果てしのない草原と緩やかな丘陵が続く広大な自然の中にあり、民はそこで遊牧を行って生活をしている。
エドワード子爵が奏でる曲は、その地に古くから伝わる、遊牧の民から生まれた歌で、――『助け手』という曲だった。
オフィリアから聞いていた事前情報の通り、どうやらエドワード子爵がヴァイオリンの名手というのは本当のようだ。
今エドワード子爵が紡ぎ出す弦の音に耳を傾けながら、ユイリアは草原を吹き抜ける風の匂いを感じられるような気がした。
音に色や香りがある。生きているみたいに、奏者の思い描く景色がそのメロディーから伝わってくる。
穏やかな田舎暮らしは、決して裕福ではないのだろう。曲の中から、そんな素朴さが伝わってくる。
だが日毎の糧を大地から恵まれ、厳しい自然の中で人々は助け合いながら、感謝しながら暮らしている。
土地を耕し、家畜の世話をする民の手は土で汚れ、日に焼けて黒くなっているが、その手の働きはなんと尊いことだろうか。
へりくだった人々の営みがそこにあり、そんな営みの中で生まれた歌だから、その曲が、生きることは尊い、尊いと訴えかけてくる。
ユイリアの胸が熱くなった。
同じようにいま曲を奏でるエドワード子爵も思っていることが、ユイリアにも感じられた。
――この方は、民の生活をよくご存じなのだ。
そうでなければこんなにも心に迫る演奏ができるはずはない、とユイリアは思った。
ユイリアには、目の前でこんなに素敵にヴァイオリンを奏でるエドワード子爵が、とても悪い人とは思えなかった。
だとしたら、彼が正体を偽っているのはどうしてなのだろう……。
曲調はゆっくりで、流れもシンプルだ。その素朴な主旋律がとても切なく響き渡り、大広間にいる他の貴族たちが耳をそばだて始める。
やがてユイリアは、エデワード子爵の主旋律に合わせて、一音高い副旋律を奏で始めた。
音はエドワード子爵の低音に重なり、途端に広がって、世界がより鮮やかに色づく。
宮廷使用人たちは足を止め、広間にいた他の貴族たちは、二人の演奏をもっとよく聞こうとして近づいてきた。
歌うように、囁くように、その音色は確かな力強さを持って、聞く者の心を打ったのだ。
教養のある幾人かの者は、その曲に乗せられている歌詞を思い、さらに感慨を深めた。
――芽吹きの春、収穫の秋、焼けるような夏、忍耐の冬。季節が巡るように喜びも悲しみもやってくる。
私が打ちひしがれ、心も魂も弱りはてたとき
困難に見舞われて負い切れないほどの重荷を負うとき
私は黙して、ここであなたを待つ
あなたが私の隣に来てくれるまで
――荷を担いで、悠久の時を歩み続ける。
あなたが私に肩をかし、引き上げてくれるので
私は山の頂にさえ立つことができる
耕しても耕しても、また耕す日々がやってくる。けれどあなたが私の力となり、今以上の私へと成長させてくれる
だから私は黙して、ここであなたを待つ
あなたが私の隣に来てくれるまで……――
曲の盛り上がりでは、山の頂から雲を見下ろすように高く、高く、音が伸びる。
まるで大鷲が空を羽ばたくように、高く、力強く、音が昇っていく。
やがてそれは静かに大地に舞い降りてきて、また片田舎の静かな日常に戻っていく。
旅人が、生まれ育った故郷に帰ってきて、その豊かな大地の匂いにほっと胸をなでおろすように、曲は静かに幕を閉じる。
これほど気持ちよく、ともにヴァイオリンを演奏できるお相手はなかなかいない、とユイリアは思った。
なのにどうしてだろう、エドワード子爵に合わせて演奏をしながら、ユイリアには何かが引っかかった。
演奏は素晴らしいのに、エドワード子爵の紡ぎ出す音はどこか悲しげで……。苦しそうだ。
エドワード子爵とユイリアが弓を下ろすと、周りにいた令嬢令子たちがこぞって拍手を送ってくれた。
だが、何故かエドワード子爵はもう、少しも笑顔ではなかった。
「本当に、素晴らしい演奏でした。どうやら僕が貴女に指南できることはなさそうだ、すみません、僕はちょっと……」
「エドワード子爵様?」
「すみません、僕はこれで失礼します、シャイン公女」
周囲の人だかりを押しのけて、エドワード子爵はヴァイオリンを投げ出すと、そのまま一人でテラスから外に出て行ってしまった。
「お待ちください、エドワード子爵様!」
ヴァイオリンを持ったまま外に飛び出したユイリアは辺りを見回した。
外はすでに暗くなっていた。
フェニキアバラの咲き誇る王の庭園には、外灯がところどころにあり足元を照らしてくれるが、
大広間の煌びやかな輝きの中から出てくると、そのうす暗さに目が慣れるまでしばらくかかった。
何か言いようのない胸騒ぎを覚えて、ユイリアはエドワード子爵を探して駆けだした。
そうして、どれだけ探し回っただろうか。離宮の明かりが遠く離れ、辺りが静寂に包まれている。
この広い庭園の中を、これ以上探しても見つけ出せないかもしれないと諦めかけたとき、光の届かない天使の石像の影に、ようやく人の気配を感じて、ユイリアはゆっくりと近づいて行った。
その暗闇の中で、エドワード子爵が地面に伏して両手を堅く握り合わせているのが見えた。
「神よ、お助け下さい。とても私には負い切れない重荷です。どうか私を助けてください。助け手を、助け手をお送りください……」
祈っているのだ。
だが、何故?
伏したまま、声を震わせて、なりふり構わず祈り続けるエドワード子爵の姿に、ユイリアは胸が傷んだ。
今、彼を一人にしていてはいけない、という気がした。だから、ユイリアはドレスの裾を持ち上げて静かに歩み寄ると、エドワード子爵の隣に跪いた。
不意に近づいてきた気配に気づいて、エドワード子爵がハッとして顔を上げた。
涙に濡れた悲しげな瞳とユイリアの目が合う。
月明かりに照らされて自分を見つめる美しい乙女の姿に、一瞬、エドワード子爵はそれが神から遣わされた天使なのではないかと錯覚した。
「ああ……、シャイン公女」
慌てて取り繕おうとするエドワード子爵に、ユイリアは優しく微笑みかけた。
「私はシャインではなく、姉のシャドウです」
「……え、でも、さっきまで……」
「実は、シャインの振りをして貴方に近づきました。貴方は、本物のエドワード子爵様ではありませんね?」
真をつかれて男は言葉を失った。どう言い逃れをしようかと瞬時に思考を巡らすが、だが。
その真っすぐな瞳に見つめられると、嘘をつくことはできないような気がした。そう悟ったとき、こらえようもなく涙が込み上げてくる。
本当は誰かに見抜いてもらいたかったのかもしれない。
助けてほしかったのだ。
秘密が破られたことに安堵して、見苦しいとわかっているのに、男は嗚咽を漏らして激しく泣きはじめた。
――もう、ここまでだ。これ以上は無理だ。
ユイリアは男の肩に手をのせて、優しく語りかけた。
「貴方は誰ですか?」
抗うことはできなかった。
「エ、エドモンド。僕は、エドワード子爵の弟の、エドモンドです」
「本物のエドワード子爵様はいまどちらに? ご無事なのですか」
ユイリアの声は優しく、静かだった。
本物のエドワード子爵ではないと真をつき、それに対して弟のエドモンドだと告白しても動揺の色を見せない。
それどころか、兄のエドワードの身を按じる冷静さを兼ね備えているこのご令嬢は、一体何者なのだろうとエドモンドは不思議に思った。
ユイリアと話していると気持ちは落ち着いて、いつの間にか涙がひいていった。
「兄は、……兄のエドワードは捕らわれています。国境警備視察の日に襲撃を受けて……」
「新聞で読みました。新兵が二人、行方不明になっているのでしたね」
「その時、兄とともにいた者たちです。彼らはその場で殺されました」
新兵が殺されたという事実を耳にすれば、どんな令嬢でも驚き怖れると思ったエドモンドだったが、ユイリアは悲しげに瞼を伏せて哀悼の意を示しながらも、怖れたり動揺することはなかった。
「貴方がエドワード子爵様に成り代わっていたのはどうしてですか?」
実に的確な質問だ、とエドモンドは思った。
「連中は……、兄のエドワードを捕らえた連中は、兄を人質にして僕を操っているのです。その目的はシャドウ公女、貴女の命を奪うことです。兄のエドワードであれば、何をとられてもそんな求めには応じなかったでしょう。でも僕は違う! 家族を人質にとられれば、何でもするような弱い心の持ち主なのです。連中はそれをわかっていて……」
「それを弱いとは言わないと思います。家族を愛し、そのためにできることをしようとするのは当然のことです」
ユイリアが哀れみのこもる優しいまなざしをエドモンドに向けた。
「貴女は命を狙われているのですよ? それなのにシャドウ公女、貴女はどうしてそんなに落ち着いていられるのですか」
「もちろん、驚いています。ですが今は私がどう思うかよりも、大切なことがあります。――昨晩の刺客を招き入れたのは、エドモンド様、貴方様の仕業ですか? 刺客たちが狙っていたのは、私の他にも妹のシャインや、レイモンド公爵令子令嬢、それにカビオリ侯爵令子だと聞きました。もう一度聞きますが、命を狙われているのは本当に私一人ですか?」
「賊がレイモンド公爵家の兄妹やカビオリ侯子に近づいたのは、彼らがコムストッグ公爵令嬢に近しい者だったからです。シャドウ公女の居所を聞き出すために近づいたのでしょう。実はコムストッグ公爵令嬢のお部屋を僕が突き止めておくはずだったのですが、離宮の警護態勢が堅かったから、もたもたしている間に、オーギュスト伯爵に阻まれてすべて失敗に終わりました」
「それはお気の毒に……」
「他人事のように言うんですね。怖くないのですか」
「むしろ良かったのかもしれません。私以外の方は、安全だということですから。ところで、エドワード子爵様はいま、どちらに捕らわれているのですか?」
「このグロッグアイランドにいます。森の中に今は使われていない納屋があります。おそらく明日、ここを離れる前に要求に応えなければ、エドワードは殺されてしまうでしょう……」
「では、今から参りましょう」
「……、はい?」
ユイリアが立ち上がり、ドレスの裾を直して歩き始めたのを見て、エドモンドが目を丸くしながらも引き留める。
「ちょ、ちょっと! やめてください。行けば殺されてしまいますよ。誓って言いますが、僕は冗談で言っているのではありません!」
「一つお伺いしたいのですが、怪盗ラッフルズがエドモンド子爵邸から絵画を盗み出しましたね」
「それが、いまなんの関係が……」
「その絵画の中から1枚の地図が発見されたそうです」
「……地図?」
「アスターシャからブルックリンまでの、警備地図だそうです」
このユイリアの言葉に、エドモンドは心底驚いて声を荒らげた。
「馬鹿な! そんなものをエドワードが持っているはずがない!」
「ですが、絵の中からその極秘の地図が見つかったので、エドワード子爵様は国外のスパイだと疑われているのです」
「ああ……なんということだ。エドワードがそんなことをするはずがない。僕が自分の命に代えても証明できます、エドワードの王への忠誠に偽りはないと。今も捕らえられてなお、国境警備の秘密は漏らしていないと聞いています。奴らが言っていました、どんなに痛めつけても吐かない、と。――きっと……嵌められたんだ」
「そうであるなら、エドワード子爵様のお命が危険です。彼らはきっと、エドワード子爵様を生かしてはおかないでしょう。アスターシャの姫君の暗殺計画や、昨晩の刺客の首謀者という濡れ衣をすべて負わせて、エドワード子爵様を亡き者にしようとするでしょう。もう時間はあまり残されていないと思います」
「どうすれば……僕は、どうすればいいんんだ……」
「――私の命と引き換えになる今夜であれば、まだ助け出すことができるかもしれません」
「それは、……どいういうことですか?」
「考えがあります」
左脇にヴァイオリンを抱えたまま、ユイリアは静かに微笑んで、エドモンドに手を差し出した。
「ですから、今すぐに参りましょう。二人でエドワード子爵様を助け出すのです」
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