シャインとシャドウ 2話15
ユイリアとエドモンドの会話を秘かに聞いていた者が二人。いや、正確には三人いた。
少し前、シャドウがオフィリアの深紅のドレス姿で大広間に入って来たとき、ジェームズ王子は秘かに女中頭のエルサに命じて、二人の紳士を自分の元に呼び寄せた。そして王子はいつになく真剣な眼差して二人の紳士を近く引き寄せると、こう言ったのだった。
――「あの赤いドレスを着たお転婆娘から目を放さないでほしい」
その二人の紳士がジェームズ王子から言われたことを忠実に守り、今も息をひそめて闇の中に控えていた。
王子はこうも言った。
――「彼女を守り、彼女が戦うと決めたそのときは、どうかともに戦ってやってくれ。その成し得ようとすることがいかに無茶なことに思えても、彼女の言うことであればそれは必ず価値あることだから」 と。
ジェームズ王子からの密命を受けた二人の紳士の腰には、すでにサーベルが備えられている。
『エドワード子爵を助け出しましょう』
今、ユイリアがそう言ったのを聞いて、二人の紳士はそっと腰のサーベルに手をかけ、王子への忠誠をいまいちど嚙み締めた。
――「今宵、我が剣をそなたらに預ける。頼んだぞ、カビオリ侯爵令子アスラン、レイモンド公爵令子アレックス」
「そこにいるのでしょう?」
突如声をかけられて、アスランとアレックスがびくりと肩を震わせた。自然の中で狩りをしているときのように、自分たちの気配を完全に消せていると思っていたのだが、どういうわけか、ユイリアが二人のいる闇に語りかけてきたのだ。
「出てきてください。お話があります」
二人は束の間、互いに相手を責めるように目くばせし合ったが、だが、やがてゆっくりとユイリアの前に姿を現した。
「まあ、あなたたちでしたか」
ユイリアと目が合うと、アスランとアレックスは、これから叱られることが分かっている子どものように、黙って顔を伏せた。
「ジェームズ殿下のさしがねですね?」
「えーと、いや……それを言ってはいけないことになっておりまして」
と口走るアスランの脇を、アレックスがどつく。
「馬鹿、言うなよ……」
「私たちはこれからエドワード子爵様をお迎えに上がります。どうか、止めないでください」
「止めたりしません。僕たちは、――貴女に従うようにと、遣わされたのです」
「まあ……、そうでしたか」
アレックスの言葉に、ユイリアはかすかに驚きの表情を見せたが、やがてまた今度は別の闇に向かって語り掛けた。
「エルサ、そこにいますね?」
アレックスやアスラン、それにエドモンドが眉をひそめて顔を見合わせる間に、銀色の長服を纏った初老の女中頭が本当にユイリアの前に進み出て、頭を下げたので、令子たちはぎょっとした。
アスランが畏敬の念をこめてユイリアに説明を求める。
「なぜ……、驚いたな、我々にも気配を悟らせないとは……どうしてこの女中がそこにいるとわかったのですか、シャドウ公女」
「この離宮にきてから、エルサはいつも私の傍にいて見守ってくれていました。だから、今夜もきっと傍にいてくれると思ったのです」
魔女の託宣があってからというもの、幼いころから常に誰かがユイリアの傍に控えて、見守ってくれていた。
だからこそ、その気配をどんなときにも感じ取ることができるのは、ユイリアがこれまでの生活の中で自然と身に着けた能力だった。
そこまで言ってから、ユイリアがかすかに口元をほころばせた。
「ただし例外はあって、オーギュスト伯爵様だけは、度々エルサの仕事の邪魔をしていたようですが……」
エルサがここで初めて、控えめに口を開く。
「左様でございます。オーギュスト伯爵様はいつも私の存在に気づいていたようです。あのお方の動きは予想がつかず、お恥ずかしながらここにきて2度も、シャドウ様を見失ってしまったことがありました。一度目は最初の日の晩餐の後。もう一度目は馬場から飛び出して行かれたときで、あれには本当に、心臓が止まる思いでした……」
そう語る女中頭のエルサの内に、オーギュスト伯爵への大いなる怒りがあることを感じ取って、ユイリアが後を引き取った。
「ですがエルサ、心配はありませんでした。オーギュスト伯爵様もジェームズ殿下に言われて、私の面倒を見てくれていただけなのです」
本当は、オーギュスト伯爵の方がジェームズ王子や他の紳士連に根回しをして、ユイリアを独り占めにしていたのだが、そのあたりの事情を知るアスランやアレックスは、あえてここで口を挟むことはなかった。
もちろんジェームズ王子の方でも、離宮にいる間、ユイリアの傍にオーギュスト伯爵を置いておけば、大抵の危機は遠ざけてくれるだろうとの目論見が、ないわけではなかったのだろう。事実、オーギュスト伯爵は頼りになる男だとアスランもアレックスも思っていた。
「こんなときに、オーギュスト伯爵がおられないのはどういうことだろう。おーい!」
と、アレックスが周囲を見回した。そうすれば、暗闇の中からオーギュスト伯爵が出てくるとでも思っているみたいだ。
だが、今宵、ルークはいない。
それを知るユイリアは、素早くエルサに指示を出した。
「エルサ、夜遅くに申し訳ないのですが急いで馬を4頭用意してください。エドモンド様にはサーベルを。それから、私にはショートソードのセットを。すぐに出発します」
「承知いたしました」
一念の疑問も抱かず、エルサは小さく膝をかがめた。
それから、ユイリアの脇に抱えられたままになっているヴァイオリンをさして控えめに言った。
「それをお預かりいたしますか?」
「いいえ、持っていきます」
「では、持ち運び用のケースをご用意いたしましょう」
「ありがとう、エルサ」
――ありがとう、エルサ。
幼い頃から、この方は変わらない、とエルサは懐かしく思いながら、急ぎ足で必要な物の手配にかかった。
思い返せばコムストッグ公爵令嬢ユイリアは、言葉を話せるようになった時からすでに、あるいはその以前から、使用人への感謝をいつも口にしてくれる可愛らしいご令嬢だった。長く人に仕えてきたエルサには、彼女の口から発せられるその言葉が口先だけのものでないことがよくわかっていた。
あと何度、あのように気持ちのいい『ありがとう』を聞くことが叶うだろうか。
――18の誕生日を迎える日の朝に、かの魔女はユイリア公女を迎えに来る。
コムストッグ公爵家で双子たちの乳母をしていたエルサも、当然そのことを知ってたい。口外することのできない秘密だ。
エルサは双子の姉妹を実の娘のようにこよなく愛し、公爵家に仕えていた。だから一生姉妹のお傍にいて、お守りするつもりでいたのに、図らずもエルサを公爵家から引き抜いて離宮に追いやったのは、双子の母親であるコムストッグ公爵夫人シャーロット・エリシャ王女だった。
一体自分の何が、シャーロット様の気に入らなかったのか、エルサには今でもそれが分からない。
求めに応じて必要なものを滞りなく揃えたエルサは、静まり返った厩舎の外で主たちの見送りに出た。
ユイリアはヴァイオリンのケースを馬の鞍につけてから、深紅のドレスの上から短剣をセットした。
背中に1本、腰元に2本、左右の足に1本ずつ、計5本のショートソードを素早くベルトで固定していくユイリアを見て、
これは何か悪い夢を見ているのかもしれない、と思ったのはカビオリ侯爵令子アスランだけではないだろう。
エドワード子爵の弟エドモンドも、レイモンド公爵令子アレックスも、何か言いたそうにしながら困惑した面持ちで、ユイリアの準備が整うのをジッと見守った。
――その成し得ようとすることがいかに無茶なことに思えても、それは必ず価値あることだから。
アスランもアレックスも、もしジェームズ王子の命令がなければ、絶対にユイリアにこんな危険なことはさせなかっただろうし、すぐにもエドモンドを警備隊に引き渡していたことだろう。
「準備ができました。参りましょう」
ユイリアが地面を蹴り、ふわりとアイクの鞍に跨った。
「エドモンド様、案内してください」
その言葉を合図に、エドモンドが馬の腹を蹴ると、たちどころに4頭の馬が同じ方向に勢いよく駆け出し始めた。
「いってらっしゃいませ」
残されたエルサの声が一つ、震えて落ちた。
主を送り出し、その帰りを待つのは、使用人にとって時に心を引き裂かれるような辛い務めだ。特に、今回のように行く先に危険があるとわかっているときにはなおのこと。不安や心配がないわけではないし、共に行けたらと思うことさえある。
だが主を信じてその帰りを待ち続けることは、使用人に求められる最も尊い務めの一つなのだった。
2話(完) 3話へ続く