シャインとシャドウ 2話12



 次の日の朝、ユイリアはオーギュスト伯爵が、階下で自分を待っているような気がして早くに目を覚ました。
 だが、淑女が定められた時間を破って宮内を歩きまわるのは節度に欠けると思い直し、朝食に呼ばれるまで自室で待つことにした。昨晩の騒ぎがあった後なので、気持ちがザワついて早くに外に出て行きたい気持ちは確かにあったが、ユイリアは努めて心を鎮めた。
 こんなときでも、オフィリアはまだぐっすり眠っている。
 ユイリアはそんな妹を羨ましく思った。いつもそうだ。きっとオフィリアは今朝も、起こされるまで眠り続けるだろう。

 ドアがノックされ、シルバとマゼンタが滑るように部屋の中に入って来たのは、定められた時間の通りだ。
「今朝は皆さま、階下に降りていらっしゃるのがお早くて、使用人たちは大忙しでございます」
 挨拶も早々に、シルバがせわしなく部屋の中を見回した。
 使用人からすると、当初、予定されているよりも早くに客が動いてしまうのは、喜ばしからぬことだ。予定通りに事が運ばず振りまわされるからだ。もちろん、宮廷使用人たちは、不測の事態にも難なく対応できるだろうが、それでも、この度、離宮に招かれている貴族の子女が多いために、使用人たちの気苦労を推し量ってユイリアは気の毒に思った。
 朝、一番に主人の部屋に入って来た使用人はまず、カーテンを開き、暖炉の火を片づけ、主人たちを起こして身支度をさせる。
 シルバとマゼンタが登場したその日の朝、すでにカーテンは開かれ、部屋の中には涼やかな白い光が差しこんでいる。
 暖炉の周りは整理されて、あとは灰を片づけるだけとなっているし、ユイリアの部屋のベッドは、見苦しくないようにシーツと掛け布団が直されている。そんな様子を見てとったシルバは、ユイリアの機転に言葉を呑んだ。
 忙しい朝に、使用人たちが働きやすいように気を回してくれる主人は、なかなかいないからだ。それを、貴位の高いコムストッグ公爵令嬢が、いとも簡単にやってのけてしまうことに、シルバは畏敬の念を抱かずにはいられなかった。ユイリアのやり方はさり気なく、使用人たちに対する嫌味がない。
 シルバが頭を下げてユイリアにお詫びをしようとするのを、ユイリアは手を上げて遮ってから、額に汗を浮かべるシルバの肩に優しく触れた。
「ゆっくりでいいわ。ありがとう」
 すでに乗馬用のドレスを身にまとったユイリアは、窓辺の椅子にゆったり腰をおろして、朝露の輝く庭を見下ろした。
 そこにはテーブルと椅子が持ち出され、給仕たちが朝食を並べているのが見えた。今朝は気持ちよく晴れたから、朝食は庭園で催されるようだ。

 シルバとマゼンタは二人がかりでオフィリアを起こし、身支度にとりかかろうとした。「もう朝なの?」、とか言いながら、ベッドに戻ろうとするオフィリアを着せつけるのは、二人がかりでも大変そうだ。
 ユイリアは申し訳なく思いながらその様子を見守った。
「昨夜の騒ぎで、怪我をした者はいませんでしたか?」
「はい、皆無事でした。ここであのようなことが起こることなど、これまでに無かったことなので、一時はどうなることかと思いましたが」
 オフィリアのネグリジェを剥ぎ取りながらシルバが答えると、マゼンタも続けて口を開く。
「殿下が頼りにされるオーギュスト伯爵様は、大変、的確に素早く事態を収拾されました。今朝は、いつにも増して御婦人方に大人気です」
 なるほど、ユイリアが再び窓の外に視線を戻すと、庭のテーブルについたルークの周りに、令嬢方が席を取り合うようにして座っているのが見えた。


 やがてユイリアとオフィリアが庭園の席に赴いたとき、他の者はすでに全員が席についていて、ジェームズ王子とジョージ王子の隣だけが空いていた。
「遅かったな、席をとっておいてやったぞ」
 ジェームズ王子が手を上げて姉妹を迎える。
「時間どおりです」
「何の罰ゲームよ、これ」
 と、ユイリアとオフィリアはそれぞれ呟きながら、二人の王子の隣に座った。

 昨晩の騒ぎもあり、朝食の席は賑やかな会話とともに運んだ。

 ブリット伯爵令嬢は、命を狙われていたのは自分だと豪語して殿方の関心を集めていた。
 一方でオルランド伯爵令子は、暴徒に向かい剣を抜いたことを令嬢方に自慢している。
 そんな会話を聞き流しているのは、昨晩、本当に命を狙われたアスランやレイモンド家の兄弟、それに、刺客と戦い、王子の元に成果を治めたオーギュスト伯爵だった。

 ユイリアは昨晩の騒ぎに関する会話には加わらずに、朝食に集中した。
 テーブルには、フルーツをたっぷり盛り合わせたワッフルと、ゆで卵が並べられている。

「そんなに無口なのは、ルークを他に盗られて不機嫌だからだろう」
 と、ジェームズ王子が意地悪に微笑みながら話しかてきたが、ユイリアは熱い紅茶を口に運び、ローズの香りを楽しみながらゆっくり飲みこんだ。
 そして何も聞こえなかったかのようにジェームズ王子に顔を向ける。
「御気分はいかがですか、ジェームズ殿下」
 唐突に話題を無視されても、ジェームズ王子はちっとも堪えない。
「今さら俺様の機嫌を伺うとは。もう遅いぞ」
「とてもお元気そうで、何よりです」
 相手にもせず、ユイリアは天使のような笑みを浮かべて頷いた。もちろん、これにはすぐにジェームズ王子もやり返す。
「昨夜は、またぞの剣でルークを脅かしたそうだな。俺の大切な友に、何かあったらどうしてくれる」
「お陰さまで、昨夜は大変よく眠れました」
「なるほど、朝食に遅れて来たのは、寝過ごしたせいだったか」
「いいえ、時間どおりです」
 ピシャリ、という音が聞こえた気がした。表情は少しも崩さないが、声には棘がある。
 だが、ユイリアを怒らせるほど、ジェームズ王子は楽しそうな顔をした。
「どうする、ルークがあれだけ御婦人方に取り巻かれていては」
「何がです?」
「寂しいだろ」
 そこまで言われて、ユイリアは困ったようにジェームズ王子を見つめた。
「子どもじゃないんですよ」
「そういう聞きわけの良いところ、可愛くないぞ」
「寂しくはありません。どうしてそんなことを仰るんですか」
「強いて言えば、そうあって欲しいと願うからかな。もし俺だったら、だが」
 へえ、そうなんだ、と、ユイリアの瞳が一変、好奇心にキラめいてジェームズ王子を覗きこんだ。
 互いの恋愛観について、これまで二人は語り合ったことがない。矛先が悪い方に向きそうだということを早々に悟って、ジェームズ王子は咳ばらいをした。
「それはそうと、アイツにああ忙しくされてると、俺も用事が頼めなくて困る」
「まあ、お困りでいらっしゃいますか? 私にできることでしたら、何なりと」
「安請け合いは良くないぞ、ユイリア。ルークの代わりに、お前が俺の頼みを聞くというつもりか?」
「はい」
「馬鹿な」
 ジェームズ王子はかぶりを振って、綺麗な指先でスプーンをつかみ上げた。
「そんなことをしたら、俺がルークに殺されかねない」
 言いながらスプーンの腹で卵の殻を叩き割る、その勢いが必要以上に強いのをユイリアは横目で見てとった。
 オーギュスト伯爵を他の女性にとられて不機嫌になっているのは、ジェームズ殿下の方ではないかしら、と、ユイリアは思った。
「もちろん、私を使ってください。私がこうしてお傍で仕えられる時間は、もうそんなにないのですよ」
「ほお、俺が殺されても良いということだな」
「まさか! オーギュスト伯爵様が殿下に手をかけるなど。そんな話は、本気にしていないだけです。さあ、仰ってみてください、御用向きはどんなことですか?」
「大きな声では言えないことだ」
 ジェームズ王子が手招きをして、近く寄れ、と合図した。
 ユイリアはナイフとフォークを置いて、ジェームズ王子の方へ少し体を傾けた。するとジェームズ王子の手がスッと伸びて来て、ユイリアの首筋にかかり、クイと引き寄せた。
 熱い吐息と、神妙な囁き声がユイリアの耳にかかる。

「エデワード子爵に目を光らせて欲しい」
「わかりました」

 まるで何でもないことのようにユイリアがあっさりと承諾したので、ジェームズ王子はいささか拍子を抜かれた。

「何も聞かないのか?」
「聞く必要がありますか? ジェームズ殿下も、エドワード子爵を偽物だと思っているのでしょう?」
 再びナイフとフォークを取り上げてワッフルを器用に切り分けるユイリアは、もうこの話には興味がなさそうだった。

「どうして知ってる。ルークから聞いたのか?」
「いいえ。偶然いくつか耳にしたお話と、新聞の記事を読んで、思い至ったのです」
 ジェームズ王子は感心してユイリアを見つめた。
「偽物とはな。俺はてっきり、子爵本人が裏切っていると思っていた」
「エドワード子爵とは、オフィリアが懇意にしていました。妹の話を聞いて、なんだかおかしいと思いました」
「というと?」
「彼は左利きだそうですが、乗船の書類に右手でサインをしました。普段はつけないミントの香りを漂わせ、つい最近まで親しい関係にあったオフィリアのことが、誰か判らないような素振りさえしたのです」
「それは奇妙だな」
「新聞で読みました。国境警備隊が襲撃を受け、2人が行方不明になっているとか。その襲撃のときに、エドワード子爵も国境に視察に出ていました。もしかすると、行方不明になっているのは、その2人だけではないかもしれません。そう見えないのは、今も偽物が成り代わっているからです」
「だとしたら、お前に任せるのは荷が重い。正体が判らないのでは、危険が多いだろう」
「無茶はしません。お任せ下さい、しっかり見張ります」
 幼馴染の従妹が真剣なので、ジェームズ王子はしばし思案した。何か、ユイリアが無茶をしなければいいが、と案じたのだ。もちろん、ユイリアの賢さはジェームズ王子も知っている。だから、己の身の安全を守りながら謀反者を見張ることのくらいは、上手くやってのけるはずだ。
 やがてジェームズ王子は決心した。
「では、任せよう。……俺が頼んだことは、ルークには言うなよ」
 ニコリと笑みをつくって、ジェームズ王子が無邪気にウィンクした。

 額を寄せ合って密談を交わすジェームズ王子とユイリアの姿は、まるで仲の良い恋人同士のように映った。
 そんな様子を見て、見ぬふりをするのは骨が折れた。テーブルの中ほどで華やかな令嬢たちと談笑を交わすルークは、心中穏やかでない。
 今朝は、誰より早く階下に降りてきて、ずっとユイリアを待っていたのだ。手の包帯を換えてもらう約束もしていた。だが、壁際にぼんやり立ってユイリアを待っていたら、まるで夕暮れに雀が木に集まるように、多くの御婦人方に捕まってしまったわけだ。
 テーブルの上座でジェームズ王子と親しく会話をするユイリアを見るだけで、少しでも気を抜いたら、溜め息が出てしまいそうになるのを、ルークは笑顔の下で呑み込んだ。

 そうしてしばらく絶えていたが、食後のデザートに苺のジュレが運ばれてくると、ルークは手をつけずに立ち上がった。
「まあ、オーギュスト伯爵様、デザートがまだでございますわ」
 引き止める御令嬢方に、ルークは笑みを浮かべて、ナプキンを椅子に投げた。
「大切な要件がありますので、失礼致します」
 ルークは御婦人たちにいとまを告げると、さっさと歩き出した。
 その視線の先で、ジェームズ王子とユイリアが苺のジュレに舌づつみを打ちながら、こんな会話をしているのが耳に入って来た。
「苺は250種類あります」
「へえ、そんなにあるのか」
「これは初夏に実るリッチ・フレバーという品種だと思います。柔らかくて、甘みが強いのが特徴です」
「コムストッグ邸のベリーはもうなったか?」
「はい。今年は実りが早かったので、最初の紅茶はもうできています」
「では、近いうちに馳走になろう」
 言いながら、ジェームズ王子は近づいて来たルークに気づいて手を止めた。ようやく来たな、とでも言いたげに、ルークに微笑みかける。
 一方、ルークは、愛想笑いさえ見せずにユイリアの前で半身を屈め、彼女の手を取るために、自分の右手を受け皿として差し出した。その立ち居振る舞いには、上流社会にすっかり慣れた、紳士の威厳がある。
「僕はもう、その紅茶を御馳走になりました。おはようございます、殿下。ユイリア公女を、拝借してもよろしいでしょうか」
 ジェームズ王子の返事を待たずに、ユイリアはルークの手に、自分の手を重ねた。
「包帯を換えると、お約束をしていたのでしたね。それではジェームズ殿下、また後ほど」
「ああわかってる」
 早く行け、とばかりに、ジェームズ王子は手を振った。 

 ルークに手を引かれてテラスの階段を上って行くと、ユイリアを伴っているルークを見た何人かの令嬢たちが、口々に悲嘆の声を上げた。
 ユイリアは小さく溜め息をついて、他の誰にも気づかれないようにルークに目配せした。
「私はまだ社交界では新参者ですのに、すっかり御令嬢たちから嫌われてしまっているようです。貴方のせいですよ」
 それを聞いて、ルークが大袈裟に目を見開く。
「彼女たちに好かれたいのですか?」
「はい」
 ユイリアの素直な答えを聞いて、ルークは思わず口元をほころばせた。貴族でさえ、コムストッグ公爵令嬢には気易く近づくことができない。朝食の席でジェームズ王子やジョージ王子の隣の席が空いていたように、誰も、招かれずしてその場所に座ることはない。誰もが容易には近づきにくいと思う場所、そんな場所に、ユイリアはいるのだ。ブルックリンの社交界では、それほどコムストッグ公爵家の貴位は高い。
 だから、「好かれたい」、と思っているのは、むしろ他の令嬢たちの方だと、ルークは思った。

「心配しなくても、貴女のことを知れば皆、貴女に好意を抱くと思います」
「それは、ありがとうございます」
 口先だけの励ましととったのか、ユイリアは生気のない応答をしたのち、窓辺の長椅子にルークを座らせた。
 いたく気のきく女中が、ほどなくしてユイリアの元にカートを押して来た。
「ありがとう、シルバ」
 ユイリアが礼を述べると、女中は厳かに頭を下げて窓辺に下がり、そこで控えた。
 カートには清潔なタオルと、銀桶、それに昨日のユイリアのポーチが載っていた。
「手を出してください」
 ルークが従うと、ユイリアはルークの袖のボタンをはずして捲りあげる。
 包帯をほどいてみると、昨日は赤黒く腫れていた手首が、今朝は緑一色になっていて、しかもその色は薄くなりかけていた。
「治りが早いようですね」
「もともと大した怪我じゃありません」
 ユイリアはカートの上からタオルを取り上げ、それを銀桶に沈めてから硬くしぼった。左手でルークの手を取り、右手で優しく拭きあげる。
 ルークはその手の優しさに息を潜めて、されるがままに見守った。タオルは人肌に温かかった。
 前日に塗ったオイルと蜜ろうを丁寧に拭きとられながら、ルークは先ほどの会話を続けて言った。

「本当ですよ、貴女は人から好かれる。お世辞ではありません」
「そうでしょうか」
「僕は人を見る目は確かです」
「父はよく言っています。愛されることを考えるより、愛することを考えるべきだ、と」
「誰もがそれを実戦すれば、世界はもっと平和になるでしょうね」
「そうですね。だから、先ほど好かれたいなどと言ったのは、愚かなことでした」
「だけど貴女は、好かれたいと思っている」
「そうです」
 やはり、心の内を素直に吐露するユイリアを見て、ルークはまた口元が緩むのを抑えられない。
 タオルを桶に戻して、ユイリアはポーチから昨日と同じガラス瓶を取り出し、ルークの隣に腰をおろした。
「そんなに面白いですか?」
「貴女を笑っているのではありません、ただ、くすぐったいのです」
「くすぐったい?」
 ちょうど、ルークの手首にオイルを垂らしたところだったので、ユイリアは一瞬、手を引っ込めた。
「いえ、貴女のお心や考え方が、僕にはくすぐったいのです。とても素直だから」
 ルークの言葉に、ユイリアはかすかに眉をひそめた。そんなことを言われたことは、これまでに一度もない。
 ルークは先を続けた。
「愚かなことだと言っておきながら、貴女は自らの心を偽ることはない。貴女は聡明なうえに、素直です。僕はいままで、そんな女性に出会ったことがありません」

 ユイリアは何も言わず、ルークの手首をとってオイルを馴染ませた。手で触れると、腫れがすっかり引いているのが分かる。

「ルーク様」
「なんですか、ユイリア」
「腫れが引いたので、もう包帯を巻かなくてよさそうです。あとは、お大事になさってください」
 ユイリアはガラス瓶をポーチにしまって、椅子から立った。用が済んだことを見てとった女中のシルバが、ユイリアのポーチを受け取ってからカートを押して下がった。
 それからユイリアは両手を結んでルークを振り返った。
「昨晩お借りしたハンカチは、後日、清めてからお返ししたいと思います」
「わかりました。では一つ、お願いできますか」
「なんでしょうか」
 ユイリアがはたと首を傾けると、ルークは椅子に座ったままユイリアの手に触れた。
「約束をしていただきたいのです。必ず貴女の手で僕に返して下さると。そうすれば、それぞれの家に帰ってもまた、貴女に会う口実ができるから」
「まあ、郵送を考えていましたのに」
 ケロリとした顔で返すユイリアに、ふ、っと、ルークが笑いを零した。ユイリアがわざと、そんなことを言ったのを見抜いたからだ。
 そんなルークを、ユイリアも見つめる。
「正直に申し上げますと、どのようにしてまたルーク様に会うことができるか、想像がつきません」
「僕がコムストッグ邸に伺います」
「そうしていただいても、会うことは叶いません。お客様をお出迎えすることは、私には赦されていないのです」
「貴女にそうやって意地悪を言われると、僕の中で内なる野獣が目覚めそうです」
「意地悪で言っているのではありません、父の決まりなのです」
 律儀にそう言うユイリアに、ルークは目尻を下げた。恋をすれば、多くの令嬢はルールを平然と破るものだ。好きな相手と秘密の逢瀬を重ねるためなら、尚更のこと。だが、ユイリアはルールを破ろうとはしない。
 まだ、話の途中ではあったが、従者が午前の乗馬の時間となったことを知らせに来たので、ルークは立ち上がった。
 ユイリアを伴って歩き出しながら、ルークはこの銀色の乙女が思っていた通りの堅物であることに密かに安堵した。そして、これまでの間、ユイリアを屋敷の中で大切に守り、社交界の男たちに触れさせずにきたコムストッグ公爵の慎重さに感謝した。誰もユイリアに会うことができない。好きな女性を一人占めしたいと思うルークには、心安らぐ事実だった――そう、日中の公式の訪問では誰もユイリアに会うことができない。

「犬鷲の鳴き声を聞いたことがありますか」
 馬場に向かって緩やかな丘陵を下っている時、ルークが唐突に問うので、ユイリアは首を振った。
「犬が吠えるような鳴き方をします」
「それは、知りませんでした」
 草が刈り込まれた道を注意深く進みながら、ユイリアはルークがどうしてそんなことを言いだしたのかと、考えた。
 意味もなくそんなことを言いだすとは思えなかったからだ。大鷲とは――
 思いめぐらすユイリアに、ルークが静かに語りかけた。
「覚えておいてください。犬鷲の鳴く声を聞いた、その日の夜には、貴女の元に仮面の訪問者があることを」
 冗談でそんなことを言っているのだと思ったが、ルークの目が真剣なことにユイリアは気がついた。
「犬鷲は、めったに鳴かない鳥ですよね」
「はい」
 馬場の前までたどり着くことができて、ルークは立ち止って一息ついた。
「近いうちに、貴女はそれを聞くはずです」
 ルークの言葉に、ユイリアは頷いた。
「覚えておきます」
 その深緑色の瞳が光を受けて、豊かな湖に朝日が注いだときのように輝いた。
 口には決して出さないが、ラッフルズにまた会えることが、ユイリアには嬉しかったのだ。



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