シャインとシャドウ 2話13



「乗りますか? 僕が押さえています」

 馬場に解放された数十頭の馬たちの中から、迷いもせずに一頭の手綱をとって、ルークがユイリアの元まで引いて来た。
 背が高く、他の馬よりも大きい体は、全身真っ黒で、よく磨かれて光っていた。
 背中の筋肉が発達していて、伸縮の良い並足で歩く姿から、とてもよく走る馬だということがユイリアにも見て取れた。
 無邪気な子どものように、首を小さく振りながら嬉しそうにルークに従って来るその馬は、ユイリアの近くまで来ると、いきなり勢いよく前進の一歩を踏み、ユイリアの胸元に額を打ち当ててきた。この強烈な頭突きを見舞われたユイリアはにわかに驚きの悲鳴を上げて宙を泳ぎ、そのまま馬場の柔らかな芝生の上に倒れ込んだ。

「どう! アイク、何て事をするんだ!」
 地面に倒れたユイリアを踏みつけないように、ルークが咄嗟に体重をのせて手綱を引き馬を下がらせた。
「信じられないな! まさかいきなり貴女に押しかかるとは」
 さすがのルークも、ユイリアを押し倒してしまったことに肝を冷やしたようだ。
「大丈夫ですか、ユイリア!」
 いつも平静なオーギュスト伯爵が、このときは動揺の色を隠せず、強張った顔つきで地面の上に横たわるユイリアを見下ろしていた。
 すぐに助け起こしたいところだが、手綱を緩めればアイクが今にもユイリアに向かって突進しそうな勢いだ。
 ルークは、ユイリアが少しも動かないので、全身から血の気の引く思いがした。
 実際にはほんの数秒のことだったのだが、ルークにはその瞬間が永遠のようにさえ感じられた。助けを呼ぼうと周囲を見回したとき、ユイリアがクスクス笑いながら半身を起こした。
「私は大丈夫です、ルーク様」
 ユイリアはケロリと立ち上がって、ドレスについた芝を掃った。
 ルークが心配そうに見つめている。
「本当に、お怪我はありませんか?」
「はい」
 ユイリアは臆することもなくルークの傍らまでやって来て、アイクを見た。
「このこは、アイクというのですね」
「はい。この離宮にいる中で、一番僕になついています。が、僕がついていながら、申し訳ありません」
「謝ることはありません、ねえ、アイク」
 ユイリアがアイクの鼻筋に手を伸ばして触れると、黒馬は首を振ってそれを跳ねのけ、あろうことかルークが抑えている手を振りほどいてユイリアを突き返した。
 衝撃でユイリアはまたも軽々と地面に転がった。
「アイク!!」
 再びユイリアを押し倒したアイクは、満足そうにブフンと鼻を鳴らした。
「何て奴だ、こいつ……どお!」
 ルークが先ほどよりもヒステリックにアイクを叱りつける。
 
「大丈夫です。ルーク様、アイクをこちらに」
「危険です」
「そのこは本気で私に怪我をさせたりはしません」
 ユイリアは、芝の上に座ったままアイクに向かって両手を広げた。
「さあ、アイク。助け起こしてちょうだい、これで仲直りよ」
 
 アイクは蹄を地面に打ち付けて、また、ブフンと鼻を鳴らした。
「ほら、力を貸して。こっちに来て、アイク」

 周囲で見守っていた従者たちが、ルークとユイリアに手を貸そうと駆け寄って行くのを、ジェームズ王子が制した。
 二人の様子を、ジェームズ王子は最初から楽しそうに眺めている。この先の転回がどうなるのかを、黙って見届けるつもりだ。
 だから、従者たちは何も出来ずに心配そうに遠くから見守ることとなった。他の貴族たちも、事態に注意を向けてはいるが、ジェームズ王子が手を出すなと言っているので、誰も動けずにいる。

 不満そうに前脚で地面を蹴っていたアイクが、やがて静かになった。ルークが叱ったことで観念した、というわけではなさそうだ。
 今、アイクはその黒いつぶらな瞳で、品定めをするかのようにユイリアのことを見据えていた。その眼差しに、ユイリアの深緑色の瞳が応える。
「友だちになりましょう、アイク」
 ユイリアが甘くねだるので、ルークは思わず手綱を投げ出して自分が彼女を助け起こしたくなった。
 だが信じられないことに、ルークより先にアイクが頭をもたげ、ユイリアの伸ばした手の中に低く頭を垂れて動きを止めたのだった。
 これにはルークも半信半疑で見守るしかなかったが、もはや手綱を強く抑える必要はなかった。
「いいこね」
 アイクの首にユイリアはゆっくりと抱きついた。
 すると、誰がリードしたわけでもないのに、アイクが後ろに半歩下がりながら首をもたげたので、ユイリアの体がふわりと持ち上げられて地面に降り立った。
「仲直りよ」
 と、ユイリアがアイクの額を撫でて、キスをした。
 最初に押しのけたときとは打って変わって、アイクはユイリアに撫でられるまま気持ちよさそうに瞼を下げている。
「信じられないな……最初に貴女に襲いかかったのもそうだが、なぜ今は心を許したんだろう」
「このこは、誰でも乗せる馬ではないのではないですか?」
「そういえば、僕もコイツに乗せてもらうのに最初は苦労しました」
「アルファ気質のこは、主人を試したがります。けれど人が嫌いなわけではないから、納得ができれば忠誠を尽くしてくれます。最初にこの子に押し倒された時にも、嫌な感じはしませんでした。この子はただ、私が恐がることがないか、ルーク様が私を守るのかどうかを見ていたのだと思います。いまは納得できたのでしょう、私を仲間に加えてくれる気になったようです」
「貴女は馬の専門家ですか、ユイリア」
「専門家でなくてもわかります。もしルーク様がこの子だったら、自分を恐れる人間を背に乗せて走りたいとは思えないでしょう? 同じように、信頼している主人が大切にしない人間を、自分の背に乗せたいとは思えないはずです」
 なるほどそのとおりだな、とルークは思った。
「それでは、乗ってみますか? 僕が先に乗って、貴女を引きあげます」
「まあ、それには及びませんわ」
 と、ユイリアはアイクの鞍に手をかけると、地面を蹴ってふわりと黒馬に跨った。
 手綱をとって、重心をわずかに前に振るだけでアイクはユイリアの意図をくみとってゆっくりと歩き出し、ルークの周りをまわりはじめた。
――嘘だろ。
 ルークが困ったように笑う。想定外だったからだ。アイクのように大きな牡馬にこうも軽々と乗られてしまっては、さすがのルークも肩なしだ。
 手をつないで引きあげたり、あるいは下から押し上げたりしてレディーを馬に乗せる手伝いをすることを密かに楽しみにしている紳士はルークの他にもいるはずだ。
 だが、まあ、これもいいだろう。

「ユイリア、僕も乗せてください」
「では私がルーク様を引きあげましょうか」
「御冗談を。それには及びません」
 と、歩き続けているアイクに向かって、ほんの数歩の助走でルークは軽々とユイリアの後ろに跳び乗ってきた。
「え! ルーク様!?」
「よし、ちょうどいいな」
 ルークは後ろからユイリアの手綱をとると、ユイリアの足から足輪を奪って軽くアイクの腹を蹴った。滑らかにアイクが走り出す。
「この先にアイクの好きなリンゴの木があります。見に行ってみましょう」
「二人で……?」
「怖いですか?」
「いえ、そういうことではなくて」
「それなら良かった。しっかりつかまっていてください」
 そう言ってルークはアイクの腹をもう一度、今度は最初よりも少し強く蹴って、馬場の柵を跳び越えた。
 アイクがどんなに速く翔けようともユイリアは怖くなかったが、ルークの息使いや体温がすぐ後ろにあることが落ちつかなく、逃げ出したい気持ちになった。だがどう考えても逃げ出すことのできない状況で、すっかりルークの策にはまってしまったことに気づく。この時期にリンゴが実るはずなどないのだから――


 一部始終を見守っていた周囲の者たちは、二人が馬場を跳び越えて草原のかなたに遠ざかって行くのを見送りながら首をかしげた。
暴れていた馬がわずかの間に懐柔されてしまったことが不思議でならないといった様子だ。

「一体、何をしたのかしら」
「実際、あれは暴れ馬で、人を乗せないし馬車にもつけられないからと処分されるところだったのを、ルークが馴らしたんだ」
 ジェームズ王子が楽しくもなさそうに呟く。
「あのときもそうだったが、何か特別なことをしたとは思えない。ただ話しかけて、相手が心を許すのを待っているだけのように見えるが、果たしてそれが誰にもできることなのか。ルークもそうだが、我が従妹君も昔から動物を手なずけるのが上手いのだけは、褒めてやってもいいだろう」


 ブルックリンでは、貴族の男は誰でも馬に乗ることができる。だが貴族の令嬢は、必ずしもそうではない。
 馬術の心得がある令嬢は珍しく、裕福な家庭にあって尚、その両親が馬に乗ることを許す、革新的な家庭の娘に限られる。たいていの令嬢は馬には乗りたがらないものだ。乗れと言われても、成人の男と同じくらいの高さに背中がある馬によじ上ることさえ、経験のない婦人には難しい。
 だから、ユイリアを馬の上に押し上げたり、恐がるユイリアを嗜めたり励ましたりすることを、密かに楽しみにしていたルークは、期待を裏切られた。

「手を放しても大丈夫です、ルーク様」
「いいえ、誓って言いますが、手綱は絶対に放しません、ユイリア」
 ほどなくして草原の中でぽつりと一本小ぶりな木が生えている所で、ルークは手綱を引いた。
 ブルックリンでのリンゴの収穫は夏から秋にかけてだ。今は初夏にさしかかろうとする季節だから、その木にリンゴはまだ実っていない。
 枝に咲く白い花が甘い香りを放っているのに、アイクが期待したように鼻を鳴らした。
 可哀そうに、ユイリアとルークの二人を乗せてここまで走ったのにアイクへの御褒美はなしだ。二人は馬から降りてアイクを木陰で休ませた。
「リンゴの季節にはまだ早いことを、ルーク様も御存知だったでしょう」
 ユイリアがアイクの鬣(たてがみ)を撫でるのを、ルークは注意深く観察した。先ほどはユイリアに向かって暴れたアイクも、やはり今はすっかり心を許しているようだ。
「貴女と二人きりになりたかったんですよ、ユイリア。僕がそう考えそうなことは御存知だったでしょう」
 アイクが気持ちよさそうにユイリアに鼻を擦りつける。それに応えて、今度は額を撫でてやっているユイリアのその手に、乗馬用のグローブがはめられていないことにルークは気づく。
 この御令嬢は、馬に触ることを嫌とも思わないようだ。かえってアイクに触れるその手からは馬への深い愛情が感じられる。

「馬が好きですか」
「はい」
「アイクは、僕がとりあげた馬です。難産で、母馬は死んでしまいましたが」
「それでアイクという名をつけたのですね。名付け親はルーク様ですか?」
「はい。僕の母も、僕を産んで亡くなったので、アイクが不憫でならなかったから」
――悲しみを乗り越える
 アイクにはそのような意味がある。

 ルークは手頃な枝を探してリンゴの木を見上げた。
 ユイリアは彼を目で追いながら、その立ち姿が洗練されて美しいことに感心した。ルークのゆっくりとした歩みと流れるような所作からは、鍛錬から培われた自信が感じられる。
 ベストの上からでも肩甲骨が少し浮いて見える均整のとれた背中を見つめながら、この歳の男性の骨格は女性とは明らかに異なっていて、逞しいのだと実感する。
 ルークは紳士的で、陽気で、明晰だ。迷いがなく、決断することを臆さない。それなのにどうしてだろう……ユイリアには、彼がどこかいつも悲しんでいるように見えた。初めてコムストッグ邸の図書室で出会ったときから、彼にはあってはならない影があるように感じられたのだ。

「貴方のお名前は、御母上がつけられたのですか?」
「いいえ、父です」
「そうでしたか」
――ルーク、光を運ぶ者。
 その名の意味を思い、ユイリアは静かに胸を膨らませた。ルークの父が、生まれてきた子どもを心から喜んでつけた名だということが分かったからだ。ユイリアにはその名が、ルークの人生を始まりから終わりまで励ますためにつけられた名前なのだと思った。ルークが産まれたせいで母親が死んだ、と、そんな暗い責めを背負うことがないようにと。
「その尊いお名前でお父上が貴方を呼ばれたとき、その御心は貴方の母君とともにあられたのでしょう。もしそうでなければ、お父上は悲しみとともに産まれた我が子に、ルークという名はつけられなかったはずです。そう考えると、貴方は本当に素敵な御両親から生まれ、その証として一生の名を得られたのですね、ルーク」

 予想もしていなかったユイリアの言葉に、ルークは束の間、言葉を失った。

 ユイリアはアイクから離れて、ルークに並んで白く咲き誇るリンゴの木を見上げた。
 ルークは何も言わずに腕を伸ばして、頭上の枝を一本折った。八車状に小さな花が咲いている。白い花は決して豪華ではなく、他の花々に比べると地味にすら感じられるものだが、日の光の元では最も輝き、光の届かない闇夜では、ひときわ存在感を放つ。
 父が己に与えた名の意味を、ルークは理解しているつもりだった。だから怪盗として、王家の番犬として、ルークはこれまで父のために精一杯生きてきたのだった。期待に応えて、己が存在する価値を認めてもらいたかったのだと思う。親からの愛が無条件で与えられるものだという考えは、物語の中の幻想にすぎないのだから。
 だからルークは、温もりを知らない母の思いなど想像したこともなかった。愛など幻想だろう。そう、頭では理解しているのに、ルークの心は震えた。

「お母さまは貴方をとても愛しておられたのだと思います」

 これまでそんなことを言ってくれた者は一人もいなかった。

――愛されていた?
 生まれてから一度も会ったことのない母親に、ルークは愛されていたのか。
 ユイリアに言われて、ルークはこの時初めて母の愛を想像した。肖像画にしか見たことのない母の姿は、ルークにとっては美しいだけの形にすぎない。
 ルークにとっては数ある芸術作品の一つなのだった。それが、肌に血が通う人間であって、我が子のために怒り、悲しみ、喜びをあらわにする母親などと、どうして想像できただろう。彼女は自分が生まれる前から腹の中の子の未来を思い、名前を思いめぐらせ、そして最後には命をかけてルークを産んでくれたのか。
――そうかもしれない。そうであってほしい。
 ほんの一瞬だけ意識の端をかすめた考えを、ルークはすぐに追い払った。
「……貴女の想像力には驚かされますね、ユイリア」
「わかるのです。いつか私も子を宿すことがあればきっとそう思うでしょうから」
「子を宿す? まだ僕に恋すらしていない貴女が、そんな先のことを想像できるのですか」
「そうです。こんな私でさえ自らの子を愛することを想像するのですから、実に子を宿したひとりの女性が、貴方を慈しまないことがあるでしょうか」
 たとえどんな疑問を投げかけたとしても、彼女はそう信じて疑わないのだろう。
 今となっては、アイクがあっさりユイリアに従ったことが、当然のことのように思われた。
 ユイリアの中にある深い洞察力と優しさを、きっとアイクも見抜いたのだ。
――本当ですよ、貴女は人から好かれる。
 今朝、ルークが言った言葉は本当だった。

「本当に口の達者な人だ」
「貴方は愛されています。だからもう、悲しまないでください」
「悲しんでいる? 僕が?」
 にわかに驚いて、ルークはユイリアを見下ろした。
――見抜かれてしまっているのか。
 彼女は小さく肩をすくめただけで応えなかった。
 父や母が亡くなったことは確かに悲しいことだが、ルークの心に大きな悲しみをもたらしているのは、もっと別の大きな感情。一言で表わすならそれは、自分は生まれてきてはいけなかったのではないかという行き場のない喪失感だった。そのために彼は孤独で、誰とも深く心を通わせることを避けていた。相応しくないからだ。いつも自分には何かが欠けていて、満たされない。名誉はむなしく、富も役に立たない。満たされない思いはいつも心の隅に陣取っていて、歳を重ねるごとに自らを蝕み、やがてラッフルズとして人知れず死ぬ時が一日も早く訪れることを願うことさえある。
 けれどルークはそれを口にしたことはなかったし、己の弱さを誰かに悟られるような隙を見せたつもりもない。

 優しい人は隠された悲しみを見抜いてしまう、だからくれぐれも気をつけよ、さもなくば――。
 いつか大賢者ミストが言った言葉がルークの脳裏をよぎる――さもなくば、盗るものが盗られるものになってしまうじゃろうて。
「僕は、悲しんでなど……」
「貴方は愛されています。ルーク様」
 ルークは言葉につまり、視線を落として手折ったリンゴの小枝をしばし弄んでから、ついにはそれをユイリアの髪に挿した。
 もうほとんど、この心は奪われているのかもしれない。
「その貴女の考えは、誰にも秘密にすると約束してください。ジェームズにも、貴女の妹君にも」
「もちろんです」
 初夏の頃、離宮には湖からのやわらかな風が涼しさを運ぶ。この時も風が肩を吹きぬけて、ユイリアの巻き毛を撫で上げた。
「私からも一つお願いがあるのですが、ルーク様」
「なんなりと」
「私を貴方の友のひとりに加えてはいただけないでしょうか」
 そう言って、ユイリアは頬にかかる髪を耳の後ろにかけて微笑んだ。その姿があまりにあどけなく無防備すぎるので、ルークは面食らった。
 そしてその申し出を心から嬉しく思うと同時に、憎くさえ感じるという、何とも形容しがたい感情がこみあげてくることにルークは戸惑った。
「後悔しても知りませんよ」
 ルークはアイクを呼び寄せ、手綱をつかんで軽々と馬に跨った。
「僕は貴女にとって手のかかる友となるでしょう」
「構いませんわ。長い人生でみたら、きっとお互い様でしょう?」
 馬の上からさし伸ばされた腕につかまって、ユイリアも軽々とルークの腕の中におさまった。

 二人が馬場に戻ると、ジェームズ王子が太陽のような笑みを浮かべてルークを抱きしめ、その耳もとで囁いた。
「やるじゃないか、ルーク。さっきは見物だったぞ、ユイリアを二度も地面に臥させるとは」
「あってはならない過失だった。反省しているよ」
「いやはや、よくやった!」
 このジェームズ王子の反応に、ルークは激しく眉をしかめた。
 呆れたことに、あのようなかよわい乙女が馬に押し倒されたことを、ジェームズ王子は本当に楽しんでいたようだ。
「よく笑えるな。恥ずかしいと思わないのか、俺は、心臓が止まりかけたんだぞ」
「按ずるな、ユイリアは見かけより頑丈だ。ことに、ルーク……」――知らせが入った。昨晩とらえた刺客が、護送中に何者かの手引きにより逃走したようだ。

 周囲の者に気取られないように、ジェームズ王子は努めてほがらかな表情を保ってはいるが、眼差しは鋭い。
 昨晩ルークたちが捕らえた5人の刺客は、離宮の地下監獄で一晩拘束された後、今朝早くに王宮へ護送された。刺客たちの手足には枷がはめられ、首も鎖でつながれた状態で王直属の青の騎士団に引き渡されたのを、ルークも今朝、ジェームズ王子とともに見届けていた。
 刺客たちは青の騎士団によって王宮の監獄に送られた後、そこで尋問され、令嬢令子の命を狙った目的と、それを指示した首謀者を突き止めるための捜査が行われる手筈になっていた。

 それなのに、5人もの刺客が全員逃げおおせただと……? この唐突な知らせにルークは我が耳を疑った。
――青の騎士団。
 彼らは王家に忠誠を誓った騎士の中でも、心技体選りすぐりの国王直轄の精鋭部隊であるはずだった。
 彼らの忠誠は鋳られた鉄よりも堅く、王家の命に背くことは決してないと信じられている。

 刺客たちが狙っていたのはコムストッグ公爵令嬢ユイリアとオフィリア、カビオリ侯爵令子アスラン、そしてレイモンド公爵令子アレックスとその妹君のリネットだ。
 一体何の目的で? 何の意味がある?
 その真意がついに分からないまま、まさか護送中に逃げられてしまうとは。

 ルークは素早く思考を巡らせた後、簡潔にジェームズ王子に問いかけた。「被害は」 と。
 ルークは、図らずもラッフルズとして青の騎士団と手合わせしなければならなかったことが、これまでに幾度とあるが、無傷で済んだことは一度もない。時には死を覚悟したことがあるほど、敵に回すには厄介な相手だ。対して、昨晩ルークが捉えた刺客たちは、せいぜい山賊程度の実力だ。護送に関わった青の騎士たちを退けて逃げおおせる実力があるとは思えない。
 だとしたら、手引きした者は誰なのか。

「死者はない。青の騎士の中に、傷を負った者が数名いるだけだ。いずれも軽傷と聞く」

 精鋭揃いの青の騎士を退けるほどの戦力を持つ何者かが、5人もの刺客の逃走を手助けしたということか。
 そうであるなら、強者揃いの青の騎士たちとは当然、激しい死闘を繰り広げたに違いないが、――死者はないという。
 不自然だ。
 刺客たちは本当に逃げたのか? 口封じのために始末された可能性はないのか。あるいは、青の騎士団があえて護送中の刺客たちを逃がしたのか……?

「手引きした者に心当たりはないのか」
「ない。――だが……」
 ジェームズ王子がここではじめて、苦虫を噛んだように言葉を吞み込んだ。
「わかっているよな」
 王子が言わんとしていることに、ルークも頷いた。
――青の騎士は、王の命令以外で動くことはない。
 もし、此度の刺客の逃走に青の騎士団が一枚かんでいるとすると、令嬢令子の……ユイリアとオフィリアの命を狙った首謀者は、王あるいは、王に最も近しい者の中にいるということになる。

「この事態をどう見る、ルーク」
「青の騎士団を調べてみる必要があるな」
「すぐに、此度の護送にあたった騎士団員の名簿を用意させよう。それと、」
「まだ何かあるのか」
「5人もの刺客たちが、本当に逃げおおせたかどうかが気になる」
「ああ、すでに殺されているのかもしれないな」
「俺なら、口封じのために殺す。お前なら、死体を隠しやすい場所に心当たりがあるだろう?」
 ジェームズ王子に言われて、ルークの瞳がかすかに光る。
「簡単に言ってくれるが、湖に捨てられていたとしら、すぐに見つけるのは難しいぞ……。だが、探させてみよう」
「頼んだぞ、ラッフルズ」
『すべての影なるものは我が手により光を得、白日のもとに姿を晒さん――仰せのままに、ジェームズ殿下』



 ジェームズ王子とオーギュスト伯爵が何やら話し込んでいる様子を遠くから見ていたユイリアは、何か良くないことが起きたのだと気づく。
二人は明日の天気の話でもするかのような何気なさを装ってはいるが、ユイリアにはその様子がどこか不自然で、隙がなく、二人の間に流れる張り詰めた空気を感じとった。
 ジェームズ王子のことをよく知らなければ、その強張った印象を「王子の威厳」と捉えることもできたかもしれないが、幼い頃からジェームズ王子を傍で見てきたユイリアは、王子のわずかな緊張の糸も見逃すことはなかった。
 また、声は聞こえずとも二人の口の動きから会話のリズムがやけに早いことが、ユイリアに不安を抱かせた。
 あれは、世間話のような他愛のない会話ではない。もっと実務的で、急を要することを、周囲の者に悟られないように話し合っているのだ。

 ジェームズ王子との会話を終えたオーギュスト伯爵が、まっすぐにユイリアのところに戻って来た。
「少々用事ができましたので、僕はこれから少しの間、ここを離れることになりました」
 離宮で過ごすことが定められた試しの期間は今夜が最後だ。明日の朝には皆がそれぞれの領地に帰っていく。
「わかりました」
「管弦と歌の宵を貴女とともに過ごせなくてとても残念です、ユイリア」
 オーギュスト伯爵の言葉に、ユイリアはただ黙って微笑み、静かに頷いて見せた。
 それからオーギュスト伯爵は名残惜しそうにその場を立ち去ろうとしたが、数歩進んだところで急に足を止め、踵をかえしてまたユイリアの元に戻って来た。

「つい先ほど友の契りを結んだばかりだというのに、貴女は少しも寂しいとは思ってくださらないようですね。僕は今、深く傷つきましたよ」
 わざと子どものように振舞って、ルークがユイリアを困らせようとしていることは明らかだった。
 傷ついたとは、はて。
「何かよくないことが起きたのでしょう? 気を付けて行ってらっしゃいませ」
 途端にルークはハッと息をのみ、しばし無言でユイリアを見つめ返した。
「どうして……」
 ルークが再び口を開きかけるのを、ユイリアは遮り、
「さあ、もうお出かけください。急を要する事態のはずです」
 と、また繰り返してきた。
 語らずとも見抜かれていることにルークは内心で驚きながらも、この計り知れない洞察力を持つ麗人に自分がますます惹きつけられていることに気づく。
「僕の身を按じてくれているのは分かりました。そのお気持ちはさておいて……僕がいない間、少しは寂しく思ってくれるんですよね?」
「いいえ、ちっとも」
 ユイリアが少し意地悪に満面の笑みで即答するので、つられてルークもにやりと笑った。――いいだろう。
「また明日の朝、僕は必ず貴女にお目にかかります。ユイリア、約束ですよ」
「はい、ルーク様」

 こうして力を得て、ルークは離宮を後にした。

 残されたユイリアは一人、思いを鎮めて決心する。
――「エドワード子爵に目を光らせてほしい」
 自分にも任がある。
 ジェームズ王子からの命を、今宵、ユイリアは果たすつもりだった。彼の正体を確かめ、真実を明らかにするのだ。




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