シャインとシャドウ 2話5



 避暑にはまだ早い新芽の香る季節に、ブルックリン王国北端のフォークスドワース地方に、アスターシャの姫と歳の近い貴族たちが国中から集められた。
 このフォークスドワース地方には、海と見紛う国内最大のエメラルド湖がある。対岸を見渡すことも叶わない湖畔から、貴族たちは渡し船に乗り、半時間ほどかけてエメラルド湖のただなかの孤島、グロッグアイランドへと赴くのだ。

 このたびの選別試験には、侍女や執事をはじめとする、いかなる共も伴ってはならないとの申し渡しがあった。これは、スパイが紛れこむ危険を極力少なくしたいとの王宮の判断であるので、貴族たちはエメラルド湖畔に親しみ慣れた使用人たちを残して進んだ。これから先、離宮での生活にかかる貴族たちの身の回りの世話はすべて、離宮に控える王宮使用人がとりしきることになっている。
 ただし使用人と言っても、ブルックリンの王宮使用人たちは皆選りすぐりの高官であり、専門家であり、優れた学者、教師であり、また騎士である。
 王宮使用人とは、ブルックリンの貴族を幼い頃から鍛え、磨き、育て、教え守り建て上げてきた存在、いわば影の功労者なのである。
 彼らこそがこの度の選別試験の密かなる試験官であるということを、集められた貴族たちはまだ知らない。

 さて、ユイリアとオフィリアの双子の姉妹は旅行用の天蓋つき四輪馬車でフォークスドワース地方までやってきた。

 馬車の中でユイリアは新聞を読んでいた。旅のお供にオフィリアから借りた恋愛小説はもう、どれも読んでしまったのだ。
 オフィリアが心酔している恋愛小説を読んでみれば、ユイリアにも恋愛というものが分かるかと思ったのだが……
――そんなことしなくても、僕で実戦すればいい。ああいうのに書いてあるのは、嘘ばっかりですよ
 なるほど、オーギュスト伯爵様の仰ったことはどうやら本当だったようだ、とユイリアは思った。

 オフィリアから感想を聞かれて、ユイリアはただこう言っただけだった。
「下品だわ」
「どこが? そこに書かれているのはどれも、殿方の気を惹く有効なテクニックなのよ」
「胸元の開いたドレスを着たり、腰元を強調したり、必要もないのに殿方と手を重ね合わせることが? どれも結婚前の淑女がすべきことではないわね」
「シャドウはロマンチックがわかっていないのだわ」
「ここに書かれていることを本当に行ったとしたら、きっと頭の足りないおバカさんだと思われるでしょうね」
「そんなことを言うようじゃ、この前の舞踏会ではオーギュスト伯爵様はさぞや退屈されたんじゃないかしら」
「恥ずべきことを行うくらいなら退屈の方がよっぽどましでしょう」
――僕で実戦すればいい。
 その時、オーギュスト伯爵の言葉がユイリアの脳裏に再びよみがえり、ユイリアは語気を強めた。
「いいえ、絶対に実戦なんかしませんとも」

「どうしたの、シャドウ? なんだか、怒っているみたい」
「怒ってなんかいませんとも……」

 それからというもの、道中の馬車内でユイリアはずっと新聞を読んでいる。
 一面に取り上げられているのは、アスターシャのフローラ姫がもうすぐブルックリンのジェームズ王子の元に嫁いでくるという大ニュース。
 次に大きく取り上げられているのは、怪盗ラッフルズの記事だ。なんでも、エドワード子爵の屋敷から大変高価な絵画を盗みだしたらしい。
―― 一体、なんのために?
 怪盗ラッフルズが密かに王宮に仕えているということを知るユイリアにも、ラッフルズの意図を図り知ることはできなかった。
 ユイリアは新聞をめくり、次の記事に目を通した。
 そこには、国境安全警備に携わる新米の衛兵が、立て続けに2人行方不明になったことが小さく書かれていた。
 この記事はとりわけユイリアの関心を惹いた。というのも、突然に姿を消した衛兵たちのことを思うと、彼らのその状況はやがて魔女によってブルックリンから連れ去られるユイリアのそれと似ているように感じられたからだ。
 この国の外にはどんな空が広がり、どんな空気や匂いが漂っているのだろう。
 そこには、どんな人々が住んでいるいるのだろうか。そして、消えた人々はどこに?
 まだ見ぬ外の世界にいつまでも思いを巡らせているうちに、やがて馬車は美しいエメラルド湖畔の船着き場の近くで速度をゆるめ始めた。
 馬車がまだ完全に静止する前に、
「やっと着いたわ! まあ、なんて美しい湖なんでしょう、宝石みたい!」
 と、妹のオフィリアが新鮮な空気を求めて勢いよく外に飛び出して行った。

 御者が扉を開けてくれるまで待つのが使用人に対する礼儀というものだが、オフィリアは昔から、馬車が目的の場所へ着くまで待ちきれないのだ。
 水辺に駆けだして行くオフィリアを一瞥してから、ユイリアは扉を開けてくれた御者に礼を述べた。
「ありがとう、ポッカー。長旅で疲れたでしょう。オフィリアは到着を待ちわびていたみたい。どうか無礼を許してね」
「とんでもございません。むしろ、ここに着くまでシャインお嬢様が馬車を飛びださずにいたのが不思議なくらいでございます」
 ユイリアは、御者たちが旅の荷物を船に運んでくれている間、馬車の中で一人で待たせてもらうことにして、窓から外を眺めていた。
 すると、オフィリアが水辺で一人の紳士に挨拶をしているのが目に入った。二人が何を話しているのかはユイリアには聞こえなかったが、かなり親しげに話しこんでいる様子は見受けられた。紳士はユイリアたちよりも先に湖畔についていたので、グロッグアイランドへ先に出発して行った。

 荷物がすべて船に運び込まれると、ユイリアも馬車から降りて、御者と従者、それから護衛の騎士たちに礼を述べた。
「ポッカー、ジム、帰りは馬たちをゆっくり走らせてやってね。ジョーゼフ、ヨセフ、快適な旅だったわ、ありがとう。私たちは無事に着いたと、お父様によろしく伝えてください。ミカエル、道中の守備に感謝します。ゼット、マシュー、ホルン、いつもありがとう。帰りもミカエルに従って、皆を頼むわね」
 仕えの中に、ユイリアから名前を呼ばれぬ者はなかった。このように、ユイリアは屋敷の使用人たちの名前と顔をすべて把握しているのだ。
 コムストッグ侯爵家の馬車の御者の二人、それから従者の二人、護衛隊長のミカエル、そしてそれに従う腕利きの3人の騎士たちが皆、帽子をとってユイリアに深く頭を下げた。
「姫様、どうぞお気をつけていってらっしゃいませ」
 その短い言葉が、ユイリアを慕う思いに震えた。
「行って参ります」
 使用人たちに見守られる中、ユイリアは凛と咲く水仙の花のように歩き出した。
 その時、湖のほとりに吹く心地の良い風が、ユイリアのうなじにかかる柔らかな撒き毛をなびかせた。エメラルド色の水面に反射する太陽の光に目を細めながら、ユイリアは使用人たちを残して、乗船の書類に署名をしてから、オフィリアとともに船に移った。

 一族ごとに準備されている小さな帆船の中で、ようやくオフィリアと二人きりになったユイリアは、
「さっきの紳士はどなたなの?」
 と、聞いた。
 どうやら、オフィリアもそのことを話す時を待っていたようだ。舳先で風を受けながら、突然堰を切ったようにオフィリアが話し始めた。
「エドワード子爵様よ! 何だか奇妙な感じだったわ」
 オフィリアから紳士の名前を聞いて、ユイリアはすぐにそれが誰なのかを理解した。エドワード子爵といえば、オフィリアがつい最近まで熱を上げていた紳士で、舞踏会ではいつもオフィリアの常連のお相手だったお方だ。
 そのようなわけで、実際に姿を見たことはなくても、ユイリアもエドワード子爵の名前だけはよく知っていた。
 しかもエドワード子爵は、国境安全警備隊の責任者を務める優れた官僚だ。
 新聞の記事では、衛兵が行方不明になったまさにその日、エドワード子爵も国境ラインに赴き、現地を視察していたことが触れられていた。
 エドワード子爵様もご苦労なことだ、と、ユイリアは思った。
 つい最近、国境を警備する部下の二人が行方不明になったかと思えば、怪盗ラッフルズから貴重な絵画を奪い盗られてしまうとは。

 ユイリアがこれらの偶然の関連性に気をとられているうちにも、オフィリアは興奮した様子で話し続けた。

「彼ね、左利きなの。だからダンスのとき、彼が何度かリードする手を間違えたことがあってね。ほら、左利きだとリードする手が逆になることがあるでしょう。そんなときは『手違いがあってすみません』って言って、私たち、笑うの。なのに、さっき彼、乗船の書類にサインするとき、右手を使ったわ! ねえ、シャドウ、聞いてる?」
「ええ、聞いてる。けれど、それってそんなに不思議なことかしら。普段は左利きだけど、字だけは右で書けるように訓練される方もいらっしゃるとか」
「そうね。私が知らないだけで、シャドウの言う通り、字だけは右で書くのかもね。でも、なんだか匂いも違ったわ」
「というと?」
「エドワード子爵はいつも柑橘系のコロンをつけているのに、今日は強いミントの香りがしたわ」
「多くの男性はミント系の香りをつけられるのでしょう?」
「そうだけど、エドワード子爵はミントの香りにアレルギーがあるの。だから、いつもオレンジの香りをつけるんだと言っていたのに」
「それは変ね。どうして香りが違うのか、聞いてみた?」
「いいえ。なんだかいつもよりよそよそしくて、聞けるような雰囲気じゃなかったんだもの」
「私には、あたながたがとても親しげにお話しているように見えたけれど」
「シャドウはいつもの彼を知らないのよ。彼、なんだか今日は本当によそよそしかった。ちょっと冷たい感じもしたわ。普段はもっと優しいの。しかもあの人、さっき一瞬、私が誰なのか分からないような顔さえしたのよ! 失礼だと思わない!? もう、こんなのすっごく、がっかり!」

 風を受けて膨らむ帆の影で、ユイリアはオフィリアの言ったことを反芻して黙した。
 左利きだったのに、右利き。
 ……匂いが違う。
 どこかよそよそしい。
 しかもエドワード子爵は一瞬、オフィリアが誰なのか分からないような素振りさえ見せた。
 
 考えられるとすれば、エドワード子爵は大変な心変わりをしてオフィリアのことを嫌いになったか、あるいは……。
 素早く思考を巡らせ、考えをまとめたユイリアは双子の妹オフィリアに向けてこんなことを言った。
「ねえ、オフィリア、いい考えがあるのだけど」
「シャドウのいい考えって、いつも突拍子もないことじゃなかったかしら? 一体、なんなの?」
「離宮についたら、私がオフィリアのふりをしてエドワード子爵様とお近づきになってみようと思うの。いいかしら?」
「いいけれど……、そんなの、すぐにバレるわよ。だって私たち、見てくれはほとんど同じだけど、性格は全然違うじゃない」
「それはそうだけれど、私たち、いつも一番近くでお互いのことを見てるのよ。互いに成りすますことくらい簡単だと思わない?」
「それはそうだけれど……。でも、シャドウが私になるなら、私はどうするの?」
「もちろん、オフィリアは私のふりをするのよ」
「そんなことをして、何かいいことがあるのかしら」
「エドワード子爵様の真意を確かめるの。オフィリアが今話してくれたことが本当だとすれば、確かに彼は何かがおかしいわ。もしかしたら、あの方がオフィリアに抱いていた好意が消えてしまっただけ、ということもあるけれど、気になるの。つまり、……あの方は今本当にあの方なのか」
「まさかシャドウ、さっきのエドワード子爵が偽物だというの!?」
 オフィリアの声が大きいので、すかさずユイリアが妹の口に手を当てた。
「静かに。このことは、私たち二人だけの秘密よ。何か理由があって、影武者をたてていらっしゃるのかもしれないし、もしかすると偽物かもしれないし、けれど、意外と真実を突きとめてしまえば、こんなことは私たちの勘違いだったと分かるのかもしれないわ。それよりも、こんなふうに二人で探偵ごっこができるなんて、楽しそうだと思わない?」
 そう言ったユイリアの深緑色の瞳が、眼前の湖のようにキラキラ光っていた。
 オフィリアはこんなときに思うのだ。
 彼女の双子の姉ユイリアは確かに冷静で賢い。だが、幼い頃から誰よりお転婆で策士なところがある、と。
 それでも、どんなときもユイリアの試みは功をなしたものだ。
 これまでユイリアがやってみようと言ったことで、無駄になったことは一つもなかった。ただし、おおいに面倒なことになったことは沢山あったが……。
 だから、オフィリアは溜め息混じりに応じる。
「シャドウがそう言うなら付き合ってあげてもいいけれど。でも、面白いことにはならないって気がするわ」
「大丈夫。オフィリアのことは私が守るから」

 それからユイリアは、船の中で時間の許す限り、これまでにオフィリアがエドワード子爵とよく交わした会話の内容や、彼の趣味、趣向、考え方の癖や、食べ物の好みにいたるまで、聞き出せることはなんでも事細かに聞きだした。
 そしてオフィリアから聞きとったその一つ一つをすべて、ユイリアは一瞬で記憶にとどめてしまったのだった。
 


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