シャインとシャドウ 2話4
ユイリアの部屋は、屋敷の3階の隠し扉の奥にある。
この部屋に出入りすることが許されているのは、コムストッグ公爵家族と、女中頭、それとユイリアの侍女ポーシャと、アイリスだけである。
部屋の窓から屋敷の前庭を見下ろすユイリアの視線が、ちょうどいま馬車に乗って帰途に就こうとしているオーギュスト伯爵をとらえていた。
美しきユイリアの瞼は静かに伏せられて、体調が悪いのに無理をして出歩いている伯爵を責めるかのように、冷たく光っていた。
ユイリアの部屋の飾り模様の施されたマホガニーの扉が静かに開かれて、かすかに息を弾ませたアイリスとポーシャが入ってきた。
「シャドウ様、ただいま戻りました。お申し付けの通り、オーギュスト伯爵様にワイルドベリーの熱いお茶と、風邪によく効くお大根と生姜のピンチョスを召し上がっていただきました」
「私どもが給仕をしますと、オーギュスト伯爵様は優しく微笑まれて、『ありがとう』、と。高貴な方であられるのに、仕えの者にもあんなに親しく接してくださるなんて、お噂に優る素敵な紳士でいらっしゃいますね。あの殿方が先日の舞踏会でシャドウ様の御相手をなさったと知って、私もアイリスも胸が張り裂けるほど喜んでおりますわ」
「それにしても、伯爵様はお元気そうで、とてもご病気のようには見えませんでしたけれど」
アイリスが不思議そうに首をかしげている。
ユイリアは興奮している様子の侍女たちに微笑みかけながら、さっき、馬車でやって来たときのオーギュスト伯爵の様子を思い返した。
―― シルクハットを脱いだ時の顔色が、少し悪かった。月明りの下でさえ透き通るように血色のいい彼の顔に、今日はどことなく透明感がなかった。
呼吸が、以前に会った時よりも少し速く、浅かった。
庭に射す強い太陽の元でさえ熱がる様子はないのに、不相応に額に汗をかいていた。それから、光が眩しすぎるみたいに目を細めていた。
体調がすぐれない時は、太陽の光がきつく感じることがあるものだ。
それからこれは直感だが、なんとなくオーギュスト伯爵の姿、というか雰囲気が、以前よりも弱々しく感じられた……。
これらはどれも病の兆候であると、ユイリアは経験的に知っていた。
春のブルックリンは寒暖の差が激しく、風邪が流行りやすい。昨日は突然の夕立があって、一気に寒くなった。
そんなことがあったから、もしかするとオーギュスト伯爵は風邪をひいたのかもしれない、とユイリアは考えたのだった。
「私の取り越し苦労ならいいのです。二人とも、お客様に良くしてくれてありがとう」
ポーシャとアイリスは小さく頷き、ドレスの裾をつまんで慎ましく主人に頭を下げた。
その時、廊下にけたたましい足音がしたかと思うと、ノックもなしにいきなり扉が押しあけられた。
「シャドウ! ついさっき、オーギュスト伯爵様が来たのよ!」
と、興奮をつのらせたオフィリアが部屋の中に飛び込んでくる。
アイリスとポーシャは滑るように壁際に下がって、控えた。
ユイリアは窓から離れて、部屋の中央の長椅子に腰をおろして、静かにオフィリアを見つめた。
「貴族の殿方が当家を訪問なさることは、そう珍しいことではないでしょう? 何をそんなに興奮しているのかしら、オフィリア」
「だって、オーギュスト伯爵様がいらっしゃるのは初めてなのよ! 実は私、ある舞踏会で一度だけダンスに誘っていただいたことがあるんだけど、まったくそれっきりでね、とても残念に思っていたの。オーギュスト伯爵様といったら、今、ブルックリンの社交界で一番人気のある紳士で、彼の気を惹きたいと思っている令嬢は多いのよ。私も例外なく、彼の虜というわけなの」
そう言って瞳を輝かせながら、オフィリアが窓に駆け寄り、伯爵の馬車が領地から出て行くのを見送るので、
「彼はやめた方がいいと思う」
と、ユイリアが言った。
馬車は森の木々に阻まれてすぐに見えなくなってしまうと、オフィリアは振り返り、窓から離れてユイリアの向かいの椅子にゆったりと座った。
「どうして? もしかしてシャドウ御姉様、オーギュスト伯爵様のことが好きなの?」
「そうではなくて……」
――彼の正体は怪盗ラッフルズだから。
とは、口が裂けても言えないユイリアは言葉を濁し、少し考えてからこう付け加えた。
「オーギュスト伯爵様はジェームズ王子の親友で、あのお二人は考え方がとても似ていると思ったの」
「ジェームズは嫌いよ!」
「そうでしょう?」
「ええ、大っきらい。下品だし、意地悪だし、非紳士的なんだもの! でも、オーギュスト伯爵様はジェームズとは違うと思うの。あんなに完璧な紳士は他にはいないわ。だからね、次はシャドウではなく私とダンスを踊ってくださるように、さっき頼んでおいたの。いいでしょう?」
ねだるように胸の前で手を合わせるオフィリアは、恋する乙女の瞳をしていた。
なるほど、いいだろう。ユイリアはそれ以上は止めようとはしなかった。
元来、妹のオフィリアはダメと言われることを意地でもやりたがる性質なのだ。
「貴女がそうしたいなら、誰にも止めることはできないわ。オーギュスト伯爵様はダンスがお上手だから、お相手をしていただくのは私も素晴らしいことだと思うわ」
するとオフィリアはまだ何か気になることがあったようで、突然ハッとして口を開いた。
「シャドウは、オーギュスト伯爵様と踊ってはダメよ?」
そんな風に、オフィリアがとても子どもっぽいことを言ったので、ユイリアは思わず噴き出した。
「どうして?」
「だって! オーギュスト伯爵様は私のことよりも、シャドウを好きになると思うから。これは女の直感よ!」
「まあ、それはありがとう。けれど、その心配には及ばないわ。私はもう人前でダンスをすることはないでしょうし、この前の舞踏会でもうお腹いっぱいですからね。あんなに人に見られて、踊りの一挙手一動に声を上げられては、息が詰まってしまいそうなんだもの」
舞踏会の夜に、人々の目がユイリアに集まり、その躍動の端々にまで歓声や感嘆のため息が漏れたのは、ユイリアがあまりに美しく、その踊りが素晴らしかったからだった。それをオフィリアは知っていたが、姉の前では口に出さなかった。
「約束できる? オーギュスト伯爵様とはもう一緒に踊らないと」
オフィリアからそう問われて、ユイリアは優しく微笑み、逆に問い返した。
「たとえばオフィリアは、もうジョージ王子と一緒に踊らないと約束できるかしら?」
すると、オフィリアは少し考えてから、残念そうに首を横に振る。
「できないわね」
「それはどうして?」
「だって、私はジョージと踊りたくないけれど、もしも公の場で殿下からダンスを申し込まれるようなことがあったとしたら、それを断ることは許されないから。その時には嫌でもジョージと踊らなくてはいけないでしょうね」
「その通りだと思うわ、オフィリア。同じように考えると私も、この件に関しては約束することはできない、という結論になるわね」
こうして簡単にとき伏せられて、オフィリアはゆっくりと溜め息をつきながら椅子に深く沈みこんだ。
ユイリアは妹の落胆をくみ取って後を続けた。
「けれど、オフィリアがオーギュスト伯爵様に好意を抱いていたとは知らなかったわ。これからは、貴女の気持ちに配慮した行動をとることを約束します」
「実を言うとね、この前の舞踏会でシャドウと一緒にいるオーギュスト伯爵様があんまり素敵に見えたものだから、急に彼が欲しくなったの。彼ってすごく、素敵よね。完璧な紳士なのに、どこか危険な魅力もあって、謎めいていて、物腰は柔らかいのに、他人に媚を売るようなところが全然ないの」
オフィリアが正直な胸の内を告白するのを聞いた時、ユイリアの心に芽生えたのは嫉妬ではなく、不思議な事にそれは安堵だった。
間もなく、ユイリアが魔女に連れられてこの場所を永遠に去る時、その時に妹のオフィリアの傍にオーギュスト伯爵が居て支えになってくれたとしたら、どんなに心強いだろうか、という考えが突然ユイリアの頭にひらめく。
少なからず、妹にはユイリアのことでこれまで多くの迷惑をかけてきた。魔女の宣託があってからというもの、父の守護の関心はもっぱらユイリアに注がれていたし、その一方でコムストッグ公爵令嬢として公の舞台に出る仕事は、すべてオフィリアが担ってきた。二人だったら楽しさは2倍、苦しみは半分だったことが、これまでずっと制限されてきたので、オフィリアが抱えてきた我慢が大きいことを、姉であるユイリアはよく理解している。
オフィリアだってユイリアと同じように幼いころから寂しい思いをしてきたのだ。けれどそんな中にあっても、魔女の託宣のためにともすれば暗くなりがちな屋敷の中を、いつも明るく賑やかにしてくれていたのはオフィリアだ。
自由で快活で、明るく、時より直感にばかり頼るので危なっかしいところさえある妹を一人にしてしまうこと。それがユイリアには心配でならなかった。
けれどオーギュスト伯爵がいたらどうだろう! 彼ならきっと、妹を支え、守ってくれるはずではないか。
「ところで、オーギュスト伯爵様は王様の刻印の入ったお手紙を届けに来たらしいの。ねえシャドウ、一体、そのお手紙には何が書いてあると思う?」
「さあ、想像もつかないわね。国王陛下の刻印書簡ということであれば、お父様がお受け取りになられたのでしょう?知る必要のあることなら、後で私たちにもお父様からお話をいただけるのでしょうけれど」
図らずもユイリアがそう言った直後、部屋の扉が厳かに3回ノックされた。
侍女のアイリスが滑るように進んで扉を開けると、そこには執事長のゼファーが立っていた。
漆黒の燕尾服を纏ったゼファーはユイリアの部屋に入ることなく、その場で要件を述べた。
「恐れながらお嬢様、旦那様がお呼びでございます。お二人ともすぐに、旦那様の書斎にお越しになられますように、と」
執事長の落ちついた皺枯れ声は、なめらかに心地よく部屋の者全員の耳に届いた。
ユイリアとオフィリアは同時に立ち上がった。
「ありがとう、ゼファー。すぐに参りましょう」
ユイリアは二人の侍女を残して、オフィリアとともにゼファーに従ってそのまま父の書斎に向かった。
ハイエネス・コムストッグ公爵の書斎は屋敷の3階の、一番北側の広い角の部屋だ。
ヤナギハッカの彫刻が施された重厚な樫の扉をゼファーがノックすると、二人はすぐに部屋の中に通された。
半円形の部屋には前室があって、壁一面が本棚になっている。ここは特にコムストッグ公爵の親しい友が招かれる応接間として用いられている。
「旦那様は奥でお待ちです」
それだけ言うと、執事長のゼファーは二人を残して下がって行った。
「お父様、参りました」
「やあ、来たね。ユイリアかい?」
「はい。オフィリアも一緒です」
「それはよかった」
父ハイエネス公爵は奥の間から顔を出して、二人を手招きした。
「さあ、二人ともそこへかけなさい」
書斎の大きなデスクの前に2脚の赤い布張りのふかふかした椅子があり、ユイリアとオフィリアはそれぞれすすめられるまま腰を下ろした。
父の書斎に呼び付けられるなど、年に一度あるかないかの大事であるため、二人とも椅子には浅く腰かけて、緊張して背中を伸ばした。
「正直なところ、次にこの部屋に入るのはお父様に結婚相手を紹介するときだと思っていたわ」
と、緊張を無理にほぐそうとオフィリアが軽口をたたく。
「ほお、もう結婚相手が決まりそうなのかい? それは誰だい」
父はリラックスした様子で机の向こうからオフィリアに微笑みかけた。
「さあ。オーギュスト伯爵様かもしれないわね」
オフィリアがそう言うと、一変、父ハイエネスは驚いて束の間、言葉を詰まらせた。それからユイリアの方へちらりと視線を送るが、ユイリアの方は無表情で父を見つめている。
この時父が懸念したであろう心配、つまり、二人の娘が同時に一人の男を好きになるのではないかという父の心配を、ユイリアは即座に読みとって口を開いた。
「お父様、オフィリアは冗談で言っているのですわ。つい先ほどお会いしたばかりの素敵な紳士のお名前が例としてここで取り上げられたとしても、不思議ではありませんでしょう? もっとも、私はオフィリアがオーギュスト伯爵様のような素敵なお方に好意を抱くのは、とても良いことだと思います」
ユイリアの言わんとしていることを、父ハイエネスはすぐに読みとった。つまり、
――オフィリアの言ったことを即座に本気にするな。そして、私はオーギュスト伯爵に特別な恋愛感情は抱いていないから、恋煩いの心配はいらない、と。
「なるほど、彼のような素敵な紳士に【娘たち】が目を留めたとすれば、私も鼻が高い」
――いやいや、お前も彼には興味を抱いているはずだろう。
もちろん父は、娘ユイリアが心の内に秘めているオーギュスト伯爵へのささやかな好意に気づいていたし、むざむざそれを見過ごすつもりはない。
オーギュスト伯爵は命をかけてユイリアを助けると約束してくれた好紳士だ。
口にこそ決して出しはしないが、父ハイエネスはオーギュスト伯爵こそがユイリアに相応しい相手だと思った。
父と姉のこの暗黙のやりとりには気づかずに、オフィリアはジレったそうに先を促した。
「それでお父様、私たちをお呼びつけになったのは、国王陛下からお手紙があったからなのでしょう? 一体、どのような要件なの」
「さよう、王から特別のご命令だ。ジェームズ殿下のもとに嫁いで来られるアスターシャの姫君のことは、お前たちも聞いているだろう」
「もちろんです」
「はい」
「フローラ姫の良き友を、陛下は求めておられる。遠い異国の地に一人で嫁いで来られる姫君が寂しくならないように励まし、優しく寄り添う友を。それには優れた社交術を持ち、芸に秀でた貴族の息子娘たちが相応しいと陛下はお考えのようなのだ。そこで近々、特にフローラ姫と相性の良い貴族を選別するために試験的な集いを催されるとのことで、お前たちもその選別の集いに参加するようにとの国王陛下直々の命だ」
「その選別の集いは、どこで行われるのですか?」
「避暑地となる湖畔の離宮で」
「あのお化け屋敷で!? 冗談でしょう」
オフィリアが電撃にでも打たれたように激しくのけ反り、両手で顔を覆って天を仰いだ。
湖畔の離宮は、市街から離れた森の奥深くにあって、海のように大きなブルックリン最大の湖に浮かぶ孤島に建っている。
昔はよく王子たちとともにユイリアとオフィリアも避暑のためにその古い城を訪れたものだ。
しかし、離宮は避暑地であるとともに、有事の際の王家の避難場所でもあるので、城の至る所に様々な仕掛けが施されている。壁は動くし、隠し扉も数多くある。絵は反転するし、甲冑にも動く仕掛けがある。そんなわけで、イタズラ好きの王子たちが城の仕掛けでオフィリアをひどく恐がらせたので、今でもオフィリアは離宮にはお化けが出ると思っているのだ。
「お父様、その選別の集いには本当に私も参るのが良いのでしょうか」
「まさか、ユイリアもお化けが恐いのかい?」
「いいえ、そうではないのです。私はもう長くはこの国にとどまれないので、アスターシャの姫君の良き友となるには相応しくないのではないかと思うのです」
「なるほど、お前がそう言うのももっともだ。だが、先のことよりも今を考えなければならない。今、アスターシャとブルックリンの国交が緊迫していることは、お前もよく知っているだろう。そのような中、昨年のサフラン王女の事件を受けて、フローラ姫は大きな悲しみを抱えてこの国に嫁いで来られるのだ。そのような痛みを抱える姫君の心に本当に寄り添える者は、そう多くはいないだろう。王は、ユイリア、今こそお前の力を求めておられるのかもしれない。かつて、ジェームズ殿下の心を変えたように、傷ついた姫君の心にも寄り添うことができるとするなら、たとえそれが永遠には続かぬとしても今、最善を尽くして見るべきではないだろうか」
「かいかぶりですわ。私に力などありません」
「襟首つかんでグーで殴る力があったのよね、……ジェームズの」
「その通り」
「ユイリアがが行きたくないと思うならば、私から王にお話申し上げるが」
「行きたくないわ!」
と、オフィリアが口を挟む。
「オフィリアは行きなさい。お化けなどもう出ないかもしれないだろう、いい子だから」
「御姉様が行かないなら、私も行かないわよ。だって、本当に恐いんだもの」
「どうするね、ユイリア」
「お父様はいつも私をかいかぶっていらっしゃいますわ。その一点だけをお断りさせていただいた上で、お父様のお言葉は大変嬉しく、もちろん国王陛下の求めには応じ、従わせていただきます」
「よろしい。では出発の日は近い。二人ともすぐに旅の準備を始めなさい」
そう言われて、双子の姉妹は同時に椅子から立ち上がった。
「頼んだぞ、私の大切な娘たちよ」
コムストッグ公爵は二人の美しい娘たちを優しく抱き寄せて、そのそれぞれの額に幸運のキスを落とした。
「「はい」」
父に力強く背中を押されると、ユイリアもオフィリアも胸の内が熱くなって力が湧いて来る。
そうなるともう、「できません」、とは言えないのだ。ただ父の期待に、なんとしてでも応えたくなる。
これがコムストッグ公爵の娘たちなのだ。
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