シャインとシャドウ 2話3


 王の刻印書簡を携えて、アレクサンドル・ダラハン・ルーク・オーギュスト伯爵はコムストッグ公爵領地に馬車で入っていった。
 初めてこの領地を訪れた時は仮面をつけたラッフルズとして、月桂樹の森を密やかに歩き進んだものであるが、真昼の太陽の下でオーギュスト伯爵は今、堂々と公爵家の庭門をくぐった。
 屋敷の前庭に乗りつけて馬車を降りると、迎えの従者よりも先に予想外の人物がオーギュスト伯爵を出迎えた。
 それは黄金色の艶やかな髪を結いあげた、美しきオフィリア公女だ。

「御機嫌よう、伯爵様」
 オフィリアは人好きのするくったくない笑みを浮かべながら屋敷の正門から姿を現し、まるでかねてから仲の良い親友を出迎えるかのようにオーギュスト伯爵に近づいて来た。
「これはシャイン公女。御目にかかれて光栄です」
 オーギュスト伯爵は滑るようにシルクハットをとると、この出迎えの令嬢に慎み深く頭を下げた。
「屋敷の窓から馬車がやってくるのが見えたので、急いで降りてまいりましたのよ。伯爵様が当家にいらっしゃるなんて初めてではありませんか? 本日は、何用ですの?」
「突然の訪問、恐れ入ります。本日は、コムストッグ公爵家の二人のご令嬢様に、王よりの書簡をお届けに上がりました」
「まあ、そうでしたか。それではここで私がお受けいたしますわ」
「そうできれば良いのですが、恐れながら王の刻印書簡は一家の長にお渡しする決まりなのです。コムストッグ公爵はご在宅でしょうか」
「面倒な決まりがあるものね」
 と、オフィリアが少し怪訝な表情を見せた。
 伯爵とオフィリアのやりとりを傍で見守っていたコムストッグ公爵家の従者が、すぐに前に進み出て、伯爵を屋敷の中に招き入れようとした。
 するとオフィリアが従者と伯爵の間に割って入った。
「応接室へは私がご案内しますわ」

 従者は一礼すると、一家の主であるコムストッグ公爵を呼びに、屋敷の中へと足早に引き返して行った。
 従者が去ってしまってから、オフィリアがオーギュスト伯爵に微笑みかけた。
「では素敵な伯爵様、こちらへどうぞ」

 オフィリアに導かれながら、オーギュスト伯爵はまるで初めてその場所に訪れるかのように、屋敷の中にゆっくりと足を踏み入れ、シルクハットを胸に構えた。
 その仕草は、生まれながらに紳士たる立ち居振る舞いを身に付けた、自然で優雅な所作であったので、オフィリアが思わず笑みを漏らしたほどだ。
 だが一変、そのときオーギュスト伯爵の頭の中には、一度ラッフルズとしてこの屋敷を訪れたときの記憶が事細かに蘇っていた。
 物の配置、廊下の構造、どのような部屋がどこにあるのか、というコムストッグ公爵邸の見取り図がこのときも鮮明に頭の中に描き出され、記憶と違う箇所には修正を加えて行く作業に、オーギュスト伯爵は密かに没頭した。
―― 一度訪れた場所をラッフルズは決して忘れない。
 だが、あのときは公爵家の令嬢が双子だということを知らなかったので、ユイリア嬢の部屋がどこであるかを認識していなかった。それだけがラッフルズの頭の中の見取り図にまだ描きこまれていないのだ。
 だから、オフィリアの後について歩きながらも、オーギュスト伯爵は、この屋敷のどこかにユイリア嬢がいると思って静かに胸を高鳴らせ、ユイリアの姿を捜して周囲にさり気なく視線を走らせてみた。しかし、どうにも今日は靄(もや)がかかったように視界がぼんやりして、もちまえの観察眼を発揮することができない。
 集中力は途切れがちであるし、初めてこの屋敷を訪れた時に感じた、磨き上げられた家具の芳しい木材の香りさえ、今は全く感じられなかった。
 
 そうこうするうちに心地よい日陰の廊下を抜けて、やがて一面窓張の開放的な応接室に通された。
 部屋の中は眩しいばかりに日に溢れ、午後の熱気で温かくなっていたが、このときオーギュスト伯爵はかすかに寒気を感じた。
 
 オフィリアが部屋の中央の長椅子に座るようすすめたが、オーギュスト伯爵は丁寧にそのすすめを断り、姿勢を正して立ったままコムストッグ公爵を待った。
 するとオフィリアはくつろいだ様子で長椅子の近くのアンティークの丸椅子に腰かけ、豊かなドレスの裾を正した。
 深紅のドレスはなるほど、シャイン公女によく似合っているとオーギュスト伯爵は思ったが、少し派手すぎて伯爵好みではなかった。
「先日の舞踏会では、私の姉のシャドウの御相手をしてくださって、ありがとう存じます」
「とんでもありません。こちらこそ、御相手をさせていただき光栄でございました」
「シャドウは、舞踏会に出たのはあの夜が初めてでしたのよ。それなのにどうして、ジェームズ王子がシャドウの面倒を伯爵様に負わせる気になったのか、不思議ですわね。もしかして伯爵様は、以前からシャドウのことを知っていましたか?」
 オフィリアが何かを怪しんでいるらしいので、オーギュスト伯爵はつとめて冷静に微笑んで見せた。
「僕はただ、令嬢をお護りする栄誉にあずからせていただいたまでです。御姉様には何か、特別な事情が御有りのようですね」
「貴方は、その内容をご存じなの?」
「いいえ。知る必要のないことです」
 オーギュスト伯爵はほんのわずかの隙も見せず、完璧に嘘をついた。
 真の怪盗が隠そうとするものを見い出す者は、そうはいないだろう。オフィリアも、なるほど、この伯爵は秘密を何も知らないのだと納得した。
「そうですか」
 それからオフィリアは立ち上がると、壁の本棚の前の、チェス盤の置かれたテーブルの前までゆっくりと歩いて行った。
「私たち姉妹の間には隠し事なんて少しもないのに、シャドウったら、あの夜に伯爵様とどんなお話をしたのか、ちっとも教えてくれないんですよ」
 このオフィリアのあけっぴろげな興味は、オーギュスト伯爵をいささか不快な気分にさせた。
 双子の姉妹といえども、舞踏会の夜の相手とどのような会話をしたかまで探り合う用はないはずだ。
 勿論、オーギュスト伯爵はそんな心中をオフィリアに察せられるような素振りは微塵も見せはしないし、あの夜ユイリアとどのような会話をしたかを漏らすつもりもない。重要な部分は。
「僕は、御姉様とジェームズ殿下とのダンスがとても素晴らしかったと申し上げ、御姉様はそのせいで息が上がってしまったことなど、とりとめのないお話をされました」
「退屈だったんじゃありませんか?」
 そう問われて、オーギュスト伯爵はかすかに首をかしげた。
「御姉様は控えめで、聡明な方であるようにお見受けしましたが、退屈だとは感じませんでした。なぜ、そのようなことを御尋ねになるのですか、シャイン公女」
 すると、オフィリアは無邪気な子どものようにクスクス笑った。
「実を言うと、私ったら少し焼き餅をやいたのかもしれませんわ。それで、貴方がシャドウのことを気に入ったのかどうかが気になったんですの。大抵の男性は思うんじゃないかしら、シャドウは退屈だと」
 しかしオーギュスト伯爵に言わせれば、今ここでオフィリアと話していることの方が退屈に思われた。
「焼き餅を焼かれたとは、御姉様にですか? まさか、僕にではないでしょう」
「ねえ、オーギュスト伯爵様」
 オフィリアが甘く囁いた。
「次は私の御相手をしてくださいな」
「勿論、御望みとあらば喜んで。ですがシャイン公女、貴女に好意を抱く紳士連は大勢いますから、僕などが彼らの前に出るなど、おこがましいことかもしれません」
「まあ、そんなことありませんわ。お願いです、次はシャドウではなく私の相手をすると、約束してください」
「機会があれば是非にも、お相手をつとめさせていただきます」
 そう応えながら、オーギュスト伯爵は何やら胸の騒ぐ違和感を覚えて問い返した。
「もしかすると僕は何か、貴女の御姉様に失礼を働いたのでしょうか。貴女が急にそんなことを仰るのは僕に好意を抱いてくださっているからではなくて、僕を御姉様から引き離されようとなさりたいのではありませんか?」
「さあ、それはどうでしょうか」
 ちょうどそのとき、コムストッグ公爵が応接室に入って来たので、オフィリアは意味深な含み笑いを残すと、「それでは伯爵様、御機嫌よう」と一言、長いドレスの裾を持ち上げて部屋から出て行った。
 
 自分は何か、ユイリアから嫌われることをしてしまったのだろうか。
 確かに、舞踏会の夜は少し挑発的すぎたかもしれない、とオーギュスト伯爵は思った。けれど、彼女がオーギュスト伯爵に対して嫌悪感を抱いたのだとすれば、それに気がつかないほど伯爵は鈍感ではない。
 けれど、あのように聡明なユイリア公女のことであるから、心の内を悟られないように隠しおおせたか、あるいは、後になって考えてみてオーギュスト伯爵のことを無礼な男だと認定したのかもしれない。

 コムストッグ公爵に丁寧にご挨拶申し上げながらも、オーギュスト伯爵の心の内は穏やかではなかった。
 なんだか急に吐き気さえもよおしてきたようだ。

 コムストッグ公爵に簡潔に要件を伝え、ジェームズ王子から預かった王の刻印書簡を手渡すと、オーギュスト伯爵は早々に御暇を願った。
 しかしどういうわけか、コムストッグ公爵は部屋の中央の長椅子に座るよう勧めてきた。
 オフィリアのすすめは断ったオーギュスト伯爵も、これには応じた。

 すぐに屋敷の女中と思しき女たちが、といっても、彼女たちの服装が女中というには高貴すぎるので、もしかすると誰かの侍女なのではないかとオーギュスト伯爵は思ったのだが、その二人の控えめで美しい女たちが実に手早く紅茶と、銀の盆に盛り付けた軽食を、長椅子の前のローテーブルまで運んで来た。
 真珠のように白く輝くティーカップに注がれたのは、湯気の立つ美しいルビー色の茶で、それがいたくオーギュスト伯爵の興味を惹いた。
「珍しい色ですね。よろしければ銘柄をお教え願えますか」
 伯爵の問いかけを受けて、コムストッグ公爵は嬉しそうに頷いた。
「銘柄と言えるものはないのですよ。これは娘のユイリアが庭で積んだ野苺から作った紅茶でして、風邪にとてもよく効くのです」
 貴族の娘が庭で野苺を摘んだり、台所に立って何かを作るなどという話は、一般的には恥ずべきことだとされていた。
 だから、にわかには信じ難く、驚きながらも、オーギュスト伯爵はその熱い紅茶をゆっくりと口に含んだ。
 その途端、匂いに鈍感になっていた鼻にスーっとワイルドベリーの甘く清閑な香りが突き抜けた。
「これは美味しい。とても良い香りですね」
 頭がぼーっとする感じや、つい先ほどから感じていた吐き気が嘘のように引いて行く。
「娘が作った紅茶は、お客様には滅多にお出ししないのですが、どういうわけか今日は、ユイリアが侍女たちに命じて、伯爵様に是非ともこれをお飲みいただくようにと言うのです」
 そう言いながら、公爵は盆に盛られた軽食も食べるように、オーギュスト伯爵を促した。
「これは大根を茹でてから氷水につけてたっぷり冷やしたものです。その上に蜂蜜と、蜂蜜漬けの刻み生姜を載せてあります。これも、風邪に良く効く」
「失礼ながら、僕が風邪をひいているとどうしてお分かりになったのですか?」
「さあ、どうしてでしょうか。あいにくと、姿をお見せできずに申し訳ありませんが、娘のユイリアは鼻が効くのです。病人を見つけだしては看病をしたがるところがありまして、それはもう、患っている当人でさえまだ気づかぬうちに嗅ぎつけてしまうのですよ」
 コムストッグ公爵は冗談ぽく、だが控えめにクスクスと笑った。
 いつ、どこで見られていたのか、オーギュスト伯爵は不思議でならなかった。
 仕事柄、周囲の気配には並より敏感なはずのオーギュスト伯爵であるが、体調を悟られるほどユイリアから見られていた気配に気づくことができなかったとは。

「ところで、アスターシャの姫君を御迎えする役には、貴殿も任じられることになるのでしょうね。私の娘たちも例外なく選別にあずかるようだから、何かとご厄介になるかもしれない。オフィリアはともかく、ユイリアは長く社交の場から離れていたので、頼れる友人が少ないのです。貴殿には迷惑かもしれないが、どうかあの子を助けてやってください。殿下に近く信頼の厚い貴殿なら、きっとユイリアを上手く扱えるでしょう」
 何か癖があって扱いの難しい武器のことでも話す見たいに、そうコムストッグ公爵は言うのだが、その口調にはユイリアへの愛情が滲みでていた。
 ジェームズ王子から、幼い頃のユイリア嬢の話を聞いたばかりとあっては、オーギュスト伯爵にもユイリアを『上手く扱える』かどうかはあやしかったが、コムストッグ公爵が少なからず自分を頼りにしてくれていることが、伯爵には嬉しかった。由緒ある家系、コムストッグ公爵家の当主たれば少しくらい偉そうなところがあっても不思議はないはずなのに、今、オーギュスト伯爵の向かいに座るコムストッグ公爵にはそのようなところが全くないことにも驚きだ。
 かすかに白の混ざる短かめのブロンドは無造作に跳ね、それが可愛らしくもこの紳士の聡明な魅力を引き立てているようにも見えたし、ユイリアと同じエメラルド色の瞳からは、かえって穏やかで気品に満ちた優しさが零れていた。

 数年前に亡くした父のことがふと思い出されて、オーギュスト伯爵の胸の内が熱くなる。
「僕にできることがあれば、なんなりとお引き受けいたします。おそらく、『上手く扱われる』のは僕の方だと思いますが」

「そんなことを仰らないでください。あの子は、舞踏会の夜に相手をしてくださったオーギュスト伯爵を、たいそう気に入った様子でしたよ」
「僕のことを、何か仰っていましたか?」
「いいえ、何も言わないから、気に入ったのだと分かるのです」
 そう言って、コムストッグ公爵が意味深に微笑んで、伯爵にウィンクした。

「さあ、体調の悪い方をいつまでも引き止めるのはまずい。これを召し上がって、真っすぐ家に帰り、今日はゆっくり休まれるのが良いでしょう」
 オーギュスト伯爵はそうすすめられるまま、銀の盆から冷大根を手にとって、一口に頬張った。

 ヒンヤリと冷たいサクサクとした大根の食感は熱を帯びたオーギュスト伯爵の喉に心地よく、とろりと濃厚な蜂蜜が喉の痛みを和らげてくれた。
「大根には悪い熱を下げ、良い体温を維持する働きがあるのです。蜂蜜は庭で獲ったものです」
「もしかするとこれも、月色の乙女が」
――月色の乙女。
 それはただ、シャドウというユイリアの通り名を避けて、オーギュスト伯爵が何気なく口にした言葉であった。三賢者がユイリアのことをそう呼んでいたのが頭に残っていたのだ。
 だが、コムストッグ公爵にとってその呼び名には特別の意味があった。
 かつて現れた魔女が呼んだのと同じ名で、オーギュスト伯爵がユイリアを呼んだということにコムストッグ公爵はすぐに気付いたし、また、その瞬間に悟りもした。
 つまりジェームズ王子が舞踏会の夜に、オーギュスト伯爵をユイリアに引き合わせたことには何か特別の意味があり、おそらくオーギュスト伯爵はユイリアの秘密を知っているのだと。
「ええ、この蜂蜜はユイリアが獲りました。それはそうと、オーギュスト伯爵、貴方に頼みたいことがあります」
 コムストッグ公爵が姿勢を正し、長椅子に座りなおしたことに、オーギュスト伯爵もすぐに気づいた。
「なんでしょうか」
「娘を、助けてやって下さい」

 先ほどとは違う、真剣な、含みのあるコムストッグ公爵の願いに、オーギュスト伯爵は静かに息を呑まずにはいられなかった。
 なんと聡明なる殿であることか。この短い時間に、ほんの少し会話をしただけで、どこまで正体を知られたかは定かではないが、ともかくオーギュスト伯爵がユイリアを救いだせる何者かであるということを、この公爵は悟ってしまったのだ。そうでありながら、確信をつく問いかけはせず、ただ先に社交界での娘の面倒をみってやってくれという意味合いで発した言葉と同じく、今再び、娘を助けてくれと今度は別の意味合いで言っているのだ。

「最善をつくします。僕の命をかけて」
「ジェームズ殿下は、この件をご存じですか」
「はい」
 言葉少なに、オーギュスト伯爵とコムストッグ公爵は互いに視線を交わした。

 それ以上を語ることは危険であったし、それ以上を語る必要はなかった。




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