シャインとシャドウ 2話2



 次の日、砂漠の国アスターシャの第二王女フローラ姫が、ジェームズ王子の元に嫁いでくることが国中に発表された。
 実はこの前年、フローラ姫の姉である第一王女、サフラン姫がジェームズ王子に嫁いでくるはずだった。しかし、ブルックリンの国民が盛大なる祝杯を備えて待つ折りもおり、サフラン姫はその道中で何者かに暗殺されてしまったのだ。誰もが耳を疑う悲劇だった。
 それからというもの、友好国であるアスターシャとブルックリンとの国交にはそこはかとない不穏な空気が漂い始め、とりわけ砂漠の国アスターシャにおいては、ブルックリンに対する不信の思いが抑えようもなく湧き起こっていた。そこで、ブルックリンとの友好を強く願うアスターシャの王はすぐに第二王女フローラ姫ををジェームズ王子へと贈り出す決意を固めたのである。
 『友愛』という意味の冠をかぶる、まだ年若い第二王女、フローラ姫を。

 ブルックリン国王は、両国の国交に関わるこの大切なフローラ姫を、今度こそ無事に迎えいれるべく――国力の限りを尽くす心構えだ。
 フローラ姫の旅程に向けて、王の勅命により警護態勢は万全に、すべてが順調に整えられようと動き始めた。
 むろん、フローラ姫を守るために動き始めたのは王ばかりではない。これには、ブルックリンを影で支える三賢者と、ラッフルズも加わった。





 昨晩の突然の大雨が嘘のように、白亜の王宮には明るい太陽の光が降り注いでいた。
 第一王子ジェームズの居室のテラスで、オーギュスト伯爵は昼の紅茶をいただきながらシルクハットをかぶりなおした。陽の光が眩しすぎるのだ。
 目の前で注がれた紅茶の匂いが判らず、いつもより鼻が遠いなと思っていたところで、給仕の者が黄金色のティーカップにたっぷりとミルクを注ぎ入れたのを見て、オーギュスト伯爵はそこで初めて、なるほど本日の紅茶はアッサムかと、うかがい知る。

「今日はどうして、いつもとは様子が違うようだな、ルーク」
 給仕の者を下がらせてテラスに二人きりになると、全身白い花婿衣装に身を包んだままのジェームズ王子が、ニヤニヤしながらオーギュスト伯爵の姿を眺めまわした。
 オーギュスト伯爵ははたと首を傾げると、ジェームズ王子の全身を顎で指し返してから笑った。
「どこが。それは、お前の方だろうジェームズ」
「ああ、これはな、婚礼の衣装合わせだ。まったく、疲れたよ」
 ジェームズ王子はさも大仕事をこなして骨が折れたと言わんばかりに、大きく息を吐いて気だるく紅茶を呑みくだした。
 どちらかというと、疲れ果てていたのはジェームズ王子に衣装を着つけていた宮廷使用人たちの方に見えたが、オーギュスト伯爵はあえて含み笑いを見せるだけにとどめた。
 かすかに頭が痛く、熱っぽいような気がする。昨夜の冷たい雨にさらされたのが悪かったのかもしれない。

「俺の方は婚礼の衣装合わせだが、お前の方はどういうわけだ?」
「だから、何が? 姫の護衛の件で呼び付けたのはお前の方だろう。それと、三賢者に会ってきたから、その報告に来たのさ。さっきから何を言ってる?」
「お前のその格好だよ。今日はいつもより、色男じゃないかルーク。一体どうしたのかな?」
 オーギュスト伯爵が不機嫌に鼻を鳴らした。
「俺が色男じゃない日なんて、今までに一度でもありましたかね、王子」
「今日はいつもより、洒落ている」
「宮廷に謁見に来ているんだから、身なりを整えるのは当然だろう」
「だが、ダークスーツばかりのお前が、今日はベルベッドのダークレッドのスーツ。幅広の立襟に、スーツに色を合わせたシルクのアスコット・タイ。俺の眼はごまかせないぞ、ルーク。そのスーツはシンプルなようで、仕立ては最高級だろう。折り返しの袖にも、それから……」
 そこまで言って、ジェームズ王子はいきなり手を伸ばし、テーブルの向かいに座るオーギュスト伯爵のベストの裏側を盗み見た。
「やっぱりだ! ベストの裏にも刺繍の施された高級品を着ているな。当ててやろうか、これから女に会いに行くんだろう」
「騒ぐことじゃないだろう。コムストッグ公爵邸にご挨拶に伺うだけだよ。面倒な王子の御相手が終わり次第、すぐにでも飛んで行くつもりだが、何か?」
「ユイリアに会いに行くのか。本気で惚れたのか?」
 ニヤニヤと見つめられて、オーギュスト伯爵は椅子に座り直す。
「彼女は興味深い女性だと思う。なるほど、確かに、俺があの令嬢に好意を抱いているのは間違いない。だがそれを愛だ恋だと論じるのはまだ早急だろう。舞踏会の夜には、挑発的な言葉をいくらか投げかけて恋の駆け引きを楽しみもしたが、御察しの通り彼女に火がつくことはなかったしな。驚くほど美しく聡明な令嬢だよ。だが、退屈なほど常識的で、冷たいところもありそうだ。大丈夫さ、恋に盲目になるほど、差し迫ってはいない。馬鹿な事はしないさ。自分の立場はよく弁えている。ただ、正体を知られていることが気がかりだから、様子を探りに行くまでのこと。それだけのこと」
 矢継ぎ早にまくしたてたのは、心の内をさらけ出すことに少なからず苦痛を感じ、尚且つ自分で語っていることにかすかな違和感を覚えたからだった。
 オーギュスト伯爵は気まずさを振り払うために、ミルクティーを口に運んだ。
 アッサムはミルクを入れても香りが強くたつ紅茶だが、オーギュスト伯爵はこの時、その香りも味もほとんど感じることができなかった。
 ただ熱い紅茶を呑み下すとき、喉が擦り切れるように痛かった。

 ジェームズ王子が、ふーん、と、気のない合槌を打ってテーブルに肘を突き、てのひらに頬を預けて、何か珍しい物でも見るみたいにオーギュスト伯爵を見つめてくる。
「何だよ」
「別に。ただお前にも、人間らしいところがあるんだな、と思って」
「それは褒め言葉だよな」
「いや、褒めてない。普通だろう。今まで訓練された傭兵みたいに無感情で、怒りか理性しか見せなかったお前が、今抱いているその感情は、戸惑い、かな。今まで見る中で一番人間らしくて、ちょっと安心している俺がいる」
「感情くらいあるさ。失礼だな」
「ユイリアの件だがな、俺は、お前が馬鹿なことをするとは思っていないよ、ルーク。たとえお前がユイリアに恋をして、毎日のようにコムストッグ公爵家に訪問しようとも、俺はお前を馬鹿だとは思わない。それに、ユイリアがお前の正体を誰かに喋る心配もないと思うぞ。そんなことは、ユイリアと一時でも一緒に過ごしたお前になら、分かっているはずだがな」
 そうなのだ。そんなことは分かっている。
 ただ、隠居の公女になんとかして会いに行くための、口実が欲しかっただけなのだ。それをいとも簡単に見抜かれて、オーギュスト伯爵は閉口する。
 だがジェームズ王子は責めるでもなく、むしろ友への信頼の現れた優しい口調で真を突いてきた。普段はお行儀が悪く、口も悪いこの王子は、人をみる目は確かで、心の奥底を見透かして来る。それはジェームズ王子の心そのものに曇りがなく、まるで源泉のように澄んでいるからなのだろう、と伯爵は思う。だから、ジェームズ王子の周囲には昔から自然と、優れた善い人々が集まるのだ。心の内にやましい隠し事のある者は、たちどころに見透かされてしまう気になって王子のもとにとどまることができないから。
 
「確かに、公女は信頼のおけるお方だと思う。実際、舞踏会の夜にも、俺の正体を口外しないと約束してくれた。だが素直にそれを認めてしまうと、コムストッグ・ユイリア公女に会いに行く正当な口実が、俺にはないことになる。公女はおそらく、もう俺に会う気はないだろう。事実、はっきりそう言われたしな」
 オーギュスト伯爵がそう白状すると、ジェームズ王子は突如立ち上がって、重厚なマホガニーの書類机から一通の封筒を取り出して来て、それを伯爵に差し出した。
 封筒は王の刻印で封蝋されている。
「これは?」
「コムストッグ公爵家にそれを届けてくれ。どうだ、立派な口実ができたじゃないか」
「お安い御用だが……王の刻印書簡とは、大業だな」
「それはフローラ姫を接待する貴族を召集するための書簡だ。だがその前に、国中の貴族を王宮に集めて、選別試験を行う。というのも、フローラ姫はあらゆる才に秀で、いささか他人を見下す癖があり、人をあまり寄せ付けないというお噂までたつお方なのだ。たった一人で異国の地に嫁いでくる姫が孤立してはいけないから、失礼のないよう相応しい接待役を見つけるようにとの、父上の意向でな」
「それで、選別試験か……。コムストッグ公爵令嬢も例外ではないというのだな」
「お前とて例外ではないぞ、ルーク」
 ジェームズ王子に視線で捕えられたオーギュスト伯爵は、気難しい他国の王女のために神経を擦り減らさなければならないことを予見して、これは面倒な事になりそうだと内心で溜め息をつきながら、無言で頷いた。――すべては国交のためとあらば、されとて仕方あるまい。

 風の噂によると、アスターシャのフローラ姫はどうやら、ブルックリンに嫁いでくることに乗り気ではないという。
 それもそうだ、異国にたった一人で嫁いでくるというだけでも不安であろうに、それがつい1年前に姉が殺されたばかりの異国とあっては、嫌気がさしても仕方がないというもの。
 だからブルックリン国王は、王子の花嫁のために、国中の貴族を選りすぐるつもりなのだ。
 フローラ姫の相手をすることができ、姫を楽しませることのできる友を集め、花嫁を歓迎しようというわけだ。

「三賢者によると、ダマスカヤの刺客が今回も姫の暗殺を目論んでいると、殿下に伝えるよう賜った」
「そうか。ブルックリン領土で姫が殺されれば、今度こそ戦争になるな」
 二人の間に沈黙が流れた。

 砂漠の国アスターシャは大国だ。
 ブルックリンと同じように平和を愛する国アスターシャは、情熱的で激昂しやすい民族性と、厳しい自然環境に鍛えられた屈強な精神を持つ。
――別名、炎と鉄の国。
 アスターシャは鉄の生産に優れ、その国の剣や銃器が一級品であることは諸国の間でも有名だ。
 そのため、かねてから渇望の国ダマスカヤはブルックリン国を退けて、アスターシャと第一の友好関係を築かんとしている。
 兵力においては武器でも人数でもブルックリンを凌ぐアスターシャが、もしブルックリン国に敵対することにでもなれば、罪のない多くの命が犠牲になるだろう。

「国境を越えてブルックリンに入ってからが危ないだろうな」
 と、オーギュスト伯爵は頭の中に地図を描きながら、ダマスカヤの刺客が次にどこで事を起こそうとするかを思案した。
 渇望の国ダマスカヤは、ブルックリンとアスターシャが今度こそ戦争になるように、フローラ姫を殺そうと企てているはずだ。そのためにおそらく今度は、ブルックリンの領土で事を起こすはずだった。
 本来、アスターシャからブルックリンまでの道中に危険があるはずはなかった。
 広大な砂漠地帯を丸一日馬で休まず駆けて、ようやくアスターシャ国外へ出ると、そこからは、中立領域である人の住まない山岳地帯が連なる。山岳地帯を越えて谷間に下ったところに小国オルドーの長閑な農村地帯が広がり、そこに住む人々は穏やかだ。危険といえば野生の熊や狼が出ることくらいなのだが、小国オルドーとブルックリンとの間にあるエスパニャ山脈、ちょうどブルックリン南端の国境となるその山脈で、昨年、アスターシャの第一王女が何者かに命を奪われたのだった。
 このような悲劇が起こるとは、一体誰が予想しえたであろう。侍女や護衛も含め、道中を共にしていた者は皆殺しにされたのだから。
 その悲惨な事件が起こったのが、まだ完全にブルックリン領土ではなかったから、アスターシャの国王はかろうじてブルックリン国側の責任を問わずに国民をなだめることができたのであろうが、二度目はない。
 だからブルックリンは力を尽くして、アスターシャの民に報い、アスターシャの王に恩を返さなければならない。
 誰より、愛娘を失ったアスターシャの国王ご自身が酷く心を痛めているであろうに、それでも尚、ブルックリンをとりなし、憤る民を治めなければならなかった王の心中やいかに。その手腕は誉むべきかな。これにはエリア王もジェームズ王子も頭が上がらない。
 目先の怒りや復讐心を抑えてでも、両国が戦争になることを避けようとしたアスターシャの王こそが、アスターシャとブルックリンの戦争によって両国が多大な犠牲と損害を被ることを、よく御存じなのであろう。
 だからブルックリンとしても、このままダマスカヤの目論見に踊らされるわけにはいかない。



「国境までは俺が兵を従え、姫を直々にお迎えに上がるつもりだ。ルークには、アスターシャからブルックリン国境までの道中、姫の護衛を任せたい。そこで頼みたいのだが……くれぐれも護衛は内密にな。姫に見つかるなよ」
 ジェームズ王子が最後に言いにくそうに付け加えた一言に、オーギュスト伯爵は耳を疑った。
「護衛をするのに隠密行動が必要とは、どういう要件だ。警護対象者からも隠れるなんて、聞いたこともないぞ」
「姫が、護衛はつけたくないと言っているらしいのだ。というのも、サフラン姫を暗殺したのは、護衛の中に紛れていた刺客だという噂があってな。姫は信頼できる侍女だけを連れてお忍びで移動されることをご希望なのだ」
「侍女と姫だけで馬を駆ってくるつもりなのか……? 無茶がすぎるだろ」
「ところが強情な姫は、移動の手段について当人の希望が叶えられなければ嫁入りはしないと、アスターシャの国王や臣下の者たちを言い含めたらしい」

 強情でワガママで無茶な姫とはこれいかに!
 オーギュスト伯爵は閉口し、心の内ですぐさま毒づいた。
 姫の護衛に成功しても失敗しても、これではブルックリンの先ゆきは危ぶまれることであろう。

「頼んだぞ、ルーク。途中でお前たちの護衛行為が知れれば、姫はアスターシャに引き返してしまうかもしれないから……くれぐれも隠密にな。得意だろう」
「仰せのままに、殿下」
 忠義を尽くして、オーギュスト伯爵は胸に手を当てた。
 

「では、ユイリアのことに話を戻そうか。三賢者の所に行ってきたと言ったな。それで、婆様方の企みはわかったのか」
「ああ、わかったよ。だが、秘密を明かすなと口止めされたので、俺から話せることはない」
「ほお、王子である俺にもか。何故だ」
 そう問われると、二人きりしかいない真昼のテラスで、オーギュスト伯爵は静かにジェームズ王子に身を寄せて、風音よりも小さく囁いた。
「秘密を明かせば、敵に公女の命が狙われる危険がある。しかもその敵は俺たちのすぐ近くに潜んでいる……もしかすると、王宮の中に。だから、くれぐれも用心せよと」
「わかった。ではそれは、国益となる策なのだろうな」
「ああ。立場は違えど、三賢者も目的は王家と同じ。もっぱらこの件に関しては、国を守護することに重きが置かれている」
「わかった。そういうことなら、この件に関してはお前に任せよう」

 それからジェームズ王子は少し間を置いてから、さらに最後に問うた。
「それは、ユイリアを幸せにする道だと言えるか」

 ジェームズ王子のその言葉に、オーギュスト伯爵は心の中の空を突かれる思いがした。
 こういうとき、形のない心がどうして痛みを覚えるのか、オーギュスト伯爵には分からない。
 オーギュスト伯爵はその問いには黙して、ただ首を横に振っただけだった。
「そうか」
 ジェームズ王子はそれ以上は何も聞こうとはせず、寂しそうに空を見上げた。
 刺さるほど、光は鋭く白い。
 オーギュスト伯爵もシルクハットをとって、同じように空を見上げた。上空の高い所で、雲雀が鳴いているのが聞こえる。
 雨風をしのぐ屋根や壁がなくとも、大空を飛ぶ雲雀は羨ましいほど自由なのであろう。
「ジェームズ、俺は、彼女に好意を抱いている。いつか、この好意が膨らんで彼女を愛しいと思ってしまうことが、恐いよ」
 白く輝く空に向かって、オーギュスト伯爵が呟いた。
「お前ほどの者が、なにを恐れる必要がある」
「そうなってしまったとき、俺はこの国のために最善の選択ができるかどうか、自信がないのさ。己を疑わずにはいられない。自分に疑問を抱いた。今は、己の内にある不忠義は地中に埋もれるカラシ種ほどに小さいものかもしれないが、しかし、実はその種は大樹をうむ力を秘めている……だから彼女のことを思うと憂鬱だよ。近づいてはいけない気がする」
 掠れた声でそうぼやくオーギュスト伯爵の言葉に黙って耳を傾けながら、ジェームズ王子は再び、何か珍しいものでも見るように、オーギュスト伯爵に向きなおった。
 その目は清い泉のようにうっすらと蒼く、澄んでいる。責めることも怒ることもない、静かな瞳で。

「そのときは、ユイリアをとれ」
 ジェームズ王子が不意に瞼を細めて、柄にもなく優しく微笑んだ。
 オーギュスト伯爵が一瞬、言葉に詰まって見つめ返すと、ジェームズ王子はまた言った。
「国か、愛する女か、どちらか一つしかとれないときは、愛する女をとれよルーク」
「それが一国の王子の言うことかよ」
「一国の王子だから言うのさ。この国は民のただ一人の不幸の上にも立ってはならない。一人の愛する女さえ幸せにできない男が、ましてやこの国を幸せにすることなどできるはずがない。また、一人の男が愛する女をとったくらいで、この国がたちゆかなくなるとしたら、そんな国は滅びてしまったほうがいいのだ」

「そんなことは聞いたこともない教えだな。『心を治めることは国を治めることに等しい』。と、この国の貴族の者なら誰もが教え込まれることだぞ。感情に流されず、理性を重んじるから公平で正しく国を治めることができるのだと、王子であるお前も、勿論そう教え込まれただろう」
「確かにそうだな。だから、心を殺して俺もいつか王になる定めだと思っていたのさ。だがな、本当はとても恐かったのだ。王になれば俺も誰かを犠牲にし、誰かを不幸にしてでも、より多くの民の幸福のために残酷な選択をしなければならなくなるだろう、と。そう思っていたから、本当は王になどなりたくなかった。けどあいつが言ったのさ」
 ジェームズ王子が、テラスから臨む豊かな山麗に視線を投げた。それはコムストッグ公爵家の領地だ。
 遠い昔を懐かしむ優しい光を帯びて、王子の視線はコムストッグ公爵家の領地に注がれた。

「心を制しても、心を殺してはいけないのだと。――俺に教えてくれたのはユイリアだよ。『殿下を不幸にする国なら、そんな国は滅びてしまえばいい。国は、ただ一人の不幸の上にも立ってはならない』、とな」
「ユイリア公女が、そんなことを言ったのか」
 信じられない、とばかりにオーギュスト伯爵がかぶりを振った。
「忘れもしない、あれは俺の8歳の誕生日の夜だった。王になる運命が死ぬほど嫌で、王宮から逃げ出そうとしたらユイリアに見つかって、グーで殴られたんだ。グーだぞ、グー! グーで一国の王子を殴る令嬢が他にいるか? おまけにその後、そうさ、いつか素敵な姫と出会って、心から愛し、幸せにする。それが出来ないのであれば、そんな腰抜け王子にこの国を幸せにすることなどできるはずがない、と断言しやがって。けど、そう言われて分かったのさ。確かに、目の前にいる一人を思いやることができないで、国を治めることはできない。俺たちのブルックリンは俺一人の力で作れるものではないし、ましてや一部の要人や貴族によって作るものでもない。国は、すべての民が少しずつ力を分け合って建て上げ、育むものだ。少なくともブルックリンはそのようであって欲しいと俺は思う。そう思えるようになったのは、あの誕生日の夜に、ユイリアに襟首をつかまれて、『国中のみんなが力を合わせて王子を幸せにしようとしている夜に、殿下が心を殺して不幸になっていては台無しです!』って、殴られたからだよ。目が覚めた……、というか、ネジがとんだのかもしれんが」
 ジェームズ王子はケラケラ笑った。
「ルーク、お前は先ほどユイリアのことを退屈なほど常識的で、冷たい女だと言ったが、その逆だと俺は思う。ユイリアはいつも俺の驚くようなことを言ったし、あれより優しい女に、俺は今まで出会ったことがない」
 ジェームズ王子の昔話の中のユイリアは、オーギュスト伯爵が見たあの物静かな美しいユイリア嬢の姿からは、にわかには想像しがたかった。
「ユイリア公女と結婚しないのは何故だ。そこまで言うなら、コムストッグ公爵令嬢こそ、未来のブルックリンの妃に相応しいんじゃないのか」
「冗談だろ! あんな恐い女、無理だよ。俺の手に負えるわけがない。グーで殴る女だぞ」
「だが、アスターシャの姫との政略結婚で、それでお前は幸せになれるのか。それこそ、心を殺しているんじゃないのか」
「とんでもない。生まれて初めて、全てをさらけ出して愛していい相手を得るんだ。俺の生涯をかけて愛し、フローラ姫を幸せにすると誓うよ。俺様は王子様だからな」
「なんだその、根拠のない自信は」
 馬鹿な王子だとオーギュスト伯爵は思う。
 だが、これぞ我が主というべきか。命をかけて忠誠を誓うに値する人格者というべきかもしれない。

「だからルークよ、案じるな。愛する女か国かを選ぶときは、迷わず愛する女をとっていい。お前が空ける穴くらいは俺が埋めてやるさ。俺が空ける穴は誰か他の者が埋めてくれるだろうし、他の奴が空けるかもしれない穴はまた他の誰かが埋めるだろう。そうして補い合って、俺たちはそれぞれに大切なものを守りながら、ブルックリンという国を守り育んでゆくのさ」

 ジェームズ王子がそう言って笑うと、オーギュスト伯爵の胸につかえていた重荷がすーっと軽くなっていった。
 大空を自由に飛びまわる雲雀のように、オーギュスト伯爵にも恋ができるかもしれないと。



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