シャインとシャドウ 2話1



 隠密行動をするときに、馬車や馬は使わない。歩きこそが効率的だ。そうしてラッフルズは素早く潜み、障害を乗り越える。
 助走をつけて、今ラッフルズは樫の枝に飛び移った。そのまま振り子のように体を振って、鋭い棘の茨を跳び越える。足場の悪い地面に軽やかに舞い降りると、休むことなく足早に道なき道を進み続ける。昼間でもうす暗い深い森の奥へ、また奥へと。
 ここは、野生の狼が巣くう太古の森だ。
 ブルックリンの領土にあって今も尚、文明が入り込む余地はなく、道しるべのないどこまでも深いこの森にこそ、賢者の砦がある。

 賢者の砦への地図はないが、三賢者は全ての民に道しるべを与えている。
 大賢者アルケニダムは言う。「東より影を跳び越えよ」、と。
 大賢者デュラハムは言う。「梟の道を進み、命を守れ」、と。
 そして大賢者ミストは言う。「煙の流れる先に我らは憩う」、と。

 この三賢者の言葉を正しく理解した者だけが、無事に狼の森を抜けて賢者の砦に辿り着ける。
 ラッフルズが初めて賢者の砦に赴いたのは、好奇心ばかりが先立っていたまだ無邪気な少年であった頃、ちょうど彼が8歳になろうという年の頃だった。
 父は、まだ幼いラッフルズに、その森が危険であるということを教えなかった。だからこう言ったのだ。「お婆様のいる砦まで行っておいで。謎かけを解いて進むんだ、楽しそうだろう? 夕暮れまでには帰るんだよ」
 父の言葉を疑うこともなく、少年ラッフルズは手ぶらでお婆様のいる所、本当は、大の大人でも簡単にはたどり着けない賢者の砦に向けて、たった一人で出かけたのだった。

 かくして幼い日のラッフルズは、死にかけた。だが、生まれたときから怪盗としての家業を継ぐため、父から厳しく教わった様々なことが活かされて、ラッフルズは生き延びた。命からがら賢者の砦に辿り着き、お婆様に手短な挨拶を述べると、ラッフルズはすぐに来た道を一人で引き返した。それでも、父との約束である「夕暮れまでには帰るんだよ」、という言いつけを守ることは出来なかった。
 狼に噛まれた腕に破いたシャツの袖を撒いて、ラッフルズが息も切れ切れについに森から抜け出した時には、真夜中をとっくに過ぎて、すでに朝日が昇り始めていた。
 そこでラッフルズが最初に見たのは、朝日を背に立ち、何とも形容しがたい笑みを浮かべて自分を見つめる父の姿だった。ラッフルズはてっきり、父は屋敷で自分を待っているものと思っていたのだが、そうではなかった。父は息子を一晩中、森のすぐ外で待っていたのだ。それは、夜露で全身の着物が重たく濡れている父の姿から知ることができた。

 約束の夕暮れまでに戻れなかったことを咎められるかと思ったが、父はラッフルズの肩に手を置くと、こう言った。
「さすがは私の息子だ。ルーク、よくやった」
 それがラッフルズにとって、最も嬉しかった父との思い出だ。

 狼と格闘しながら一晩中、真っ暗な森の中を歩いた後では、疲労困憊と空腹で、今にも倒れてしまいそうだったけれど、ラッフルズは父に認められたことが嬉しくて、それから父とともに屋敷まで歩いて帰ったのだった。あの時、幼いラッフルズの少し前を歩く父がとても温かく感じられたことや、力強く見えたことを、ラッフルズは今でもよく覚えている。
 思い返して見ると、父の記憶には楽しいことよりも苦しいことの方が多い。
 喉から血が出るほど変性発声の特訓をさせられたし、剣術や武術の訓練で骨を折ったり、血を流したりすることは日常茶飯事だった。怪盗になるために必要な体を作るため、朝から晩まで、容赦なく鍛えられた。関節を外して縄から抜け出す術、閉じられた門をこじ開ける術、肉体的にも精神的にも追い込まれて尚、冷静であり正しい判断をすること。それらはみな、ラッフルズが幼少期に父から学んで身に付けたことだ。
 加えて、あらゆる語学と文化教養を身につけ、オーギュスト伯爵家が代々担ってきたブルックリンの外交を滞りなく行うための知識も叩きこまれた。
 ラッフルズは、厳しかった父のことをよく覚えている。物心がついてからというもの、優しく抱きしめられた記憶は、どんなに思い出そうとしても、ない。皆無だ。なのになぜだろう。ラッフルズはなぜか、父からいつも愛情を感じていた。愛されていることを、彼は確信していた。触れることはなくても、父の温かさを感じることができたし、父が自分よりもはるかに強く、聡い存在であり、そのすべてをかけて家族と国を守っているのだということが、ラッフルズにはわかっていた。いつも。

 今、ラッフルズは「梟の道を進み、命を守れ」、という大賢者デュラハムの言葉に従って森を進みながら、木陰から姿を現した狼を一瞥した。それだけで十分だった。今となっては、この森の狼たちがラッフルズに牙を向けることはない。ラッフルズを見ると、狼は鋭い野生の狂気を秘めた牙を低く伏せて、大人の男の腰の高さほどはある大きな肢体を屈め、静かに森の奥へと引き返して行った。この森で一番強い狼が、ラッフルズだ。父が殺されてから、ラッフルズが秘めたる野生の牙はより鋭く危険に、狂気をさえ宿して光っている。
――この国に、裏切り者がいる。
 強い復讐心が、ラッフルズを突き動かしていた。
 ラッフルズの父はあと少しで、裏切り者の正体を突き止めるところだったのだ。いや、もしかすると、すでに突きとめていたのかもしれない。そして何者かに殺された。

 オーギュスト伯爵家の裏の顔を知るのは、ごく限られた一部の要人だけ。だから、ラッフルズの父、ダラハンの正体に気づき、殺害しえたのは限りなく王宮に近い人間であるはずだ、とラッフルズは思った。裏切り者は狡猾に、誰にも気づかれることなく、すでにブルックリンの深い所に入り込んでいる。
 ラッフルズが怪盗として貴族たちの屋敷に忍び込むのは、謀反者を捜すためだ。
 コムストッグ公爵家にだけは近づくなという王の意向に背いてまで、徹底的に貴族を探っている。だが、それでも犯人は見つからない。

 代わりに彼は、美しい月色の乙女に出会ったわけだが。ラッフルズが久しく覚えのない抑えがたいまでの好奇心を掻きたててくれるこの乙女は、どうやら間もなく三賢者によって取り去られてしまうらしい。
 これが彼には気に入らない。
 なぜユイリアを?
 三賢者が最も優先すべきは、ラッフルズと同じように反逆者を探し出すことではなかったのか。
 一体、名高い知恵者と称えられる老人たちは、何を考えているのか。その答えを知るまでは、ラッフルズは引き下がらないつもりだ。

 だからラッフルズは、深い森の中を黙々と進み続ける。
 深く息を吸い込むのが苦痛に感じられるほど、緑が深い。むせ返るほどに湿った空気が全身に重く絡みつく。だがラッフルズは、およそ常人には成し得ない速さで進み続けた。
 立ち止まることは許されない。賢者に会いに行く者は、怠惰であってはならないのだ、という言い伝えがある。
 だから賢者の砦を目指す者は、朝早くから午前中いっぱい、太陽を背にして森を進み続けるのだ。これは、大賢者アルケニダムの助言である「東より影を跳び越えよ」に適う。
 森の中は静かに進まなければならない。枝を踏みしだけば狼たちが寄って来る。大賢者デュラハムが言ったように、梟のように音を立てずに進めば、狼たちから狙われる危険は少なくなる。そうして休みなく進み続けると、昼ごろには影がなくなり、進むべき方角が分からなくなる。そこで今度は焚火を起こす。すると、この森の地形がよぶわずかな風の流れを、煙によって見ることができる。
 その煙が流れる方向に進めば間もなくして美しい湖のほとりに、目を疑うほど巨大な峡谷がそびえているのを目の当たりにするだろう。これが賢者の砦だ。峡谷の底には、幾筋もの滝がまるで聖なる白竜の髭のように流れ落ちている。
 石を切りだして造られた階段が峡谷の底へと続いている。
 辺り一面が苔むしているので、足を滑らさないように注意しながら、ラッフルズは深い緑色に輝く峡谷の底へと慎重に下り始めた。
 谷底は辺り一面がくるぶしばかりの深さの水に覆われていて、水底も、岩肌も、見渡す限りが陽の光を受けて緑色に輝いている。これらは天然の緑柱石が大地に多く含まれているせいだ。

 水で覆われた谷底には、一箇所だけ隆起している場所があって、そこに霜柱を思わせる六角柱の殿が、天高くそびえている。
 この殿は、深い緑色の神秘の煌めきを放って、周囲の自然とは際立った異質の趣きを呈している。
 緑柱石を切りだして象ったその殿こそ、大賢者たちの集会場所である。

 人を寄せ付けぬ太古の森の谷底を拠り所とする賢者たちは、世俗から遠く離れていることを願っている。
 裏社会にあって国を守るラッフルズと同じように、賢者と呼ばれる者たちも、王宮とは異なる立場にあって独立の眼で事を判断し、秘密裏に国を守るという点において裏社会の組織なのだ。だから誰の干渉も受けぬよう、ひっそりと身を潜めることが、彼らの理にかなう。

 鍵のない小さな石の扉を、ラッフルズは身を屈めてくぐり抜けた。
 入口の扉の小ささとは不相応に、天井は見上げるほど高い。部屋は三方向に分かれて書棚や、実験台、様々な植物や動物の標本が雑然と積み上げられている。特に書物や巻物の数は他の研究資材をしのいで圧倒的に多く、天井にまで届く書架には長い梯子がかけられていた。
「やあやあご老人方。生きておられましたか」
 部屋の中央で円卓を囲む3人の老人をみとめると、ラッフルズはマントの露を払って仰々しく会釈した。
「水がかかるじゃろうが、馬鹿め」
 西の賢者デュラハムが猫のように跳ねあがった。
 その向かいの席で、東の賢者ミストは細い嘆きの声を上げる。
「土産の一つも持って来ぬとは、何たる不孝者よ」、と。

 南の賢者アルケニダムだけが、鋭くも優しい眼差しをラッフルズに向けて微笑んでいる。
「お前が何故ここに来たかはわかっておる。コムストッグ公爵家の双子の娘について、知りたいことがあるのじゃろう? ミスト婆さんから聞いたわい」

 円卓の周りにはもう一つだけ席があったが、ラッフルズはそこには座らず、少し離れた所に立ったままでいた。
 老人たちも、彼に席をすすめることはしなかった。そこは、北の賢者、オルドリンの席だからだ。この4人目の賢者は、ラッフルズが幼少期に初めて賢者の砦を訪れた時以来、姿を見ない。だが、三賢者にもたらされる重要な情報のほとんどは、今もどこかにいるオルドリンが出所になっているらしいことを、ラッフルズは知っていた。
 
「オルドリンは、まだ戻らないのですか。ということは、かの乙女に関する三賢者の合意の中に、オルドリンの見解は含まれていないのですね」
「少々骨の折れる任についておるゆえ、さよう、ここでオルドリンの言葉を聞くことは叶わぬ。だが、あやつも我々と心は一つじゃ」
「教えてください。あなた方は、公女ユイリアに何をするおつもりですか」

 円卓を囲む老人たちは、一様に黙りこみ、ラッフルズに秘密を明かすことが適当かどうかを思案しているようだった。
 血気盛んで有能なラッフルズを誤魔化し、言いくるめるのは大賢者とて難しいだろうし、かといって秘密を守り通すことも、できまいと。
 やがて決断の吐息をもらして、南の賢者アルケニダムが口を開いた。

「この国に、裏切り者ががいることはお前もよくわかっていることじゃろう。広い視野で物事を見れば、そのためにお前の父ダラハンは殺され、北の賢者オルドリンは身を潜め、敵の情報を吸う大木の根となっている。同じように、我々は公女ユイリアを敵の渦中に送りこみ、今も巧みにブルックリンで身を隠している裏切り者の根を断たせる」
 ラッフルズは驚きを隠さず賢者たちに詰め寄った。
「公女ユイリアは、我々とは違う。表の世界の……、善良な貴族の令嬢ではありませんか。何故、彼女にそのような重荷を負わせるのですか」
 すると今度は、西の賢者デュラハムが顔を上げた。
「それはな、我々の標的が渇望の国、ダマスカヤだからよ。ブルックリンに潜む裏切り者は、間違いなくダマスカヤの手の者だからな」
「我らの敵がダマスカヤであることは承知しています。けれど、それと公女ユイリアとが、なぜ結びつくのですか。そもそもダマスカヤの王は、公女ユイリアに会ったこともないでしょう」
「そうか、お前は知らないのじゃったな」
 後を継いで、東の賢者ミストが、昔話を語るように静かに話し始めた。ミストはラッフルズの曽祖母でもある。
「ダマスカヤの王は、我が国の王女シャーロットに激しい恋心を燃やしていたのじゃ。だが王女シャーロットはダマスカヤの王の結婚の申し出を退け、コムストッグ公爵と結婚した。それからというもの、嫉妬がダマスカヤの王を狂わせ、ブルックリンとダマスカヤの関係は悪化しはじめたのじゃ」 
 ラッフルズはとても嫌な予感がした。賢者ミストは先を続ける。
「幸いなことに、公女ユイリアは母親と同じ、あの神秘な銀色の珍しい髪色をもち、母親に似てとても美しい容姿をそなえている。しかも、コムストッグ公爵に育まれた聡明で気高い心を持ち、音楽、美術、文学などあらゆる才気に溢れる公女とあれば、ダマスカヤの王に気に入られるのに、申し分がない」

「それで一生を捧げろというのですか。他国の王に身を売らせるのですか」
「一生を捧げているのは我らも同じこと」
「だが我々は自ら選択し、この生き方の中に幸福を見出しています。公女ユイリアは僕たちとは違います。これは全く、理不尽なお話ではありませんか。なぜこんなことが許されるのですか」
「許されるという意味で、コムストッグ公爵とシャーロット王女を納得させる理由があるのじゃ。我々が双子の娘たちの命を救い、その代償に娘の一人を国に捧げる約束をさせた。今になって違えさせることは許されぬ約束をな」
「命を救った、とは……公女たちの命がかつてに、何者かに狙われたのですか?」
「シャーロット王女が身重になったことを知ったダマスカヤの王が、胎の子を殺そうと毒を仕込んだことがあった。あの時、子を諦めなければシャーロット王女自身の命が危なかったが、王女は子を救うために、我ら三賢者に救いを求めた。そして我らは取引をした。結果、我らの研究が王女と娘たちの命を救ったので、娘の一人は我らのものとなったのだ。とはいっても、シャーロット王女はそのせいで二度と子をはらむことのできない体となってしまったがな」
「随分と、非道な取引をしたものですね。子を救ってやるから、その一人を国に捧げよとは。断ることのできる親などいるものですか。かといって、公爵と王女が心から納得して取引に応じたとも思えない、……非道な取引だ」
「取引とはそういうもの。裏を返せば、我らはそこまで追い詰められている。ブルックリンが危ないのじゃ。これにはすべての国民の命がかかっているのじゃから」
 ラッフルズはそれ以上は何も言うことができなかった。
 近年、渇望の国ダマスカヤのブルックリンへの敵意は剥き出しになり、過激な攻撃が増している。
 ダマスカヤがブルックリンの外交を邪魔する機会が増え、ラッフルズ自身も骨を折っているところだった。
 このままでは戦争になる。だがブルックリンは平和で豊かな国。王も国民も血なまぐさい争いを避けるためなら、犠牲をいとわないだろう。
 それが、公女ユイリアというわけなのか。

 最後に、南の賢者アルケニダムが深刻な面持ちでラッフルズに視線を向けた。
「ことに、オルドリンから情報があった。ダマスカヤにまた悪い動きがあるようなのじゃ。砂漠の国アスターシャと我らの国ブルックリンとの友好を壊すため、ダマスカヤがまたしても花嫁の暗殺を目論んでいるらしいと。ジェームズ王子に警告を与えよ。ブルックリンに嫁ぐためにやってきた砂漠の国の姫が、我が国の国境のすぐ外で二度も暗殺されたとなっては、友好国との戦争を招く事態になりかねない、とな。わかるな、ラッフルズ。――姫を守れ」

「それとな、ラッフルズよ」
 西の賢者デュラハムが胡麻塩模様の髭をさすりながら、猫のように喉を鳴らして鋭い眼をラッフルズに向けた。
「月色の乙女が帯びたる密命を、他に漏らすでないぞ。敵に我らの策が知れれば、公女の命が狙われぬとも限らぬ。ジェームズ殿下とて、例外ではないわ」

 午前中の陽の光が嘘のように、帰りの空は暗く淀んでいた。冷たい雨が、木々の葉を滑り落ちて滝のようにラッフルズの体を濡らした。
 
 ユイリアに待ちうけている辛い行く末をどのように理解すればいいのか、ラッフルズには分からなかった。
 彼女にそれができるのか。彼女はそれに耐えられるのか。
 いや、そうではない。
 賢者たちの決断は、非情だが合理的な決断だ。
 それなのにユイリアのことを思うと、ラッフルズの心は不快に締め付けられるのだった。
――彼女にそれをしてほしくない。彼女にそんなことに耐えてほしくない。
 
 だから森からの帰り道、ラッフルズはユイリアをどうにか助ける術はないかと考えて、体がずぶ濡れになってすっかり冷たくなっていることに、気づきもしなかった。



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